二品目 牡蠣の土手鍋と山椒の対話
暦が十一月を指すと、東京の夜は一気にその色を変える。
ビル風は刃物のように鋭くなり、帰路を急ぐ人々の肩は自然と丸くなる。早瀬仁もまた、コートの襟を立て、逃げ込むように「しずく」の暖簾を潜った。
店内の熱気。
眼鏡が真っ白に曇る。それを拭いながらいつもの席へ向かうと、そこには既に「彼」がいた。
身体が季節の変化に気づいているのか、男はいつもより少しだけ疲れているように見えた。
膝の上に置かれたビジネスバッグの革が、使い込まれた鈍い光を放っている。けれど、その背筋だけは、まるで一本の芯が通っているかのように凛としていた。
今夜の特別メニューが、黒板に記されている。
『牡蠣の土手鍋風 定食』
早瀬は、その文字を見ただけで、喉の奥がキュッと鳴るのを感じる。今日の〆は決まった。
「……それ、二人前お願いします」
隣の男が、わずかに眉を上げた。自分と同じものを注文した、その気配に反応したのだろうか。
運ばれてきたのは、小さな一人用の土鍋だった。
蓋の隙間から、真っ白な湯気が勢いよく噴き出している。シュシュッ、という蒸気の音。
早瀬が蓋を取ると、そこには八丁味噌をベースにした濃い茶色の海が広がっていた。
その中心に住むのは、丸々と太った大粒の牡蠣。周りを、しんなりとした白菜、斜め切りにされた長葱、そして黄金色の春菊が囲んでいる。
「…………」
隣の男も、静かに蓋を取る。
二人の間に、ぶわっ、と濃厚な磯の香りと、熟成された味噌の香ばしさが立ち込めた。
早瀬は、まずはレンゲで汁を掬った。
熱い。舌を火傷しそうなほどの熱量。けれどその後に、牡蠣から溶け出した圧倒的な「海」の旨味が、重厚な味噌のコクと共に押し寄せてくる。
次は、主役の牡蠣だ。
箸で持ち上げると、ずっしりとした重みがある。口に含み、前歯でその繊細な膜を破る。
――ぷりっ。
弾けるような食感。中から溢れ出すのは、海のミルクと称される濃厚なエキスだ。熱い汁と混じり合い、鼻から抜ける香りが、冷え切っていた身体の細胞を一つずつ呼び覚ましていく。
「……ふぅ」
隣から、小さな吐息が漏れた。
男は、フーフーと丁寧に熱を冷ましながら、牡蠣を口に運んでいる。その頬が、熱気に当てられたのか、あるいは美味さに高揚したのか、微かに赤らんでいた。
中盤、男が卓上の小さな陶器に手を伸ばした。
中に入っているのは、店主特製の「粉山椒」だ。
男はそれをパラリと鍋に振りかける。
一瞬、空気がピリリと引き締まった。柑橘を思わせる軽やかな香りが、重低音の味噌の香りに新しい風を吹き込む。
男は、自分の鍋に山椒を振った後、その陶器をわずかに……本当に数センチだけ、早瀬の方へ滑らせた。
言葉はない。
けれど、それは紛れもなく「これを加えると、さらに化けるぞ」という、最上の情報提供だった。
「ありがとうございます」
早瀬が小声で応じると、男は短く、よく目立った喉仏辺りで「ん」とだけ鳴らした。
早瀬もまた、山椒を振る。
劇的だった。味噌の重みに、山椒の痺れと清涼感が加わり、牡蠣の甘みがさらに立体的に浮かび上がってくる。
二人は、取り憑かれたように鍋に向かった。
最後には、土鍋の底に残った汁を白米にかけて、即席の雑炊にする。真っ白な米が牡蠣の出汁を受け入れ、ゆっくりと色を変えていく。その変化を見守る時間だけは、箸を入れる側の特権である。
土鍋の熱で少し焦げた味噌の噎せ返るような香ばしさ。それを一粒残らず胃に収めた時、外の寒さなど、もう遠い世界の出来事のように思えた。
「……良い、晩でした」
先に席を立ったのは、男だった。
彼はコートを羽織りながら、一度だけ、本当に一度だけ、早瀬の目を見た。
そこにあるのは、友情でも、打算でも、ましてやただの知己でもない。
「同じ戦場で、最高の戦果を上げた戦友」に向けるような、清々しい信頼感。
「ええ。身体が、軽くなりました」
早瀬が応えると、男は満足げに頷き、夜の闇へと消えていった。
早瀬は、残った熱い茶を啜りながら、男の座っていた空席を見つめる。
彼の名前も、彼がどんな重圧を背負って仕事をしているのかも、自分は知らない。
けれど、彼が山椒の香りを好み、牡蠣の熱さに目を細め、最後の一口まで大切に食べる人間であることは、誰よりも深く知っている。
(心地いい…)
繋がりすぎない。けれど、孤独ではない。
この適温の距離感こそが、明日を生きるための、一番の調味料なのかもしれなかった。
「店主、ごちそうさま。最高だった」
「おう、また来な」
早瀬は、身体の芯に残る確かな熱を感じながら、軽やかな足取りで店を出た。
街灯に照らされた自分の吐息が、白く、優しく揺れていた。




