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荒野の光

 薄曇りの空の下に、単調な荒野が広がっている。

 乾いた地面に灰色の草が点々と生え、風が吹くたびにカサカサと空虚な音を立てている。所々にある濁った水たまりが、色のない空をぼんやりと映し出している。

 おそらくずっと昔は、ここも荒野ではなかったのだろう。その証拠に、ほとんど風化した石造りの建物の残骸が一定の間隔を置いて並んでいる。土台とわずかな壁ばかりが残された遺跡たちは、どれ一つ取っても小さいものではない。

 栄えた都市だったのだ。


 枯れ草や石ころが擦れ合う音ばかりが聞こえていた荒野に、ぺた、ぺた、という微かな音が聞こえ始めた。

 幼い子どもが、たった一人で死んだ大地の上を歩いている。

 子どもは裸足で、色褪せて元の状態がほとんど分からないボロボロの服を身に付けていた。歳の頃は十にも満たないだろう。太陽の下が似合うはずの色の濃い肌が、今は弱い日差しの下で薄暗く沈んでいる。大雑把に背中で括られたしなやかな黒髪が風に翻弄されて、複雑な流線模様を描いていた。

 荒野を進む足取りは、ごくゆっくりしたものだった。まるで夢から覚めたばかりか、まだ夢の中にいるかのような歩みだ。ただ、凛とした顔に収まった一対の大きな目は、映るもの全てを心に刻みつけたがっているかのようにぱっちりと見開かれている。

 天から差し込む微かな光を余す事なく取り込んだ緑の瞳だけが、今この場で色付いて見えるものだった。

 

 先ばかりを気にして、足元は意識の外だったのだろうか。前へ前へと進み続ける子どもの汚れた足が、無造作に大きな水たまりを踏みつけた。軽やかに水飛沫が跳ね、波紋が正円を描いて広がっていく。子どもが足を踏み出すたびに新しい小波が立ち、ぶつかり合って複雑な幾何学模様を映し出した。

 しかし水たまりの真ん中あたりまで進んだ瞬間、水面が不自然にざわめいた。

 黒く濁った水が蛇の群れのように立ち上がり、素早く足を這い上る。目にした誰もが怖気をふるうような、自然に反した動きだった。

 子どもはぎょっとしたように足を引き、水面を蹴立てて水たまりを走り抜けた。弾んだ息を整えながら、口元を押さえて水たまりに目を向ける。蠢いていた水面は、再び静まり返っていた。


「――なに、いまの」


 ぽつりと呟く声に、返事はない。

 代わりに金属の触れ合う音と耳につく騒ぎ声が聞こえてきて、子どもはくるりと振り返った。

 七、八人の武器を下げた男たちが、血なまぐさい気配を隠す素振りすら見せずに歩いてくる。その態度は、他者を傷つけ、奪うことが日常の一部になっている人間の振る舞いそのものだった。

 身を隠す間もなく、彼らの明け透けな視線が子どもを捉えた。


「あ? ガキ?」

「小綺麗なツラしてんじゃねえか」

「【蝶のティトーレヤ】あたりから逃げたんだろ」

「こっからじゃ遠いぜ」

「ならどっかのお屋敷か」

「何だっていいだろ」


 ゲラゲラと笑いながら、男たちの一人が子どもの方へ手を伸ばす。反射的に後ずさった子どもの肩を、回り込んだ別の男が掴んだ。


「逃げんなよ」

「どうしないと通れねえかくらい、ガキでも分かんだろ?」


 追い詰められた子どもはしばらく身体を強張らせて俯いていたが、やがて徐に男たちを見上げた。深い緑の瞳が、彼らをまっすぐに射抜く。その光に、彼らはほんの少しだけ怯んだ。


「……の」  

「あ?」

「何すればいいの。知らないんだけど、オレ」


 数十年ぶりに声を出したかのような掠れ声だったが、芯の通った口調だった。


「あと、さっき何もない水たまりに足を引っ張られた。あれは何?」


 虚をつかれたように男たちは黙り込んで、それから大声で笑い出した。予想外の言葉に覚えた動揺を、振り切るような嘲笑だった。


「そんなことも知らずに来たのか」

「随分な世間知らずだな。さぞ大事にされてきたんだろ」

「答えてやる義理なんかねえよ。さあ、こっちに来な!」


 伸ばされた腕が、足を掴んで抱え上げようとする。子どもは咄嗟に足を振り回して、男の顔を思い切り蹴飛ばした。鈍い音がして、曲がった鼻から血が噴き出す。


「この――」


 面目を挫かれ続けた男たちは、すっかり頭に血が上っていた。子ども一人に多すぎるほどの人数で掴みかかり、身動きを封じようとする。負けん気の強い子どもも多勢に無勢で、両腕を取られて押さえられてしまった。


「あ? なんだこれ」


 どこかに金目のものを身につけていないかと眺め回していた賊の一人が、子どもの首に細い革紐がかけられている事に気がついた。紐の先は、薄汚れた服の下に繋がっているらしい。男は不躾に紐を掴み、その先にあるものを拝もうと引っ張り上げる。

 その時初めて焦りを見せた子どもは、血相を変えて叫んだ。


「やめろ、離せよっ!」


 掴まれた腕を振り解こうともがき始める様子に、増長した男たちはかえって首にかかっている物への興味を強めたらしい。逃げた場所から貴重な品でも盗ってきたのかと、下卑た憶測を口にしながら紐を引き出す。


「……ケース?」


 その手元に夢中になって、彼らは遠くから聞こえてきた声に気付けなかった。


「――止めていいか、あいつら」

「お前はやめろと言っても行くだろう」

「だろうね。――じゃ、貸し一つ」


 風切り音がしたと思った瞬間、子どもの腕を掴んでいた男が悲鳴を上げて手を離した。その肩から、羽根のついた細い棒が生えている。何が起きているのか彼らが呑み込むより先に、二本目、三本目と飛んできた矢が賊の手足を射抜いていく。

 ようやく異変に気づいた男たちが武器を構えるか構えないかのうちに、彼らの間を二つの影が駆け抜けた。


 不意に拘束が解けた子どもは、尻もちをついた姿勢で目の前で起きている出来事を見つめていた。

 濃い灰色のマントを被った三人の男が、あっという間に賊を制圧していく。近くは剣で、遠くは弓矢で、決して弱くはないはずのごろつき共を薙ぎ倒していく。一際派手に暴れているのは片刃の大剣を持った男で、子どもの身長ほどもありそうなそれを木の棍棒か何かのように軽々と振り回していた。剣の平で殴りつけられた屈強な賊の一味が、石ころのように吹っ飛ばされる。


 逃げようとした男たちの一人が、足をもつれさせて倒れた。細身の剣を振るっていたマントの男が彼に近づき、迷いなく剣を振り上げる。と、子どもの視界が温かい手のひらに覆われた。


「ガキがじろじろ見るもんじゃねえよ」


 低い声が耳元で囁く。驚いたが、不思議と恐怖はなかった。体に触れる布の感触から、目隠しをしているのがマントの男の一人だと分かったからだ。

 そして手が外された時、賊は動かない仲間を引きずりながら這々の体で逃げ出すところだった。


「……よし」


 まだ座り込んだままの子どもと目線を合わせるように、大剣の男が膝をついた。ただしフードを目深に被っているせいで、肝心の目元は見えない。


「しばらく奴らが行った方向には行くなよ。追っ払った意味がなくなっちまう」


 大きな手のひらで子どもの肩をポンと叩き、男は立ち上がった。そのまま他の男たちと並び、あっさりと背を向ける。


「じゃあな、こんな所さっさと抜けて町にでも出ろよ」

「……待って」


 子どもが呼び止めると、男たちは立ち止まって振り返った。


「ンだよ。礼なら聞かねえぜ」

「アンタたち、これが何か知ってる?」


 胸の辺りで握りしめられた子どもの手の中から、細く鮮烈な光が溢れていた。


「この、ケースの中に入ってるやつ。すべすべしてて硬くて、たまに内側から光る、何かの……種みたいな」


 男たちの顔色が変わった。互いに目配せする彼らの表情が、次第にこわばっていく。

 中でも最も動揺を見せたのは、大剣使いの男だった。葛藤するように頭を掻き、歯の隙間から荒い唸りをこぼす。

 やがて彼が、重たい口を開いた。


「ああ、知ってる」

「それなら――」


 身を乗り出した子どもの次の言葉を封じるように、男が続けた。


「そいつは俺たちの探しもんだ。俺に渡してくれるんなら、教えてやるよ」


 一歩、男が子どもの方へ踏み出す。子どもは、咄嗟に後ずさった。


「ほら」


 さらに一歩。手が差し出される。

 子どもはケースを守るように背をかがめ、男をまっすぐに睨んだ。


「……いやだ」

「あ?」

「嫌だ! これだけは、絶対に渡してやんない!」


 差し出された手を素早く引っ張って、思い切り男に頭突きする。痛みに呻いた男を思い切り突き飛ばし、地面を蹴って走り出した。


「クソ……待て!」


 背後から、男たちの足音が聞こえてくる。子どもは後ろを確かめもせず、一目散に駆けていく。風景が目まぐるしく横を流れ、移り変わっていく。

 耳元で唸る風の音も、やがて気にならなくなっていった。ケースを握りしめながら、子どもは当てもなくひた走る。

 その頭の中では、一つの「声」が響き続けていた。



 ――これを届けて。


 ――しかるべき地に。


 ――正しい場所に。


 ――どうか世界を、未来を……



 走り続ける子どもの視線の先で、雲が晴れていく。

 差し込んだ太陽の光が、道を照らした。

 いつしか子どもは緩やかな下り坂に差し掛かっていて、目の前には新しい風景が広がっていた。

 色とりどりの、布や草木で作られた屋根。立ち上る煙。全てが陽光の中で輝き、死んだ世界に色を灯す。


 子どもは足を早めた。

 心の中で溢れかえるいくつもの疑問に、答えがもたらされる時を期待して。


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