3.ロウェル領の辺境伯
高所での恐怖も相まって彼の肩にギュっとしがみつくと、なぜか男は動きを止めてしまった。何も言わずに固まっているのでどうしたものかと不安になりかけた時、使用人をかき分けて眼鏡の男性が出てきた。
「あぁもう、怖がってるじゃないですか、今すぐ下ろしてください。そっとですよ」
灰色の髪を撫でつけ、上等な執事服を着た彼は、呆れたような顔で男に苦言を呈する。
「少しは自分の体格を自覚したらどうなんですか。初対面の女性を名乗りもせずにいきなり担ぎ上げるなんてバカの所業ですよ。バカ」
「お前な、仮にも領主をバカ呼ばわりするな」
「失礼、事実陳列罪でしたね」
「おいこら」
悪態をつきながらもそっと下ろして貰えたので、地に足を付ける。まだバクバクと心臓が暴れているリセラの前に立ち、黒髪の男はしっかりとした声で告げた。
「名乗りもせずにすまない、俺はユーリアルジュ・フォン・ロウェルと言う。1年ほど前から、亡き先代の跡を継ぎこのロウェル領を治めている。気軽にユーリと呼んでくれ。こっちは幼なじみで家令を勤めているアッシュ、口は悪いが優秀な奴だ。よろしくな」
「よろしくお願いします」
「あ……」
こちらからも名乗らなければ失礼だ。だが身代わりで来たという事実が喉につかえ、言葉が出てこなくなる。
――帰ってきたらタダじゃおかないんだから!
ミーツェはそういって自分を追い出した。そしてどうやらこの人たちは『死神姫』の噂も容姿も知らないらしい。社交界に顔を出したことが無いと聞いているからそのせいだろうか? ミーツェに成りすますにはこの上ない状況と言える。
(でも騙すなんて……どうしよう、なんて名乗ればいいの……?)
口を開いては声が出ず、閉じては焦ってとどうしようもない。そんな様子を見かねたのか、気を効かせたアッシュが助け船を出してくれた。
「長旅でお疲れなのでしょう、城での受け入れを整えさせますよ」
「あ……りがとう、ございます」
ホッとして胸を撫でおろす。名乗るのはいったん保留にしても、せめて礼儀は尽くそう。そう考えたリセラは目の前の男に向き直った。震える声をいなして必死に言う。
「ユーリアルジュ様。こ、これからどうぞ、よろしくお願い……します……」
確かミーツェはこういうレッスンを受けていたはず……と、見よう見まねでドレスの裾をつまみ膝を曲げてみる。ところが合わないヒールの靴でよろめいてしまい、やらなければ良かったと後悔する。
「姫、」
情けなさと恥ずかしさで俯いていると、膝をついたユーリがこちらの手を取る。彼はこちらを真剣な眼差しで見上げるとこう伝えてきた。
「これだけは言っておく、知らない土地に来て不安だろうが、俺とこのロウェル領の名にかけて決して悪いようにはしない」
ここで彼は愛しい者でも見るように目を細めた。感情のたくさん込められた声が届く。
「来てくれてありがとう、本当に嬉しいんだ」
「……!」
今までお礼を言われた事のないリセラは、鼓動がトクンと跳ねるのを感じる。だがすぐにハッとすると慌てて自分を叱責した。
(何を嬉しくなってるの、私はこの人たちを騙してるのに)
ここで再び家令のアッシュが口を挟んでくる。
「よく知らない男の元へ来て不安でしょう。ご安心ください、しばらくは婚約者という形でロウェル領に滞在し、彼の人と成りを確かめて頂きます。姫様がご納得できるようでしたらご成婚という形でいかがですか?」
「あ……はい、わかりました」
意見を求められることに慣れていないリセラはすぐに頷く。自分に通される話は全て決定事項なのだという先入観が彼女の中にはあった。
話が一段落したのを見計らい、騎士のような恰好をした男がユーリにそっと耳打ちをした。立ち上がった領主は顔をしかめる。
「ああ、そうだった。姫、入れ替わりになって悪いが、俺はこれから出なければいけない。領境で凶暴な魔獣が出たらしい」
「魔獣……」
魔獣――このロウェル領には、隣国との境に凶暴化した獣が湧く魔の森があり、国内へそれらを入れない為に辺境伯はここで防衛をしている。と、聞いたことがある。剣を握ったこともないリセラには想像もつかないが、きっとひりつくような命のやりとりをするのだろう。
「見回りも含めて1週間ほどで戻る、それまで城でのんびりしていてくれ」
「あ……」
立ち上がったユーリが横をすり抜けようとした時、リセラは無意識の内に彼の服の裾を掴んで引き留めていた。そのままひとさし指で天から下がる『金の糸』を絡め取り、ユーリの『糸』の中に混ぜ合わせる。
「ん?」
「!」
どうした? と、柔らかく目線だけで問われて焦る。何か不自然にならないような言葉を継がなければ、ええと……。
「い、いってらっしゃいませ。えっと……旦那様?」