5 教皇近衛隊の臨検
ハンモックの上で夜を過ごしたロウナは、キィキィという鳴き声で目を覚ました。この声の主を、ロウナは知っている。
――ネズミだ。
聞き慣れた鳴き声が、十二歳まで過ごした児童養護施設の家畜小屋のような大部屋を思い出させた。もう二度と見たくない悪夢のような光景が、脳裏をよぎる。
そんな記憶を振り払うように、ロウナは光が差し込む方へ目を向けた。いつの間にかルークがいて、窓辺に腰掛けて分厚い本を読んでいる。読書に集中していて、ネズミの声など聞こえていないようだ。
ロウナはまぶしくなって目を背け、うす暗い船室をぐるりと見まわした。
――ランラは、いない。
そのときロウナは、自分が下着姿で床に落っこちていることに気づいた。ハンモックから落ちたまま寝ていたようだ。
こうなったのは自分が悪い。それは十二分にわかっている。しかし、ロウナがみっともない姿をさらしている隣で平然と本を読むルークに、腑に落ちないものを感じた。
ロウナが毛布を体に巻きつけて起きようとすると、ヨムがどこからか飛んできた。
「ロウナ、寝坊スルナ。寝相ワルイ」
そう言ってロウナのお腹の上に着地した。
「だから、爪が痛いんだって」
ロウナは手を振ってヨムを追い払った。ルークはちらりとロウナを見たあと、また本に目を落とす。
――無視された気分だ。
しかしロウナは世話になっている身だ。今は彼を頼るしかない。
毛布をまとって起き上がると、ハンモックに腰掛け、努めて冷静に振る舞う。
「お、おはよう。何を読んでいるの?」
「ん? 医学の書だ」
そういえば、この世界の文字をまだ見ていない。
「見せてもらってもいい?」
「ああ」
ロウナは立ち上がり、ルークから分厚い本を受け取った。ペラペラとページをめくってみる。
予想はしていたけれど、これがルークの言う女神語だとは信じられなかった。どう見てもニホン語だ。
「ありがとう。勉強熱心なのね」
本をルークに返した。
女神語がなぜニホン語に見えるのかについては、深く考えてもしようがない。文字が読めて幸運だと思うしかない。
「大分遅いが、朝食だな」
ルークが本を大事そうに抱え、立ち上がった。
「その前に、着替えをするから……」
そう言ってルークを追い出したロウナは、急いで身支度を整えた。
そして昨日と同じように、二人と一羽で厨房に潜ると、かたいパンをかじり、水代わりの酒を飲んだ。
食事を終え、上甲板に出ると、陸の方から鐘の音が八回聞こえてきた。
――八時か。
昨日はほとんど外に出る機会がなかったので、ロウナは改めて周囲を観察してみた。
とりあえずぐるりと首を回すと、たくさんの綱で視界が遮られる。まるでレース編みのようなそれは、これぞ帆船という感じでとても美しく、感心させられた。
その綱に注意しながら船べりに寄りかかり、水平線を眺めやる。
「あれは太陽?」
「そうだ」
当たり前のように、太陽と呼ばれる恒星が一つあった。太陽は毎日東から昇って、西に沈むとのことだ。
「月は?」
「あれだな」
やはり月もあった。
見慣れた青い空には、雲も浮かんでいる。酔いを醒ますのにちょうどいい涼しげな風がそよいでいる。
無色透明な空気の中で深呼吸をしてみた。ありふれた当たり前の光景だが、生まれて初めて世界が美しいと思った。
周囲にはたくさんの帆船が錨泊していた。しかし、船の上には人がちらほらいる程度だ。
「この船は、これからどこかへ行くの?」
「近いうちに、ルマトラ王国のラカルタ領都へ向かって出港する。これはルマトラ王国使節団の軍艦だからな」
「ルマトラ王国?」
ルマトラ王国は、現在滞在しているサリマンファン聖国に次ぐ大国とのことだ。そしてラカルタ領都は、聖都セントバハンに次ぐ世界第二の都市らしい。
ルマトラ王国使節団は、女神謁見式に出席するため派遣された要人たちからなり、今ロウナがいる大きな軍艦のほかに、ひとまわり小さい武装商船が二隻と、それよりさらに小さい軍艦六隻という編成でやってきているとのことだ。
陸の方を見ると、聖都の街並みが広がっていた。
「真っ白な街だね」
不思議と街に人の気配は感じられない。
「『女神の白い街』だ。千年前の厄災のあとに女神が魔法でつくったと言われていて、ここ以外にもいくつか同じような白い街がある。あの大聖塔は、聖都だけだが」
「大きい塔……」
「あそこに女神が住んでいる。いや、住んでいた」
街の中心にそびえ立つ大聖塔は、雲を貫くほど高く巨大で、目の前の視界のほとんどを遮っていた。頂上は樹冠のように枝分かれして広がっていて、神の国へつながっていると言われるひと筋の光の道が、天に向かってのびている。
そしてその麓には、大聖塔から放射状にのびる大きな通りに沿って、六階建ての白い建物が整然と並んでいた。また、大聖塔からは海へ向かって大きな水路ものびていて、水路の両岸には水車小屋や家畜小屋、穀物倉庫、菜園、鍛冶屋などが立ち並んでいる。
数十万人が暮らすというこの街を魔法でつくり上げたのだとしたら、女神はとんでもなく大きな魔力と、卓越した技術を身につけているのだろう。
ルークによれば、厄災直後、各分野の専門家である十三人の賢者が女神を補佐していたらしいが、それでも女神が成し遂げたものは偉大だ。
――女神、恐るべし。
ロウナの率直な感想だった。
「街の真ん中を水路が貫いているだろう? 山から水道橋で水を引いているんだ」
「水道?」
「ああ。『女神の水』だ。生の水は厄災の毒を含んでいる可能性があるから、女神の魔導具で浄化しているのさ」
――何かにつけて女神、女神って……。万能すぎだ。
「それはありがたいことではあるんだが、女神教に飲み水を掌握されているってことでもある。まあ、水だけじゃなくてお金やら資源やら、何もかもが女神教によって管理されてしまっているんだが……」
「あの、結局女神って、いったいどういう人なの?」
「女神ってのはだな……」
女神の話になると、ルークは雄弁になった。
「……千年前、『厄災の魔女』が現れて、地表のすべてを薙ぎ払い、ほとんどの生物を死に追い込んだと言われてるだろ? しかもその後、世界のほとんどが氷の海に覆われてしまったって……」
「いや、知らないけど、そうなんだ」
「女神は、そんな絶望的な世界に降臨し、人々を救ってくれたって話だ」
ルークによれば、女神はこの世界でただ一人、不死の魔法で何度でも復活することができる偉大な魔法使いだそうだ。死ぬと十四歳の姿で復活するのだという。
そんな彼女が厄災後、何十年、何百年にもわたって、魔法で汚染された大気や大地を浄化し、『女神の白い街』をつくり、『女神の水』を与えたので、人々は彼女を崇め、女神教を興した。
祭り上げられた女神は『おごらず慎ましく生きよ』と説いて、この世界の人々を千年ものあいだ導いてきたということだ。
しかし死なないというだけで、普通に歳をとるし、怪我をしたり病気にかかったりすることもあるという。心を病むこともあったかもしれない。
「昨日教皇が、女神が失踪し、世界は再び人間の手に委ねられることになったって、聖都に集まった各国の使節たちに宣言したんだ。女神に代わって自分が世界を導くなんて言ったもんだから、みんな大騒ぎさ」
サリマンファン聖国の国家元首であり、かつ女神教の最高指導者である教皇は、数年前から女神をないがしろにして好き勝手していたようで、教皇が女神を監禁しているのではないかといううわさが立っているらしい。
「だから女神を捜すため、大聖塔に忍び込んだ」
ルークはそう言い終えると、望遠鏡を取り出して聖都の港に向けた。ロウナも目を細めて観察してみる。
港は白く高い壁によって街と隔てられていて、港内にはたくさんの大きな木の箱が積まれていた。
街の中は静かで活気がないが、港には人がたくさん集まっているようだ。
「教皇近衛隊がいる。どういうことだ?」
望遠鏡を覗いたまま、ルークが不機嫌そうにつぶやいた。
「えーと……」
ロウナには何のことかわからないので、相槌の打ちようがない。
ルークは望遠鏡から目を離し、ロウナを見つめた。
「……?」
ロウナは、ぱちぱちと目をまたたかせることしかできない。
「魔力検査のための魔導具まで持ち出してきている。オレたちを捜しているのかもしれないな」
「どういうこと?」
「前にも言ったとおり女性は、十四歳で成人すると主聖堂に集められて、魔力検査の魔導具で魔力がないか調べられる。もし魔力があれば、強制的に女神を守護する聖騎士団へと徴集されるんだ。その魔導具を、成人式でもないのに、わざわざ港まで持ち出してきたということは、出国する女性に対して魔力検査を行うつもりなんだろう」
そう言って、また望遠鏡を手にした。
「あれは哨戒艇か?」
近衛騎士が立っている辺りには櫂が何十本も突き出た船があって、兵士たちがその上で整列している。
「あいつら、臨検をするつもりか?」
忌々しそうに下唇を噛んだ。
「あの船がこっちに来るってこと? わたしがいるとまずい? この船から降りた方がいい?」
「今さら手遅れだ。……そうだな。見張り台へ隠れよう。オレは水兵に帆柱へのぼる許可をもらったあと、道具や食べ物を準備してからここへ戻る。お前はあの変な鳥を捕まえておくのと……、そうそう、ちゃんと用を足しておけよ」
真面目な顔で失礼なことを言うと、ルークは身をひるがえして艦尾に向かった。
からかわれたような気分になったロウナは、八つ当たり気味に肩にとまっているヨムの首根っこを押さえようとしたが、ヨムはそれをかわすと、あっという間に羽ばたいていった。
ルークが戻ってくると、二人で主帆柱に張られた縄梯子をよじのぼる。
「想像以上に怖い……」
「まだ、揺れてないだけましだぞ。航海中は振り落とされそうになるからな」
ロウナがへっぴり腰になっているので、横にいるルークが苦笑した。
しかし仕方がないのだ。ここには縄梯子に引っかける安全帯などはない。それに常に酒に酔った状態なので足元がおぼつかない。
もちろん空を飛ぶ魔法なんて知らないし、使えない。魔法なんて往々にして役に立たないものだな――と思いながら、こわばった手足を動かす。
やっとのことで主帆柱の中程にある見張り台へ到達すると、ロウナは頭を出して周囲をうかがった。
「兵隊さんがここまで上がってきたら、どうするの?」
「こんなところまでは調べないだろう……と思いたい」