七品目 炭火の勲章と命の残響
九月の終わり。残暑がもう出番は終わったと言いたげに身を潜める頃、いつの間にか浅縹色から藍色に戻った「しずく」の暖簾を潜ると、そこには夏の冷気とは一変した、香ばしく、ほのかに苦い煙のカーテンが待っていた。
カウンターの奥。いつもの席で、男は既に背筋を伸ばして座っていた。
夏のあの無防備な酔い方はどこへやら、今はまた、一分の隙もないエリートサラリーマンの貌に戻っている。けれど、その鼻先が、無意識に厨房から流れてくる煙を追うのを、早瀬は見逃さなかった。
今夜、二人の前に置かれたのは、秋の王道。
『秋刀魚の塩焼き定食 ――新米と、たっぷりの大根おろしを添えて――』
皿の上に横たわる秋刀魚は、まさに「秋の刀」の名に相応しい、研ぎ澄まされた銀色の輝きを放っていた。
炭火の直火でじっくりと炙られた皮目は、熱い脂で「ぷつ、ぷつ」と小さな泡を立て、所々に炭の焦げ跡が勲章のように点在している。
尾はピンと跳ね、頭から立ち上る湯気には、内臓が焼ける特有の、ほろ苦くも濃厚な香りが混じっていた。
早瀬は、その香りに理性を揺さぶられ、無作法に箸を突っ込みそうになるのを必死に抑えた。
隣で、静かに、けれど流れるような動作で箸を取ったからだ。
(……勝負、か)
早瀬は密かに、心の中で呟いた。
去年は仕事に追われ、秋刀魚の骨と格闘している間に味がわからなくなっていた。今年は違う。この美しい秋刀魚を、隣の男に負けないほど「美しく、美味しく」食べ尽くしてやりたい。
早瀬は、中骨に沿って箸を滑り込ませた。
「パリッ」
小気味よい音を立てて皮が裂け、中から現れたのは、驚くほど真っ白で、瑞々しい湯気を放つ身だった。
まずは、脂の乗った腹身を一口。
「…………っ!」
噛んだ瞬間、炭火の香ばしさと共に、蓄えられた秋の脂が口いっぱいに洪水のように溢れ出した。
そこに、店主が自慢げに「今朝、おろしたてだ」と出した大根おろしを、たっぷりと乗せる。
辛味の効いた大根が、秋刀魚の脂を上品な甘みに変え、喉を滑り落ちていく。
しかし、早瀬は焦っていた。
身を解そうとするたび、細かな小骨が身に残り、皿の上が少しずつ乱れていく。
一方、隣はどうだ。
彼は、頭の付け根にスッと箸を入れると、背骨と身を剥がすように、一切の迷いなく箸を動かしている。
大きな塊で剥がれた身を口に運び、咀嚼し、嚥下する。その所作の美しさは、まるで精密な外科手術を見ているようだった。
さらに男は、一番の難所である「内臓」に手を伸ばした。
真っ黒く焼き上がった肝。
彼はそれを箸で丁寧に崩し、醤油を一滴垂らす。そして、あろうことか、その肝を真っ白な新米の上に載せたのだ。
「……あぁ、これだ」
初めて恍惚とした声を漏らす。
新米の純粋な甘みと、肝の濃厚な苦味。
その対比を慈しむ彼の横顔は、食に対する深い敬意に満ちていた。
早瀬は、自分の皿を見て溜息をつきそうになった。
身は解れ、骨が散らばっている。隣の「完成された芸術」に比べれば、あまりにも不格好だ。
もっと綺麗に。もっと大切に。
そう思うほど、箸先がもどかしく動く。
(……いや、違うな)
早瀬は、ふと思い出した。
この秋刀魚は、冷たい海を泳ぎ、網にかかり、炭火で焼かれて今ここにいる。
この一匹の「命」を、自分の下手な箸捌きが汚しているような気がして、胸がチリリと痛んだ。
男が、ふと箸を止め、早瀬の皿をチラリと見た。
「……秋刀魚は、不器用なほど味が濃いようですよ」
「え……?」
男は、自分の皿に残った、一本の透き通るような背骨を見つめながら言った。
「綺麗に食べるのは、私のエゴです。あなたは、その秋刀魚の必死さを、同じ熱量で受け止めている。……それで良いのだと思いますよ」
その言葉に早瀬は、敗北感と同時に、救われたような気持ちになった。
そうだ。綺麗に食べることが目的ではない。この秋刀魚が持っている、秋という季節の輝きを、一滴残らず胃に収めること。それが、この命に対するひとつの誠実さだ。
早瀬は、骨を外すのを諦め、身も内臓も一緒に、大きく口へ放り込んだ。
苦い。けれど、この上なく上等な気がする。
新米を、茶碗が空になるほどかき込む。
噛み締めるほどに、この豊かな食卓に座れていることの、奇跡のようなありがたさが全身に染み渡っていった。
「ごちそうさま」
隣の皿には、頭と、尾と、一本の完璧な背骨だけが残されていた。
対して自分の皿は、少しばかり賑やかだが、身は一切残っていない。
店主が、二人の皿を交互に見て、ニヤリと笑った。
「どっちも、いいツラで食いやがって。秋刀魚も本望だろうよ」
店を出ると、夜風はさらに秋の色を深めていた。
男は、コートの襟を立て、一度だけ短く会釈をした。
「お先に。……また、来週。……貴方は次、何で勝負するんでしょう」
「いいえ、もう勝負はしません。『命』に感謝することを思い出しましたから」
早瀬の言葉に、目の前の男は驚きながらも満足げに頷き、街灯の下へと消えていった。
もどかしさの残る食事だった。けれど、これほどまでに、「命」の味がした夜はなかった。
早瀬は、口の中に残る肝のほろ苦い余韻を大切に抱えながら、秋の冷え込む路地をゆっくりと歩き出した。




