風邪の噂とエルダーフラワー(4)
ロミーは村の女神像へ向かって歩いていた。その顔は強張り、決して楽しそうではなかった。
あのラウラ先生を見た後、母からこんな噂を聞いた。「女神像に祈ったら、ロミーの風邪が治った」という。母からは女神を模ったお守りも見せられた。一部の村人ではこのお守りもブームらしく、母は興奮気味に語っていた。
だったらロミーへの噂も消えるかもしれない。そう考えた。藁をも掴む思いだ。ロミーは早歩きで村の湖へ行き、女神像の前に立つ。
女神を模った石の塊だ。当然のように一ミリも動かなかったが、慈悲深い表情を浮かべ、辺りは静謐な空気も漂う。湖の周辺は誰もいない。木々のざわめきや小鳥の鳴き声は聞こえるが、それ以外は静かなものだった。
半信半疑ではあった。村の農民達はこの女神に豊作を祈っている。実際、豊作になった年もあったが、ロミーが生まれる前は飢饉が続いた事もあったらしい。おかげで村の年寄り達は修道院に好意的で、改宗してしまった者も少なくはなかったが。
それでも母の言う事が本当なら祈ってみる価値はあるかもしれない。ロミーの小さな頭ではこの噂が消える光景が全く思いつかない。女神に祈らないとダメかもしれない。そんな思考も出てきた。
ロミーはゴクっと唾を飲む。頬は強張り、まだ十歳の子供なのにほうれい線あたりがヒクヒクとしていたが、これで嫌な噂から解放されるのなら……。
ロミーはその場に跪き、女神像に向かって祈った。
「どうか、この噂から守ってください! というか噂が消えますように。変な感染症対策も無くなりますように。お願いします……!」
目を固く瞑り、熱心に願い事を口にした。気づくと三十分以上も女神像の前で祈っていた。それくらいロミーは必死だった。
顔だとは大人びているロミーだったが、中身は子供だ。狭い田舎で悪い噂をたてられたら、生きていけないような恐怖心が消えない。確かにティアナだけは味方だったが、大人達の裏表ある行動や見せかけだけの感染症対策にウンザリしていた。とっくに失望していたが、永遠にこのまま噂が続き、感染症対策に付き合わされると思うと、身体が震えてきた。
「まあ、これぐらい祈ったら、いいかな?」
祈り終えたロミーは、立ち上がり、女神像を見上げた時だった。
慈悲深い表情の女神像の後から、なにか黒い影が見えた。
「え!?」
一瞬の出来事だった。黒い影はロミーの首を絞め、その場で倒れてしまう。
黒い影に見えていたものは、ロミーが想像もしていない存在だった。黒い羽を生やし、一瞬は大きな虫のようにも見えたが、違う。
『お前さんの命は貰ったよ。いや、お前の命だけでなく、子孫代々呪っってやるよ!』
首を絞められ苦しいが、その存在が吐き捨ている言葉はかろうじて聞こえた。
『呪い殺してやるよ。我々は人間が憎いから。いくら女神像に祈っても答えなんかないよ!』
消えかける意識の中、その存在が何かわかってきた。
悪魔だ。
絵本や御伽話の中でしか知らない存在だったが、今ははっきりと感じる。絞められた首から強い悪意も。いや、殺意なのかもしれない。
もしかして悪魔が女神のフリをしていたのだろうか。分からないが、今は殺されそうになっているのは確か。大声で助けを呼びたいが、意識が消えかけて、何の抵抗もできない。
村では詐欺被害もあった。被害者を責める声も多かったが、こうして突然殺されかけると、一体どう抵抗したら分からない。動けない。声も出ない。ただただ苦しく、意識も消えかけそう。
もう死ぬかもしれない。なぜかティアナの顔が浮かぶ。ティアナだけが味方だった。死ぬ前にティアナだけは会いたいのに……。
「テ、ティアナ……」
どうにか力を振り絞り、声に出した瞬間だった。
「ロミー!」
ティアナがいた。ティアナだけでなく、黒い修道着姿の男とレーネもいるのが見えた。
修道着の男は、おそらく修道士だろう。聖典の言葉を引用して吠えていたが、なぜか悪魔は怖がり、ロミーの前からあっけなく去って行ってしまった。
ロミーがティアナに助けられ、どうにか起き上がったが、膝のは切り傷、首には青あざができていた。ファンタジー風の存在だとおも思い込んでいた悪魔だったが、本物だった?
「ロミー、よかった! 一人で湖の方に行くのを見て、嫌な予感したの。ちょうど修道士とシスターに会ったから、一緒に来て貰ったんだけど」
ティアナ達がいる理由はわかったが……。とにかく首や膝が痛い。また意識が消えそうだった。
「安易に女神像に祈るのは危険だぞ。悪魔を呼んでしまったかもそれない。ま、悪魔祓いは修道院のプロに頼んで正解だったな」
消えかける意識の中、レーネの声だけ聞こえた。男っぽい変な話し方だった。耳について仕方ないが、ロミーが助かった事は確からしい。




