箸休め 店主のまな板
「しずく」を継いで三十年になる。
このカウンターに座る客の顔ぶれを見れば、その日の景気も、そいつの家庭の事情も、大体は見当がつく。
だが、あの二人は、長年この商売をやってきた俺にとっても特別だった。
一人は、どこにでもいそうな、けれど飯を食う時のツラが最高にいい眼鏡をかけた若造。
もう一人は、見るからに住む世界の違う、一分の隙もねえエリートであろう男。
名前は知らねえ。客に名前を訊くなんて野暮はしねえのが、この店の流儀だ。
だが、あの二人がいつの間にか「隣合わせの常連」になったことは、俺にとって今や密かな楽しみになっていた。
今夜の品書きは、真冬の贅、『鱈の白子ポン酢』と『カキフライ』だ。
眼鏡の若造がカキフライを一つ、箸で持ち上げる。
うちのカキフライは、衣を極限まで薄くして、中の水分を逃がさねえように一気に揚げるのがコツだ。
「サクッ、」
厨房まで、その軽やかな音が届く。
目を剥き、熱さを堪えながら咀嚼する。その様子を、隣の男が横目でじっと見ている。
あいつ、普段は鉄面皮のくせに、若造が美味そうに食うと、自分の注文が届く前だってのに、喉をごくりと鳴らしやがるんだ。
「はいよ、白子とカキフライ、お待たせ」
エリートの男の前に皿を置く。
男はまず、白子に箸を伸ばした。
真っ白で、脳漿のように複雑なひだを持った白子。それを、自家製の橙ポン酢にくぐらせ、口に運ぶ。
男の動きが、一瞬止まる。
クリーミーな白子が口の中でとろけ、ポン酢の酸味が後味をキリリと締める。その快感に、男の肩から、一日の緊張がスッと抜けていくのが見える。
二人は一言も喋らねえ。
だが、若造がカキフライにレモンを絞れば、男も真似してレモンを手に取る。
男が白子に紅葉おろしを多めに乗せれば、早瀬も「ほう」という顔をして紅葉おろしを足す。
皿の上で、二人は完璧に会話してやがるんだ。
例の男がドイツから戻ってきた夜は面白かったな。
眼鏡の若造の奴、あいつがいない三週間、ずっとどこか上の空で飯を食ってやがった。
「今日は味が薄いか?」と訊きそうになったが、違う。あいつは「味」を分かち合う相手がいなくて、寂しかったんだな。
だから、あの男が「ただいま」と言って暖簾を潜ってきた時、俺は思わず包丁を止めて、奥で笑っちまったよ。
二人が並んで寒鰤を食っている背中を見て、俺は確信した。
この二人は、多分これからも名前も知らねえし、連絡先も交換しねえだろう。
だが、このカウンターに座っている間だけは、血縁や肩書きより深く、魂の根っこの部分で繋がってやがる。
「店主、カキフライ、もう一個追加で」
若造が、食い足りねえと言わんばかりに注文を投げてくる。
それを見て、エリートの男も小さく手を挙げた。
「私も、同じものを」
「あいよ!」
俺は、勢いよくカキを油に投入した。
バチバチと、賑やかな音が店内に響く。
外は氷点下だろうが、この店の中だけは、飯と湯気と、この奇妙な二人のおかげで、いつでも春先みたいに温かい。
「お前ら、名前も知らねえんだろうけどよ」
俺は心の中で、揚がるカキフライを見つめながら呟く。
「お前らが出会ったのは、この店の飯が美味かったからじゃねえ。お前らが、お互いに『美味そうに食う奴』だってことを、見抜いたからなんだよな」
二人の空いた皿を下げに行く。
一粒の米、一滴の煮汁も残ってねえ。
それが、料理人への最高の、そして二人だけの「握手」なんだってことは、俺だけが知っていればいい。
「ごちそうさま。今日も最高だった」
「ああ。またな」
二人の背中が、夜の闇に消えていく。
明日もまた、美味いもんを用意して待ってなきゃな。
あいつらが、またここで「無言の再会」を果たすために。
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