四品目 独白の食卓(side: 一ノ瀬拓也)
一ノ瀬拓也の日常は、常に「完璧」という名の檻の中にあった。
外資系コンサルのシニアマネージャー。数億が動くプロジェクトの舵取り。纏うスリーピースはロンドンのサヴィル・ロウで仕立てたもので、履いているクロケット&ジョーンズの革靴は、一分の曇りもなく磨き上げられている。
周囲が彼に向けるのは、羨望か、あるいは畏怖だ。
会食で訪れるのは、看板のない会員制の鮨屋や、銀器の重みを競うようなフレンチ。しかし、そこで口にするのは「味」ではなく、政治的な駆け引きと、相手を満足させるための情報の破片だった。
(……腹が、減ったな)
二ヶ月前。連日のハードワークで味覚が死にかけていた夜、彼はふと、メインストリートから一本外れた。
そこで見つけたのが「しずく」だった。
洒落た外装も、洗練されたサービスもない。ただ、暖簾の隙間から漏れる、暴力的なまでに力強い「出汁」の香りに、彼の胃袋が震えた。
初めて入ったその店で、彼は銀鱈の西京焼きを食べた。
一口食べた瞬間、一ノ瀬の脳裏に浮かんだのは、かつて祖母が焼いてくれた、不格好だが誠実な魚の味だった。
「……美味いな」
思わず零れた独り言。それを拾う者は誰もいない――はずだった。
二つ隣に座っていた、黒縁メガネをかけたくたびれたスーツの男。
見た目はごく平凡な、けれど「美味いものを食べる」ことに対して異様なほど真摯な男。
早瀬仁という名を知る由もない一ノ瀬は、彼のことを密かに『同志』と呼んでいた。
一ノ瀬がこの店に通う理由は、料理の質だけではない。
隣に座るあの男が、一切の虚飾なく、ただ目の前の皿に集中して、喉を鳴らし、至福そうに目を細める。その「音」と「気配」が、一ノ瀬の張り詰めた神経を、どんな高価な葉巻やワインよりも優しく解きほぐしてくれるのだ。
ここでは、私は「一ノ瀬拓也」ではない。
ただの、銀鱈を好む一人の男になれる。
ドイツへの発たなければならない夜、一ノ瀬の心は珍しく揺れていた。
異国の食事は嫌いではない。だが、あの無機質なホテルで、数字の羅列を睨みながら食べる食事を想像すると、酷く胃のあたりが寒くなった。
だから、注文した。
持ち帰りの、おにぎり。
店主の母親が漬けたという、暴力的なまでに酸っぱい梅。
それを、思わず隣の男にも差し出してしまったのは、計算ではない。
男の、早瀬の指先に、自分と同じ「戦い疲れた色」を見たからだ。
プレゼン資料を捲りすぎたのだろうか、少し荒れた指先。けれど、箸を持つ手だけは決して緩めない。その食への敬意に対する、一ノ瀬なりの最大級の礼だった。
「……三週間、お気をつけて」
男から返ってきたその言葉は、どんな部下からの激励よりも、一ノ瀬の胸に深く刺さった。
彼は私の名前を知らない。役職も、年収も、学歴も。
ただ「同じ店の飯を食う人間」として、純粋に無事を祈ってくれた。
(ああ……これだ)
この場所にあるのは、損得のない「食」の繋がりだけ。
だからこそ、信頼できる。
フランクフルトの冷たい雨の中で、一ノ瀬は何度も、あの店主が握ったおにぎりの、塩と米の弾力を思い出していた。
帰国したその足で、彼は自宅にも寄らず、タクシーを「しずく」へ走らせた。
重い引き戸を開ける。
熱い湯気。
そして、いつもの席。
そこには、三週間前と変わらない、あの男の背中があった。
今夜の品書きは、冬の王様『寒鰤の照り焼き』。
一ノ瀬は、溢れそうになる笑みを噛み殺し、コートを脱いだ。
男がこちらに気づき、レンズ越しの目をわずかに見開いたあと、表情は戻る。一重まぶたが落ち、眉が緩み、飯を前にした時の口元になる。
「……おかえりなさい」
その小さな声に、一ノ瀬は静かに、けれど深く頷いた。
「ただいま。……さて、今夜も美味そうですね」
この関係に説明できるような具体的な名前は持ち合わせていない。
ただ、この芳醇な醤油の香りと、脂の乗った鰤の輝き。それさえあれば、二人の再会には十分すぎる。
一ノ瀬は、ゆっくりと、そして大切に、箸を手に取った。




