18.湖畔の誓い
「坊ちゃんはやめてくれ……元気だったか?」
「おかげさまで。私ら夫婦は奥様のお世話を引き続きさせて頂いております」
どうやら、元使用人らしい二人はニコニコとほほ笑みながらボトルを差し出した。
「レモネードはいかがです? 庭で採れたレモンを使用しておりますのよ」
グラスに注いだ飲み物は甘酸っぱく爽やかで、体の中を爽やかに通り抜けていった。とても美味しいと礼を言うと、夫妻は「とんでもない」と首を振る。
「実はうちの娘から話を聞いていましてね、こちらこそ若奥様には一度お礼を申し上げたいと思っていたんですよ」
「私共の娘は城で勤めている女中なんです。リセラ様が来てからというものの、城の中の雰囲気がとても良くなったと嬉しそうな便りをくれますよ」
その言葉にピクリと反応したリセラは動きを止める。夫妻は満面の笑みでこう続けた。
「そうですそうです、仲の悪かった騎士たちとの仲を取り持ってくれたり、どんなに地味な仕事でもきちんと見て褒めてくれるから“大好き”だって」
これからもよろしくお願いしますと、頭を下げて戻っていく二人を、リセラは黙って見送った。その隣に立ち、ユーリはしっかりとした声で言う。
「なぁリセ、お前は能力が使えない自分には価値がないと思っているようだがそんなことはない。みんなリセラという人物の優しさに触れて、好いてくれてるんだ」
「……」
リセラはギュッと胸元を押さえて俯いてしまう。それを引き上げるようにユーリは肩を掴んで自分の方へ向かせた。
「自分で言ってたよな? 『親切には親切が返ってくる』って。それは愛情も一緒なんじゃないか? リセがみんなを大好きな分、みんな能力なんか関係なくお前が大好きなんだ」
真剣な顔をして覗き込まれる。その瞳は青く色を増して本当の宝石のようだ。
「どうしてそこまで自己犠牲に走る? 頼むから俺たちが大切に思うリセをお前自身も大切にしてくれ。――リセラは愛情を受け取るに値する人物なんだから」
金無垢の目が大きく見開かれる。水辺からの涼しい風が二人の白と黒の髪をかき乱していった。やがて視線を落としたリセラは戸惑ったように肩に置かれた手を握り返すと、震えながらぽつりぽつりと話し始める。
「あ、あの、どういったらいいか。私が一人でずっと抱えてる感情、ぐちゃぐちゃで……」
「焦らなくていい、ここにはお前を害する者はいない」
どこまでも優しい声は力強さに変化し、感じている不安を全て包み込んでくれた。
「何を言おうとも、どれだけ汚い感情を打ち明けようと俺は受け止める。信じてくれ」
その言葉にそっと目を伏せた手繰り姫は、長い沈黙の後、どこか自分を嗤うように哀しい笑みをそっと浮かべた。
「……。『親切には親切が返ってくる』。元々はそれ、そう思いたかった私の持論だったんです」
「持論?」
「はい、そうだったら良いのになって。だけど、実際は……」
彼を掴む手にわずかに力が籠もる。視線は上げないままに、その語調は強さを増していった。
「何度も、何度も、祈ったんです。叩いてくる母も、見て見ぬふりをする父も、蔑む妹も、あざ笑うメイドたちも……私から愛情を向ければ、いつか返して貰える日がきっと来るんじゃないかって」
それは幼いリセラが夢見ていたことだった。笑顔で尽くしてさえいれば、いつか本当に愛して貰える日がくるのではないかと。……実際には愛情を向けても返ってきたのは、暴力と蔑んだ目ばかりだったが。
「リセ、それは――」
「でもあれはっ!!」
ほとんど叫ぶようにかぶせたリセラは、ようやく顔を上げた。引きつった笑みを浮かべ、青ざめながら問いかける。
「あれは……私の家族がおかしかったんですよね?」
裏返る声にはまだ迷いがにじみ出ていた。
畏れ、罪悪感……そういった綺麗とは言えない感情が内側でぐちゃぐちゃになる。それでも全てをさらけ出す覚悟を決めたリセラは勇気を振り絞ってそれを腹の底から押し出した。
「血を分けた家族なのに、要らないって言われたのは、私が人として欠落してるわけじゃない……っ、そうでしょう!?」
自分に言い聞かせるように叫んだ言葉が心をズタズタに引き裂いていく。怒りより何より、どうしようもなく哀しみが強かった。なぜ普通に愛して貰えなかったのか。なぜ普通の家族の一員となれなかったのか。
一度流れ始めた感情は止まらない。堰を切ってあふれ出す気持ちが目に熱くにじみ出し、悲痛な声は湖畔を通り抜けていく。
これは過去との決別だ。ふと、自分をまっすぐに見つめる目と視線が合う。少しも目を逸らすことない、空とも湖とも違う青色にすがりたくて、リセラは手を伸ばした。
「そうだと言って、おねがいだから……」
とうに諦めてしまっていた動きだった。それでも、心のどこかでは望んでいた。いつか、この手を取って引き上げてくれる誰かが――、
痛々しいほど剥き出しの感情が、力強く引き寄せられ抱きしめられる。
「ああ。お前は何も悪くない。どこも欠けてなんか居ない」




