10.途切れる糸
(嬉しい、温かい、この人と、このお城が私は大好き。この能力があれば、一生懸命尽くせばお傍に置いて貰える。がんばらなきゃ)
リセラが苦しそうに身じろぎしたのを機に二人はいったん離れる。ぷはっと不慣れな様子で息継ぎをする彼女を見やり、ユーリはそっと尋ねた。
「……大丈夫か?」
「ふぁ、なんだかビリビリします」
潤んだ瞳で唇に触れる様に、男はグッと詰まった。全力で顔を背け何やらブツブツと呟く。
「我慢、結婚まで我慢……俺は意思の強い男だ……」
「?」
このまっさらな天使にどこまで手を出して良いものか、ユーリは日々悩む事になるのだった。
***
「そういえば、あれがロウェル領に行ってそろそろ経つわね。何か知らせはないの?」
時を同じくしてディリング領。リセラの実家である屋敷の居間で、夢中になって爪を磨いていたミーツェスカはふと思い出したように言った。お茶を楽しんでいた両親は一瞬何のことかと首を傾げ、存在感のない上の娘を思い出しケラケラと笑いだした。
「あらやだ、そういえばそうだったわねぇ。案外気に入られたんじゃなくて?」
「いやいや、それはあり得ない。きっとロウェル伯は一杯食わされたのに気づいたが、恥ずかしくて言い出せずにいるのだろう」
嫁いできた令嬢を追い返すなんて、世間から後ろ指をさされてもおかしくない。だからこそディリング伯は文面の言い回しに小細工をしてまでリセラを押し付けたのだ。後から何を言われてもこちらに落ち度はない。証拠の書簡も残っている。
「ふふふ……本当にミーツェは上手いことやってくれたものだ」
「でしょう? あんな役立たずでも利用価値はあるものね」
その時、使用人の一人が紙の束を手に入ってきた。伯爵の側によると声をかける。
「旦那様、今月の嘆願書と資金援助の申し出です。確認をお願いしたいのですが」
ディリング領は大した資源もない平凡な土地だ。だが、不思議と十年ほど前から幸運が重なり急激に金回りがよくなり始めた。ここ最近はそれを元手に貸付や投資業を行う事で領地経営をしている。持ってきたのはそれらの書類のようだ。
「どれ、見せてみろ」
大仰に受け取った領主は、パラパラと適当にめくって一瞥するとすぐにそれを投げ返した。
「いいだろう、全て通しておけ」
「はぁ……ですが、少し危うい物もあるように見受けられましたが……」
「馬鹿者! ワシの心眼を疑うのか!?」
一括した領主は黙り込む使用人にフフンと口の端を上げる。
急激に財を成したティリング家を疑問視する者もいるが、全ては領主である自分の才覚がなせるものだ。そんな自負を抱きながら、領主は自信たっぷりにふんぞり返った。
「思い出せ、これまでもワシが選んだ事業は全て大当たりしてきただろう。何も問題はない」
「は、はは……そうですよね! あの死神娘も居なくなったことですし、この家はますます安泰ですね!」
今回の案件は非常にリスクの高い投資に見えなくもないが、いつものように大丈夫だろう。儲かればそれだけ自分の懐にくすねる分も増える。そんな算段をした使用人は歪んだ笑みを浮かべ手続きをするために出ていった。ミーツェはそれを見計らい、父親にすり寄って首に抱き着いた。
「ねぇお父さまぁ、最近都で流行りのドレスデザイナーが居るそうなの。一度ここに呼んで仕立てて欲しいな。ミーツェのお願い!」
「おぉいいぞいいぞ。美しい令嬢にふさわしい衣装を与えるのも親としての責務だからな」
「やった! アクセサリーもいいでしょ?」
無遠慮なおねだりだったが、母親も娘を引き寄せてその頬を撫でる。
「もちろんですよ、あの出来損ないならともかくミーツェはいつも綺麗にしていなくちゃ。そろそろ殿下主催のパーティーも増えてくるでしょうし」
「そうだな、アレならともかくな」
愉快そうに笑い合うディリング家だったが、その時、伯爵に結び付けられていた金の糸がふつり、と切れた。誰にも見えないそれは空中に霧散して消えていく。
「もし、どこかのパーティーでおねえさまに会ったらどうしよう? うふふ、幸せそうだと良いんだけどぉ」
「ねぇあなた、わたくしもドレスを新調したいのだけど――」
「おぉ、好きなだけ買うがいい」
今までさんざん足蹴にしてきた長女が幸運を手繰り寄せてくれていたことなど露知らず、談笑は続く……。
***
この城に居てもいいのだと気づいたその次の日から、リセラは本格的に花嫁修業を始めた。
「……はい、正解です。ここ数日でだいぶ読み書きが上達しましたね」
「ありがとう、あなたの教え方が上手なおかげだわ」
ただし、その内容は文字の読み書きや計算などの一般常識からだった。日当たりのよい書斎でアッシュに教えて貰いながら、たどたどしく自分の名前を書く。そこにお茶を運んできたアンナが覗き込みながら口を挟んだ。
「姫様、アッシュ君の教え方は厳しくないですか? 頭はたかれたりしてませんか?」
「あれはお前が居眠りするからだ、リセラ様は至って真面目に受けて下さってるから心配ない」
「あーっ、それはご内密にぃ! 言わないでよぉ」




