百 沙奈子編 「仰天」
水曜日の朝。今日も大体いつも通りの朝だった。いつも通りに用意を済ませ、いつも通りに行ってらっしゃいのキスをしてもらって、行ってきますのキスを返して家を出た。
会社に着いて仕事を始める。英田さんの様子も昨日とあまり変わりなかった。ただ、僕の方が少しだけ慣れた感じかも知れない。ペースは上がらなくてもそれなりに仕事ができるようになった気がした。
昼休みに伊藤さんと山田さんと一緒に昼食をとってる時も、昨日よりはまだ落ち着いた感じだった気がした。ただの世間話だったけど、会話にはなってたと思う。こうやってだんだん慣れていくんだろうなって思った。それは当然のことだというのは分かってる。ただ、英田さん自身がお子さんを亡くしたことを受け止められるようになるにはどれだけの時間が必要になるのか想像もつかなかった。と言うか、そもそも受け止められるようになるんだろうか…。
僕がそれを気にしても仕方ないことも分かってる。だけど気になってしまうのはどうしようもなかった。何しろ僕自身が決して喪いたくないものを持ってしまったし、ついつい自分に当てはめて考えてしまうんだ。我ながら面倒臭い性格だとも思う。こうやっていつまでも堂々巡りする性分なのを自分で知ってたから、以前は何も考えないようにしてたんだなっていうのを改めて思い知った。
午後からもなるべく仕事に集中するようにしててもペースが思うように上がらない。やっぱり調子のいい時のペースを基準に考えないようにして正解だったと思った。遅れないようにするだけで精一杯だ。しかも英田さんがまた残業なしで退社した後、そこそこ集中してできた。ほんとに僕ってやつは…。
そんなことで凹みつつ、仕事を終えて家に帰った。玄関を開けて「ただいま」って言ったら「おかえりなさい」って応えてくれると、ものすごく救われた気がした。思わず込み上げてくるものまであった。我ながら何をやってるんだろうと思った。
沙奈子に気付かれないようにと思ってすぐに風呂に入った。変に心配させたくないと思ったからだ。風呂から出るとまた彼女がおつかれさまのキスをしてくれたから、僕もありがとうのキスを返した。それからやっぱり彼女を膝に座らせて寛いだ。
沙奈子はノートPCで例の動画を見ていた。しかも、紙を動画に出てきてる布の形に切って同じようにして紙の服を作ってた。それは最初の頃の彼女が作った紙の服よりも明らかに服らしくなってた。実際に布でやる前の練習のつもりかもしれない。それがいくつもテーブルに並べられてる。だけどこれだけでも十分にすごい気がする。
ただそれに感心してばかりでもいられない。今日の学校のことも聞かなくちゃと思った。
「今日は学校は楽しかった?」
僕の質問に彼女は「うん」と作業しながら頷いた。そこで僕は改めて気になってたことを聞いてみた。
「そう言えば、石生蔵さんが会ったっていう不審者のこと、何か学校で言ってなかった?」
そうだ。これが気になってたんだ。すると沙奈子からは、思いがけない答えが返ってきた。
「ふしんしゃの人に会ったっていそくらさんが言ってた」
……え?。
「え?。それってどういうこと?。石生蔵さんが不審者に何かされたの?」
なるべく落ち着こうとはしたけど自分でも分かるくらい声がうわずってしまったその問いには、彼女は頭を横に振った。
「ふしんしゃじゃなかったって。やまひとさんのかていきょうしの人だったって」
……はい?。
「?、?、?」
言葉にならなかった。何が何だか意味が分からない。家庭教師。今、家庭教師って確かに言ったよな。しかもそれって大希くんの家庭教師ってこと、か?。
何とか自分の頭の中で整理しようとしてるうちに、あ、でも待てよ。と思った。確か不審者情報が出たのって、大希くんと石生蔵さんとのトラブルの後だったはず。と言うことは、その不審者って言われた人は、大希くんの家庭教師として石生蔵さんに何か注意しようとしたってことかな。そう考えると分からないでもない…のか?。
う~ん、でも、家庭教師だからってそこまでするかなあ。するとしたら今時珍しく随分と熱心と言うか熱血と言うか。自分の生徒に意地悪した相手に突撃とか、そんな家庭教師がいるのかな。ああでも、実際に会いに行ったって言うんならいたっていうことなのか。家庭教師…、家庭教師ねえ……。
いずれにせよ不審者の正体が本当に大希くんの家庭教師だっていうのなら、身元も判明してるんだろうからとりあえずは様子見ってことでいいんだろうか。
「沙奈子、もう一度聞くけど、石生蔵さんが、その不審者だと思ってた人が大希くんの家庭教師だったって言ってたんだね」
僕がなるべくゆっくり丁寧に聞いたら、
「うん、昨日そう言ってた」
ってはっきり言った。昨日言ってたって?。昨日聞いた時にはそんなこと言ってなかったのに。って、それは僕が詳しく聞かなかったからか。それに沙奈子が普通って言ってたということは、石生蔵さんもそんなにいつもと変わらない感じでその話をしてたっていうことだよな。つまり、石生蔵さんにとってはその程度の出来事だったってことかな。だとしたら沙奈子が普通と言ってしまったのは仕方ないとして、そうなのか。そういうことなら…。
それでも合点のいかないことはある。ただの家庭教師がそこまでするっていうのがまず信じられない。何か他に目的でもあったんじゃないかって思ったりしてしまう。だけど、沙奈子の話からはそれ以上のことは分かりそうもなかった。彼女が言ってるのは、石生蔵さんがそう言ってたっていうだけの話だし、当の石生蔵さんがそんなに気にしてなさそうだっていうのが沙奈子の様子から伝わって来るというだけだったし。
だからこれ以上はあまりしつこく聞いても意味がないということかもしれない。石生蔵さん自身、何か不安とかあったら担任の先生に言ったりするんじゃないかな。そうすればまた学校から何か情報が入ると思うのにそれはなかった。石生蔵さんにとっては別にその程度のことだったんだろう。周りがあまり騒ぎ立てても仕方ないのかもしれない。でもしばらく様子をうかがう感じで気にしていた方がいいのかもとは思った。
しかし驚いた。おかげで会社で沈んだ気分だったことが吹っ飛んでしまった。そうか、大希くんには家庭教師がついてるのか。う~ん、教え子の同級生の女の子に突然会いに行って『負けません』とか言う家庭教師…。
駄目だ。やっぱり意味が分からない。すごく気になるけど、僕が首を突っ込んでいい話じゃない気もする。もし今度、山仁さんと話をすることでもあればそれとなく聞いてみるしかないのかな。『大希くんに家庭教師がついてるんですね』みたいな軽い話題として。
そんなこんなで僕が戸惑ってる間にもう10時になってしまった。そろそろ寝る時間だ。沙奈子には片付けてもらって、僕はその間に布団を敷いたのだった。




