3 気がつけば船の上
ロウナは、はっと目を開けた。あちこちに視線をさまよわせる。
――宙に浮かんでる? ああ、夢の続きか。
悪い夢を見ていたはずだった。
しかし、潮の香りが生々しい。目を見開き、体を硬直させる。
――違う! これは現実だ。
ロウナは腰の辺りを太い荷縄でぐるぐる巻きにされ、大きな船の上に吊るされていた。なぜこんなことになっているのか、その理由を懸命に思い出そうとする。
――そうだ。わたしはなぜか大きな塔の中にいて、そこでルークとスサルナに出会って、一緒に小舟で脱出して、それから……。
ロウナは、ルークを捜そうと辺りを見まわした。
早朝か夕方かはわからないが、太陽が水平線のすぐ下にあって、空がほんのりと明るい。耳を澄ますと、海鳥の鳴く声が聞こえ、湿ったやわらかい風が鼻孔をくすぐる。
ここは、たくさんの帆船が停泊している湾内の一角のようだ。
ルークはというと、甲板の上で滑車を操作してロウナを吊り上げていた。
――どうしてこんな仕打ちを? やっぱり悪い人だった?
ロウナは吊るされたままルークの近くまで運ばれ、どさりと荷物のように下ろされた。何とも手荒い扱いだ。
そういえば、自分が祭服のようなワンピース一枚しか身につけていないことを思い出し、足を閉じて小さく体をまるめる。こんな薄着だが、寒くないのは不幸中の幸いだ。
縛られて身動きができないので、横になったまま様子をうかがっていると、スサルナが暗がりから姿を現した。
「停泊当直の水兵さんには話をつけておきましたよ。訳あって、ひと足先に二人が乗艦すると……。それと、資材や食材を使わせてもらうことも、了解をもらいましたから」
「すまない。こっちは今、運び終わったところだ」
「何とか搬入することができましたね。搬入と言ったら荷物みたいで、彼女に失礼かもしれませんが」
「しようがない。この腕では、こいつを背負ったまま縄梯子をのぼることができない」
聞き耳を立てていたロウナは、ルークが片手で滑車を操作していたことを思い出した。
――腕の怪我のせいで、わたしを吊り上げたのか。
起こしてくれればよいものを――と思ったが、起きなかったのかもしれない。とりあえず自分を傷つけるつもりがない様子なので、ロウナは小さく息を吐いて安堵した。
「では私は、一度大使の家に戻って、ダヴィドに報告してきます。明日から乗艦手続きが始まりますが、ルーは正規の手続きで入国していませんし、彼女は身分証を持ってないので、このままこの艦に隠れているしかないでしょう。彼女が何者かわからないのですから、くれぐれも油断しないように」
「わかっている」
スサルナは、船べりから縄梯子を下りかけたところで、もう一度ひょいと頭を出す。
「そうそう、彼女に手を出してはいけませんよ。そんな度胸はないかもしれませんが」
「わかっているっ!」
ルークの声に力がこもった。
怪我をした腕に包帯くらいは巻いておきなさい、と言い残して、スサルナは軽やかに小舟に戻り、港へ帰っていった。
ルークが左腕を気にするそぶりを見せながら、ロウナに向かって歩いてくる。
「起きているか? 調子はどうだ?」
返事をしようとしたロウナは、はっと空を見上げた。
「腹減ッタ、腹減ッタ」
そんな言葉を吐きながら、灰色の大きな鳥が舞い降りてきた。
「ヨム!」
ロウナが仰向けになると、お腹の上にヨムが乗った。あしゆびの爪が食い込んで、地味に痛い。
「そうだね。猛烈にお腹がすいた」
ロウナは顔をしかめながら小さくうなずいた。空腹と痛みで気を失いそうだ。
「この鳥は言葉を理解しているのか?」
「たぶん。わたしも昨日出会ったばかりで、よくわからないけれど」
「言葉を理解できる魔物なんて、聞いたことがないが……」
「魔物?」
「めったに目にすることはないから、知らなくて当然か。魔物っていうのは、体内に魔石を持っている、魔法を使える動物のことだ」
「魔物ジャナイ。ヨムはヨムだ」
ヨムが抗議すると、ルークがひるんだような顔をした。
「お、オレたちに危害を加えないと約束できるか?」
「ヨムは敵ジャナイ」
「ならいいが……。行くぞ」
ルークはそう言うと、片手でロウナを肩に背負い上げた。
「うっ!」
衝撃が腹を襲い、ロウナは思わず咳き込んだ。またこの体勢で、しかも今度は縄で縛られたままで運ばれるようだ。
――ルークにとってみれば、わたしは降って湧いたお荷物的な存在か……。
観念したロウナは、ルークの肩に体を預けた。
ルークはロウナを気にかけることなく、すたすたと歩いていく。ヨムも、ぴょんぴょんと跳ねながらあとをついてきた。
船内に入ると、狭くて急な階段を下りていく。
「うっ……」
カビのようなにおいが鼻をついた。
「どこへ行くの?」
「厨房だ」
ロウナは顔を上げ、暗がりに目を凝らした。船は木でできていて、かなり大きいようだ。
船の中は案外遮るものが少なく、奥まで大砲がずらりと並んでいるのが見通せた。これは軍艦だ。ただし、物語に出てくるような大昔の……。
――人がいる。
大砲のあいだにハンモックを渡し、一人の若い男が横になっていた。ルークによれば、停泊中なので、艦内には十人前後の水兵しか残っていないとのことだ。
艦首にある厨房まで来ると、ルークはまたしてもロウナを、どさりと手荒く床に下ろした。しかし、それはルークが怪我をしているためだと、ロウナはわかっている。わかっているけれど、もう少しやさしさが欲しい。
「怪我は大丈夫なの?」
ロウナはやさしく声をかけた。やさしさが欲しければ、まずは相手にやさしくだ。
「耐えられないほどじゃないが、まだ痛む。すまないが、あとで包帯を巻くのを手伝ってくれ」
ルークはそう言いながら、ロウナを縛っていた縄をほどいた。怪我をしている左腕は、まったく使えないというわけではないようだ。
「足の裏の怪我は、どんなあんばいだ?」
「少し痛みが残っているけど、よくはなってるみたい」
「それはよかった。適当に座って待っていてくれ」
ルークはそう言い置いて、厨房の奥にある倉庫へと入っていった。
――もしかしたら、わたしの足を心配して、ここまで担いで運んでくれたのかもしれない。
そんなことを考えながらヨムと待っていると、ルークが暗闇から、ぬっと現れた。
「ほら」
木の皿の上に載せたまるいパンを、ロウナとヨムに差し出した。
「あ、ありがとう」
ロウナは木箱に腰掛け、パンを口に運ぶ。
「かたっ!」
歯が立たなかった。
「そんなものだと思うぞ。うじ虫がいないだけ、まだましだ」
「うじ虫……」
ルークは、平然とガリガリかじっていた。ヨムも、クチバシで粉々にして食べている。
仕方がないのでロウナは、唾液で湿らせてちびちびと食べた。
「ほかに、こんなものもある」
ルークは干した果物と、木製のコップに入った飲み物を持ってきた。ロウナは喉がカラカラに乾いていたので、コップを手に取ってためらいなく口に含む。
「んっ! 苦い!」
激しくむせた。
「そんなものだと思うぞ」
ルークは、ぐいっと飲み干し、ヨムもコップに顔を突っ込んでいる。
「何なの? これ」
「酒だ」
「お酒? わたし、未成年だけど飲んでも大丈夫なの?」
「大丈夫とは?」
「お酒は大人になってからじゃないの?」
「なぜだ。大人も子供もみんな飲んでいる。ほどほどにしないとだめだが」
「そういうもの? 水はないの?」
「今はない。腐るからな。出港直前に積み込むんだ」
これしかないというなら、飲むしかなかった。コップを両手で持って酒をすする。
少し強めのお酒らしく、酔いがまわって頭がくらくらしてきた。顔色はわからないが、ヨムもゆらゆらと揺れている。
――食事にありつけただけでも、ありがたいと思わなきゃ。
ちびちびと食べては、ちびちびと飲む。おかげで食事を終えるのに、かなり時間がかかってしまった。
一服したあと、ルークの腕に包帯を巻いた。酔いのせいか手元があやしい。
それが終わると、艦尾の船室に移動しようという話になった。
「歩けるか?」
「はい」
ロウナは小さくうなずいた。体はふわふわするが、もう足の裏は痛くなかった。
それにしても、傷の治りが早すぎる気がする。
ルークの腕も、小舟の上で見たときには深い傷だと思ったが、さっき包帯を巻きながら確認した際には、ほとんどふさがっていた。まだかなり痛むらしいが……。
「ふらふらだな。階段から落ちてもらっては困る。オレの前を歩いてくれ」
そう言って、ルークがロウナの後ろについた。ロウナは、中が見えないようワンピースの裾を片手で押さえながら、無言で狭い階段をのぼっていく。
「あっ!」
足元がおぼつかないロウナは、案の定、足を踏みはずしてしまった。
ルークは想定内と言わんばかりに、素早くロウナの華奢な肩をつかむ。そしてルークのたくましい胸が、ロウナの背中を支えた。
「ひっ!」
ロウナは、びくっとして体を硬直させた。男性に体を触れられることに慣れていない。そして、やさしくされることにも慣れていなかった。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫」
ロウナは、すぐにルークから離れた。
「そうか」
ルークはそう言ったきり、また無言になった。後ろからついてきていたヨムは、二人を見比べたあと首をかしげている。
上甲板に出ると、艦尾に向かった。そこは周囲より一階分甲板が上がっていて、後甲板というらしい。
「きゃっ!」
後甲板の上で何かにつまずいた。人だ。水兵らしき若い男が横になって眠っていた。ロウナに蹴られても目を覚まさない。
「そいつは見張りだ」
「見張ってないみたいだけど……」
「だからこうやって様子を見に来たんだ」
ルークは肩をすくめたあと、ゆっくりと周囲を見まわした。まだ薄暗くてよく見えないが、周囲にはたくさんの帆船が停泊しているようだ。
「異常なしだな。行くぞ」
ルークは、後甲板の下にある扉から艦内に入っていった。ロウナは慌ててその背中を追いかける。
二階分下りて、小ぎれいな船室に入ると、二人は互いに向き合うように木箱に腰掛けた。
「オレは道具の手入れをする。お前はゆっくり休んでいればいい」
そう言って、ルークは背のうから様々な道具を取り出し始めた。
ロウナはルークから視線をはずし、船室の中を見まわした。
壁には硝子のはめられた円窓があり、外の様子を見ることができた。奥の開き戸からは艦尾のバルコニーに出られるようだ。ひととおり確認すると、もうすることがない。
ルークは手慣れた手つきで、黙々と剣を研いだり、縄を補修したりしていた。ロウナは、ぼんやりと作業を眺める。
どれくらい時間が経っただろうか。
不意にスースーという規則正しい息遣いが聞こえてきた。見ると、ルークが船を漕いでいる。
――ああ、寝てないから……。
すぐには起きなさそうだったので、ロウナは改めてルークを観察することにした。
まず、くすんだオレンジ色の波打つ髪に目が行く。顔に目を移すと、目の下にはクマがあり、無精ひげと相まって生気を感じることができない。
背はロウナよりずっと高く、がっちりとした体格で、近寄り難い雰囲気を放っていた。
その身には古風なチュニックと長ズボンをまとい、革の長靴を履いていた。そして、その上から胸当てや手甲を身につけ、腰には二本の短剣をぶら下げている。
お世辞にも清潔な身なりとは言えず、お風呂に入っているかも疑わしかった。
――ニホン人には、見えないよね。
ロウナがルークの顔をじっと見つめていると、カーン、カーン、と遠くから鐘の音が聞こえてきた。ヨムが驚いて、船室の中を飛び回る。
数えると十回鳴っていた。午前十時になったのかもしれない。
ルークは鐘の音に反応して、びくっと体を震わせた。そして目を開けると、何ごともなかったように、また黙々と剣の手入れを始めた。