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路地裏晩餐  作者: 七詩
11/12

九品目 飢えたる者は食を甘しとす

───────────…


「しずく」の暖簾は、八年の月日を経てさらに色褪せ、今や深い藍色は灰色に近くなっていた。

周囲のビルは建て替えられ、馴染みの店も次々と姿を消した。だが、この路地裏の一角だけは、時間が止まったかのように、使い込まれた醤油の香りが漂っている。

早瀬仁は、細くなり艶が失われつつある髪を撫で、ゆっくりと引き戸を開けた。

三十代も後半に差し掛かり、責任ある立場を任されるようになった今、彼はかつてよりも少し重いビジネスバッグを抱えている。指には、穏やかな家庭を象徴するシンプルな銀の指輪が光っていた。

「いらっしゃい」

店主の声は少し掠れたが、包丁を握る手つきは健在だ。

早瀬は、いつもの席に座った。そこは八年前、あの「彼」と肩を並べていた場所だ。


八年前、つまり初めて二人が飯を共有してから約二年半後、一ノ瀬の海外赴任が決まり、この「聖域」での時間は途切れた。

最後の夜、二人はやはり言葉少なに、ただ熱い豚汁を啜った。連絡先は、最後まで交換しなかった。それが二人の、最も美しい誇りだったからだ。

彼がいなくなってからの八年、早瀬も結婚し、子供ができ、食卓は賑やかになった。家の食卓では妻が子供に野菜を食べさせようと奮闘し、賑やかで温かな喧騒が満ちている。家で食べる飯は温かく、幸せだ。父として、夫として、その「生活の味」を愛していることに嘘はない。

けれど守るべきものが増えるほどに、かつて隣にいた男と共に「ただの自分」に戻っていた感覚が、不意に胸の奥から浮かび上がる夜がある。



背後で戸が開く音がする。

この時間帯なら、仕事帰りの常連だろう。

早瀬はそう思い、視線を伏せたまま、湯呑みに手を伸ばす。

迷いのない足取り。

なぜか耳に残る、磨き抜かれた革靴の音。

早瀬の心臓が、期待に跳ねた。

隣の席に、誰かが腰を下ろす。

懐かしい、あの「質」を纏った空気。

横目で見たその男の横顔には、八年分の年輪が刻まれていた。より深く、より静かに。男の薬指にも、早瀬と同じような光があった。

二人は、どちらからともなく、小さく、本当に小さく頷いた。


変わらない味、変わらない音

「……白子の時期ですね」

男は、八年前と同じ低い声で呟いた。

早瀬は、胸の奥が熱くなるのを感じながら応えた。

「ええ。ですが今夜は、これが食べたくて」

二人の前に出されたのは、この店の隠れた名物『出汁巻き卵』と、炊き立ての『土鍋ごはん』。そして、十年前と変わらぬ『銀鱈の西京焼き』だった。

黄色い出汁巻きに箸を入れると、じゅわっ、と贅沢な出汁が溢れ出す。

口に運べば、優しい卵の甘みと、奥深い鰹の香りが鼻を抜ける。

「……あぁ」

二人の溜息が、重なった。

八年前と、何ら変わりない。

お互い、家族を持ち、守るべきものができた。異国の地で戦い、あるいはこの街で泥臭く生き抜いてきた。けれど、この一口を咀嚼している間だけは、あの頃の、ただ「飯」に救われていた二人に戻れる。

銀鱈の身を解し、白い米に乗せる。

琥珀色の脂が染みた米を、一気に口へ。

西京味噌の芳醇なコクが、八年という空白を、一瞬で溶かして繋いでいく。


二人は、多くを語らなかった。

妻がどうだとか、子供が何歳だとか、今の役職がどうだとか。そんなものは、この銀鱈の完璧な焼き加減の前では、余計な味付けに過ぎない。

ただ、隣で美味そうに食う奴がいる。

その咀嚼の音、喉を鳴らす音、茶を啜る仕草。

それだけで、互いがこの八年、誠実に、そして懸命に生きてきたことが痛いほど伝わってきた。

「……美味かったですね」

最後に茶を飲み干し、一ノ瀬が言った。

その顔には、八年前よりもさらに深い、慈愛のような微笑みが浮かんでいた。

「ええ。……最高でした」

早瀬が応えると、一ノ瀬は立ち上がり、コートを羽織った。

二人は店を出て、夜の冷気に包まれる。

「さて、帰るとしましょう。……待っている者がいますから」

男の言葉に、早瀬も微笑んで頷いた。

「私もです。……また、来週」

「ええ。また、来週」

八年前と同じ別れの挨拶。

けれど、その言葉には、八年前よりもずっと深い、人生という名のスパイスが効いていた。

別々の方向へ歩き出す二人の背中。

家庭へ、現実へ、それぞれの戦場へと戻っていく。

けれど、その背中は、美味しい飯を腹に収めた者特有の、揺るぎない力強さに満ちていた。

名前は言わない。連絡先は知らない。

それでも二人は、来週もまた、この路地裏で「最高の一口」を共鳴させる。


飯がある。

それだけで、人生は、こんなにも美しく、腹が減る。


「ごちそうさまでした」

遠ざかる二人の影を、煤けた藍色の暖簾が、優しく、いつまでも見守っていた。

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