やってらんねーや
共感してくださる方がいればうれしいです
人間は挫折する生き物です。よし決―めた、今日からやるぞ、と固く決心して始めたはずなのに、ある日突然やる気を失って、もういいや、とやめてしまう。これはけっして珍しいことではありません。そのようなな経験を数えたら、誰でも二桁は思い当たるのではないでしょうか。
挫折の原因は、物事を続けるために持ち続けていた動機が失われてしまうことにあります。動機は物事を続けるためには欠かせないエネルギーですが、そのエネルギーの供給がストップしてしまうのです。
「前途洋々の明るい未来になるはずだったのになー。」
「こんなはずじゃーなかったのになー。」
「せっかく始めたのに、邪魔をしやがってさー。」
うまくいかなくなると、そんなことをぶつぶつとつぶやき、最後には、こんなのやってらんねーやの一言が口から出て、ジ・エンド。あっけなく元の生活へと戻ってしまいます。
不純な動機で始めたことの場合は挫折しても同情の余地はないのですが、不運に見舞われての挫折は、実に痛々しいものです。
蓑和田家でのエピソードを見てみましょう。
蓑和田家は三世代同居の六人家族です。学・明子の夫婦、一男・雅美の若夫婦、孝・美和兄妹が、まーまーの生活レベルで一見仲良く暮らしています。
朝の食卓にみんなが集まっていた。蓑和田家の朝食タイムである。テレビのニュースを見ながら食事をしていた一男が箸を止めて急に叫んだ。
「みんな、聞いてくれ、俺は決心したぞ。今気が付いたんだ。このままじゃいけない。よーし決めたからな、今から禁煙するぞー。」
みんなは、一男のそんな発表を特段気に留める様子もなく、まるで何も聞こえていないかのように、同じペースで食事を続けている。一男は家族の反応を待っているのだが誰にも相手にしてもらえず、次のせりふに移れない。そんな状態で固まっている夫に、同情した妻の雅美が問いかけた。
「あなた、また禁煙を始めるの?」
「ああ、始めるよ」
「これで何回目の挑戦になるのかしら?」
「前回が五十回目だったから、今回は、五十一回目だな」
「めげないチャレンジャーね、まったく。ほんと感心するわ」
「ありがとう。でも、実質的には、これが一回目の禁煙だな」
「実質的?実質的って何よそれ」
「今までの禁煙は、今回のための準備運動のようなものだったんだよ」
「ずいぶん妙な言い訳を見つけたわね」
「言い訳じゃないよ」
「言い訳よ」
「まあ聞いてくれ。今回の禁煙は、いつもとは動機が違うんだ。」
「何が違うのよ」
「今までは、健康のためとか、小遣いの節約とか、そんなちっぽけな動機で禁煙を始めていたんだよ。」
「そうだったわね」
「その結果はどうだ。挫折し、禁煙は続けられなかった。」
「よーく知っているわ」
「だが、今回の動機は、そんなちっぽけなものじゃないからな。」
「ちっぽけじゃない?」
「ああ。今までとは桁が違う大きさだ。壮大で俺の胸を熱くさせるものだ。考えただけで武者震いがしてくるぞ。」
「確かに、いつもより声は大きいようだわね」
「そうだろ、声の大きさにも強い決意が表れているとゆーことさ」
「動機が大きければ、禁煙に勝算があるのかしらね」
「そりゃそうだよ、動機が大きければ、そう簡単には挫折できるわけがない。おまけに今回は秘策もつけるからな、完璧さ」
「秘策って?」
「期限をもうけるんだ。」
「なーんだ、期限付きなの?」
「ああ、期限をつければ、張合いもでるというものさ。俺はゴールが見えると、がぜん頑張れるタイプなんだよ」
「ふーん、で、いつまでやめるのよ」
「わからんが、長くなりそうだ」
「長いって、何時までなの?」
「そんなに短期じゃないよ」
「はいはい、じゃあ、何曜日までの予定なの?」
「期限は、地球の温暖化が治まる日までだ。その日が何曜日になるかは俺にはわからない」
「・・・・」
「俺が煙草の煙を垂れ流しているのは、地球にとってはたぶん悪影響だと思うんだよ」
「まー、少しはね」
「愛する地球のために、禁煙することを、俺はここに誓う」
「ばか」
心の中で、雅美はつぶやいた。
朝食を終えた一男は新聞を見ていた。いつもは煙草をくゆらせながら読んでいるのだが、禁煙をスタートさせた今日からは、それができない。いつもと違ってなにかしっくりこないせいか、読んでいる記事の中身がなかなか頭に入ってこない。同じところを何度も目で追いかけていた。痺れを切らした一男は、
「あー、イライラするからやめた、ちょっとドライブに行ってくる」
と言うと、新聞を放り出して、車で出かけていった。
数時間が経ち、一男はドライブから帰ってきた。
「ただいまー。やれやれ、静岡まで行ってきちゃったよ。」
「静岡まで?いったい何しにいってきたのよ?」
「単なるドライブだよ、特に用はなかった」
「用もないのにそんなに遠くまで行ってきたの?」
「ああ、でもおかげで効果覿面だ、煙草は一本も吸っていないぞ」
「たとえあなたが煙草を吸わなくても、車だって煙草と一緒で煙を出すんでしょ?」
「え?車が出すのは熱じゃないのか?」
「どっちでもいいわよ。で、いったい煙草何本分の熱量を車で輩出してきたの?」
「まー、地球のためには多少の犠牲はつきものさ」
夕食までは、まだ時間があった。一男は手持ちぶさたに耐えられないでいた。
「母さん、ごはんまだ?」
聞いたのは三回目である。
「もうちょっと待ってて、今用意しているから」
「しゃーない、コーヒーでも飲むか」
「またー?それで何杯目なの?」
「えーと、十杯目くらいかな」
「それは飲み過ぎでしょー」
「大丈夫、大ジョッキ換算にすれば、たったの一杯だよ。大した量じゃない」
翌日、一男のイライラはまだ続いていた。こうなると不思議なもので、今まで気にもとめなかったものまでが神経に触り、新たなイライラの要因になってしまう。一男には雅美の使う掃除機の音が、やけに耳障りに感じた。
「掃除機の音がうるさいよ、静かにしてくれ」
「なによ、きれいになるんだから、これくらいは我慢してよ」
「こっちは煙草をやめて、イライラしてるんだ。協力しろよ」
「禁煙するのはあなたの勝手でしょ、うるさければ、どこかにでかけてきなさいよ」
夫婦喧嘩など、めったにしなかった二人だが、些細なことから、怒鳴りあってしまった。
一男は家での居心地が悪くなり、とりあえず避難しようと、商店街へでかけてみることにした。あてどなくぶらぶらと歩いていると、釣具店が目に入った。
「そうだ釣りにでも行くかー。昔は好きでよく行ったよなー。浮きに集中していれば、煙草のことなんか思い出さないはずだ。禁煙と趣味がいっぺんに手に入るぞ、こりゃいいや」
一男は早速店により、釣り竿を購入した。
「いい竿が手に入ったなー。大枚をはたいたんだからな、よーし大物を釣り上げるぞ。」
意気揚々と釣りセンターへ向かった。
釣りは、いつの時代でも人気のある趣味である。釣りセンターでは朝早くからくる愛好者で席はどんどん埋まっていき、すぐに満席になってしまうことが多いのだが、今日は運がよいことに、空いている場所が一つあった。
「よかったー。どっこいしょ」
一男はそこに陣取ると早速竿を垂らした。しかし竿を垂らせば魚がすぐにかかってくれるというものではない。引きが来るまではじーっと待つのみ。一男は缶コーヒーを飲みながら、その時がくるのを待った。
しばらくすると、隣の客が吸う煙草の煙が、一男の方に流れてきた。
「うっ、煙いなー」
どうやら先ほどまでとは風向きが変わったようだ。今まで気が付かなかったが、暇に任せて観察していると、隣の客はチェーンスモーカーらしい。
「禁煙していると、他人の煙が気に障るなー。吸わないでほしいなー」
魚がえさに食いついてくれるまでは、釣り人の手は空いている。釣りの下手な奴ほど暇になるので煙草は吸いたい放題となる。隣の客は、まさにそれだった。煙草はひっきりなしに吸われ続け、排出された煙はすべて一男の方に流れていた。
「煙たいなー、俺も吸いたいなー」
イライラとの戦いが、一男の意識の九割を占めていたそんな中、一割の釣りへの意識が、浮きのわずかな動きをとらえた。
「きた」
一男が急いで竿を引くと、ググッと手ごたえがあった。どうやら大物がかかったようで、魚をあげようとしてもなかなか上がらない。
隣の客が、その様子を見て、
「それは魚じゃなさそうだな。おおかた石にでも引っかけたんだろう。ど素人が」
その言葉にムカッと来た一男がむきになった。
「そんなはずはない、今スグあげて証拠を拝ませてやる。」
一層の力を入れて、竿をグイッと引き上げた。
ボキッ
竿の折れる音がした。
「あああーっ、二万円の竿が!」
一男は折れた竿を持って、帰り道を、とぼとぼと歩いていた。
「なんだか胃がキリキリ傷むなー。昨日今日とコーヒーを随分飲んだからなー。」
「頭がくらくらするなー。釣りセンターで、他人の煙を随分すっちゃったからなー。」
「二万円の竿がパーかー、こずかい散財しちゃったなー」
「雅美と喧嘩しちゃったから、うちに帰りづらいなー」
一男にその時がやって来た。
「やめたやめたもーやめた。禁煙なんかやーめた」
「思えばこの二日間、ろくなことがなかったなー。禁煙なんかを始めなければ平和に暮らせたはずなのによー」
一男は昨日今日あったことに思いを巡らせた。
「禁煙さえしなければ当てのないドライブで、ガソリンを無駄に燃やすことはなかっただろうし、胃が痛くなるまでコーヒーを飲むこともなかったはずだ。夫婦喧嘩だってしなかっただろうし、釣竿だってあんなに乱暴にはしやしない、もっと大切に扱ったはずだ。」
動機エネルギーの一男への供給は完全にストップしてしまったようだ。
「地球のことなんかよりも、まずは自分の生活を大事にしよう。よーし決めた、禁煙はやめた。」
「この際だから、昨日今日と二日分の煙草を吸って取り戻してやる」
地球の温暖化は阻止できなかった。一男の今回の禁煙は三十三時間であった。日曜日の午後五時であった。
雅美はこの数年、料理一切を母におまかせしていた。自分の生活の大部分を子供の面倒を見るために使ってきたためで、べつにさぼっていたわけではない。台所に入ることもたまにありはしたが、洗い物を手伝うといった程度であった。
「お母さん、いつもすみません」
「いいのよ。そのぶん子育てがんばってね」
子供に手がかかるのだから、これは仕方のないことと母も納得して、喜んで食事を作ってくれていた。他の家族からの不服もなく、日々うまくいっていたのだが、下の子供が五歳になり、子育ても落ち着いてきた今日この頃、雅美の気持ちに変化が現れた。
「お母さん、そろそろあたしも食事の支度を手伝いたいと思うんだけど」
「それは助かるわ、でも、無理はしないでね」
これからは時間をとれるようになっていくのだから、少しずつでも母に楽をさせてあげたいと雅美は考えはじめたのである。だが、長期間料理の実践から離れていたため、包丁さばきや味付けに、いまいち自信が持てなくなっている。
「料理を作っても、はたして食べ物になるかしら」
「ゴミを増やされるのは困るわね」
すぐの現場復帰は無理だと判断し、早速カルチャースクールのパンフレットを取り寄せて調べ、料理教室に通って、基礎から習い直すことにした。
通い始めた教室には若い男前の講師がいた。雅美の好みのタイプであった。
「ラッキー、通う甲斐があるわ」
料理の上達が目的で教室に入ったのだが、いつしか通う動機が変わってしまっていた。教室に行けば素敵な講師に会える。そんな動機で雅美は休むことなく通いつめた。ところが、二か月が過ぎた時、教室でショッキングな出来事が起こった。その男前講師があっけなく結婚退職してしまったのである。奥さんになる女性の父親が経営するレストランを、その講師が継ぐことになるらしい。
「残念だけど、仕方ないわね。次の講師に期待しよう」
雅美の期待とは裏腹に、後任にはおじいちゃん講師が付いてしまった。
「なんだか、やる気がなくなっちゃったわ」
目当ての講師がいなくなってがっかりした上に、その強烈なギャップである。続けて通う気にはなれず、雅美は教室をやめてしまった。
しかし、雅美はそれでめげたわけではなかった。
「カルチャースクールは、なにもあそこだけじゃないわけよね」
すぐに別の教室を探して入学した。今度選んだのは料理ではなくケーキ教室であった。通う動機が、当初の母親を楽にさせることから、男探しに変わってしまったため、授業の内容にはこだわらなくなってしまっていた。いくつかの教室を下見に行き、いい男がいる教室をみつけて入学したら、そこがケーキ教室だったのである。
不思議なことに、続くときは続くものである。行くところ行くところ、しばらく通うと講師が結婚退職してしまった。
「こうなったら、根競べね」
ケーキ教室、お菓子教室、デザート教室。習字、英会話、俳句といくつ渡り歩いたであろう。習った種類には統一性がみられず、ばらばらであった。
では、熱心に通って学習した結果はどうなったのか。いくつもの教室に通いはしたものの、すべてを中途半端な段階でやめてしまったため、家ではその成果を発揮することはできなかった。
「ママ、ケーキ食べたい」
と子供に言われても、
「はいはい、後で買ってきてあげるからね」
と答えた。
「ママ、お腹すいた」
と言われても、
「はいはい、おばあちゃんに頼みなさいね」
と言うしかなかった。ひととおりのことはやってきましたが、どれも極めるまでには至っておりませんので、私にはできません、という器用貧乏になってしまったのである。雅美は切れた。
「ふん、カルチャースクールなんか、なによ。何の役にも立たないじゃないの。もうやめたわ。」
「何事にもチャレンジすることは、悪くはないと思うけどなー」
と一男がなだめるが、
「解ってるわよ。でも、カルチャースクールは、嫌。あたしには向いていないことに気付いたの。あたしは、あたしの得意分野を極めることにするわ」
「得意分野って?」
「子育てよ」
「やっと手から離れたのに?」
「次の子を育てるのよ。こうなりゃ意地よ。毎年一人ずつ生んでやるわ」
雅美は一男の首根っこを摑まえて、どこかへ連れて行った。
母親の明子が、立ち寄った本屋で家計簿を見かけた。
「家計簿かー、日記と同じで、続けられる人が少ないらしいのよねー」
独り言を言いながらそのまま通り過ぎようとしたのだが、何かが明子の心に引っ掛かった。
「目に止まったのも何かの縁かもね。思い立ったが吉日よ。家庭のために家計簿をつけてみようかしら」
何気ない気まぐれで明子は家計簿を買い求めて帰宅した。早速テーブルに着くと、財布からレシートを取り出し、その日からつけ始めた。つけてみると、今までどうして気付かなかったのだろうというような無駄遣いの数々がでるわでるわ。
「この店で買ったあのお味噌、三河屋では、もっと安かったはずだわ」
「缶詰は尾張屋で毎週末にセールをやっていたはずよね。なにも高い値段の時に買う必要はないわよね。」
「こうやってつけていると、節約できるところが、ずいぶん見えてきそうね。」
効果が見えるとなると、やる気度がアップするものである。これが、動機エネルギーのもたらすパワーであろう。
明子は早速家族全員を集めて、協力を求めた。
「明日からみんなの消費動向を把握しようと思うの」
一男が質問をする。
「それはいいけど、一体僕らは何をすればいいの?」
「買い物をしたときに、必ずレシートをもらってきてほしいの。私がそれを家計簿につけるわ。つまり、家計の中央集権体制をとりたいわけよ。」
「なーんだ、簡単簡単。レシートをもらってくればいいだけなのね、了解了解」
反対者は出ず、みんなの了解を得られた。
一男が出先から帰宅して、明子に言った。
「お母さん、さっき牛丼食ったんだけど。あそこはレシートがないから、もらってこなかったよ。いいんでしょ」
「この、バカ息子」
「えっ、なんだよ、だめなの?」
「あたりまえだろ。レシートがなければ領収書をもらうんだよ。店にもどってもらってきな。」
「えっ、領収書?きびしいなー」
夫の学が明子に聞いた。
「母さん今から出かけてくるよ。電車の切符は買ってもレシートは出ないけれど、どうする?」
「切符の写真を撮っておいで。それで代用するから」
孫の孝が聞く。
「おばあちゃん、自販機は使っていいの?」
「レシートが出る自販機なら使っていいよ。それ以外はダメ、使用禁止」
「レシートが出る自販機?そんなのあるかなー」
「さあね」
すべての買い物にレシートをもらうように指示をだした結果、明子のもとには家族から毎日大量にレシートが持ち込まれるようになった。それを明子一人だけで処理するため、結構な時間を取られる。二、三日家計簿をつけるのを怠ると、未処理のレシートが大量になり、一度にこなすのは大変な作業になった。
以下、明子の独り言である。
「あーめんどくさ」
「それにしてもみんな、毎日毎日、あきもせず買い物をしているんだねー」
「そうだ、買い物を毎日するからレシートがこんなに増えるんだ」
「買い物の回数を減らせばレシートの数が減る。楽をできるわ」
「年に一回にしようかしら」
「いや、それはちょっとやりすぎね」
「よし、月一回にしよう」
明子は早速家族に集合をかけた。
「みんな、聞いておくれ。これから我が家では、買い物を、月一回にするからね。」
「ええっ、一回だけ?」
「そう、月初めに買い出しするから、月末までに、買い物リストを作っておきな」
「ええーっ」
「リストに載っていないものの購入は翌月回しになるからね。何があっても、翌月までは買わないから、漏れのないよう心してお書きよ。」
みんなは、必死に考えて、各々の買い物リストを作成し、締切日の朝、明子に提出した。
「お母さん、リストができました。よろしくお願いします」
一男が明子に手渡して、立ち去ろうとした。
「このバカ息子、お前もあたしと一緒に買いものに行くんだよ」
「えっ、僕も?」
「当たり前だろ、一か月分の買い物だよ、量を想像してごらんよ」
「うーん、結構な量になりそうだね」
「そうだろ、それをあたしに歩いて買い出しに行けって言うのかい。本当に親孝行な息子だこと」
「わかったわかったよ、僕も行けばいいんでしょ、もちろん車をだします、僕が運転します」
「よく言った。十回は往復するつもりできなさいよ」
一男は巨大ショッピングセンターの中で、買い物カートを押しながら、明子の後をついて歩いていた。カートには明子が品物をどんどん入れていく。
「重いなー」
買い物を始めてから、すでに五時間が経過していた。
「くたびれたなー」
なにせ一か月分の買い物である。量もさることながら、食品に限らず、すべてのコーナーに用事があるため時間がかかった。くたくたである。
フェイスケアコーナーを通った時であった、商品棚にある髭剃りを見かけて、一男が言った。
「あっ、そうだ、髭剃りが切れかけていたんだったっけ。そういやリストに書くのを忘れていたな。でも今日は荷物が多くなりそうだから、買うのは今度でいいや」
バシッ
明子が一男の後頭部をひっぱたいた。
「いてー、何すんだよ」
「バカ息子、今度買い物にくるのは、いったいいつだと思っているんだい。一か月後だよ。ほしけりゃ今買うしかないだろ」
「そうかー、危ないところだったな。もし、思い出さなかったら、いったいどうなっていたんだろう。」
「一か月間毎朝ガスで髭を焼くことになっただろうね」
「ひゃー」
リストアップされた物を買い終えて帰宅したのであるが、なにぶん人間のやることである、当然リストから漏れていたものが出てきた。追加で買ってくれ、あれがなくては困るんだと、家族が明子のもとに陳情にやってきた。
孫の美和が訴えた
「おばあちゃん、ノートが終わっちゃったから、新しいノートが欲しいんだけど」
「書き終わったノートがあるんだろ。それを消しゴムで消してまた使いな」
同じく孫の孝が訴えた。
「おばあちゃん、トイレットペーパーがなくなっちゃったよ」
「あとで、駅前でティッシュペーパーをもらってきてやるから、今は手でふいときな」
「げっ」
こんな調子で陳情は、あっけなく却下されたのである。買い物を月一と決めたらそれを貫く。明子の決心は固かった。
駅前に着いた明子。デパートの入り口でティッシュを通行人に配っている青年に声をかけた。
「おにいちゃん、ティッシュを十個ちょうだいよ。」
「十個?そんなにたくさんですか?」
「うん、近所にも配っといてあげるからさ、大目におくれよ」
「それならいいですよ、十個ですね、はいどうぞ」
目的のティッシュを手に入れた明子が、何気なくデパートのショウウインドウに目をやった。その瞬間、中のマネキンに着せられている、きれいなセーターに目をくぎ付けにされてしまった。
「気に入った、ほしい、これは何かの縁ね、買っちゃいましょう」
明子はデパートの中に急ぎ、マネキンがつけているものと同じ品物を手にした。欲しいものが手に入ったため、幸せ一杯であった。早速精算しようとキャッシャーへ向かおうとしたとき、後ろから声をかけられた。息子の一男である。
「お母さん、そのセーターを買おうっていうんですか。それはないんじゃないの。自分だけルールを破るんですか?」
「あっ、一男、見逃しておくれよ。今回だけ、許して」
「だーめ、ルールはルールですよ。例外を認めないといったのはお母さん、あなたです。さあ、手にしたそのセーターをお店に返してください」
「いやっ、絶対いや」
「例外を作るのなら、お母さんの決めたルールは存続させられませんよ。廃止でいいんですか。そのセーターをどうしても今買うというならルールの廃止が条件です」
「このセーターが来月まで売れ残っている保証はないのよ。手に入れるチャンスは今しかないの。このセーターが手に入るのなら、あんなルールは廃止で結構よ」
首謀者の脱落で、月一買い物制も、レシート提出も、家計簿もご破算となったのでした。
「もークリアーしちゃった。つまんないの」
孝はそろそろ新しいゲームソフトがほしいと思っていた。手持ちのゲームは繰り返し遊んでいるうちに飽きがきてしまっていたのである。新しいソフトを手に入れるためにはお金が必要であるが、そのような大金は、お年玉の季節ではないので持ち合わせていない。
「お正月はまだ先だしなー、手に入れる方法はないかなー。そうだ、貯金しよう」
どうしても手に入れたいとなれば、方法は、貯金することしかないと考えた。ゲームソフトは子供にとっては高価な品物であるが、二か月間頑張って自分のお小遣いを貯金すれば何とか手に入る。しばらく駄菓子の買い食いができなくなるのはつらいが、ソフトを買い求めるために孝は貯金を始める決心をした。
「お母さん、空き箱が欲しいんだけど」
「空き箱?何に使うの?」
「貯金したいんだ」
「じゃーこれを使いなさいよ」
雅美は洗濯機が入っていた箱を孝に渡した。
「こんな段ボール箱じゃ大きすぎるよ」
「いいじゃないの。小さい箱だと、すぐに貯まっちゃうでしょ。これなら百年は使えるわよ」
「目標額がたまればいいんだよ。もっと小さい箱を頂戴」
できうる限り早く目標の金額を貯めたい。貯金箱を買うお金も節約し、貯金に回したいと、母親の雅美からお菓子の空き箱をもらい、それを貯金箱にして、毎日のおこずかいを入れはじめた。
「へへへ、やっとたまったぞ」
孝は、二か月間一日も欠かさずに貯金を続けた結果、念願のゲームソフトを手に入れることができた。と同時に、地道にコツコツと続ければ願いが必ず叶えられるという、貯金の持つすごい力を身をもって学習した。
「貯金ってすごいパワーがあるなー。」
「またチャレンジしよう、今度は何を目標にしようかなー」
今回の貯金のおかげで自分は満足できた。充分だ。今度は家族を満足させてあげたい。
「そうだ、食器洗い器を買って、おばあちゃんとお母さんを喜ばそう。お年玉と合わせれば、一年間の貯金で目標額を達成できるぞ。不言実行だ、俺ってかっこいい」
と自己陶酔しながら、コツコツと貯金を続けた。
孝は妹にも優しかった。貯金で手に入れたゲームソフトでひととおり遊ぶと、妹の美和に譲ることにした。
「美和、お兄ちゃんのゲームをあげるよ」
「ありがとう。でも、そのゲームは美和も持ってるからいらない」
「あ、そうなの」
さすが兄妹だ。きっと妹も自分と同じように貯金をして買ったんだろうなと孝は思った。
だが孝の推測は外れていた。妹は自らの貯金でゲームソフトを手に入れたのではなく、実際には、こんなことがあったのである。
ある日、美和はおじいちゃんの部屋へ行くと、
「おじいちゃん、肩もんであげようか?」
と声をかけた。
「美和かい、じゃあ頼もうかね」
とおじいちゃん。
「うんいいよ、長生きしてね、おじいちゃん」
「ありがとう、美和は優しいね。ご褒美に何か買ってあげよう」
「うわー、うれしいな、美和はゲームソフトが欲しい」
「いいよいいよ、買ってあげるよ」
ちょろいもんだと美和は思った。
貯金をして食器洗い器を買うという決心の日から一年がたち、ついに親孝行決行日になった。貯金は目標の金額に達していた。孝は電器店で食器洗い器を買い求めて、帰宅した。
「あとで驚かせてやろう」
と企み、食器洗い器はひとまず自分の部屋の押し入れにに隠しておいた。何食わぬ顔で台所に手を洗いに行くと、なにやら家族が集まってがやがやとしていた。
「みんな集まってどうしたのー」
と孝が質問すると、
「美和があたしに食器洗い器をプレゼントしてくれたのよー」
と笑顔の明子が答えた。
「えええええっ」
孝は仰天した。
おばあちゃんが続けて言った。
「孝、お前も美和を見習ったらどうだい」
「ええっ?」
「美和は、こうやって親孝行はするし、いつもおじいちゃん、おばあちゃんの肩をもんでくれる。本当にいい子だよ」
「:::」
「それに引き替え、お前は、貯金するだけの金の亡者。あたしの肩ももんでくれやしない」
「ううう」
「美和の爪の垢を煎じて飲ませてもらいな」
予期せぬ展開に、動揺し、何も言えないまま立ちすくむ孝であった。自分の本心が伝わっていない。不言実行は敗北した。
実は孝の知らない間に、こんなことがあったのである。
前日、美和はおばあちゃんの部屋へ行くと、
「おばあちゃん、肩もんであげようか?」
と声をかけた。
「美和かい、じゃあ頼もうかね」
とおばあちゃん。
「うんいいよ、長生きしてね、おばあちゃん」
「ありがとう、美和は優しいね。ご褒美に何か買ってあげよう」
「うわー、うれしいな、美和はおばあちゃんとお母さんに、食器洗い器をあげたいな」
「自分のものはいらないのかい?」
「うん、おばあちゃんとお母さんの笑顔が見れれば美和は充分幸せよ」
「お前は偉いねー。なんと、親思いの子なんだろう。いいよいいよおばあちゃんがお金を出してあげるよ。買っておいで」
事情を知った孝は部屋に戻り、買ってきた食器洗い器を窓から放り投げた。
「ムッカー。こっちは、こつこつこつこつこつこつと、貯金して、やっとこさ食器洗い器を手に入れたんだぞ」
「ところがどうだい、要領よく金持ちに取り入った奴の方が感謝されている」
「地道な努力が報われないのなら、やってらんねーよなー」
今日は、孝にとっては一生の宝になるであろう、貴重な体験をする日になるはずであった。ところがどっこい、一生忘れることのできない教訓を突きつけられた日になってしまった。
「金輪際、貯金なんかするもんかい」
大事に使っていた貯金箱に、お金が入れられることは二度となかった。
おじいちゃんとおばあちゃんの肩をもんだご褒美で、望むものを手にしていく、世渡り上手の美和。美和は肩をもむことで、祖父母孝行をしているつもりでもあった。肩をもめば欲しいものを買ってもらえるという下心があってのことではあるが、結果的には二人とも喜んでくれているので、お互い助かっているからいいじゃん、と思っていた。
美和がいつもの通り、肩をもんでいると、おばあちゃんが、
「美和や、いつもありがとうね」
「何のこれしき、遠慮しないでよ、おばあちゃん」
「お前はほんとに優しいね」
「おばあちゃんに似たのかな」
「あら、そうかしら、ははははは」
「あはははは」
「そんな優しい美和に、おばあちゃんから、ひとつお願いがあるんだけど」
「美和におばあちゃんがお願いを?」
「そうなんだよ」
「いいよ。いつもいろいろ買ってもらってるから、恩返しするよ。おばあちゃんのお願いってなあに?」
「美少女コンテストに出て欲しいんだよ。美和の晴れ姿が見てみたくてね」
「なんだ、そんなことおやすい御用ね、いいよ」
「おばあちゃんのわがままを聞いてくれてありがとうね、美和ならきっと優勝するよ」
「うん、美和、がんばるからね」
美和はお礼を言われるようなことではないと思っていた。華やかな舞台に立つのは、女の子として悪い気はしない。自分としては楽しみである。お礼を言うのは、むしろそんなチャンスをもらえた私の方だと思っていた。
が、美和は翌日、おじいちゃんとおばあちゃんがしているひそひそ話を聞いてしまい、二人の本心を知ることになる。二人の狙いは美少女コンテストの賞金であった。
「何せ、賞金が一千万円だからなー」
「四人で山分けしても、一人頭二百五十万円。大きいわ」
四人とは、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さんであろう。両親もグルだったのである。
「しかし、本人が未成年の場合は賞金は保護者のものというのは実にありがたい制度だね。」
「まったくだわ」
大人たちの取らぬ狸の皮算用ではあるが、美和は、自他ともに認める器量よしである。優勝を狙える位置には十分あるからこそ企てられた、決して絵空事ではない計画なのである。
「それにしても肩がこっているふりをするのも大変だよなー。」
「そうね、もまれても、くすぐったくてしょうがないだけだもの」
美和はショックを受けた。喜んでくれていると思って肩をもんでいたのに、実際の二人はというと、肩など凝ってはいなかったのだ。すべては賞金目当ての演技だったのである。
美和は計算してみた。肩もみで今まで手に入れた物はと言うと、ゲームソフトを二十本、ぬいぐるみを十個くらい。トータルでも、十万円に届かない金額であろう。一千万円を手に入れるためなら、彼らにとっては安い投資だ。それを考えると、だんだんはらわたが煮えくり返ってきた。自分にも下心がありはしたが、肩をもんでいるときは祖父母孝行しているつもりで、一生懸命やっていたのに。
「大人はずるいや、みごとに騙されるところだった」
「もう肩なんかもんでやるもんか。」
「でも、コンテストには、予定通りに出よう」
「みんなに赤っ恥をかかせてあげるから、覚悟しておきなさいよ。」
「さーて、何をしでかすか、当日までじっくり考えよう。もう肩を揉まなくて済むのだから、たっぷり時間はあるわ」
学は一年前に定年を迎えた。退職してすぐに、眠りたいだけ寝て、昼頃に起きるというお勧めできないふしだらな生活習慣に入ってしまっていた。目が覚めてから、うだうだしていると、あっという間に夕方になってしまうので、何もできない、していない日々。
「四十年間続けていた規則正しい生活リズムが崩れるのがこんなにあっけないものだとは、思いもよらなかった。」
「昼と夜、一日二食の食生活では栄養状態がいいわけがない。このままではまずい、反省して生活リズムを変えなくては」
と考えるようになっていた。とりあえずはできることから始めようということで、早起きをすることにしたのである。
早起き決行初日。出足は好調であった。目覚まし時計のベルが鳴る十分前にはすでに目が覚めていた。目覚めは悪くなく、頭がすっきりしていた。昨日早くに床に就いたので、睡眠時間を十分取れていたのも作戦勝ちだったと言えるだろう。顔を洗って外出着に着替えると、玄関から散歩へと出かけていった。
「いやー、いい朝を迎えられたなー。空気がきれいで実に気持ちがいい。公園まで歩けば程よい運動になるだろう。ついたらベンチで朝刊をのんびり読むとするか。」
学がこれからのスケジュールを唱えながら歩いていると、右手に衝撃が走った。驚いて右手を見ると、大きな白い犬が新聞に噛みついていた。ガウガウと唸り声をだしながら、新聞に喰らいついて引っ張っている。取られてはたまらないと、自分も引っ張り返すと、とうとう新聞が、びりびりと破れはじめた。
「やめなさい」
飼い主であろう女性が、遅ればせながら、綱を引っ張って、犬を新聞から引き離した。
「すみません、お怪我はありませんか」
飼い主が学に謝った。
「はあ、新聞がこんな状態になった以外は、こちらに被害はありません」
「申し訳ありません。この子、朝食前で、おなかをすかしておりまして」
「そうですか」
学にとってここは怒る場面であろうが、予想外の出来事にショック状態で、それしか言えなかった。
「お詫びと言ってはなんですが、新聞代として受け取ってください。これで許してもらえませんでしょうか」
飼い主が、学に五百円玉を差し出し、頭を下げた。
「あいにく、おつりの持ち合わせがありませんが」
「それは結構です、おつりは迷惑料として、受け取ってください」
「では、おことばにあまえて」
と言って五百円玉を受け取った。
なんども頭を下げる飼い主とお別れをして、学はコンビニへと向かった。
「へへ、五百円もらっちゃった。肝を冷やしはしたが、これが、早起きは三文の得というやつかな」
コンビニを出ると新聞を右手に持ち、得した分のお金で買った牛乳を左手に持って、それを飲みながら、散歩を再開した。
「犬も早起きすると、食欲がわくんだな。新聞が餌に見えたのかな、それにしても早起きの効果はてきめんのようだな」
牛乳でのどが潤い、落ち着きを取り戻したのか、そんなことを考えながら歩いていた。
ツルッ、ドシン、ベチャ
いろんな音が一度に自分を襲った。どうやら、昨日の雨でできた水たまりに足を踏み入れてしまったらしい。表面に張っていた氷で滑って転び、中の水にお尻をついてしまったようである。お尻は濡れ、反射的に右手をついたので、持っていた新聞も濡れてしまった。牛乳を飲みながら歩いていたので、足元への注意を怠ってしまっていたようだ。左手に持っていた牛乳は不思議と無傷であった。
「うわー、一難去って次は三難というやつか。諺だとまた一難のはずだが、その三倍の災難だよ。やれやれ」
油断していた自分が悪いと思いながら立ちあがると、目の前の家の垣根にきれいなバラが咲いているのが目に入った。
「おっ、きれいだなー、これも三文の得の一つかな」
などと言いながら、バラを眺めはじめると、
「ドロボー」という叫び声と同時に、何かが学の胸に当たった。胸を見ると服に青いインクがべっとりと付いていた。どうやらカラーボールを投げつけられたようだ。金融機関やコンビニで、逃げる強盗にぶつけるあれである。
すぐにバラの家から住人が出てきて、
「やっと捕まえた、この牛乳泥棒。もう逃がさないよ」
どうやら学は牛乳泥棒に疑われたようだ。
「違います。私は花を見ていただけです」
「言い逃れしようったってそうはいかないよ。確固たる証拠があるんだからね。その手に持っているのはなんなのよ」
家人が、彼の手にある牛乳を指さして、追求した。
「この牛乳は私のものです。コンビニで、今しがた買ってきたものですよ」
「嘘おっしゃい」
「嘘じゃありません、証拠があります」
学はポケットから先ほどのレシートを出して、家人に見せた。
レシートを見た家人は怪訝そうに牛乳受けを確認した。
「あら、本当だわ。ちゃんとある」
どうやらこの家では偶然同じ銘柄の牛乳を取っているようだ。
「信じてもらえますか」
「ごめんなさい、人間違いでした」
家人の態度が百八十度変わった。
「あーよかった」
「疑ったうえに、お召物を汚してしまって申し訳ありません。何とお詫びしたらよいやら」
家人は学に平身低頭である。
「けっこうですよ、どうかお気になさらず。」
「そう申されても」
「ちょうどお尻も濡れてしまっているから今更構わないんですよ。家に帰ったらすぐ風呂に入りますから」
お尻を家人に見せて納得してもらい、散歩を再開した。
住宅街の見通しの良い道を歩いていると、向こうから車が猛スピードでやってきた。どんどん近づいてくるのだが、スピードを落とす気配はない。朝の空いている時間帯なのをいいことに、制限速度を無視して、走っているようだ。当てられてはたまらないので、パッと道の端にとび避けた。
ゴーン
車は無事にやり過ごせたのであるが、代償として、避難した所に立っていた電柱に後頭部をしこたま当ててしまった。くらくらする。患部を触ると、血が少し滲んでおり、たんこぶになっていた。お尻のポケットからハンカチを出して患部にあてた。先ほど水たまりで尻餅をついたときに濡れてしまったため、ちょうど良い具合に湿っている。それでしばらく患部を冷やした。が、腫れはすぐにはひかない。仕方がないので、こぶで頭が大きくなったために収まりきらなくなってしまった帽子をちょこんと頭頂部に載せて、散歩を再開した。
「やれやれ、やっと我が家に就いた」
家の玄関に到着すると、後ろから、声をかけられた。
「おや、朝帰りですか、優雅なもんですねー蓑和田さん」
隣の添田さんだ。まずいところをみられた。
「いや、朝の散歩です」
と言ってみたところで、後頭部にたんこぶ、入らないので頭にちょこんと載せている帽子、お尻はびちょびちょ、振り返ると前は青いインクの付いた服と、雨でもないのに濡れた新聞を手にしている。朝の散歩の帰りだと言い張ってもおそらく信用はしてくれていないであろう。しらふでこうはならないでしょうと思っているに違いない。
もう、早起きはやめた。朝は家の中、布団の中にいた方が安全だと今日一日で充分に学習した。
今朝のルートを、昼間通ったとして、果たして同じ出来事が起こるであろうか。考えてみろ、早起きしなければ、腹を空かした犬に出会いはしないであろう。新聞だって、家で見るから持ち歩くことはない。よって犬に噛みつかれたりはしない。道の氷も昼間はとけてしまうから、ただの水たまりになっている。滑ってしりもちをつくることはないわけだ。牛乳だって、もちろん歩きながら飲んだりはしないし、配達の牛乳だって朝食ですでにあの人の胃袋の中に入っているはず。花を見ていても牛乳泥棒扱いをされはしないはずだ。カラーボールをぶつけられることももちろんない。車だって、人通りが多い昼間であれば、あんなにスピードは出さないにきまっている。慌てて避けて、頭を電柱にぶつけることはないはずだ。
昼に寝床を出れば、何一つ起こらなかったであろう出来事が、早起きしたばかりに、学の身に次から次にこれでもかこれでもかと降りかかってきた。
俺がいったい何をしたっていうんだ、と問いかけて出てくる答えは、早起きしたこと。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます