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路地裏晩餐  作者: 七詩
12/12

十品目 Der Mensch ist, was er isst.

ドイツ、フランクフルト。


冬の朝は重く、鉛色の空が街を押しつぶすように低い。一ノ瀬拓也は、現地法人の立て直しという重責を担い、その地に降り立った。



ドイツでの仕事は、想像以上に過酷だった。

言葉の壁以上に、合理性を突き詰める現地スタッフとの交渉。一ノ瀬は、かつてないほど「完璧なマシーン」であることを求められた。


昼食はいつも、オフィスのデスクで齧るカチカチのライ麦パン。

顎が疲れるほどの硬さ。酸味の強いピクルスと、厚切りのハム。それは合理性を形にしたような食事だった。噛み締めるたびに、一ノ瀬は自分の心が、このパンのように乾き、柔軟さを失っていくのを感じていた。


「……硬いな」


柔軟さを欠き、成果だけを求める日々。一ノ瀬の心は、異国の乾燥した空気の中で、少しずつひび割れていった。

そんな時、彼の脳裏をよぎるのは、決まってあの「しずく」の白米だった。

水分をたっぷり含み、甘やかに解ける白。あの柔らかな米に、銀鱈の脂を載せてかき込む。その記憶だけが、凍土のような異国の日常で、唯一の熱源だった。



そんな折、彼は現地で働く日本人女性──後に妻となる彼女と出会った。

商社の駐在員だった彼女もまた、張り詰めた日常の中で「日本の味」に飢えていた。


彼女は、小さなアパートでスープを振る舞ってくれた。

それは、現地のジャガイモと玉ねぎを煮込んだだけの、飾り気のないポタージュだった。



「せめて、温かいものを」



差し出されたボウルから立ち上る、柔らかな湯気。

一口啜った瞬間、一ノ瀬の喉の奥が震えた。


それは、出汁の文化からは遠い味のはずなのに、根底にある「誰かのために火を通した食べ物」という温もりが、あの日、隣の男から手渡された梅干しのおにぎりと重なったのだ。


海外赴任前の最後の夜に渡された「酸っぱい梅干し」。

その翌朝、肩に食い込む鞄の重さと纏い付く不安を嚙み潰すように空港で食べた、あの暴力的なまでの塩気と酸味。

あの「同志」が、言葉もなく自分に託した、日本という名の守り刀───


「……美味い」


溢れたのは、味への賛辞ではなかった。

張り詰めていた鎧が、温かいスープの一滴によって、音を立てて崩れ落ちた。

Der Mensch ist, was er isst.(人間は、その人が食べるものそのものである)

ドイツの哲学者フォイエルバッハの言葉を、彼はその時、生まれて初めて身体の芯で理解した。



「しずく」の白米と梅おにぎりそして、このスープの味は、仕事や生活が行き詰まるたび、決まって胸の奥を叩いた。



ドイツでの任期が終わり、さらに別の国を経由して八年。

日本に戻ることが決まった時、一ノ瀬が真っ先に去来してしまったのは、家族の住まいのことでも、新しい役職のことでもなかった。



(あの店は、まだあるだろうか)



(あの男は、今もあの席で、銀鱈を食っているだろうか)



八年という月日は、人の形を大きく変える。



一ノ瀬は父になり、かつての尖った鋭さは、家族を守るための包容力へと変化していた。



帰国後の初出勤の日。

一ノ瀬は、サヴィル・ロウで仕立てたスーツの襟を立て、八年ぶりに誰にも告げず、かつての路地裏へと足を踏み入れた。


煤けた藍色の暖簾が見えた瞬間、彼の胃が、八年分の空腹を訴えるように鳴った。


引き戸を開けると、使い込まれた揚げ油の香りと、出汁の優しい蒸気が視界を白く曇らせる。

八年前と何ら変わらない。


そして、その奥。



───いた。



そこには、自分と同じように、少しだけ背中が広くなった「彼」が座っていた。



一ノ瀬は、確信した。



この八年間、自分が求めていたのは、高級なフレンチでも、異国の珍味でもない。



この狭いカウンターで、名前も知らない男と肩を並べ、言葉を介さずに「美味い」という真実を共有する、あの至福の時間だったのだと。



「……おかえりなさい」



その小さな声を聞いた瞬間、一ノ瀬の八年間の旅は、ようやく本当の意味で終わった。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。


今日はクリスマスイブですね。プレゼントは貰えそうですか?貰えない方は一年間頑張った自分を甘やかして、ご褒美をあげて下さいね。

皆さんのクリスマスがいい日でありますように。

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