曇り硝子の向こうの顔
このアパートに引っ越して5年目になるが、同居人がいるらしいことに気づいたのはつい最近からだ。
1DKの部屋で、玄関から入るとまずダイニングキッチンがある。
奥の居間とキッチンの間に曇り硝子の嵌められた引き戸があり、今の季節は冷房が逃げないように、それをピッシリと閉める。
後ろ手にしっかりと閉めた引き戸を振り向いてみる。
曇り硝子のむこうに誰かがいるのがぼんやりと見えている。
白い影だ。蹲っているのか、顔らしきものが私の足元のあたりにある。
女性のように思える。長い黒髪のように見える。予め断っておくがペットとして飼っている白いフェレットとかそんなのではない。
初めは恐怖を覚え、引っ越しも考えたのだが、意外と慣れるものだ。あるいは一人暮らしの寂しさに気が狂ってしまったのかもしれない。影がそこにあるだけでべつに何もしてこないことを悟ると、私はその存在の同居を許すようになっていた。
仕事帰りで疲れていた。
私は同じ高さにしゃがみ込むと、彼女らしきものに初めて話しかけてみた。
「毎日暑いですね」
すると白い影が反応した。
私のことばを肯定するように、ウンウンというように、うなずいた。
私は聞いてみた。
「あなたは誰ですか?」
反応がない。白い影は動かなかった。
聞かれたくないことはあるのだろうと思い、私は話題を変えた。
「私はコミュ障で人間が苦手です。だからあなたが人間だったら出ていってほしい。でもそうでないなら、むしろ歓迎します。いてくれてもいいですよ。ただし何も危害を加えないのなら。私も同居人がいてくれたほうが寂しくない」
曇り硝子の向こうの白い影が首を傾げたように見えた。子犬が首を傾げているようで、可愛いと思った。
「あなたの顔が見たいな」
私はにっこり微笑んで、言った。
「もう少し硝子に近づいてみてくれませんか? 遠いとぼやけて見えない」
すると顔が近づいてきた。
曇り硝子にくっつくほどに近づくと、その顔がはっきりと見えた。
やはり女性だった。真っ白な、おしろいを塗ったような顔に、苦痛を訴えるような青黒い眼球が私の姿を探すようにぐるぐると動いている。紫色の唇にはうっすらと血のようなものが滲んでいた。
思わず後ずさり、尻餅をついた。思っていたよりリアルにそういうものだったことに動揺してしまった。後悔していた。話しかけてしまったことを。優しくしてしまったことを。
「そっち……行ってもいい?」
喉の奥から振り絞るような、か細い声が引き戸の向こうから聞こえた。
「……暑いの。苦しいの。燃えるみたいに、苦しいの」
ごめんなさい! ごめんなさい! 心でそう叫びながら、私の口はお経を唱えはじめていた。小学生の頃に暗誦した般若心経だ。
「はんにゃーはーらー、みーたーじ、しょーけんごー、こうぼうだいしー、むーろうしー、やくむーろうしー、じんむーくーしゅうめつどー、むーちー、やくむー、とくいー、むー、しょーとっこー、ぼーだいさったーえー……」
何の効果もなかった。
暗記したのが小学校5年生の時だったので間違っているのかもしれない。
あるいは般若心経に除霊の効果はないのかもしれない。
引き戸がゆっくりと開きはじめたので、私は全力でそれを阻止した。開けられないよう、押さえたのだが、私の握力は20kgを下回る。阻止できない。
引き戸が、勢いよく、開かれた。
いっぱいいた。十数体の幽霊が、顔をぱあっと輝かせ、居間の中へ押し寄せてきた。
「ありがとう! ありがとう!」
「苦しかったぁ……!」
色んなひとがいた。若い女性も、おばあさんも、中年男性も、小学生ぐらいの男の子も、みんなが白い幽霊服を着て、飛び出した眼球をぎゅるぎゅるさせながら、嬉しそうに顔を歪めて、私の生活スペースに入ってきた。しかし何かに気づいたように、全員の動きがぴたりと止まる。
「寒い!」
「寒すぎる!」
「こんなのヒトの住む環境じゃない!」
みんなが天井に近いところに設置されたエアコンを指さして、恐怖の表情を浮かべると、アワアワと口を震わせて、退散していった。
はー……と、私は深く息を吐くと、心の中で謝った。
ごめんなさい。やっぱり私たちは違う生き物なの。住む世界が違っているの。
それからも白い影が曇り硝子の向こうからこちらを窺っている。