後編
二人が神殿に着いたのは、あれから2時間と30分後のことだった。
「はっ・・・・・・はっ・・・・・・はっ・・・・・・はあっ。」
「お前、スタミナ無いな。そんなんでよく神の司になれたな、本当。」
「はぁっ・・・・・・うる、さいっ・・・・・・。」
神殿はもう見える場所にある。真っ白い石で造られた、巨大かつ荘厳な建物だ。
シュンはそれを無感情に見詰めた。思い返すのは遥かな日のこと――――――――――7歳のときに、家族みんなで訪れた記念日のこと。友達と一緒に、毎年お参りにきた祭りのこと。14歳のときの元服の儀。それから・・・・・・妹の死を認めないために来たとき。――――――――――ここへ来たのは、たったそれだけだったかと、威厳に満ちる神殿を眺めながらシュンは思う。
悲しいかな、いくら思い返しても、思い出という思い出はそれだけだった。何故悲しいのかなど、作者の知ったことではない。しかし、シュンの心の中は、確かに悲しみでいっぱいだった。
彼だってかつては太陽神シィヴェインを、シィバラ教を、信じていたのだ、ということを今更ながらに思い出す。生まれたときからそこにあり、両親も隣人も、周りの全ての人間が信じていて、それをもとに自分の世界を作ってきたのだ。そうやって、決して変わらぬ誰かの考え(『宗教』というやつのことだ。)によって作られた自分の"価値観"というやつを、彼は根底から引き抜かれたわけなのだ。それはもう、人間から背骨を抜くようなものだろう。それが無ければ歩けやしないのだ。
だから彼は今、立ち止まっている。三年前、宗教と家族という、最も重要な骨格となるものを全て、しかも同時に、失くしてしまったその日から。
背骨の無い体など、死んだも同然である。・・・・・・涙など出ない。
ようやく立ち直った神楽が、シュンの前に出て、振り返って彼を見た。
「案内してくれて有難う。ここから先は、観光じゃない。仕事だ。だから、」
シュンはすかさず言った。
「俺も行く。」
「駄目。」
予想していたのだろう。神楽は一瞬でその申し出を切り捨てた。しかし、シュンはめげない。それどころか、神楽を押し退け勝手に神殿へと歩き出す。
「ちょ、駄目だって!」
慌てて前に回り込み、進路を塞ぐ神楽だったが、シュンの歩みは止まらない。
「おい、ちょっと、待てってば。シュン、あんたわかってんの?私の仕事ってことは、つまり、宗教を殺しに行くようなものなんだよ?」
「知るか、んなこと。俺には関係ねぇ。」
「はぁ?ってか、その、き、危険!危険だし!いろいろと危ないから、ね!」
「そんなら余計に一人で行かせらんねぇなぁ。運良くも俺今剣持ってるし。」
「いやいやいやいや、神様相手に人間が立ち回れるはずがないでしょ?!」
「へぇ、神様と戦いに行くのか、お前は。」
「えっ?あ、あぁ?いや、いやぁー?そんな、こと、はーあはははは?」
「図星か。アホかてめえ。」
「うぅるっさいなぁ、もう!」
神楽はそう叫ぶと、シュンの前を歩き始めた。
「もういい!あーもういいよ、勝手にしろっ!死んでも知らんからな!」
「おーう、任せろー。」
気の無い返事を返し、シュンは神楽に並んだ。
神楽はしかめっ面の中にほんの微かに笑みを滲ませ、それから、起こるであろう波乱を思い、気を引き締め直した。
◇
何やら向こうの方から、一組の男女が騒ぎながらやって来る。それを見て、神殿の前で警備を担当していた二人の神官が眉をひそめた。
「なんだ?あいつら・・・。」
「さぁ。観光客なんじゃないのか?」
「面倒だな・・・。ってか、あれ、片方 地元民じゃないのか?」
「え?んなはずないだろ。」
「だよなぁ。地元民が来るはずないよな。儀式があること知ってるはずだし。でも・・・・・・いや、やっぱあれ、地元のやつだよ。ほら、良く見ろよ。」
「えぇ?」
促され、一人の神官が目を細めた。その男女はどんどんこちらに近付いてくる。よくよく見てみると、女の方はかなりの美人だった。口元を緩めた神官。
「おい、おい、あの女、すっげぇ美人だな!」
「え?あ、本当だ。え、ヤッバ、何あの美人。すげぇ。・・・・・・って、いやいや。そっちじゃなくてさ。男の方だよ男の。あれ、地元民じゃないか?」
「えー?男?・・・・・・・・・あぁ、そうだな。地元民だな、あれは。」
「だろ?」
「あれ?でも、何で地元民が来るんだよ。」
「だからさっきからそう言ってんじゃねぇか。何を聞いてたんだよ。」
「悪ぃ、何にも聞いてなかったよ、ハハっ。」
「ハハっじゃねぇよ。」
「まぁいいじゃねえか。あんな美人に案内頼まれたら、儀式があろうが何だろうが、男なら従っちまうって。」
「それはお前だけだ。」
とか何とか無駄な話をしている内に、その二人は神官たちの目の前まで来ていた。近くで見るとやっぱり美人だな、と、呑気に思った神官だったが、女がその手に掲げたものを見て、血相を変えた。
「え、あれ?それって・・・・・・。」
「・・・・・・嘘だろ?」
固まった二人の眼前に、女――――――――――神楽は、胸元から取り出したペンダントを突き付けた。仄かな光を放つ、不思議な色の石が、革紐の先で揺れている。それは、神の司の証だ。神楽はニヤリと笑った。好きだなこの表情、とシュンは思った。
「聖廉信仰協会所属の神の司である。障りなく直ちに道を開けられたし。」
「あ、は、はいっ!」
「どうぞ、御通り下さい!」
簡単に道を開けた神官たちの間を堂々と通り抜け、神楽とシュンは神殿に足を踏み入れた。
薄暗い。
真っ直ぐな廊下が続いている。廊下の両端を見れば、等間隔で立てられた柱の、目と同じくらいの高さに、蝋燭立てが設けられていたが、蝋燭自体は一本も立てられていなかった。
窓の外から落ちかけた日の光が入ってきて、ところどころを赤い四角に染めている。日没は近いようだ。
しばらく進むとそこには木でできた大きな扉があり、壁との隙間から小さな光が漏れていた。
(ここだな。)
儀式が行われている場所を特定し、神楽は、
「よっと。」
いきなり、扉を開いた。
何の躊躇いも用心もない突然の行動に、シュンは"開いた口が塞がらない"という言葉を初めて実体験した。
それは、中にいた人々にとっても同じだったらしく――――――――祭壇に向かい、何やらやっていた人々が、目を見開いて一斉にこちらを振り返った。
注目を一身に集めておきながら、神楽は欠片も怯んだり、たじろいだりせず、堂々と、むしろ相手方を威圧するかのように胸を張り、中へ入った。
「な・・・・・・何者だっ!神聖なる儀式の最中に、一体何を――――――」
一早く衝撃から脱した一人の男、真ん中にいる上に服装も周りの人々より少し豪奢なことから、おそらく重要人物だと思われる。そいつが、神楽の前に立ち塞がり問い詰めた。
神楽は自分より頭二つ分くらい違う背の男を見上げ、微笑んだ。そして、「聖廉信仰協会所属の神の司だ。」と、高らかに名乗り、例のペンダントを見せつけた。
「か、神の・・・司?!」
だだっ広い広間が、ざわめきに包まれた。
神楽はその反応を満足そうに眺めて、男を躱すと、無造作に祭壇に近付いた。
「あ・・・ちょ、お、御待ちください!御待ちください、神の司様!」
必死の制止をこの神楽が聞き入れるはずが無かろう。むしろ神楽にとっては、必死で制止されればされるほど、"きな臭い"ものを感じるわけで、足を進める理由にはなれども、足を止める理由には決してならないのである。
祭壇の前まで進むと、神楽はそれを無表情に見下ろして、低い声で尋ねた。
「・・・・・・これが、シィバラ教の雨乞いか?」
「っ・・・・・・・・・。」
祭壇には、一人の少女がいた。真っ白い麻のワンピース一枚に身を包み、手足を縛られた状態で、なにも知らないような顔で眠っている。
祭壇の向こう側には四足有翼の獣――――――太陽神シィヴェインの像が佇んでいて、その口元や翼には、黒い染みがベッタリとこびりついていた。微かに、血の匂いがする。
神楽は男を振り返った。表情を映さない目で男を睨み、口を開く。
「神は、堕ちたな?」
簡潔な問いに、周りの神官たちがたじろいだ。気まずげに視線を落としたり、一歩足を引いたりしながら、真っ青な顔で神楽を窺う。
そんな中で、首謀者とおぼしきこの男は、開き直ったのか覚悟の上なのか悪足掻きなのか、神楽を真上から見下ろして言った。
「何故、そのようなことを仰られているのですか?シィバラ教は三年前に、太陽神シィヴェイン様の御意志によって、その中身を大きく変更致しました。このことは、国民の皆様にも、もちろん国王陛下にも、認知されております。・・・・・・・・・まぁ、外からいらっしゃった貴方様には、直ぐには御理解いただけなくとも致し方ありませんが。」
途中から、この男の神楽に対する喋り方は、あからさまに見下すものになっていた。神の司とはいえ、こんな小娘に、へこへこしてはいられないと、思い直したのだろう。
神楽が何も言わないのを、どう解釈したのだろうか。男はさらに言葉を重ねた。
「雨乞いの儀も、今や昔とはまったく違います!昔のようにただ祈るだけでは、神の御加護は得られません。よりよい供物を捧げ、適切な言葉と共に助けを乞えば、神は必ずや応えてくださるのです!」
「・・・・・・それで、彼女を?」
「ええ!処女の肉は悪魔の大好物ですから!」
もの言わぬはずの聞き手の相槌に気をよくした男がそう言い放って、神楽は思わず拍手をした。
「うわぁ、お見事。そっかそっか、"悪魔"の大好物か。」
「・・・・・・・・・あっ。」
失言に気付いた男が慌てて口を押さえるが、今更だ。神楽はにっこりと、口だけで笑った。
「おっ、御待ちください、今のは、そのぅ、」
「覆水盆に返らず。沈黙は金。口は禍のもと。素晴らしいね、昔の人の言葉ってのは。まさにその通りだ。」
「ち、違います!今のは、今のは・・・・・・。」
「"今のは"、何?」
神楽の笑わない紫色の目が、男を射抜く。大きく弧を描く口から出た言葉が、男を貫く。男はわなわなと震えだし、後ずさった。もはや何も言えないようであった。
神楽は男が沈黙したのを認めると、あえてこれ以上何も言わず、祭壇に向き直った。眠っている少女を抱えあげ、近くにいた別の神官に預ける。そうしてから、改めて祭壇に向かうと、袂から一本の短剣を取り出した。
柄頭にたったひとつだけ真っ赤な宝石が埋め込まれている以外は、何の飾りもない、シンプルな短剣である。かなり使い込まれているのか、茶色の鞘はところどころ擦りきれていた。しかし、抜き放った刃は鋭い光りを見せ、その切れ味を証明するようだった。
神楽はそれを胸の前で、刃を下に、縦に構えた。しっかりと両足を踏みしめ、深呼吸ひとつ、シィヴェインの像を見据える。
「〈神よ、聞きませ、聞きませ、我が声。〉」
よく通るはっきりとした声が、静かにある言葉を詠唱し、広間を支配した。
〈神呪〉
神の司の特殊技能『神寄せ』を行う際に唱えられる、神を半強制的に引きずり出すための呪文だ。
空気が少しずつ変わっていく。神がこの場へと近付いてきているのだ。
「〈我が声、この地に住まいし神を呼ばん。神よ、聞きませ。そなたを呼びし、聞きませ、我が声。聞こえませば出でませ、この場所まで。我が声、聞こえませば、出でませ。疾く疾く疾く出でませよ、太陽神シィヴェイン〉!」
言い切った瞬間。祭壇の上で空気が渦巻いた。その空気は広間の中をも蹂躙し、神官たちは堪らず目を覆い膝や尻をついた。男も、神の司による"神の召喚"を初めて目の当たりにし、腰を抜かして座り込んだ。シュンは、広間の入り口に突っ立ったまま、その様子を見ていた。背筋をぴんと伸ばさなければいけないような、そんな厳格な空気が満ちている。ところが――――――――――この空気は、決して"清浄"ではなかった。
唐突に、祭壇の上に集まった空気が、真っ黒い霧のようなもやに姿を変えた。そして、
「・・・・・・我を呼びしは、貴様か。」
その中から、四足有翼の獣が現れた。太陽神シィヴェインの像とまったく同じ姿をしている。血のしみも像と同じように付いていて、白い毛並の中でその数ヶ所が真っ黒になっていた。黒い染みは、全体の半分ほどにもおよぶだろうか。そんな風に見えた。
太陽神シィヴェインは、赤と緑のオッドアイで、神楽を睨んだ。
「神の司であるか。」
「あぁ、そうだよ。」
「我を、断罪しにきたのか。」
「その通り。」
神楽の態度は、神の前でも変わらず、信者から見れば"畏れ多い"振る舞いであったが、シュンから見れば"らしい"と言えた。
何者も恐れない。
何者にもひれ伏さない。
何者であろうと歯牙にもかけない。
それが、神の司。
「太陽神シィヴェイン。理由は知らんが、あんたはその身の半分を悪魔に喰われ、守るべきものを侵した。」
「あぁ、承知している。今更、何の申し開きもない。」
そう言うと、シィヴェインは祭壇から下りて、神楽の横に並んだ。そして、すっ、と前足を折り曲げ、神楽に頭を垂れたのである。
「済まないな、人間よ。ここまで喰われてしまったら、最早自力ではもとに戻れぬ。・・・・・・我が、この身の内に巣食う悪魔を押し込めていられるのも、そう長くはない。まだ、我自身の意識がある内に・・・この身ごと、悪魔を討ち、我を裁いてくれ。」
「・・・・・・了ー解。神の思し召しのままに、ってね。」
神楽は肩をすくめ、短剣を構え直した。それから、シュンや他の人たちにはわからない言語で、こう言った。(なぜ作者にはわかるのかと言うと、後々神楽に訊いたからである。)
「〈神よ、人が土に還るのならば、貴方は一体何処へ行く。未来永劫、果てぬ輪廻の最中にありて、人の行く末を憂う貴方は一体何時、楽を知る。意思をもったが故の憂いは、私がここで、裁ち切ろう。数瞬の間の楽の先で、再びこの世に加護を与えよ。〉」
そうして、神楽は、目の前のその、白く気高い獣に、刃を突き立てた。そしてそれを―――――――――抜いた―――――――――瞬間。
「っ!!」
傷口から真っ黒い霧が立ち上った。あっという間もなく、その靄は形をとり、神楽へと手を伸ばした。
咄嗟のことに体を硬直させた神楽を、何かが乱暴に引っ張った。そして神楽はその目の前で、白刃が煌めくのを見た。次いで、断末摩の叫びを聞いた。
シィヴェインから飛び出た悪魔――――――悪鬼オンブルが、一刀両断され、地に落ち溶けるように消えていく。その様子を見ながら、神楽は自分の隣で、剣を振り抜いた体勢のまま固まっている人物を見上げた。
「有難うシュン。助かった。」
「・・・・・・お前が死にそうになってんじゃねぇか。アホか。」
「なっ。人が礼言ってんのになんだよそれ!」
「その前に、礼を言わなきゃなんねぇような状態になんな。」
「うっ・・・・・・・・・。」
ひたすら冷静にツッコミを入れるシュンに、神楽は堪らず目をそらした。シュンは無言で剣を払い、鞘に納めると、消えつつあるシィヴェインを見た。
「・・・・・・ひとつだけ、聞きたい。あんたは、自分の意思で、生け贄を喰らったのか?」
シィヴェインは億劫そうに頭を上げ、シュンを見た。そして、軽く目を見開くと、目を閉じ、頭を下ろした。
「いや・・・。喰らったのは我の意思ではない。だが、我が体が喰らったのは事実だ。――――――――お主の妹は、我が責任をもって、必ずや、楽園へと導こう。」
それだけを言い残し、シィヴェインの姿はすっかり消えてしまった。
「――――覚えて・・・・・・・・・。」
「神にとっての三年間とは、人にとっての三日と同じようなもんらしい。」
シィヴェインが消えた辺りを見下ろして、呆然としているシュンに、神楽が言った。
「神は、決して全知全能ではない。守りきれないこともあるし、悪魔に堕とされることだってある。だから、神々に任せきってはいけないんだ。宗教だって同じだよ。盲信し、縋り、人生の全てとしてはいけない。自分の人生や世界ってのは、神々や宗教によって作られるものじゃない。教えを信じ、支えとするのは良いことだよ。でも、歩いていくのは自分の足だ。杖は歩みを支えるものであって、足の代わりじゃない。」
それだけ一方的に言い放つと、返事など聞く気もないようで、神楽はシュンから離れた。この隙に逃げようとした神官らがいたらしく、何やら怒鳴り付けている。
シュンはそれを、どこか別の世界のことのように聞いていた。この時彼は、彼の生を繋ぎ止めていた唯一のものを、失っていたのであった。
祭壇の向こうの像を、広間にたったひとつだけの窓から、満月が柔らかく照らし始めていた。