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路地裏晩餐  作者: 七詩
10/12

八品目 銀鱈から銀鱈へ

十月も終盤、冷たい雨が街の色彩を奪い、家路を急ぐ人々の吐息が白く揺れ始めた。路地裏に揺れる藍色の暖簾は、一年前と変わらず少し煤けている。

だが、早瀬仁にとってその暖簾は、今や一週間の終わりに潜るべき「境界線」となっていた。ここを潜れば、肩書きも数字も関係ない。ただの、腹を空かせた一人の男に戻れる。

引き戸を開けると、いつもの香ばしい匂いが鼻を突いた。

早瀬は、眼鏡の曇りを拭いながら一番奥の席へと視線を向ける。

いつもの席。

そこには、一年前と同じように背筋を伸ばし、どこまでも透明なグラスに入った水を見つめる「彼」がいた。

一ノ瀬。その名を知ってからも、早瀬は一度も彼をそう呼んだことはない。それは今後も続くだろう。

早瀬が黙って隣の席に腰を下ろすと、男は視線だけをこちらに向け、微かに口角を上げた。一年前にはなかった微かな、けれど確かな親近感を湛えた笑みである。

「……そろそろ、一年ですね」

男の低い声が、店内の喧騒をすり抜けて届く。

早瀬は頷いた。

「ええ。あの時も、小雨の降る、湿った夜でした」

二人が今夜注文したのは、言うまでもない。一年前、この無言の連帯が始まるきっかけとなった一皿。


運ばれてきた瞬間、空気が揺れる。

一年前よりも、さらに肉厚に感じられる銀鱈の切り身。炭火の直火で炙られた皮目は、西京味噌の糖分がキャラメル状に焦げ、漆黒と琥珀の美しい斑模様を描いている。

その表面で、熱い脂が「パチ、パチ」と小さな産声を上げながら弾けていた。

早瀬は、その儀式を始めるべく、ゆっくりと割り箸を割った。パチン、と乾いた音が響く。

隣の男も、ほぼ同時に箸を取った。

銀鱈の身に、箸先を滑り込ませる。驚くほどしなやかで、蕩けてしまう。その反面、弾力が伝わるのも確かだ。

真っ白な身が大きな塊で剥がれると、そこから湯気と共に、海の旨味が凝縮された脂がじゅわっ、と溢れ出した。

結晶の一切れを、口に運ぶ。

舌の上に乗せた瞬間、体温で銀鱈の脂が発破した。

「…………っ」

これだ。

一年前、自分の世界を変えた味。

濃厚な西京味噌のコクが、銀鱈の暴力的なまでの甘みを包み込み、噛むほどに繊維一本一本から熟成された旨味が溢れ出す。喉を通り過ぎた後も、鼻から抜ける炭火の香ばしさと味噌の芳醇な余韻が、一年前の記憶を鮮烈に呼び覚ました。

隣を見れば、男もまた、目を閉じてその一口を慈しんでいた。

彼は一切れを半分に割り、大切に、大切に白米の上に乗せた。その指先の動きには、一年前のような硬さはなく、ただ「最高の飯」に対する純粋な敬意だけが宿っている。


「……やはり、これだ」

男が、最後の一口の銀鱈を惜しむように見つめながら呟いた。

早瀬も無言で頷き、新米をかき込む。

水分をたっぷり蓄えた一粒一粒の米が、銀鱈の脂を纏い、口の中で完璧な調和を奏でる。

二人の間に、無駄な会話はない。

ただ、咀嚼の音、微かな呼吸の音。そして、熱い味噌汁を啜る「ずず、」という音だけが、心地よいリズムとなって刻まれていく。

一年前、お互いを意識して背筋を伸ばしていた二人は、今やただ「同じ味に震える同志」として、この空間に深く根を張っていた。

その過程で、「隣で、今週も美味そうに飯を食っている」というその一点が、都会の荒波に揉まれる早瀬にとっての、確かな錨にもなっていた。


「私は、自分の名前さえ重荷に感じることがある」

男が、最後の一口を飲み込み、茶碗を置いて言った。

「ですが、ここであなたと並んでこの銀鱈を食う時だけは、私はただの『腹を空かせた人間』になれる。……それだけで、救われる夜がある」

それは、名前も仕事も語らない二人だからこそ許される、最高に贅沢な独白だった。早瀬もまた、自分の茶碗に残った最後の一粒を大切に口に運んだ。


「ごちそうさま」

二人の声が重なる。

身体の底には、銀鱈の脂と西京味噌の熱が確かなエネルギーとなって宿っていた。

店を出ると、雨は相変わらず静かに降り続いていた。

一年前と同じ光景。だが、一年前よりもずっと、二人の距離は「飯」という共通言語で固く結ばれていた。

「お先に。……また、来週」

男が、紺色の傘を開きながら言った。その言葉には、これからもこの場所が二人の「聖域」であり続けるという、静かな誓いが込められていた。

「ええ。……次は、何が美味い時期ですかね」

早瀬が問いかけると、男は雨空を仰ぎ、満足げに微笑んだ。

「店主が、次は立派な鮪が入ると言っていました。」

「それは楽しみだ」

二人は、どちらからともなく小さく笑い合い、別々の方向へと歩き出す。

手も握らない。連絡先も交換しない。

けれど、雨の匂いの中に混じる「西京味噌の甘い余韻」が、二人をどんな絆よりも強く繋いでいた。

早瀬は、濡れたアスファルトを蹴って、足早に駅へと向かう、二周目の冬。

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