聖女「また、追放ですか!?」 勇者「落ち着け」
「どういう事ですか!?」
「取り敢えず落ち着いてくれ、セシリア。また、って何の話だ」
「あっ……!」
あっ、ではないが。
何か別の話と勘違いしていないか。
あんまりに大きな声を出すから、宿屋の広間にいた全員が、テーブルを挟んで向かい合っていた俺達の方を振り返る。
参ったな。
俺ことレキュリー・タカーは、あくまで冷静に、目の前の金髪神官少女・セシリアに告げる。
「順を追って言う。先ず、君を勇者パーティーのメンバーから外す」
「!?」
「でもそれは、一時的なものだ。君が心身ともに休んで、状態が元に戻れば、直ぐにでも復帰させる」
「状態……? 一体、何の話を……」
「君の精神面の事だ」
単刀直入に言うと、セシリアは明らかに動揺した。
何故それが分かった、とでも言いたげだ。
気付いていないんだろうが、彼女は本当に顔に出やすい。
「隠そうとしても無駄だ。昨日から一転して、君の精神状態は転落した。今は正直、最悪と言っても良い。そんな状態じゃ、他の勇者メンバーにすら危険が及ぶかもしれない」
「じょ、冗談でしょう……? 何の根拠があって……!」
「俺の計算師として力、忘れた訳じゃないだろう?」
否定するセシリアに対して、俺は傍らに置いていた巨大な計算尺を指差す。
両手で抱えきれるか分からない程の大きさに、細かな字が所狭しに敷き詰められた、円盤型の木造尺だ。
これが俺の職業、計算師。
あらゆる状況と情報をかき集め、計算尺によって求めるべき答えを導き出す。
地味な能力だが、これで俺は勇者パーティーを率いる立場にまで上り詰めた。
自画自賛じゃないが、勇者パーティーが結成されて以降、俺達は無敗を突き進んでいる。
だが今日、その計算尺がセシリアの不安定さを導き出した。
パーティーメンバーの状態を計算するのも俺の仕事なのだが、その数値は今までに見たこともない程に落ち込んでいた。
一瞬、目を疑ったが計算に狂いはない。
このままではパーティー全体に悪影響が出る程だと分かり、俺は彼女をパーティーから外し、身体を休めるように指示した。
だが。
「わ、私にだって聖女の力があります! 私がいなくては、魔王打倒など叶いませんよ!? あと、もう少しという所まで来ているのに! それを全部、壊す気ですか!?」
「……」
「貴方だって……!」
「……セシリア、一体どうしたんだ? 昨日と今日とを比べても、様子が明らかに違う。何をそこまで焦っているんだ?」
「!?」
「やっぱり、駄目だな。君をこのまま戦わせる訳にはいかない」
やはり、彼女の様子はおかしい。
いつもはここまで声を荒げるような子ではない。
誰にでも心優しく平等に接する、まさに聖女といった人物だ。
恐らく何かを隠しているのだが、そこまでは計算尺でも測り切れない。
するとセシリアは、ポツリと声を漏らした。
「私は……ただ、貴方を……」
「?」
「っ……!」
一体何があった、と聞く前にセシリアは外へ飛び出していった。
彼女の姿だけがどんどん小さくなっていく。
まさか、ここまで拒絶されるとは思わなかった。
追放させる訳でもなく、単純に休めと言っているだけなのだが。
宿屋に残っていた勇者メンバーの一人、ラルフが声を掛けてくる。
「レキュリーさん、少し言い過ぎでは……」
「昔から彼女は頑固だから、こうでもしないと聞いてくれない。それに君だって、気付いているだろう?」
「まぁ、確かに彼女の様子がおかしいのは、目に見えていましたけど……本当に、何があったんでしょう……。昨日までは、あんな素振りは全く……」
ラルフも不審そうに呟き、後を追っていった。
俺だけじゃない。
他の面子も、昨日の彼女とは様子が違う事を察していた。
事情を聞いてもはぐらかすばかり。
別にそこまで深入りする必要はないのだが、今の精神状態は半ば自棄のような状態なのだ。
何をするか分からない。
仕方がない。
少し計算してみようか。
俺は机に置かれていた計算尺に触れ、盤面を回すように動かした。
●
セシリアとの出会いは、4年前に遡る。
とある都市で行われていた奴隷オークション。
その時点では冒険者だった俺は、薄汚い商売をする連中の居場所を突き止めた。
「な、何者だ、貴様ッ!」
「まさかこのご時世に、まだ奴隷商売をしている奴がいるなんてな」
奴隷制度は撤廃され、表向きには禁止されている。
俺は仲間の冒険者達を連れ、商人たちの鎮圧に向かった。
何故ここが分かったと言いたげだったので、一応自己紹介をしておく。
「計算師・レキュリーだ。お前達の動向は、既に計算尺で導き出された。全員、豚箱に案内してやる」
「計算師だとッ!? 武力も魔力もないのに、Sランク冒険者に上り詰めたっていう、あの……!?」
余計なお世話だ。
確かに俺には戦う力が一切ない。
計算をするだけしか能力がない、以前はそう揶揄されたこともある。
だがそれは適材適所だ。
人には向き不向きがあるし、わざわざ不向きなものを磨く必要もない。
俺は俺に出来る事をするだけだ。
そうして仲間達に指示を出し、彼らが全ての奴隷商人を取り押さえていく。
さて、問題は此処からだ。
俺はオークションの舞台裏に歩み寄り、奴隷達の檻を見つける。
檻の中には比較的年齢の若い少年少女が捕まっていた。
誘拐や拉致、様々な理由で集められた者達ばかりだ。
仲間達が檻を開けて皆を救出する中、俺は一つの檻に囚われた少女を見た。
「君、名前は?」
「ひっ……!」
「取って食ったりなんかしないさ。俺はただ、名前を聞いているだけだよ」
「せ……セシリア……」
「セシリア、か。よし」
彼女がそうか。
外傷は殆どなかったが、身体はやせ細り、酷い扱いを受けていたようだ。
他者に対してかなり怯えている。
俺はセシリアと名乗った少女を救出。
看護しつつその回復を待った。
「え……?」
「取って食うつもりはないって言ったろう。寧ろ俺は、君にしっかりとした料理を取ってもらって、キッチリと食わせてあげたいんだ」
「これは、貴方の……?」
「いやいや、君のだよ」
差し出された料理すら、自分のモノではないと思っているようだった。
栄養失調ギリギリだったか。
少しでも救出が遅れていたら、手遅れになっていたかもしれない。
だが、事態は好転した。
時間を掛けて、セシリアが話が出来る程度まで復帰させていく。
何故、俺が彼女を気にかけているのか。
理由は一つだけだ。
俺は病院内で、容体が安定したセシリアに向けてこう言った。
「奴隷の子達は全員救い出した。けれどセシリア、君には手伝って貰いたい事がある」
「手伝う……?」
「そう。俺の計算尺に狂いがないのなら、君には力がある。それを試してみたくはないか?」
セシリアには強大な力があった。
それこそ、魔王を打倒できる程の力だ。
今は使い方も分からずに溜め込んでいるだけのものだが、自分の意志で扱えるようになれば、人々を救う希望になる。
そしてその事実を、俺は計算尺によって導き出した。
「強制はしない。君が細やかに生きたいと言うなら、俺はそれを尊重する。でももし頷いてくれるなら、俺が君を外の世界に連れ出そう」
望んでいないものを強制させるつもりはない。
しかし、力とは自分を守る自衛の手段にもなる。
彼女に身寄りはいない。
理不尽を跳ね除ける力が欲しいと、セシリア自身強く願っていたに違いない。
俺は返答を待ったが、頷くまで時間はそう掛からなかった。
そうして俺はセシリアの力を引き出すため、退院した後で教育担当となった。
彼女に秘められた力は、聖属性を司る白魔法である。
これも適材適所、白魔法を伸ばすには計算師としての力が必要不可欠だった。
俺の計算は最も効率の良い方法で解を導き出し、彼女の学を伸ばしていく。
ただ経過観察をするためにも、定期的にセシリアの様子は気に掛けた。
何れは肩を並べて戦う仲間になるかもしれない。
冒険者として活動する傍らで、俺は丁重にもてなした。
そうして数年が経ち、自己主張の少なかった彼女は、いつの間にか明るい性格へと変わり、その力が認められるまでに至った。
「レキュリーさん! レキュリーさん! 見て下さい! 聖女の証、授かりました!」
「やったな! やはり、俺の計算に狂いはなかったか!」
「もう! 計算じゃなくて、私を褒めて下さい!」
「そうだったな……悪かった! セシリア、おめでとう! 君なら出来ると信じていたよ!」
「えへへ!」
胸元のバッチ、聖女の証をつけたセシリアは、とても喜んでいた。
昔の彼女からは考えられない程に成長し、その力で皆を助け、感謝されるようになっていく。
実力は既に人々の中でもトップクラスだろう。
正直、この伸びっぷりは計算外だった。
「レキュリーさんが考えて、私達が動く! これで最強ですね!」
そうして俺達は勇者の一員として、活動するようになった。
俺が計算し、彼女達が動く。
例え相手が魔王であっても困難ではない。
笑顔を振りまくセシリアを見て、俺も自然と元気づけられた。
●
「昨日の彼女には何の異変もなかった。こんな短い間に何が……」
そんな彼女に何が起きたのか。
俺には未だに理解できていなかった。
昨日の今日で、精神状態があそこまで変わる事があるのか。
健康的には問題はないが、心が擦り減り、今にもなくなりそうな予感。
俺は計算尺を回しながら、その解に辿り着こうとした。
(駄目だ……もう、手の施しようが……)
(いや、まだ手はある筈だ! 絶対に探し出すんだ!)
不意に何かが聞こえる。
耳鳴りか。
いや、これは幻聴だ。
周りを見渡しても、声にある通りの光景は見えてこない。
寝不足か何かかと思ったが、そうではない。
ハッキリと、俺の脳裏に刻まれていく。
思わず俺は計算尺から手を放した。
(レキュリーさん……貴方を助けるためなら、私は……)
最後に聞こえたのは、セシリアの声だった。
切羽詰まったような、決意を込めた様な意志。
残念ながら、俺には全く身に覚えのない言葉だった。
しかし、何故だろう。
何処かで、聞いた事があるような気もした。
「何だ……今の幻聴は……」
「勇者様ッ!」
「ん……何だ、どうした?」
「せっ……セシリア様が、教会に立て篭もりました!」
「な、何だって!?」
宿屋に駆けこんで来た神官が、意味の分からない事を伝えに来る。
セシリアはあの直後で教会に入り込み、人払いをした上でその場を陣取ったと言うのだ。
それだけではない。
心配して様子を見に来た他の勇者達を、全員拘束したと言うのだ。
何だこれは。
何が起きている。
俺は思わず立ち上がった。
「他の勇者達まで拘束するなんて! セシリア、一体何を考えて……!」
「ど、どうしますか!?」
「決まってる! 連れ戻すぞ!」
俺は直ぐに教会に向かった。
巨大な計算尺を背負い、黒煙の上がる方角へと走っていく。
既に周りは騒然となっていた。
セシリアは教会の入り口を陣取る形で、俺を待ち構えていた。
攻撃を放ったのか、周囲の地面や家々には幾つかの穴が開いており、モクモクと煙を上げている。
後方には拘束されて気を失っているラルフ達が、宙に浮かんでいた。
「冗談にしたって笑えないぞ! どういうつもりなんだ!」
「冗談、ですって……? ふふふ、本当に冗談ならどれだけ良かったでしょうね……」
「!?」
「私、気付いたんです。今までずっと、守る事ばかり考えていました。でも逆に、滅茶苦茶にしてしまえば、何かが変わるのかもしれないって」
直後、彼女が持っていた杖から白い光線が放たれた。
他の者を寄せ付けないように、大通りに小さなクレータを開けていく。
そんな攻撃的な姿勢に、たまらず民衆が逃げ惑い始める。
「何てことを……!」
「勇者様! このままではッ……!」
「俺が行く! お前達は、民衆の避難を頼む!」
セシリアは正気を失っている訳ではない。
共にいた俺には計算などしなくても分かった。
今の彼女にあるのは、恐れ、戸惑い、どうすれば良いのか分からない混乱の果て。
俺は避難を他の者に任せ、一歩一歩踏み出していった。
すると彼女が俺を見て、無表情に問う。
「何ですか? 何の力もないのに、聖女の私に勝てると思っているんですか?」
「それはコッチの台詞だ。そんな微弱な魔力行使で、どうにかなると思っているのか?」
「……」
「君が本気なら、周囲一帯塵も残らない筈。どうして、そんなに怯えているんだ」
「……」
「俺には、教えられない事なのか?」
「……貴方には教えない……教えたくない……」
明らかにセシリアは魔力をセーブしていた。
それだけの余力があるなら、大魔法を展開する事も出来る。
だがそんな真似は一切しないまま、頑なに語ろうとしない。
そしてあんな事を言っておきながら、人的被害も一切出ていない。
何を隠しているんだ。
瞬間、背負っていた計算尺が音を上げた。
俺が回した訳ではない。
思わず頭部装着型のスコープを降ろし、それを通して様子を窺った。
すると計算尺は、自然と答えを指し示していた。
現実的ではない解が、そこにはあった。
まさか。
そんな事があり得るのか。
いや、それならばセシリアの言動にもある程度の説明がつく。
「レキュリーさん、貴方を拘束します」
「そうか……だが、一つ忘れている事があるぞ」
「え……?」
「俺が計算師だという事を、だ」
セシリアが杖を向ける中、俺は彼女の後方を見た。
拘束されている勇者、ラルフ達を意味ありげに見つめる。
きっとその行動は、俺達が示し合わせたかのように映っただろう。
「今だ、ラルフッ!」
「っ!? いつの間に拘束を……! って、えっ……!?」
無論、ラルフ達は意識を失ったままだ。
思わず振り返ったセシリアの隙を見て、俺は彼女に向かって駆け出した。
取れる行動は一つだけ。
俺は彼女に掴み掛った。
そして叫ぶ。
「まさか、セシリア……君は……!」
「だ、だめッ!」
直後、全ての光景が、音が、崩れ去った。
●
(レキュリーさん! レキュリーさんッ!!)
彼女の悲鳴に近い声が聞こえる。
暗闇の中、俺は手を伸ばすが何も出来ない。
感覚すらない。
此処は何処だ。
確かに、覚えがある。
これは全てが終わった後の顛末。
(クソッ! 魔王め! 最後の最後でこんな事をッ……!)
(どうにかならないのか!?)
(駄目だ……聖女の力でも癒せないのなら、もう……)
次第に光景が見えてくる。
ラルフ達の声も聞こえるが、要領を得ない。
皆が俺を見て、悔しそうに表情を歪めている。
諦めに似た諦観の様子。
しかし、一人だけそれを認めない少女がいた。
(嘘です! そんなこと、信じません!)
(セシリアさん……)
(全部、終わったじゃないですか! やっと、平和になるんじゃないですか! なのに、どうして!? いや……そんなのは、いやっ……!)
セシリアは何度も首を振った。
眩い光が俺を包んでいるようだが、それでも効果はない。
見えていた光景も、徐々に暗闇に戻っていく。
意味などない。
取り戻せない。
すると彼女は意を決し、両手で俺に触れた。
(レキュリーさん……貴方を助けるためなら、私は……!)
(何をして……? ま、待つんだ、セシリアさん……!)
強大な魔力が行使される。
何が起きたのか理解する前に、俺の視界は再び暗闇に落ちた。
●
「ここは……」
次に目が覚めた時、俺は何もない白い空間にいた。
ここは夢の終わり。
現実に帰るまでの一時の余白か。
前方を見ると、見覚えのある金髪少女が、膝を屈して頭を抱えている。
俺が何も言わずに近づくと、彼女は驚いて振り返った。
「レキュリーさん!? ど、どうして此処に!?」
「ハッキリとした事は言えない。ただ、考えられる仮説は一つ。セシリア、君が何をしたのか、俺が理解して、思い出したからだろう」
「!?」
俺は全てを理解した。
今までの光景は何だったのか。
幻聴に似た声の数々は、一体何だったのか。
その答えを、セシリアに問う。
「君は、何回繰り返した?」
「や、やめて……」
「何回、過去をやり直したんだ?」
「止めて下さいっ!!」
彼女は叫ぶが、それこそが答えだった。
そう。
俺達はかつて魔王と相対した。
背水の陣となった魔王が最後の抵抗として、俺達の滞在する都市を攻めてきたのだ。
無論、簡単に倒される俺達ではない。
皆の力を結集して、その身を滅ぼすことは出来た。
しかし最期の瞬間、魔王は強大な呪いを放った。
セシリア達に降りかかったソレを、俺は身を挺して庇ったのだ。
「俺は、魔王の呪いを受けた。聖女の力じゃ、癒すことは出来ない強力な呪いだ。俺自身、死を覚悟していた……でも、君は受け入れなかった」
「……!」
「時渡り。術者の精神だけを数日前に戻す大魔法。これも聖女のなし得る業、か。でも……時を遡っても、運命は変わらない。そしてタイムパラドックスを起こせば、術は解けて元の時間軸に戻ってしまう」
時渡りは莫大な魔力を要する。
それこそ、聖女であっても力をセーブしなければならない程に。
そして過去に戻る条件として、タイムパラドックスを起こしてはならない絶対の制約があった。
魔王が襲撃する事。
俺が魔王から呪いを受けた事。
未来に干渉する出来事は、何一つ教えてはならない。
加えて気付かれても、それは同じだ。
未来に影響のある不都合な事象として、時渡りは解除される。
一体、セシリアは何度繰り返したのか。
何度救おうと思い、何度失敗したのか。
俺には分からない。
だが俺が幻聴を聞く程には、彼女が精神を摩耗してしまう程には繰り返していたのだろう。
そして遂に、俺は気付いた。
タイムパラドックスは起きてしまったのだ。
セシリアは駄々をこねるように首を振った。
「いや……」
「もう、終わりにしよう。悪夢から醒める時が来たんだ」
「いやっ! 悪夢じゃありません! 悪夢なんかじゃ、ありません!」
「だったらどうして、そんなに辛そうな顔をするんだ……?」
「っ……!」
「もう十分苦しんだだろう? もう、良いんだ。休んで、良いんだ」
時渡りは解除された。
この白い空間も、直に消えて元の時間軸に引き戻されるだろう。
元々、俺はセシリアを救うために庇ったのだ。
こんな場所で苦しみ続けていては、何の意味もない。
だが、彼女は言う。
「でも、貴方がいない……いないんです……!」
「……」
「貴方がいてくれたから、私は此処まで来れた! 生きる希望を持てなかった私が、生きようって思えるようになったんです! 貴方がいなくなったら、私は……!」
「セシリア、聞いてくれ」
「いや……いやです! 嫌なんですっ! 今までしてきた事が、全部無駄だったなんて!」
分かっている。
此処で諦めるのが、彼女にとって一番辛いことは。
しかし人の身で全ての過去を変えるなんて、烏滸がましいことが許されるわけがない。
例えそれが聖女であったとしても。
だからこそ俺達は過去を経て、進んで来たんだ。
俺はあの時の光景を思い出し、最後に伝える。
「確かに、今のままだと俺の命は消える。でも元の時間軸、意識を失う間際に、俺は計算尺を使った。そうして導き出したんだ。死を回避する可能性を」
「……!?」
「俺が呪いを受けるのは、運命で定められている。治癒も出来ない、避けられない決定事項だ。でも死ぬと決まった訳じゃない。俺が呪いを受けたまま、生きられる可能性がある。そうすれば未来を、運命を騙すことはできる」
意識を失う直前に見たのは、俺の計算尺が示した答えだった。
可能性はある、と。
諦めるな、と言われているように感じた。
あの時は既に、誰かに話すだけの余力も残されていなかった。
だからこそ、こうして伝えられたのはセシリアのお蔭だった。
「本当は、こんな事も話せなかった。でも、こうして今、俺は伝える事が出来た。君がやってきた事は、絶対に無駄なんかじゃない」
「……!」
「元通りにはならないと思う。今のように、こうやって話す事も出来ないかもしれない。だけど、諦めないで欲しんだ。過去を見るばかりじゃない。先の未来を恐れずに、進んでほしいんだ。君には俺だけじゃない。ラルフや、沢山の仲間がいる」
直後、白い空間が崩れていく。
時間が来たようだ。
俺の精神が元の時間へ、世界へ戻っていく。
そしてそれはセシリアも同じだった。
彼女は涙ながらに懇願する。
「いかないで……」
「何処にも行かないさ。だって、俺は……」
●
目が覚めた時、俺は病室にいた。
だが何が起きたのか、何一つ分からなかった。
俺は誰だろうか。
名前は。
年齢は。
出身は。
何もかもを忘れていた。
医師が言うには、記憶を全て失ったのだと言う。
そして、それだけではない。
今ある寿命の半分。
更に今までの俺が持っていた技術、計算師としての能力も全て失われたらしい。
計算師とは、何だろうか。
分からない。
ただ俺のベッドの傍らには、巨大な計算尺があった。
遊び道具、という訳ではないらしい。
多分、これを使って何かをしていたのだろう。
病室にいる間、俺は時折それを回してみた。
だが、何も思い出せなかった。
医師達からの援助を受けながら、ようやく自分の身の周りの事が分かり始めた時。
金色の髪を靡かせた、見知らぬ少女がやってきた。
いやあの姿には、聞き覚えがある。
確か聖女と呼ばれていた女性だ。
魔王を倒し、世界に平和をもたらした勇者の一人。
彼女は俺の目の前まで来ると、ゆっくりと口を開いた。
「貴方の、名前は……?」
「……レキュリー」
「レキュリーさん、ですか……うん、良いお名前ですね」
「君は、誰?」
「私は貴方の……いえ、私はセシリア。昔からのお友達です」
「友達……もしかして、俺を助けてくれた……?」
「あはは……皆さんの内の一人、ですね」
彼女は悲しそうに笑う。
俺は魔王の戦いに巻き込まれ、勇者の皆に助けられたのだと言う。
全くそんな記憶はないが、実際かなり酷い状態だったらしい。
セシリアという少女とも、もしかしたら交流が深かったのかもしれない。
でも、何も覚えていない。
申し訳なく、俺は視線を逸らした。
「ごめん……俺には、聖女である君にしてあげられる話がない。何も、ないんだ。自分が今まで、何をしてきたのか、どんな人間だったのか、どんな力を持っていたのかも」
「良いんです。私も、同じですから」
「え?」
「私、聖女の力を失ったんです」
そう言えば、医師から聞かされたことがある。
自分には強大な呪いが掛けられ、手の施しようがなかった。
しかし勇者達と都市の人々の全魔力を使い、その呪いを半分に分けて別の人に移したのだと。
同じ呪いをその人が受けたのだと。
まさか、俺を助けるために彼女が呪いを受けたのか。
そして、聖女としての力を失った。
それだけではない、余命の半分すら失ったのだ。
俺は恐る恐る聞いた。
「もしかして、俺のせい……?」
「いいえ、これは私が望んだことです。例え元通りにならなくても、一緒にいられなくても、命を削ってでも、私は貴方に生きていてほしかった」
呪いを半分にした事で、死は回避できたという事か。
しかし、それではあまりに酷だ。
俺のような人間を助けるために、聖女という掛け替えのない力を犠牲にするなんて。
その力は、もっと沢山の人を救える筈だったというのに。
それでも、彼女に後悔はないようだった。
「今の私は、聖女でも何でもありません。でも足りないものは、力が無くても作っていける。今度は、私が貴方を連れ出す番です。元気になったら、また一緒に過ごしましょう。ラルフさん達も、貴方を待っています」
「何もなくても……?」
「そうです。それに何もない者同志、結構お揃いじゃありませんか?」
にっこりとセシリアは微笑んだ。
何故だろう。
とても温かな気持ちになる。
もしかすると記憶を失う前の俺は、彼女と共にいる事を喜んでいたのかもしれない。
俺は自然と頷いていた。
「そう、か……そうだね。何もないなら、作れば良いんだ。俺達は、生きているから」
「はい。悲しい事は、今日で終わり。これからは楽しい事で、全部塗り替えていきましょう」
先の事など分からない。
でも、生きている限り道は続く。
何もない不安も、不確かな未来も、彼女と共にいれば、乗り越えられる。
そんな気がして、俺はようやく微笑む。
時を刻むように、傍らの計算尺がカチリと鳴った。