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路地裏晩餐  作者: 七詩
6/12

箸休め 店主のまな板

「しずく」を継いで三十年になる。

このカウンターに座る客の顔ぶれを見れば、その日の景気も、そいつの家庭の事情も、大体は見当がつく。

だが、あの二人は、長年この商売をやってきた俺にとっても特別だった。

一人は、どこにでもいそうな、けれど飯を食う時のツラが最高にいい眼鏡をかけた若造。

もう一人は、見るからに住む世界の違う、一分の隙もねえエリートであろう男。

名前は知らねえ。客に名前を訊くなんて野暮はしねえのが、この店の流儀だ。

だが、あの二人がいつの間にか「隣合わせの常連」になったことは、俺にとって今や密かな楽しみになっていた。


今夜の品書きは、真冬の贅、『鱈の白子ポン酢』と『カキフライ』だ。

眼鏡の若造がカキフライを一つ、箸で持ち上げる。

うちのカキフライは、衣を極限まで薄くして、中の水分を逃がさねえように一気に揚げるのがコツだ。

「サクッ、」

厨房まで、その軽やかな音が届く。

目を剥き、熱さを堪えながら咀嚼する。その様子を、隣の男が横目でじっと見ている。

あいつ、普段は鉄面皮のくせに、若造が美味そうに食うと、自分の注文が届く前だってのに、喉をごくりと鳴らしやがるんだ。

「はいよ、白子とカキフライ、お待たせ」

エリートの男の前に皿を置く。

男はまず、白子に箸を伸ばした。

真っ白で、脳漿のように複雑なひだを持った白子。それを、自家製の橙ポン酢にくぐらせ、口に運ぶ。

男の動きが、一瞬止まる。

クリーミーな白子が口の中でとろけ、ポン酢の酸味が後味をキリリと締める。その快感に、男の肩から、一日の緊張がスッと抜けていくのが見える。

二人は一言も喋らねえ。

だが、若造がカキフライにレモンを絞れば、男も真似してレモンを手に取る。

男が白子に紅葉おろしを多めに乗せれば、早瀬も「ほう」という顔をして紅葉おろしを足す。

皿の上で、二人は完璧に会話してやがるんだ。


例の男がドイツから戻ってきた夜は面白かったな。

眼鏡の若造の奴、あいつがいない三週間、ずっとどこか上の空で飯を食ってやがった。

「今日は味が薄いか?」と訊きそうになったが、違う。あいつは「味」を分かち合う相手がいなくて、寂しかったんだな。

だから、あの男が「ただいま」と言って暖簾を潜ってきた時、俺は思わず包丁を止めて、奥で笑っちまったよ。

二人が並んで寒鰤を食っている背中を見て、俺は確信した。

この二人は、多分これからも名前も知らねえし、連絡先も交換しねえだろう。

だが、このカウンターに座っている間だけは、血縁や肩書きより深く、魂の根っこの部分で繋がってやがる。

「店主、カキフライ、もう一個追加で」

若造が、食い足りねえと言わんばかりに注文を投げてくる。

それを見て、エリートの男も小さく手を挙げた。

「私も、同じものを」

「あいよ!」

俺は、勢いよくカキを油に投入した。

バチバチと、賑やかな音が店内に響く。

外は氷点下だろうが、この店の中だけは、飯と湯気と、この奇妙な二人のおかげで、いつでも春先みたいに温かい。

「お前ら、名前も知らねえんだろうけどよ」

俺は心の中で、揚がるカキフライを見つめながら呟く。

「お前らが出会ったのは、この店の飯が美味かったからじゃねえ。お前らが、お互いに『美味そうに食う奴』だってことを、見抜いたからなんだよな」

二人の空いた皿を下げに行く。

一粒の米、一滴の煮汁も残ってねえ。

それが、料理人への最高の、そして二人だけの「握手」なんだってことは、俺だけが知っていればいい。

「ごちそうさま。今日も最高だった」

「ああ。またな」

二人の背中が、夜の闇に消えていく。

明日もまた、美味いもんを用意して待ってなきゃな。

あいつらが、またここで「無言の再会」を果たすために。

12/24の完結予定まで、毎日18:30に更新します。

続きが気になる方はふらっと覗きに来てもらえると嬉しいです。

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