幸せのスパイスクッキー(2)
ソフィーアは夢を見ていた。クッキーよりも甘ったるい夢でこのまま目覚めたくもないぐらいだ。
夢の中では田舎の修道院から王都に戻り、婚約者とワルツを踊っていた。
「ソフィーア、綺麗だよ。もっと笑顔で踊って」
婚約者にリードされ、ソフィーアは軽やかにステップを踏んだ。
「俺が一生君を幸せにするよ。ああ、愛してる。ソフィーアを愛している」
「本当? 約束してくれる?」
「ああ。ソフィーア。俺と幸せになろう!」
そこで夢は終わった。目覚めてしまった。
ソフィーアはどこかのベッドの上にいた。大きな部屋にはベッドが六つほどあり、全部埋まっている。
ソフィーアは窓の外を確認した。まだ昼間だが、修道院の建物も見えた。どうやら菓子工房から施療院に運ばれたらしい。
施療院は修道院が持っている医療施設だ。一般的の病院に入れない患者をシスターや修道士が面倒を見る場所で、基本的に料金もかからない。この場所に一応シスターのソフィーアがいるのも恥ずかしい。他のベッドには明らかに貧乏人と思われる女達が使っていたから。
しかし女達は優しくソフィーアが目覚めるとすぐにシスターを呼んでくれた。
その間、ソフィーアはため息が出てきた。あの甘ったるい夢は全て現実と違うから。
実際は婚約者は娼婦と駆け落ちし、婚約破棄された。悪い噂もたち、その後のソフィーアの縁談は全て失敗に終わった事も思い出し、さらに苦いため息が出てしまう。
本当は実家にいたかった。珍しい存在とはいえ、嫁ぎ遅れた令嬢が実家にいるケースはあった。
それでも世間体を気にした父の修道院に行くことを命じられた。一ヶ月前の事だ。
ソフィーアは泣いて抗ったが、この時代は父親の権威が絶対だ。逃げられる事もなく、全く希望していない修道院生活が始まり、挙句倒れてしまった。
「ソフィーアか。私が君の担当のレーネという」
そんな事を考えていたら、目の前に小柄なシスターが立っていた。
レーネというと、あの噂の聖女だろうか。ソフィーアは上半身だけベッドから起き上がり、彼女の目を見つめた。
ダサいメガネをかけていたが、肌は異様に綺麗だ。おそらく年は二十歳ぐらだが、もしかしたら、もっと歳上の可能性もある。口調は落ち着き男ぽかった。姿勢も決して良くないが、白い修道着は板につき、頭は悪くはなさそう。それに微かにハーブの匂いもし、それがソフィーアにとっては心地よかった。
「まあ、詳しくは明日話そう。脈や身体はさほど異常はない。おそらく過労と精神的な問題で、休息すればよくなるだろう」
「ほ、本当? どこか悪くないの?」
「ああ」
口調は女っぽくはないが、頷くレーネの目は優しく、ソフィーアの目も潤み始めた。
思えばこの修道院に来て初めて誰かに優しくして貰ったような……。
テクラと比べてると、余計にレーネは優しく見えてしまった。ダサいメガネの冴えないルックスのレーネなのに。それぐらいソフィーアのメンタルは弱っていたのかもしれない。
「あと、これは私が作った特製のハーブポプリだ。不安や緊張がある時に使うといいだろう。枕元に置いておく」
「あ、ありがとう」
「いや、どうって事ない。ゆっくりお休み」
レーネはそう言うと、病室から去って行った。
レーネから貰ったポプリはとても良い香りだった。ラベンダー、カモミール、オレンジの皮などのブレンドされているようだが、確かに匂いを嗅いでいると、心が安らいできた。
あの夢も忘れそうになる。重い雲のような無気力感も少しは紛れていくような。
「いい匂いね……」
ポプリの匂いを嗅いでいるだけで眠くなってきた。瞼が重くなり、再び夢の中へ。
今度は甘ったるい夢は見なかった。代わりに何処かの牧場で仔羊や子山羊と走りまわっている夢を見た。
子羊も子山羊も可愛く、もふもふな毛並みを触るだけで楽しい。夢の中とはいえ、毛並みの感触はリアルで楽しい夢だった。
この夢がずっと続けばいいな。
ソフィーアはそう願ってしまうぐらいだった。少なくとも、元婚約者の甘ったるい夢を見るよりは、こっちの方がずっと良い。