三品目 鰤大根と梅おにぎりの餞
十二月の半ば、街は浮き足立ったクリスマスソングに占拠されていた。
しかし、路地裏の「しずく」だけは、相変わらず醤油と出汁の染み付いた静寂を保っている。
早瀬は、かじかんだ指先を温めるように、熱いおしぼりで手を拭った。
隣には、いつもの彼。
今夜の男は、いつも以上に「戦場」の気配を纏っていた。膝の上に置かれたタブレット端末が、マナーモードの振動を微かに刻んでいる。
今夜の主役は「鰤大根」だ。
隣では既に鰤の身を解している。
彼は、煮魚の食べ方が恐ろしく綺麗だ。背骨に沿って箸を入れ、血合いの部分と真っ白な腹身を絶妙なバランスで口に運ぶ。
その光景を前に、口の中に静かに水分が集まるのを意識せざるを得ない。早瀬は小さく息を整え、結露したお冷に手を伸ばす。喉を伝う冷たさが、先走る感覚を静かに引き戻す。
そんな中、運ばれてきた今夜の主人公。皿の上で、大根は飴色を通り越し、深い琥珀色に輝いている。
箸を入れれば、繊維がほどけるように、音もなく二つに割れる。その断面まで、鰤の旨味を含んだ煮汁が完璧に浸透していた。
早瀬は、大根を一口。
「……っ、」
熱い。けれど、瑞々しい。大根自身の甘みと、鰤の濃厚な脂、そして生姜の鋭い香りが、口の中で破裂する。
その時だった。
男のバッグから、一通の封筒が滑り落ちた。
床に落ちた拍子に、中から一枚の航空券が覗く。
早瀬は、無意識にそれを拾い上げた。
視界に入ったのは、行き先。
――『Frankfurt』。
「あ……」
拾って差し出すと、男は少しだけ驚いたように目を見開いた。
その瞳には、エリートとしての鋭さではなく、長距離移動を前にした旅人のような、微かな疲労と覚悟が混じっていた。
「……明日からですか」
早瀬が、つい口にしていた。
男は、受け取った航空券を丁寧にバッグへしまい、短く頷いた。
「ええ。三週間ほど、あちらの飯になります」
フランクフルト。ドイツ。
質素なパンと、塩辛いソーセージ、冷たいビール。
この出汁文化から最も遠い場所へ、彼は行こうとしている。
どこか名残惜しそうに、皿に残った煮汁をじっと見つめていた。
「店主」
男が声を上げた。目の前の崩れた大根のとは似つかない凛とした声である。
「おにぎりを。二つ、持ち帰りで。……それと、中身は梅干しを。できるだけ、酸っぱいものを」
店主が「あいよ」と太い声で応じる。
早瀬は、その注文の意図を察した。
明日の朝。成田か羽田か、あるいは機内か。彼はこの日本の、この店の「塩と米」の味を、最後の守り刀として持っていくつもりなのだ。
数分後。竹皮に包まれた、温かいおにぎりが男の手元に届く。
「……。これは、あなたの分だ」
男が、二つのうちの一つを、早瀬の方へ差し出した。
「え……?」
「ここの梅は、店主の母親が漬けているそうです。塩分が強く、目が覚める。……あなたも、最近、残業が続いているようだから」
男は、早瀬の顔を一度も見ていない。
ただ、隣で食べる「同志」の疲労を、箸の進み具合や、肩の落ち方で察していたのだろう。
早瀬は、差し出されたその温もりを受け取った。
竹皮越しに、炊き立ての米の熱が、冷えた掌に伝わってくる。
「……ありがとうございます。三週間、お気をつけて」
「……ええ」
男はそれだけ言うと、勘定を済ませて立ち上がった。
彼が何者で、何のためにドイツへ行くのかも、相変わらず知らない。
けれど、彼が「酸っぱい梅干し」で己を奮い立たせようとしていること、そして自分の疲れを案じてくれたこと。
その「事実」だけで、十分だった。
翌朝、早瀬は職場のデスクで、そのおにぎりを解いた。
冷めて、米が締まっている。
口に含むと、強烈な塩気が舌を突き刺し、続いて梅の鮮烈な酸っぱさが、眠っていた脳を一気に叩き起こした。
(あぁ……美味い)
あの大男も今頃、空の上で、あるいは遠い異国の地で、この同じ「酸っぱさ」に眉を顰めているのだろうか。
飯で繋がっただけの関係。
けれど、そのおにぎりの重みは、どんな慰めの言葉よりも、早瀬の背中を強く押してくれた。
三週間後。
またあの席で、次は何を食べる男に会えるだろうか。
早瀬は、最後の一粒まで大切に噛み締め、仕事へと向かった。




