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路地裏晩餐  作者: 七詩
7/12

五品目 芽吹きの苦味と一年越しの洗礼

三月、風には尖った冷たさが消え、代わりに湿り気を帯びた花の匂いが混じり始めた。

「しずく」の暖簾も、冬の重い藍色から、少し明るい浅縹色へと掛け替えられている。

早瀬は、コートを脱いで腕に掛け、軽やかな足取りで店に入った。

「いらっしゃい」

店主の威勢のいい声。いつもの席に目を向けると、そこには既に「彼」がいた。

今日はスリーピースではなく、柔らかな質感のライトグレーのジャケットを纏っている。デスクワークの重圧から解放されたような、どこか穏やかな横顔。

「……少し、春めいてきましたね」

早瀬が腰を下ろしながら、独り言のように呟く。

隣の男は視線をメニューに向けたまま、口角をわずかに上げた。

「ええ。ビル風が、今日は痛くなかった」

今夜の黒板には、待望の文字がいつもより威勢よく躍っていた。

『山菜の天ぷらと、鰆の西京焼き定食』


運ばれてきた盆からは、立ち上る湯気と共に、揚げたての衣の香ばしさと、春の野山を凝縮したような青い香りが溢れ出した。

早瀬はまず、箸の先で「ふきのとう」をひとつ、持ち上げた。

花が開く直前の、硬く結ばれた蕾。薄く、羽衣のように纏わされた衣が、カウンターの灯りを反射して真珠色に輝いている。

まずは、小皿の端に盛られた雪のような塩を、振りかける。

塩を付けすぎたかもしれない、と一瞬思ったが、構わず口に放り込む。

「サクッ……」

前歯が衣を割る、乾いた小気味よい音。

その瞬間、閉じ込められていた鮮烈な香りが、鼻腔の奥まで一気に駆け上がった。

そして、舌の付け根を強く刺激する、あの特有の苦味。

「……っ、」

それは単なるエグみではない。冬の間、凍土の下でじっと力を蓄えていた生命が、今まさに口内で芽吹いたような、野性的で峻烈な刺激だ。

早瀬の脳裏に、去年の三月の景色がフラッシュバックする。

鳴り止まない電話、白光する液晶画面、深夜のオフィスで啜った冷めてしまったカップ麺。季節が移ろうことさえ忘れていた、あの味気ない日々。そんな記憶を押し流すように早瀬はもうひとつのふきのとうへ手を伸ばした。

「……あぁ」

喉を通り過ぎた後も、心地よい苦味の余韻がいつまでも消えない。

去年の自分が失った春が、今、この一口によって一気に取り戻されていく。

「……去年は、これを食べ損ねました」

早瀬が掠れた声で漏らすと、隣の男が箸を止め、わずかにこちらを見た。

「それは、惜しいことをしましたね。春の苦味は、一度逃すと一年待たねばならない」

男はそう言うと、自身の皿にあるタラの芽を、愛おしむように見つめた。

「……けれど、その分、今年の味は格別でしょう。身体が、春の味を求めている」

男がタラの芽を口に運ぶ。

衣の弾ける音のあとに、男の眉間がわずかに寄る。その苦味を咀嚼し、慈しみ、ゆっくりと嚥下する一連の所作。彼もまた、この春の洗礼を全身で受け止めているのが、隣にいるだけで伝わってきた。


次は、主役の鰆だ。

飴色に美しく焼き上がった皮目からは、透明な脂が「じりっ」と小さな音を立てて滲み出している。

箸を滑り込ませると、銀鱈のようなとろける柔らかさとは一線を画す、しっとりとした確かな弾力があった。

淡いピンクを帯びた白い身を、大きく一口。

「…………!」

西京味噌の芳醇な甘みと、酒粕の微かな香りが、鰆の淡白ながらも上品な旨味を完璧に包み込んでいる。

噛みしめるたびに、きめ細やかな繊維から瑞々しい水分が溢れ出し、口の中が春の潤いで満たされる。

それを追いかけるように、炊き立ての白米をかき込む。

米の一粒一粒が鰆の脂と味噌のコクを纏い、口の中で綺麗に噛み合う。

男が、熱い味噌汁を「ずず、」と啜り、静かに息を吐いた。

「……カレンダーの数字よりも、この皿の上の色で一年を感じる。それが、ここに来る理由かもしれません」

早瀬は、鰆の皮の香ばしい部分を噛みしめ、深く、深く頷いた。

名前も知らないこの男と、肘が届きそうな距離で、同じ苦味に目を細め、同じ甘みに安堵する。

去年の自分にはなかった、この贅沢な静寂こそが、何よりも身体を癒していく。

「……はい。格別です。一年待った分、余計に」


最後の一口。

天つゆをたっぷりと吸わせ、少ししんなりとした「こごみ」を、残りの白米と一緒に口へ。

出汁の深みと、山菜特有の粘りけ。それが胃に落ちた時、早瀬の心の中にあった去年の欠落は、完全に埋まった。そう結論づけた直後、皿の上に残った衣の欠片が、やけに目についた。早瀬は無言で、それを拾って口に入れた。

「ごちそうさま」

二人の声が、今夜も綺麗に重なった。

店主が、満足げに笑って空いた皿を下げる。

店を出ると、夜気は驚くほど優しく、どこかの家から沈丁花の香りが、まるで祝福のように漂ってくる。

男は、いつものように短く会釈をした。

「お先に。……また、来週」

「また来週」という言葉。それは、名前を呼ばない二人の間に結ばれた、ちょうど良い関係だった。

二人の背広の男は、夜の闇へと別々に消えていく。

けれど早瀬の胸の中には、一年越しの苦味がもたらした確かな活力が、春の芽吹きのように静かに、強く、息づいていた。

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