第1話 追いかけっこ
四街道の交わる地・サラキアでは、一ヶ月に一度大きな市場が開かれる。荒野も同然の草原に、明け方の一時間足らずで簡易的な町が組み上がるのだ。
瞬く間に市場が建ち、そして次の朝には消えてしまうさまから、サラキアは『蜃気楼の市』と呼ばれている。
「アンタ旅人かい? 蜃気楼の市、サラキアにようこそ!」
「今月はよく魚が獲れたんだ。五尾買えば安くしとくぜ」
「いつものやつ、置いてる?」
「もうカッサ茄子の季節か、早いなぁ」
市場には諸国の商人や旅人が行き交い、多種多様な色彩と音が溢れかえる様は誰の心も弾ませる。中でも人々の目を惹いていたのは、華やかな楽を奏でる吟遊詩人の一団だった。
色も形も様々な楽器が寄り集まり、でこぼこながら調和の取れた旋律が次々と風に乗る。人々は惜しみない喝采を送り、詩人たちの足元に置かれた大きな椀に銅貨や銀貨を投げ入れた。
水の精霊と人間の男の情熱的な恋を高らかに歌い上げた詩人たちが、一礼するや再び声を弾ませる。
「さあお聴きなさい皆々様、よければ共に手拍子を。続いて我らが歌うのは、昔々の冒険譚」
「堕ちゆく五国を救い損ねた、英雄さまの物語!」
歌い手が軽快に足を踏み鳴らしながら歌うと、観客からワッと笑い声が上がった。
「いいぞ!」
「うんと面白く歌えよ」
ある者はそう囃し立て、またある者は手を叩いて口笛を吹き鳴らす。
――その人混みの中で、小さな手がそばに立つ恰幅のいい観客の裾を引いた。
「なあ」
「ん?」
布用の麻を売りに来ていた彼は、視線を下げて声の方を見た。
「英雄さまって誰のこと」
そこには浅黒い肌を持つ、緑がかった黒髪を後ろで結った子どもが立っていた。元は何色だったかも分からない簡素な服は擦り切れてぼろぼろになっており、足元も裸足だが顔立ちはどこか凛々しく整っている。強い光を放つ吊り目がちの丸い瞳が、好奇心を湛えて男を見ていた。
「百年前にこの大陸を救う旅をした【神種の勇者】さまだよ、知らないのかい?」
「知らない」
「じゃあよく聴くといい。面白いよ」
「わかった」
子どもが頷いて、楽団の方へ視線を戻す。ちょうどその時、歌が始まった。
「――まずは話に欠かせない、五国に伝わる伝説を」
今から遥か数千年、神と人とが親しんだ頃。
世界には闇が渦を巻き、災いと死をもたらした。
それを見かねた優しき神が、人間たちと約束をした。
「千の年が巡るたび、私は地上に種を託します」
「その種を蒔いて育つ神樹は、たちまち闇を祓うでしょう」
「次の千年が巡るまで、枯れぬ実りをもたらすでしょう」
そして果たして種は現れ、世界は千年潤った。
繁栄もたらす奇跡の種を、人はいつしか【神種】と呼んだ。
「――やがて分かったのは、神種は千年に一度、この世界の純粋かつ勇敢な若者にたった一つ託されるということ」
「そして神種は、大地に根付くその時まで、絶えず闇から狙われるということ」
「闇と戦い、世界を救う使命に選ばれた者は――【神種の勇者】と呼ばれるようになった」
前口上が終わり、手拍子が拍手に変わって降り注ぐ。それを存分に受け止めて、再び歌が始まった。
「さて約束から幾千年、遡ること百年間。光の都ラティスラカンに、一人の――」
「見つけたぞオラァ!」
突然、怒号が賑わいを切り裂いた。
「きゃっ!」
「何だお前!」
「なに?」
「喧嘩か?」
断ち切られたように音楽が止まり、小さな悲鳴と不服の声が口々に上がる。観客たちをかき分けて、フードを被った一人の男が人混みの中心に突き進もうとしていた。
「……やっべ」
呟きが聞こえて、麻売りの男は傍に目を向ける。先ほどの子どもが、頬を引き攣らせて突進する男の方を見ていた。
「君、」
「――ごめん!」
不意に、男の袖が強く掴まれる。子どもが彼の服をするするとよじのぼり、その肩を強く蹴って飛び出したのだ。大きく跳躍した子どもは、勢いそのままに吟遊詩人たちの方へ突っ込んでいく。
がっしゃん、と盛大な音がした。
「うわああ!」
「お前!」
投げ銭の入った椀の縁に着地した子どもは、そのまま銅貨や銀貨を勢いよく跳ね散らしつつ近くの屋台に飛び乗った。吊り下げられた果物かごが激しく揺れて、店主の悲鳴と共に果実がぽんぽん飛び出して転がる。
そんな足元の大騒ぎを一瞬だけ見下ろし、すぐさま身を翻した子どもは屋根から屋根へ飛び移り逃げ出した。
「――ッ」
舌打ちが聞こえたかと思うと、先ほど人々を押し退けていた男が子どもの駆けて行った方へ飛び出していく。あっという間に二人の姿は小さくなり、今度は遠くの方から店をめちゃくちゃにされたらしい商人たちの悲鳴や怒号が聞こえてきた。
その背を見送りながら、群衆は口々に呟きを漏らした。
「……なんだったんだ」
「泥棒?」
「あの子は何も持ってなかったみたいだけど……」
「野郎がごろつきの一味なんだろ、きっと」
「怖いわね」
ざわめきの収まらない往来で、麻売りの男はその場にぼんやりと突っ立っていた。子どもに蹴られた肩がうっすら熱を帯びていたが、ほとんど気にしていなかった。それよりも気になっていたのは、子どもが横を駆け抜けた時、彼が確かに感じたとある感覚だった。
(森の匂い――それも、とんでもなく強い)
水に濡れた土の蒸せ返るような匂い、木の葉が放つみずみずしい芳香、そしてひんやりと湿り気を帯びた空気。神々と精霊たちの森に頭だけ突っ込んだかのような感覚が、あの瞬間男を包んでいた。
(それに、)
男はもう一度、あの子どもの身なりを思い返す。
鋭い目で男を見上げていた子どもは、小さな革製のケースを首から提げていた。そこかしこが汚れ、ほつれたボロ服を着ていたのに、あのケースだけは明らかに、そうお目にかかれない程の上等な素材が使われていたはずだ。
「……あの子は、一体?」
――その、逃げた子どもの方は。
「ねえ、その茶色いのって何?」
「は? ああ、こりゃトトギだよ。削って汁物に入れれば美味しくなるんだ」
「木くずでスープが美味しくなるの? ――あっ」
「いやいやこれは木じゃなくて乾かした魚で……あれ」
「待てクソガキ!」
バタバタと布を踏む音が頭上を通り過ぎるか過ぎないかのうちに、つむじ風のような速さで目の前を男が駆け抜ける。灰色のマントを纏ったその背には、いかにも使い込まれた見た目の大剣が括り付けられていた。物騒な見た目とただならぬ剣幕に、周囲の人々は慌てて距離を置く。
子どもが上を逃げ、男が下から追いかける。二人が繰り広げてきた追いかけっこは、市場のあちこちで騒動を巻き起こしていた。造りの甘かった屋台が子どもに蹴り倒され、男がぶつかって吹っ飛ばした売り上げを誰が盗った盗らないでちょっとした言い合いがいくつも勃発した。しかも子どもの方は時々呑気に立ち止まってはひょいと屋台を覗き込み、店番を質問責めにしているのだからタチが悪い。
やがて、息を切らせた男が足を緩めた。大きく舌打ちをして、心底苛立ったように頭を掻いて唸る。
「クソ、ちょこまか逃げ回りやがって……」
「逃げるに決まってんじゃん、怖いし!」
なんと子どもの方も、屋根の上で足を止めて男を見ていた。息を弾ませながらも余裕綽々とした姿に、男が吠える。
「じゃあしょっちゅう止まってんのは何なんだよ、馬鹿にしてんのか⁈」
「だって気になるんだもん、見たことないものばっかで」
「それを! 馬鹿にしてるっつってんだよ!」
周囲の雰囲気は完全に二人に呑まれ、人々はただ固唾を呑んで彼らを見つめている。不幸にも子どもが立ち止まってしまった店の番を務めていた哀れな青年は、半泣きのまま動けないでいた。
やがてどうやっても男の手がここまで届かないと確かめた子どもが、徐に屋根の上に腰を下ろす。そして、自分の首にかけていたケースに手を伸ばした。
「なあ、おっさんも盗賊なんだよね?」
「そうだったら何だってんだ」
「ううん。ようやくちょっと納得できたってだけ」
ケースが手の中で揺れるたびに、カラコロと中で何かが革にぶつかる音がする。ケースに触れながら、子どもは続けた。
「オレが持ってる“これ”には、物凄い価値があるんだね」
「マジで知らずに持ってたのかよ」
「うん。気付いたらそばにあった。……そしてなぜか、『これを正しい場所に植えなきゃ』と強く思った」
「だったら簡単だな。そいつを俺たちに寄越せば良い。大人のお兄さんたちが、きっと正しい場所に持っていくぜ」
「やだよ、自分で植えるんだから。――神種の勇者、として」
ケースを握り込みながら子どもがそう言い切った瞬間、鮮烈な緑の気配がその小さな手を中心にぶわりと溢れた。遠巻きにしながら通り過ぎようとしていた人々が、驚いたように一瞬足を止める。子どもが口にした言葉が聞こえていた者は顔を見合わせ、興奮を抑えた囁きと曖昧な苦笑を交わしあった。
「今あの子、神種って言ったか?」
「言ってるだけじゃないの?」
「前の勇者さまからまだ百年しか経ってないし」
「それに、伝説では神種は――」
そんな好き勝手な騒めきを背にして、フードの男は子どもの言葉を鼻で笑った。
「ハッ、大した思い上がりだ。俺たちからも逃げきれないのに、勇者面してどうすんだ?」
「でも捕まってない!」
子どもはすかさず言い返すが、そこで違和感に気づいたように表情を変えた。
「俺『たち』って……あ」
質量が唸りを上げて風を切った。
子どもの死角から飛んできた石が、後頭部を捉えて鈍い衝突音を立てる。小さな身体が屋根から転がり落ちて、周囲から悲鳴が上がった。
「おっと」
フードの男は素早く駆け寄って気を失った子どもを受け止め、しっかりと胸に抱え込んだ。同時に背の鞘から大剣を抜き放ち、悠々と人々を威嚇する。
「邪魔すんなよ。俺たちだってここで暴れたい訳じゃねえんだ」
刃のぎらつきに押された群衆が、怯えたように後ずさる。男は躊躇いなく足を踏み出し、人の間を抜けて歩み去っていった。
後には、呆然とした顔の人々だけが残されていた。