九品目 飢えたる者は食を甘しとす
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「しずく」の暖簾は、八年の月日を経てさらに色褪せ、今や深い藍色は灰色に近くなっていた。
周囲のビルは建て替えられ、馴染みの店も次々と姿を消した。だが、この路地裏の一角だけは、時間が止まったかのように、使い込まれた醤油の香りが漂っている。
早瀬仁は、細くなり艶が失われつつある髪を撫で、ゆっくりと引き戸を開けた。
三十代も後半に差し掛かり、責任ある立場を任されるようになった今、彼はかつてよりも少し重いビジネスバッグを抱えている。指には、穏やかな家庭を象徴するシンプルな銀の指輪が光っていた。
「いらっしゃい」
店主の声は少し掠れたが、包丁を握る手つきは健在だ。
早瀬は、いつもの席に座った。そこは八年前、あの「彼」と肩を並べていた場所だ。
八年前、つまり初めて二人が飯を共有してから約二年半後、一ノ瀬の海外赴任が決まり、この「聖域」での時間は途切れた。
最後の夜、二人はやはり言葉少なに、ただ熱い豚汁を啜った。連絡先は、最後まで交換しなかった。それが二人の、最も美しい誇りだったからだ。
彼がいなくなってからの八年、早瀬も結婚し、子供ができ、食卓は賑やかになった。家の食卓では妻が子供に野菜を食べさせようと奮闘し、賑やかで温かな喧騒が満ちている。家で食べる飯は温かく、幸せだ。父として、夫として、その「生活の味」を愛していることに嘘はない。
けれど守るべきものが増えるほどに、かつて隣にいた男と共に「ただの自分」に戻っていた感覚が、不意に胸の奥から浮かび上がる夜がある。
背後で戸が開く音がする。
この時間帯なら、仕事帰りの常連だろう。
早瀬はそう思い、視線を伏せたまま、湯呑みに手を伸ばす。
迷いのない足取り。
なぜか耳に残る、磨き抜かれた革靴の音。
早瀬の心臓が、期待に跳ねた。
隣の席に、誰かが腰を下ろす。
懐かしい、あの「質」を纏った空気。
横目で見たその男の横顔には、八年分の年輪が刻まれていた。より深く、より静かに。男の薬指にも、早瀬と同じような光があった。
二人は、どちらからともなく、小さく、本当に小さく頷いた。
変わらない味、変わらない音
「……白子の時期ですね」
男は、八年前と同じ低い声で呟いた。
早瀬は、胸の奥が熱くなるのを感じながら応えた。
「ええ。ですが今夜は、これが食べたくて」
二人の前に出されたのは、この店の隠れた名物『出汁巻き卵』と、炊き立ての『土鍋ごはん』。そして、十年前と変わらぬ『銀鱈の西京焼き』だった。
黄色い出汁巻きに箸を入れると、じゅわっ、と贅沢な出汁が溢れ出す。
口に運べば、優しい卵の甘みと、奥深い鰹の香りが鼻を抜ける。
「……あぁ」
二人の溜息が、重なった。
八年前と、何ら変わりない。
お互い、家族を持ち、守るべきものができた。異国の地で戦い、あるいはこの街で泥臭く生き抜いてきた。けれど、この一口を咀嚼している間だけは、あの頃の、ただ「飯」に救われていた二人に戻れる。
銀鱈の身を解し、白い米に乗せる。
琥珀色の脂が染みた米を、一気に口へ。
西京味噌の芳醇なコクが、八年という空白を、一瞬で溶かして繋いでいく。
二人は、多くを語らなかった。
妻がどうだとか、子供が何歳だとか、今の役職がどうだとか。そんなものは、この銀鱈の完璧な焼き加減の前では、余計な味付けに過ぎない。
ただ、隣で美味そうに食う奴がいる。
その咀嚼の音、喉を鳴らす音、茶を啜る仕草。
それだけで、互いがこの八年、誠実に、そして懸命に生きてきたことが痛いほど伝わってきた。
「……美味かったですね」
最後に茶を飲み干し、一ノ瀬が言った。
その顔には、八年前よりもさらに深い、慈愛のような微笑みが浮かんでいた。
「ええ。……最高でした」
早瀬が応えると、一ノ瀬は立ち上がり、コートを羽織った。
二人は店を出て、夜の冷気に包まれる。
「さて、帰るとしましょう。……待っている者がいますから」
男の言葉に、早瀬も微笑んで頷いた。
「私もです。……また、来週」
「ええ。また、来週」
八年前と同じ別れの挨拶。
けれど、その言葉には、八年前よりもずっと深い、人生という名のスパイスが効いていた。
別々の方向へ歩き出す二人の背中。
家庭へ、現実へ、それぞれの戦場へと戻っていく。
けれど、その背中は、美味しい飯を腹に収めた者特有の、揺るぎない力強さに満ちていた。
名前は言わない。連絡先は知らない。
それでも二人は、来週もまた、この路地裏で「最高の一口」を共鳴させる。
飯がある。
それだけで、人生は、こんなにも美しく、腹が減る。
「ごちそうさまでした」
遠ざかる二人の影を、煤けた藍色の暖簾が、優しく、いつまでも見守っていた。




