六品目 氷上の旋律、琥珀に解ける饒舌
八月の半ば。
アスファルトは深夜になっても熱を逃がさず、湿り気を帯びた都会の夜は、呼吸をするだけで体力を削り取っていく。
早瀬が「しずく」の引き戸を開けると、そこは夏が凍結された空間だった。
年季の入ったエアコンが「ゴォーッ」と力強い唸りを上げ、冷気を店内に送り込んでいる。カウンターの端では、緑色の羽根をした古い扇風機が、首を振るたびに「カタ、カタ……」と規則正しいリズムを刻んでいた。
「いらっしゃい」
店主の声と同時に、早瀬はいつもの席へ滑り込む。
今回も既に「彼」がいた。汗をかいていないのを見ると、いつもより早くこの聖域に訪れたのかもしれない。
今日は上着を脱いで椅子の背に掛け、ワイシャツのボタンを二つ外している。その手元には、既に半分ほど空いた中ジョッキ。
「……遅かったですね。今日は、これがないと死にますよ」
男が、グラスを掲げて見せた。
いつもなら短く会釈するだけの彼が、自分から言葉を投げてくる。いつも涼しげなその瞳には、アルコールの火が灯り始めていた。
早瀬の前にも、注文せずとも「それ」が届く。店主は何も言わずジョッキの水滴だけを親指で1度拭ってからカウンターに置いた。
凍りつく寸前まで冷やされた、重厚なガラスジョッキ。
表面には細かな氷の粒が膜を張り、そのまま内側の琥珀色の液体は、今にも溢れんばかりに脈打っている。
早瀬は、たまらずジョッキを掴んだ。指先から熱が奪われ、掌が吸い付くような冷たさ。
一気に、喉へ流し込む。
「……っ、っ、……はぁ゛っ!!」
喉を通り抜ける、暴力的なまでの冷気と炭酸の刺激。
ホップの清々しい苦味が舌を駆け抜け、鼻から麦の香ばしさが抜けていく。
男が、自分のジョッキを「コツン」と、空中で早瀬のそれに向けた。
「……美味いですね。この一杯のために、我々は一万語もの無意味な横文字を喋らされている」
男の声は、いつもより半オクターブ低く、それでいて饒舌だった。
どうやら今日の彼は、冷房とビールという最強の味方をつけ、心の一線を少しだけ下げているらしい。
そこに、今夜の真打ちが運ばれてきた。
『稲庭うどんと、賀茂茄子のオランダ煮 ――冷製仕立て――』
氷を敷き詰めた大きなガラス器は、照明を浴びて波打ち際のように光っている。
その上に、一糸乱れぬ美しさで整えられた稲庭うどん。
乳白色の麺は、氷の冷気を受けて、絹糸のような艶やかな光沢を放っている。
早瀬は、箸で一束を手繰り寄せた。
キンキンに冷えた「つゆ」は、店主が自ら凍らせた出汁を砕いて入れたもの。
麺をつゆに潜らせ、勢いよく啜り上げる。
「ずる、ずるるっ」
一気に、喉の奥へ。
冷水で極限まで締められた麺は、唇を滑り落ちる瞬間、一本分の冷気と張りを宿したまま、細い線に変わる。
噛めば、驚くほどしなやかで、中心に一点の芯を感じさせる強靭なコシ。
その刹那、つゆに溶け出した鰹と昆布の深い旨味が、氷の粒と共に口の中で弾け飛んだ。
「……素晴らしい」
男もまた、うどんを啜り終え、紫の塊を頬張り熱っぽく語り始めた。
「早瀬さん。この冷たさは、もはや暴力に近い。だが、その暴力こそが、今の私には必要なんです。……わかりますか? この、脳が凍るような快感」
彼は普段、そんなふうに感情を剥き出しにすることはない。
けれど今夜は、箸で賀茂茄子のオランダ煮を指し示しながら、少年のように目を輝かせている。
茄子は、一度揚げてから芯まで冷やし抜かれたもの。
早瀬がそれを一口頬張ると、皮の紫色の下から、閉じ込められていた冷たい出汁がジュワリと溢れ出した。
揚げられたことで凝縮された茄子の甘みと、冷えた油の重厚なコク。
それが、ビールの残像と混ざり合い、脳の奥の快楽中枢を直接叩く。
「……確かに。この茄子の油をビールで流し込むと、もう、何もいらない気がします」
早瀬の言葉に、男は新しく届いたジョッキを口元へ傾けながら、
「そう、それです!これ以上はいらない 」
と、弾んだ声を出した。
彼はジョッキに残った黄金色の液体を透かし見ながら、ふっと切れ長の目を細めた。
「……ドイツにいた三週間、あちらのビールは確かに最高だと思っていました」
唐突に始まった回想。彼の口調は、まるで止まっていた歯車が回り出したかのように滑らかだった。
「フランクフルトの冬、重厚で、ホップの香りが鼻を突くほど濃いエールやラガーを、乾燥した空気の中で煽る。あっちは常温に近い温度でじっくり飲むのが主流ですが、あれはあれで、肉厚なソーセージの脂を洗い流すには完璧な組み合わせなんです。見た目も、もっと濃い琥珀色をしていてね」
今度は自分のジョッキに視線を落とした。
「……ですが、この日本の夏、この逃げ場のない湿気と熱気の中では、あちらの完成された味さえ、少し重すぎる。今、私が求めていたのは、この喉を刺すような極限の冷たさと、炭酸の暴力です。この、何も残さずすべてを洗い流していく潔い軽さ……。そして、この出汁の効いた茄子。これに勝る組み合わせを、私はあちらで見つけられなかった」
男は一気にジョッキを煽り、喉を大きく動かした。プハッ、と吐き出された息には、そんな乾きを癒すような恍惚感が混じっている。
「向こうのビールは『人生を語る味』ですが、日本のこれは『人生を忘れさせてくれる味』だ。……そう思いませんか?」
そうに語った後、少しだけ照れくさそうに、けれど満足げに、氷の浮いたつゆの中のうどんへと箸を伸ばした。
終盤、隣の男は三杯目のビールを注文した。
彼は、首を振る扇風機の風に吹かれながら、少しだけ頬を赤らめ、
「次は、秋ですね……。秋刀魚……戻り鰹……。あぁ、この店に住みたいくらいだ」
と、とりとめのないことを呟いている。
普段の彼が背負っている重圧。
そんなものは、このカタカタと鳴る扇風機の音と、うどんの喉ごしの中に、一時的に溶けて消えてしまったようだった。
「ここであなたと並んで飯を食う時だけは、私はただの腹を空かせた人間になれる」
男は、それ以上を言わなかった。言えば、この涼しさが壊れる気がしたのだろう。
残ったつゆをグイと飲み干した。
友情と呼ぶにはあまりに淡く、けれど他人と呼ぶにはあまりに同じ熱量を共有している。
この「適温の親近感」、踏み込まないからこそ壊れない二人の関係の正解なのだと早瀬は理解した。
「ごちそうさま」
二人の声は、冷たい麺と適度なアルコールで、少しだけ浮き立っていた。
店主が、空になったジョッキと器を見て「飲みすぎだぞ、気をつけて帰れよ」と笑いながら皿を下げる。
店を出ると、相変わらずの不快な熱風が二人を包み込んだ。
けれど、彼の足取りは、いつもの計算された歩幅よりもわずかに大きく、自由だった。少々ふらつきながらも、短く会釈をして闇に消えていった。
早瀬もまた、自分の頬に残る熱と、胃に残る麺の清涼感を感じながら、夜の街へと踏み出した。




