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路地裏晩餐  作者: 七詩
4/12

四品目 独白の食卓

隣の席が空いている。

ただそれだけのことが、これほどまでに食事の風味を変えてしまうとは、早瀬は思ってもみなかった。

一ノ瀬――あの日、航空券を拾った時に目に入った名前。けれど早瀬は、その名前を一度も口にしない。それは今後も同じである。彼がドイツへ発ってから、早瀬は変わらず週に一度、この藍色の暖簾を潜り続けていた。


一週間目。

今夜の主役は「揚げ出し豆腐」だった。

片栗粉を纏ってカラリと揚げられた豆腐が、濃いめの出汁の中に鎮座している。その上には、たっぷりの大根おろしと、刻んだ細ネギ、そして踊るような鰹節。

箸を入れると、衣が「サクッ」と小気味よい音を立て、中から熱々の、絹のように滑らかな豆腐が顔を出す。

ハフハフと息を吹きかけ、口に運ぶ。出汁を吸った衣のコクと、大豆の優しい甘みが広がる。

(美味い。……だけど)

ふと、二つ隣の空席に目をやる。

いつもなら、あそこで「背広の彼」が、一分の隙もない所作で魚の骨を外しているはずだった。咀嚼の音。熱い茶を啜る音。それがないだけで、店内の活気がどこか遠くのBGMのように聞こえ、自分の咀嚼音だけが妙に耳に響く。

飯の味は変わらない。店主の腕も確かだ。

けれど、美味さを無言で共有する相手がいない食事は、どこかモノクロームの景色に似ていた。


二週間目。東京に初雪が舞った夜。

煮込まれた「肉じゃが」のジャガイモは、角が取れてホクホクになり、牛肉の脂が表面に樹液のように染み出している。

早瀬は、酸っぱい梅干しのおにぎりの味を思い出していた。

彼は今頃、向こうで何を食べているのだろうか。

ジャガイモの本場だ。ひょっとしたら、もっと豪快な芋料理を食べているのかもしれない。けれど、この醤油と砂糖が織りなす「落ち着く甘さ」には、きっと飢えているはずだ。

店内には、出汁の匂いと、無機質な時計の秒針の音だけがあった。その静けさの中で、不意に心に寂しさがよぎる。

自分でも驚くほど、あの一時を共にする「名もなき同志」の帰還を待ち望んでいた。


そして三週間目。

その夜、東京は底冷えがした。早瀬は凍える手で引き戸を開け、いつものカウンターへと向かう。

そして、息が止まった。

いた。

三週間前と同じ、完璧な仕立てのスーツ。けれど、その肩には少しだけ長旅の疲れが乗っているような、柔らかな雰囲気が漂っている。

彼の前には、今夜の特選メニュー『寒鰤の照り焼き』が運ばれてきたところだった。

「……おかえりなさい」

早瀬がかけた言葉に、男はゆっくりと顔を上げた。

その瞳に、安堵の光が宿るのを早瀬は見逃さなかった。

「ただいま。……さて、今夜も美味そうですね」

その一言で、空白の三週間は一瞬で埋まった。

黄金の照り、再会の味

二人の前に並んだ寒鰤。

冬の荒波を越えて脂を蓄えた鰤は、身が厚く、暴力的なほどに輝いている。

濃い醤油ダレが熱で煮詰まり、表面で「じりじり」と音を立てながら、飴色の膜を作っていた。

早瀬は箸を入れ、その肉厚な一切れを口にした。

「……っ!」

衝撃だった。

歯を押し返すような弾力。そして次の瞬間、上質な脂が奔流となって口の中に溢れ出した。醤油の香ばしさと、味醂の艶やかな甘み、そして鰤特有の力強い旨味。

それは、三週間待ち続けた甲斐がある、圧倒的な「日本の冬」の味だった。

隣の彼――一ノ瀬もまた、一口食べた瞬間に、深く、長く、溜息をついた。

それは、言葉によるどんな「最高だ」という賞賛よりも、作り手と、そして隣の早瀬に響く最高の賛辞だった。

二人は、取り憑かれたように食べ進めた。

真っ白な米。脂の乗った鰤。そして、口直しに添えられた、辛味の効いた大根の甘酢漬け。

「……向こうの飯も悪くなかったが」

一ノ瀬が、食後に運ばれてきた熱い茶を両手で包み込みながら呟いた。

「やはり、この一杯の茶と、焼きたての魚に勝るものはありませんね」

「そうですね。……一人で食べるより、ずっと美味いです」

早瀬の言葉に、一ノ瀬は少しだけ目を見開き、それから優しく目を細めた。

名乗る必要はない。連絡先もいらない。

ただ、冬の夜に、この小さな店で、同じ魚の美味さに震える。

「次は、何でしょうね。……そろそろ、白子でしょうか」

一ノ瀬のその言葉に、早瀬は最高の笑顔で頷いた。

「いいですね。楽しみです」

外は冷たい風が吹き荒れている。

けれど、店を出る二人の足取りは、内側から燃えるような満足感で、どこまでも軽やかだった。

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