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そよ風の心地よい昼過ぎだった。
私はいつものように、グラスを拭いていた。雫に濡れ輝くグラスは、まるで木漏れ日のように心を穏やかにしてくれる。店内には客がおらず、インストゥルメンタルとコーヒーの匂いが私を包み込んでいた。
私は拭き終わったグラスを棚に置き、そっとカウンターの木目を撫でる。
カランカランと、木製チャイムの軽く乾いた音が聞こえた。
「いらっしゃいませ」
私は明るい声で言いながら顔をあげる。中年くらいだろうか、黒い太ぶちメガネをかけたお客様だった。静かだった店内に、床と触れ合う靴の音が加わる。彼は私に軽くぺこっと挨拶し、カウンター席に座った。木目のカウンターテーブルに置かれていたメニュー表を一通り見たあと、低い声で
「ブラックコーヒーを1つ」
と頼んだ。私はにこりと微笑み、コーヒー豆に触れる。12gきっちり測り、コーヒーミルにいれ引き始める。しばらくすると、コーヒーの香りが店内に漂い始めた。私はこの香りが大好きだ。ドリッパーとペーパーをセットし、先程ひいたコーヒーの粉をいれて表面をならしたあと、ゆっくりとお湯を注いでいく。温めておいたコーヒーカップにドリップしたコーヒーを注ぎ、お客様に提供した
「お待たせいたしました。ブラックコーヒーです。」
彼はコーヒーを口にゆっくり運ぶ。淹れたてで湯気が出ているため、少しメガネが曇っていた。
「ここのお店は、普段何時からやっているんですか」
彼はコーヒーカップを置いたあと、私にそう尋ねた。
「午前8時から午後8時までです」
私がそう答えると、彼はなるほど、というように頷き、再びコーヒーカップに口をつけた。
「美味しいですね、これ。今度妻も連れてきます」
「嬉しいです。ありがとうございます」
私はふわりと笑う。妻と言った時、一瞬お客様の表情がとても柔らかくなったように見えた。
店内にかかっていたBGMに一区切りが付き、新たに違うインストゥルメンタルに変わり出す頃には、お客様のコーヒーカップは空になっていた。
「お会計お願いします」
「480円です。ちょうどお預かりいたします。」
私はなれた手つきでお会計を済ませ、お客様ににっこり微笑む
「ありがとうございました!」
彼はぺこっとしながら、軽い木材チャイムの音を鳴らして帰って行った。
店内は、再びBGMとコーヒーの匂いだけで包まれる。私は大きく伸びをし、目の前の大きな窓を見つめる。生き生きとした緑が風で揺れ、木漏れ日が窓から差し込んでいた。今日はいい日和だ、そんなことを思いながら、ブレイクタイムに備えて仕込みをしようと冷蔵庫を開けた時。牛乳が足りないことに気づき立ち尽くす。
「…急いで買ってこよ」
私は身につけていたエプロンを慌てて脱ぎ、バックを手に取り、ドアを開ける。太陽の光が眩しくて、一瞬目を細める。窓越しに見るのとは全く違う自然の美しさに、何度観ても心を奪われる。ドアにかかっている看板を「OPEN」から「CLOSE」にひっくり返し、少し小走りでお店に向かう。
スカートと髪の毛が風になびく。まるでニヤニヤとからかわれているような気がした。
これは私と、お客様と、お店が共にあゆむ物語。




