一品目 銀鱈と同士
※本作はAI生成をベースに加筆・修正を加えた作品です。詳しくは自己紹介文をお読み下さい。
オフィスビルの冷たい空調にさらされ、乾ききった一日が終わる。
早瀬仁が地下鉄の階段を上がり、地上に出た瞬間、肺に入ってきたのは湿り気を帯びた都会の夜の匂いだった。
雑踏を抜け、街灯が心細くなる路地へ入る。そこには、煤けた藍色の暖簾が、家路を急ぐ人々を拒むように、あるいは招くようにひっそりと揺れている。
定食屋「しずく」。
引き戸を開けると、使い込まれた揚げ油の香ばしい匂いと、出汁の優しい蒸気が眼鏡を薄く曇らせた。
「いらっしゃい」
店主の低く短い声。カウンターは飴色に磨かれ、長年の煮炊きで染み付いた美味い店の匂いが充満している。
早瀬は、一番奥の席へ視線を向けた。
いた。
一週間前、そしてその前も。同じ時間にこの席に座っている、仕立ての良いスーツを纏った男。年齢は自分より少し上だろうか。彫りの深い横顔は、一切の無駄を削ぎ落とした彫刻のようで、この庶民的な空間にありながら、不思議と静謐な「個」を確立している。
早瀬は、彼から二つ空けた席に腰を下ろした。
今宵、二人の前に並んだのは「銀鱈の西京焼き」だった。
運ばれてきた瞬間、空気が揺れる。
炭火の直火で炙られた皮目は、熱い脂を弾かせながら「パチ、パチ」と小さな産声を上げている。西京味噌の芳醇な香りが、焦げた醤油のような香ばしさと混じり合い、脳の奥を直接刺激した。
早瀬は、その儀式を始めるべく、ゆっくりと割り箸を割った。パチン、と乾いた音が響く。
隣の男も、ほぼ同時に箸を取った。
銀鱈の身に、箸先を滑り込ませる。驚くほどしなやかに、けれど確かな弾力を持って、真っ白な身が大きな塊で剥がれた。味噌の琥珀色が、雪のような身の白さを引き立てている。
その結晶を口に運ぶ。途端、体温で銀鱈の脂が爆発した。
「……っ」
舌の上で、濃厚な甘みが、西京味噌の奥深いコクを連れて滑り落ちていく。噛み締めるたびに、繊維の一本一本から凝縮された海の旨味が溢れ出し、喉の奥へと消えていく。
横目で見た男の喉が、同じように「ゴクリ」と動いた。
彼は目を閉じ、まるでオーケストラの演奏を聴くかのように、その一口を慈しんでいた。
白米をかきこむ。
一粒一粒が熱を帯び、水分を蓄えた米。それが銀鱈の脂を纏い、口の中で完璧な調和を奏でる。二人の間に会話はない。ただ、咀嚼の音と、微かな呼吸の音。そして、熱い味噌汁を啜る「ずず、」という音だけが、心地よいリズムとなって刻まれていく。
触れ合わない、けれど重なる時間…
中盤、早瀬が「ほうれん草のお浸し」に手を伸ばした時だった。
冷えた器。鰹節の香りが鼻を抜ける。
「……今日は、良い鰹ですね」
隣の男が、独り言のように落とした。
その声は、低いチェロの音色のように店内の空気に溶けた。彼は自分の皿にある、肉厚な椎茸の含め煮を見つめている。
早瀬は、熱い茶を一口飲み、その余韻を楽しみながら応えた。
「ええ。出汁が、いつもより深く感じます。疲れに、よく効く」
「同感です」
男はそれだけ言うと、また元の「美味しいものを食べるためだけの個」に戻った。
名前を尋ねるような無作法は、ここには存在しない。ただ、この銀鱈の完璧な焼き加減を分かち合える「誰か」が隣にいる。それだけで、一人で食べる食事よりも、数倍も味が鮮明になるような気がした。
余韻という名の、約束。
それが最後の一口。
早瀬は、こんがりと焼けた皮の部分を、白米の上に載せた。皮と身の間の、もっとも脂が乗った禁断の部位。それを一気に口へ放り込む。
噛むたびに、炭火の香ばしさと、味噌の甘みが、鼻から抜けていく。
あぁ、終わってしまう。
この、多幸感に満ちた時間が。
隣の男も、最後の一口を飲み込み、静かに箸を置いた。
彼は、真っ白なハンカチで口元を拭い、一息つく。その満足げな、どこか少年のように純粋な眼差しが、一瞬だけ早瀬と重なった。
「ごちそうさま」
二人の声が、重なる。
店を出ると、外は小雨が降り始めていた。
男は自身の紺色の傘を開かず、雨の匂いを肺いっぱいに吸い込んでいる。
「お先に」
男は、一度だけ短く会釈をした。その所作には、深入りを拒むような、けれど確かに同じ食卓を囲んだ者への敬意が込められていた。
「ええ、また」
早瀬もまた、名前を呼ばないまま、その背中を見送った。
紺色の傘が黒い傘の列に消えていく、名も知らぬ背広の男。
明日の朝になれば、また互いに顔も知らない他人として、巨大なビルの中で戦うのだろう。
けれど、この「しずく」の暖簾を潜る時だけは。
銀鱈の脂を共に慈しむ、最上の同志に戻れる。
早瀬は、口の中に残る西京味噌の甘い余韻を噛み締めながら、雨の路地をゆっくりと歩き出した。
次は、何の旬が来るだろうか。




