中編 はじめての馬券は有馬記念
事の始まりは、半年前のプロポーズだった。
「会社も軌道に乗ってきたし、万智さん、結婚してくれませんか?」
「……はい!」
なんでもない銭湯デートの帰り道。
一緒に風呂上がりのアイスを食べながら歩いていた時、ぽろっと、本当にこぼれるように、自然な空気の中で、司郎さんがプロポーズしてくれた。
司郎さんは、小さな会社の社長さんだ。
家庭向けの人材派遣事業をしていて、ベビーシッターに家庭教師、家事代行となんでも請け負う。
知り合いもいない都会で暮らすママたちの手助けをしたいと起業して、なんとか10年。
ようやく、ようやく、司郎さんの仕事が認められてきたぞと思えてきた頃だった。
「結婚して、万智さんをタダ働き要員とかに、したくないんだ」
「うん」
「一緒に仕事してもちゃんと給金を払えるようにする」
「うん」
「母さんみたいにしたくないから」
「うん」
詳しくは知らないけど、司郎さんのお父さんは、お母さんを金のかからない労働力として、使い潰したらしい。
わたしが司郎さんと会った時は、もうお父さんとは絶縁状態で、お母さんは亡くなっていた。
誰よりも温かな家庭に憧れている司郎さん。
わたしと早く結婚したいと言っていたけど、絶対に彼のお母さんのように扱いたくないと、ずっと我慢していた。
その我慢が実って、ようやくようやくプロポーズされた。
「経理を全部任せていた三田川さんにも苦労かけたけど。これからは万智ちゃんが手伝ってくれるなら、少しは楽させてあげられるかなぁ」
手を繋ぎながら、嬉しそうに笑う司郎さんの横顔は今でもはっきりと覚えている。
その三田川さんが、司郎さんの会社のお金を持ち逃げしたのだ。
「えぇ?!その上、使い込んでたの?」
雪子と名乗った美人さんが驚きの声をあげた。
「はい。それがバレると思ったみたいで。
わたしが経理の手伝いをするって、司郎さんが言ったその日の夜に、残っていたお金、全部持って消えちゃいました」
「うわぁ……」
とっくに空になったコーヒーのカップを近くのゴミ箱に捨てる。
ははは、と、乾いた笑いが出る。
「いい人そうな印象だったんで。
このおっさんとなら、一緒に働いても大丈夫かなぁと思ってたんですけどねぇ」
「……それで、どうなったの?」
「よりによって、給料払い込み日直前だったんですよ。
それで、わたしと司郎さんが結婚資金にと貯めていたお金を全部持ち寄って……」
「わかった。それであなたへの借金が出来て、そのシローさんはすべて返すまで結婚はしないって言ったのね」
「……その通りですぅ」
ぐすっと、一瞬で涙目になる。
そうなのだ。
夫婦間での金銭は、特にきっちりしたい司郎さん。
結婚をしてから返すのは、何かあれば夫婦の共有財産だからと借金がうやむやになってしまうから嫌だ、と言い出した。
まぁ、わたしも悪い。
結婚資金として貯めていたお金だから、返さなくていいと、結婚を焦るあまり、つい言ってしまったのだ。
それを聞いた司郎さんは、頑なに受け入れてくれなくなった。
「借金は、借金。
ちゃんと返してから、万智ちゃんと結婚する」
それからは休日返上で仕事、仕事。
体を壊すからやめてと言っても聞いてくれない。
司郎さんもわたしと結婚したいって強く思ってくれているから、無理しているのも分かってる。
でも。
「そもそも悪いのは、持ち逃げした三田川のおっさんじゃないのぉ〜?!」
「それで、今日ここに探しに来たの?」
「はい。最近、三田川のおっさんに会った人がいて、今度の有馬記念は直接見られるぜとか自慢してたらしいんです」
「その人は、そのおじさんが持ち逃げしたのは知ってたの?」
「いいえ……三田川のおっさんの行きつけの呑み屋の店主が聞いてたんですけど。その呑み屋の存在を知ったのが23日で……」
「よく入場券が手に入ったわね」
「……実は、父が当ててまして。母に密告して取り上げました」
「それはそれは……」
「わたしの名前も、万馬券と一騎当千からとって、『万千』にしようとしていたくらいの競馬好きで……」
「ふふっ!危ういところだったのね」
「はい。出生届を出したのが母だったので、なんとか『万智』におさまりました」
わたしが名前をフルネームで繰り返し言うと、雪子は手で口元をおさえた。
そして、わたしの名前の由来がツボに入ったのか、雪子さんはそのままお腹を抱えて静かに笑っていた。
「………はぁ〜〜。久しぶりに笑ったわ。
いいわ、いいわ。気に入ったわ。
私もあなたと同じで、今日の中山競馬場で、結婚するかどうかが決まるの」
「え?!」
「一緒に探しましょう。彼氏の司郎さんも清掃スタッフとしてここにいることだし」
「え、でも、雪子さん、絶対こんな屋外エリアで競馬見る人じゃないですよね?
もっと上の階の個室っぽいところで見る人かと思うんですけど」
「まぁ、そうね。
でも、馬の勝ちに影響は出ないから大丈夫なのよ」
にっこりと艶やかな二重瞼の目を細めて、雪子さんは笑った。
「私は女王だから。女王の馬なら必ず勝てるから。ここにいても問題は無いわ。
それに私が動いた方がいろいろ便利よ」
自信に満ちた雪子さんの態度に導かれるまま、ぐりぐりとマークシートを塗りつぶし、わたしは馬券を買うために自動発売機の列に並んだ。
「え?!なんで?!」
我にかえって、隣に並ぶ雪子さんへ向けて叫ぶ。
「だって、競馬場に来ているのに馬券を買わないからナンパに捕まるのよ。
それに、馬券を買う人の流れに沿った方が、競馬場に来た人は見つかると思うけど?」
「……た、確かに」
言われてみれば、三田川のおっさんは馬券で勝ちに来ている。それなら、その人と同じ道順を通った方がいい。
「で?どの馬を買ったの?」
初めて買った馬券を持って列から離れると、雪子さんが聞いてきた。
「えーと、有馬記念のレースだけにしました。
8番の単勝に、8-4-6の3連単を1,000円ずつです」
「あら、8番のクイーンオブスノウ推しなのね」
「まぁ、そうなりますかね」
わたしの生涯の推しに絡めた数字なんだけど、黙っておこう。
雪子さんはわたしの馬券を見ると、急に機嫌よく歩き出した。
「これは幸先がいいわね。
うふふっ、これならきっと見つかるわね」
と言って、嬉しそうにコートの裾を翻して、くるっとターンをした。
それはまるで、雪の女王のように、優美で煌めいて見えた。
馬券を買って、レース前の馬が見えるパドックの人の群れに飛びこみ、三田川のおっさんを探す。
黒のハンチングも、左頬に特徴的なアザがあるおっさんもいなかった。
「……やっぱり、見つからない」
たくさんの人にだんだんと疲れてきた。
意気消沈しはじめるわたしの背中を雪子さんが優しく撫でてくれた。
「大丈夫よ。
有馬記念を見ると言っていたのでしょう?
少し早いけど、レース場の方にいって待ち構えましょう。きっと出てくるわ」
「はい……。司郎さんも、レースの時にはなんとか抜け出してスタンドに来るって言ってました」
そうは言っても、レース場に面した座席が並ぶスタンドもかなりの人だ。
それでも、もしかしたら、と座席に座る人たちの顔をできるだけ見て、三田川のおっさんを探した。
人にもみくちゃにされる覚悟で、レースを映し出すターフビジョンの前へと進んだが、雪子さんの後ろを歩くだけで人は緩やかに避けていった。
まるで、女王が進む道をひらくように、人が左右に離れていく。
「……雪子さん、すごいですね」
「あら、当然でしょ?」
奇跡的に芝生の見える最前列まで行けてしまった。
そこからスタンドの方を振り返り、人を眺める。
人、人、ひと……
豆粒みたいな大きさの人まで、じっくり眺める。
案外、まだまだ黒髪のひとが大多数のままだなと余計なことを考える。
黒髪の中に、黒のハンチングはないか?
どこだ。
どこにいる。
おっさん……!
念じるように、眉間に皺を寄せて、目つきも悪く人の顔を眺める。
心配したのか、雪子さんがわたしの手を握る。
やっぱり、冷たい手。
その時。
雪が降ってきた。
少しだけ空を見上げる。
雪は降っていない。
あれ?
おかしいなぁ。
もう一度、人の密集したスタンド席を見つめる。
すると、スタンド下、1階の階段近くと、2階の真ん中の座席部分がキラッと光が反射して見えた。
「え?雪?鏡の反射?」
「……何か見えた?」
「あ、はい。あそこの階段近くと、2階のあの辺りの座席が光ったように見えて……」
「よくやったわ。さぁ、行きましょう!」
そう言うと、雪子さんはわたしが指し示した階段の方へと歩き出した。