第7話 共闘
トヴァンはニールを先に進ませ、剣をいつでも振るえるように緩く構えた。その横に並んだネノは、胸の神種にそっと指先を当てる。
枯れ草が擦れ合う微かな音が聞こえた瞬間、背後の気配が爆発的に膨れ上がった。
「「!」」
二人は振り返り、目の前の敵に力をぶつけた。地面を滑るように迸った水流が足を持つ魔物を素早く絡め取り、重たい刃が鋭い軌道で掴みかかった翼の魔物を両断する。水飛沫の間を縫って飛び出したトヴァンが、一際大きい獣の頭を叩き割るように切り伏せた。
「そこで援護しろ」
追おうとしたネノを制して、トヴァンは体を回転させながら勢いをつけて敵を薙ぎ払った。ざっくりと喉を切り裂かれた魔物が、声も立てずに崩れ落ちる。その左右をすり抜けた小柄な二体の獣を、ネノは枝分かれさせた水流で射抜いた。
魔物たちは先ほど相手にしたものより大きく、あるいは狡猾だった。尖った牙を剥き出した獣は馬ほども背丈があり、たてがみを持つ太い首の中央には巨大な目が二つ縦並びにぎょろりと開いている。猫のような大きさの魔物の胴からはクモのような八本の細長い脚が突き出し、闇に紛れて地面を這いずり回っていた。
「おい、俺まで押し流そうとすんな」
「遠くて操りにくいんだよ」
水に足を掬われそうになったトヴァンが声を上げて、ネノがそれに叫び返した。気付けば魔物の猛攻によって二人の距離は大きく開いており、目を凝らしながら魔物だけを退けようとするネノの視界はチカチカと瞬き始めていた。
「……ネノ?」
「ニール、下がって。あいつらこっちに引き付けてもらうから」
集中を切らさないように意識を研ぎ澄ませながら、ネノは振り返らずにニールに告げた。ザ、と後ずさる音が聞こえたのを確かめて、トヴァンに呼びかけようと息を吸う。
その息は、音にならないまま吐き出された。
トヴァンの足元に広がっていた、夥しい量の魔物の残骸。泥のようなそれらから湧き出すように、巨大な獣が身を起こした。姿は狼のようでありながら、背丈は桁違いに大きい。そして際立って異様だったのは、その獣には尾が三本、頭が三つあったことだった。
見開かれた無数の瞳は、やはり虚に濁っていて――それらが一斉に、トヴァンを睨んだ。
「トヴァン!」
ネノは思わず走り出し、全力の水流を正面から魔物にぶつけた。直撃した中央の頭が弾き上げられ、ほんの一瞬巨体がのけぞる。その隙をついて、ネノはトヴァンの腕を思い切り引っ張った。凄まじい速度で襲い掛かった右の頭の顎が閉ざされ、牙が噛み合う甲高い音と共にトヴァンの前髪が千切れて宙を舞う。さらに追い縋る獣の横っ面を張り飛ばすように、ネノは再び水流を繰り出した。
「なっ⁈」
強烈な光が目の前で溢れ、とっさに顔を庇った腕を鋭い熱波が襲った。トヴァンも同様だったようで、隣から苦痛の呻き声がこぼれる。顔をできるだけ手で覆いながらどうにか顔を上げると、黒一色だった魔物の姿が決定的に変貌していた。
体表にひび割れのような模様が走り、そこから赤々とした光が漏れ出している。否、漏れ出しているのは光だけではなかった。光と熱――炎そのものが、全身の割れ目から溢れ出していた。
「こいつ……魔霊獣か!」
「まれいじゅう?」
「魔力を持った魔物のことだ! クソ、一体どうして」
「危ない!」
大きく開かれた魔霊獣の全ての口から炎が吹き出し、地面の草木をチリチリと焼いた。三本の火柱は斜め前へ飛んで避けた二人の頭上をすり抜け、その後ろへと伸びていく。あまりの事態を前に動けずにいたニールと、その背にいるイシナミの元へと。
ネノは大きく腕を広げ、下から上へ掬い上げるように振り上げた。地面から湧き出すように現れた二本の水柱が一つに絡み合い、巨樹の幹のようになって炎を阻む。激しい蒸気が沸き起こり、煙が周囲を白く染め上げた。
「大丈夫⁈」
風が吹き、視界を遮っていた蒸気が吹き払われた。頬を引き攣らせたニールの顔が、青白く照らし出されている。ぐらぐらと揺れる視線が、魔霊獣とネノたちの間を彷徨った。
駆け寄ってニールたちを庇うべきか、先に獣の気を逸らすべきか、ネノは束の間逡巡した。イシナミを背負っている彼では、素早く逃げることなどできないと思い込んでいた。しかし、事態はネノが予測しなかった方向に動いた。
――ニールは小さな悲鳴だけを残し、イシナミを放り捨てて逃げ出した。
地面にぶつかったイシナミが、小さく呻いて顔を歪めた。ニールは彼の方を振り返りもせず、一目散に逃げていく。
「えっ」
思考が止まった一瞬の隙を、魔霊獣は逃さなかった。三つの頭が不揃いな牙を剥き出して、無防備になったネノへと踊りかかる。
「しっかりしろ、ネノ!」
鋭い叫び声が聞こえた瞬間、ネノの身体は高く浮き上がった。トヴァンに投げ上げられたことをネノが認識するより先に、目標を見失った獣がそのまま彼に狙いを定める。
「喰らえ、化け物!」
トヴァンは剣を逆手で構えて振りかぶり、渾身の力で投擲した。切っ先が中央の頭の眼球をざっくりと捉え、獣が絶叫しながら身悶える。弾き飛ばされた大剣が棒切れのように宙を舞い、貫かれた頭が泥人形のようにぼろりと崩れた。残された頭が怒りに震え、濁った目から烈炎を垂れ流す。
それらを空中で見下ろしたネノは、受け身をとって着地するかしないかのうちに水流を操り、落ちていく剣を弾いて獣の方へ飛ばした。弧を描いた刃が炎が漏れ出す首の付け根を斬りつけ、頭が割れるような叫び声と共に獣がガクリと膝をつく。トヴァンは飛んできた剣の柄を掴み、傷ついた首をさらに抉るように振り下ろした。
「トヴァン」
「俺は平気だ、イシナミさんをどかしてくれ!」
声を上げたネノに大声で返して、彼は再び敵と向き合った。牙を閃かせる魔霊獣をいなすように切り結びながら、さらなる攻撃の機会を伺う。しかし死に物狂いになった魔物の体からはより一層強く炎が噴き上がり、対峙するだけでも苦痛を伴うようになっていた。
ネノはそんなトヴァンに視線を送りながらもイシナミのもとへ駆け寄り、肩を揺さぶって呼びかけた。
「イシナミさん! 起きて!」
ぼんやりでも意識を取り戻してくれれば、ずっと運びやすくなる。必死で呼びかけていると、皺の刻まれた顔の中で瞼がピクリと動き、ゆっくりと持ち上がった。
「あっちに魔物がいて、トヴァンが戦ってる。イシナミさんは逃げ――っ⁈」
鈍い衝撃が右目のあたりを襲い、ネノは顔を押さえてよろめいた。素早く上体を起こしたイシナミが、ネノの顔を強く殴ったのだ。頭がぐらぐらと揺れる心地がして、視界が白く瞬く。
「いっ、たぁ」
「……あ……」
うずくまるネノの肩に、無骨な手が触れた。
「すまなかった。……敵かと」
「うぅ、」
助け起こすはずだった彼に支えられるようにして、ネノは立ち上がった。少しぼやけていた視界が、戦い続けるトヴァンを捉えて鮮明になる。
「ごめん、行かなきゃ」
ネノは支えられていた手を離して、真っ直ぐに駆け出した。ほとんど炎の塊のような魔霊獣の方へ、姿勢を低くして飛び出していく。敵の間近に迫った瞬間、右手を下から上へ振り上げた。
燃え盛る獣の足元から無数の水柱が生まれ、蔦のように全身を絡め取る。水蔦の檻はすぐに重力に従って崩れ落ちたものの、水浸しになった獣の炎は急速に弱まった。その隙を逃さず、トヴァンは千切れかけていた左の首を切り落とした。
ネノは肩で息をする彼の隣に並んで、唸りを上げる魔霊獣と向き合った。トヴァンは「離れろ」とは言わなかった。代わりに、短く尋ねた。
「あいつの火、抑えられるか」
「できる」
「分かった」
頭一つになった獣が、声高に咆哮する。
二人は示し合わせたように、同じ方向へ駆け出した。
行手を遮るように迸った炎を、ネノの魔法が的確に押し流す。生まれた空白を突いて、トヴァンの刃が敵の身体を抉った。まず肩を、次に脇腹を、そして脚の付け根を。獣は再び膝をつき、所構わず炎を吐き散らした。身を引き裂くほどの怒りだけが、獣を動かしているようだった。
「往生際の、悪い奴だな……!」
トヴァンが剣を振りかぶり、ネノが先んじて水の蔦を伸ばす。しかし激しさを増す炎は、水を残らず蒸発させてしまった。
(どうしよう、)
歯噛みするネノの耳に、声が届いた。
「『勇者』」
思わずそちらを向くと、少し離れたところでイシナミが足を庇いながら立っていた。鋭い瞳がネノを射て、重々しい声が端的に告げる。
「種を使え。それの光は、弱った闇から力を奪う」
「! 分かった」
ネノは呼吸を整え、左手でケースを開いた。落とさないように気をつけながら、手のひらにそっと種を移す。握りしめた手を軽く開くと、金色の光が指の間から溢れた。
「……! ……」
炎が、動揺するように揺れた。濁った目を細めて、魔霊獣が拒むように頭を振る。明らかに、獣は光に怯えていた。
ネノは左手で種を掲げたまま、右手を少し持ち上げた。ありったけの念を込めて、逆巻く水の流れを想像する。渾身の力で腕を振り上げると、竜巻のような奔流が獣の全身を包んだ。
「……!!!!!」
水と炎がせめぎ合って、周囲が一瞬真昼のように照らし出される。トヴァンは大剣を構え、光の方へ突き進んだ。
凄まじい水流の中で、眩しい炎が、ぐらりと陰った。
「今だ!」
ネノは獣を包んでいた水の檻を崩し、トヴァンの足元から水を吹き上がらせた。その勢いを借りて、トヴァンは高く跳躍する。
「受け取れ、この野郎!」
振り下ろした切っ先が、獣の脳天を貫いた。