第8話 木漏れ日の祝福
――深い森を思わせる静謐な空気が、周囲に満ちている。
目を伏せて佇むネノの手の中で、神種は依然として金色の輝きを放っていた。こぼれ落ちる光の帯が地面に触れるたび、足元に散らばる泥の塊が輪郭を失って崩れていく。その場にいる誰もが、神妙な面持ちでそれを見ていた。
やがて光が収まり、ネノがぽつりと言った。
「終わった、みたい」
先ほどまで魔霊獣の残骸だった柔らかな泥を、トヴァンは爪先で軽く蹴った。再び寄り集まる様子もなく、完全にただの泥になったように見える。
「神種の灯ってのは、こんな奴だったんだな」
「――そうだね」
淡い光を放つだけになった種を、ネノはケースに納めた。
「イシナミさんは、どうしてこんな事知ってたの?」
「シナツに生まれれば、いやでも耳に入る」
少し釈然としない表情を浮かべたネノの様子に気づいて、トヴァンが助け舟を出した。
「シナツの人間は神種をよこした女神への信仰心が特に強いからな。学者連中も多い国だし、情報も集まりやすい」
「じゃあ、シナツに行けばオレのことも知れるかな」
「やめておけ」
「えっ?」
勢い込んで口にしたネノを、イシナミは即座に切り捨てた。
「なんで」
「あの魔術師の首に、孔雀羽の刺青があった。隠されていたが」
乾いた声で放たれた言葉の意味を、最初に捉えたのはトヴァンだった。
「……ハッ。そりゃあ世間知らずの勇者にゃ向かねぇな」
「魔術師、ってアンタたちに依頼をした人? アイツに孔雀羽の刺青があるとダメなの?」
「孔雀はシナツの神官――要は国の長の象徴だ。神官に忠誠を誓う連中のうちでも偉い奴らは、そのシンボルを身体に刻むらしい。つまりシナツは今、国を挙げて神種を奪い取ろうとしてるのさ。しかも大っぴらにはできねえ手段でな」
ローブの男――シナツの魔術師が唱えていたゾッとするような未知の言葉と、視界を埋め尽くした石礫の壁がネノの脳裏に浮かんだ。
「どうしてそんなこと」
「神種の恵みを独り占めするためさ。ネノ、神種がどうやって奇跡を起こすか分かるか」
「育って神樹になった、その後ってこと?」
「ああ。植えられた神種はあっという間に芽を出して、大陸のどこからでも見える透き通った巨木に育つ。その木漏れ日が地面に届いた時、土地は浄化されて生命で満ちるのさ。これが女神サマが約束したっていう、神種の恵みだ」
「だが、この大陸は栄えすぎた」
イシナミが平板な声で、トヴァンの言葉を引き継いだ。
「際限なく拡大した領地全てに恵みを届けることは、最早できない。一部の民は木漏れ日の祝福から弾き出される事になるだろう。神種を奪い、己の国に植えない限りは」
「そうして恩恵を千年独り占めした奴は、大陸の覇者になるだろうな。ラティスが滅びた今、それを止める奴ももういない」
「千百年前は、そのラティスが種を……?」
「頭が回るじゃねえか。その通りだよ。だからラティスは『祝福の国』と呼ばれてたのさ」
「……そっ、か」
ネノは二人の話を反芻するようにしばらく沈黙し、やがて乾いた唇を動かして呟いた。
「種を見つけた時から、誰かが心の中で『これを正しい場所に植えて』って言ってるような気がしてた。それは――祝福にふさわしい場所を、選んでほしいって事だったんだ」
「ああ」
イシナミが、ネノの言葉を肯定した。
「女神は全ての民の幸せを祈っている。お前が聞いたのは、彼女の声かもしれないな。……『若い目で、正しき選択をせよ』と」
「ハハ。とっくに神には失望したっつってたのに、随分信心深い言い方だなイシナミさん」
棘を孕んだ皮肉な声でトヴァンが言った。イシナミがぐっと唸って目を伏せる。
「失望したのはシナツの体制だ。俺個人の信仰は、そう簡単には消せない」
「分かってるよ。今のは意地が悪かった。だがな、正しい選択って何だ? それが女神には分かってんならソイツが直に植えりゃいいだろ。わざわざ勇者とやらを選んで決断を任せるなんて、性悪以外の何物でもない。大体、」
「トヴァン。……やめろ」
イシナミの真剣な声に蓋をされるように、トヴァンはぱたりと言葉を止めた。やがて吐き捨てるようなため息をついて、話題を変えた。
「そろそろ行こう。さすがにもう、ああいう魔物は来ねえだろ」
しばらくの間三人は、黙々と歩き続けた。
ネノはトヴァンの方をチラチラと伺いながら、質問を投げかける機会を探っていた。女神の話になると途端に彼の態度が刺々しさを増した理由を、彼に尋ねたかったのだ。
一瞬でも疑問に思ったら、解決するまで疑問に思い続けるのが自分の性格らしいとネノは気付き始めていた。そうでなければ、盗賊たちに追いかけられている最中に足を止めて神種の伝説を聞こうとなんてしない。
(トヴァンは、女神が嫌いなのかな。でもどうして?)
「『勇者』。――『勇者』」
イシナミに呼びかけられて、考え込んでいたネノは顔を上げた。
「何?」
「身体に不調はないのか」
「特にないけど、なんで?」
彼は足を庇うように歩いていたが、その歩調はしっかりしていた。積み重ねた年月が、彼に傷を負っていても歩みを乱さない技術を教えたようだった。
「魔力には上限がある。あれほどの力を一度に振るえば、負荷がかかっていてもおかしくない」
「使い切ると、もう魔法が使えなくなるの?」
「枯渇さえしなければ、時間を置くだけで魔力は回復する。そして、普通は枯渇するほど魔法を連続で使うことはない」
「もし、一度に魔力を使い切ったら?」
「死ぬ」
「え……ええっ⁈」
ネノは驚いて軽く飛び上がり、意味もなく自分の体をぱたぱたと叩いた。何も異常がないか確認するように、ぐるぐると視線を彷徨わせる。
「死んじゃうって……どうして」
「詳しくは知らん。そうして死んだ魔術師を見た事があるだけだ」
ネノはいよいよ戸惑いきって、目を白黒させながらイシナミを見た。
「その人、なんで加減を間違えたの」
「戦争の熱が、そうさせた」
――二つ下の妹だ。ガキの頃、戦争のどさくさでどこかに攫われた。
トヴァンの言葉が脳裏に蘇って、ネノは顔を曇らせた。
「それ、……どういう、戦争だったの」
「酷いものだった。木漏れ日の痕跡が残る聖地を争って、グルフォスがシナツに攻め入った。それが始まりだったはずだが、元の理由を忘れ去ってもなお憎悪が憎悪を呼び、二十年近く不毛な殺し合いが続いた」
「でも……トヴァンは『世界は一度終わった』って言ってた。そんなにひどいことが起きた後なのに、まだ争ったの?」
イシナミは視線をネノの方に落とし、ため息のような息を漏らした。
「聡い子だ」
二人を先に行かせて殿をつとめていたトヴァンは、小声で交わされる二人の会話に嫌な単語が混じり始めたことに気付いて顔を顰めた。
(……まあ、話すよな)
妹の話題を出してしまった時、ネノは詳しく尋ねたくてたまらないような表情をはっきり浮かべていた。それでも堪えていたのは、一応遠慮のようなものがあったのだろう。
「百年前に神樹が枯れ、闇が世界に溢れ出してから、大陸にあった町の九割近くが瞬く間に壊滅したらしい。だが、人間は多くが生き延びた」
「やられた町から離れて、闇から逃げ切ったってこと?」
「ああ。伝説によれば、かつての勇者たちは万が一に備え、旅の中で見つけた安全な場所を人々に教えて回ったそうだ。それに従い、かなりの人間が災厄を切り抜けたという」
「だからみんな、『世界を救い損ねた勇者』でも大好きだったんだ……。でも、それがどうして戦争に――あ、」
「分かったか」
「住む場所が、なくなったんだね」
「それだけではない。何もかもが足りなくなった。それでも数十年は、生きていくことで精一杯だったが……やがて国は、奪い合うことを思い出した」
(生きてる一人ひとりは、ずっと生きてくだけで精一杯だったはずなんだがな)
口を挟む気も湧かず、心の中だけで付け加える。色々なことを一度に思い出しそうになって、トヴァンはガリガリと頭を掻いた。
「俺はシナツの傭兵だった」
イシナミの声が耳に届いて、彼は軽く目を見張った。
(そこまで言っちまうんだな)
「若い頃から金のために用心棒をやって、戦争が始まれば兵になった。うんざりするほど死を見てきた……やがて傭兵団は解散されたが、その頃にはもう普通の暮らしに戻れなくなっていた」
「……」
トヴァンは俯くネノの後ろ姿をただ見つめ、それから目を逸らした。
(最初にイシナミさんから聞いた時の俺は、アイツみたいに大人しく聞いちゃなかった)
あんなものに加担した時点で、全員クズだと思っていた。叩ける限りの憎まれ口を叩いて、しばらくどんな言葉にも苛々と答えていたはずだ。思い出すつもりは欠片もなかったのに結局思い出してしまい、ますます渋い顔になる。
そうして一人で考え込んでいたせいで、トヴァンはイシナミが背をかがめ、ネノに何かを問いかけたことに気付かなかった。
「――か?」
「――。だって、――」
そして、その答えを受けて彼が囁いた言葉も、聞き逃していた。
「勇者。お前の旅は、過酷なものになるだろう」
「俺は同行できない。お前みたいな奴についていくには歳を取りすぎたし、きっと俺たちは性格が合わない」
「何故か? ――それは、あいつに聞いてみろ。あいつは思ってる以上にお前を見て、気にかけてる。そういう性分だからな」
「頼めば……お前の助けになってくれるかもしれない」