第31話 きっと僕らは、この世界にのめり込み過ぎたらダメなんだ。
悠々と静かに進む船。
夜空に昇った月がしっとりと海を照らし、自分の存在を映していた。
それはまるで夜空に浮かぶ船のようで、船が闇を掻き分けるように進むたび、立つ波がキラキラと星のように瞬いている。
そんな安い純文学の冒頭のセリフのような、微妙な表現を頭の中で展開しながら俺は甲板で海を眺めている。
日中、俺が海の上で文字通り散ってから、再生するまでに相当な時間を費やした。
相当とは言っても1日2日掛かったわけじゃない。フェリたんが言うには、ほんの数時間程度だったとの事だった。
どうにもこの感覚にはいまだになれないものだ。
不死身であり、どんな傷でも再生してしまうこの能力は万能ではない。
いくら再生できるとは言っても、即死レベルの傷を負えばそこで意識はシャットアウトされる。
そこから肉体の修繕が始まり、完全再生が完了したのちに意識を取り戻す。
不死身と再生とは思っているものの、どうにもそうではないというか……また別の何かとでもいうのか。
正直、分からない事だらけだ。
「よっ。君にしてはらしくない行動だね」
「うひゃぁ!? な、何? って……神宮寺か」
突然、頬にじんわりと湿り気を帯びた冷たい物を当てられて、俺は声を上ずらせて飛び上がる。
あわてて振り向いてみると、そこには銀のコップを二つ手にした神宮寺の姿があった。
無邪気に白い歯を見せながら笑う神宮寺に、俺は眉を寄せて軽く睨んだ。
最初はいきなりの事で何なんだコイツと思ったが、この笑顔を見せられるとどうにもやり辛い。
やっぱり苦手だな、コイツは。
「ご、ごめんよ!! あまりにも二階堂君らしくない表情をしていたからね」
そう言って神宮寺は笑みを崩さす、俺の隣に来て手すりに手を掛けた。
「ほら、二階堂君の分だよ」
そういって手渡された銀のコップ。ひんやりとしたそのコップの中にはブドウ酒のようなものが入っていた。
「あれ? 神宮寺って酒飲んでたっけ?」
「まさか。それはただのジュースだよ。僕は未成年なんだから、お酒なんて飲まないさ」
「まぁ、そうだよね」
コイツはこんな世界に来てまでも酷く真面目だ。
悪く言うなら 『元居た世界の事をいまだに引きずっている』 とでも言うんだろうか。
俺みたいに全部受け入れて、これまでの事を無かった事にだなんて、そんな事は出来ない性格をしているのは見ていて分かる。
どこまでも勉強熱心で、努力を怠らない。でもそれを人に押し付ける事もない。
それを以前から熟してきたコイツだからこそ、こんなところに飛ばされてもそれを忘れなかったんだろう。
「あっ、二階堂君まさか……この世界でお酒を飲める年齢に達してるからって、調子に乗ってお酒飲みまくっている訳じゃないよね?」
「いやいや……まあ、飲む事はあるけどさ。ベリド村でお酒作っている爺さんがいるんだけど、その人の酒ってめっちゃ度数高いから調子に乗って飲めるレベルじゃないのさね。要するにほどほどって事さ、ほどほど」
「それなら良かったよ」
神宮寺は嬉しそうにそれだけ言うと、コップに口を付けてジュースを一口啜る。
俺もつられて同じようにジュースを飲んでみた。
うん。ぶどうジュースだな、これ。なんか久しぶりに飲んだ気がする。
「ねぇ、二階堂君」
「何だよ」
そう呼びかけられて、俺は思わず尖った返事をしてしまう。
だが、神宮寺はそんなの聞こえていないようにこちらに目を向けながら優しい笑みを浮かべていた。
「君はさ、この世界に来てどう思った?」
「え?」
そんな不思議な問いかけに、俺は一瞬戸惑ってしまった。
どう思ったか、なんてそんなものめちゃくちゃ興奮したに決まっている。
異世界に召喚された、しかも勇者として……nなんて夢と希望にあふれた展開を喜ばない奴なんていない。
けれど、そう言おうとして口を開いた途端、神宮寺が遮るように言葉を被せてきた。
「僕はね……最初は凄くワクワクしたよ。でも同時に、不思議な感覚でもあったんだ」
再び目を海に戻す神宮寺。
淡い光で照らされた海を楽しそうに見つめているものの、その目にはどこか悲し気というか憂いが籠められているように感じる。
「どこか夢のような……そんな絵空事の話で、僕が理解する前にどんどんと事が進んで、気付けばその日会ったばかりの人達と冒険を共にして……」
神宮寺は言葉の節々を弾ませながら、高揚を抑えきれないと言わんばかりに話し始めた。
「凄く……凄く凄く新鮮で、全部が真新しくて……僕の中の世界が凄くちっぽけに感じたんだ。自分が考えていなかっただけで、こんなにも胸躍る世界があったのかって、こんな誰もが想像の世界としか考えてこなかった世界で、僕は呼吸して、心臓も鼓動を繰り返しているんだって。普通に生きているだけじゃ絶対に味わえない感覚だよ。これは。でもね……」
そう切り出した途端、表情が陰る。
目を伏せて、手すりの上に置いた右手をギュッと握りしめていた。
「この世界は僕達のような召喚勇者にとって、毒でしかないと思っているんだ。のめり込み過ぎたらいつか呑まれてしまうような……薬物とか煙草とかアルコールとか、そういうのに心が支配されるのと同じで、この世界を受け入れ過ぎたら、逆に心を支配されるんじゃないかって。そんな気がしてならないんだ。僕とあの世界を繋ぎ止めるものがどんどんなくなっていく気がして、遠のいていく気がして……」
そうか……神宮寺はやっぱり、いまだに自分の故郷を忘れたくないのか。
でも、それだと納得がいかない。のめり込み過ぎるのがダメだというのなら、どうしてコイツは必死に人助けをしているのだろうか。
のめり込みたくないのなら、何もせず普通に生活している方が全然納得のいく行動だろう。
非現実的な行動……魔物討伐とか魔王討伐とかをしなければ、まだまだその可能性は低くなるはず。
「でもさ、突然こんなところに召喚されてそんなの留めておく事が出来ないじゃない? せいぜい忘れないようにするとか、元居た世界に帰るつもりで頑張るとかさ。でも、それじゃダメだって気がして……そんなものじゃ何も変えられない気がして、今はあっちこっち転々としながら人助けしてるって事かな」
「悪い。口を挟む上に凄く失礼な言い方するけどさ、それって元居た世界とを繋ぎ止める結果にならないんじゃないの? 人助けする事が故郷とを繋ぎ止める事だなんて、なんか荒唐無稽な気がするんだけど」
自分で言っておいて言い過ぎたかと気付く。
神宮寺も俺の言葉を聞いて体をピクッと振るわせると、バツが悪そうな表情をしながらこちらに目を向けた。
「分かっているよ。何の根拠もない、そんなのには全く効果のない、ただただ独りよがりな事だってさ。理由なんて単純で無理やりなものだよ。両親から付けられた名前……優志に恥じない人間になるようにって。その名前だけが……名前に込められた思いだけが僕とあの世界を繋ぎ止める事だって……そういう風にしか思えなかったんだから」
それは世界と繋ぎ止めるんではなくて、家族とを繋ぎ止めているだけに過ぎないのでは? と言おうとしたがそれは心の中に留めておく事にした。
きっとコイツにとっては、それがあの世界をと繋ぎ止める理由になったんだろう。
俺の物差しで、コイツを測る訳にはいかないもんな。価値観は人それぞれなんだし。
「君はどうなんだい? 君はあの世界に、忘れたくないものはあるのかい?」
そう言って俺をまっすぐに見つめる神宮寺。
その屈託のない笑みに、俺は逃げるように目を伏せてしまう。
「俺には……何もないよ。残して来たものも思い入れも。何もかも全部ゼロにして、やり直す気でいたんだからさ」
俺はコイツのように世界に愛されて育ったわけじゃない。
それを妬む気はさらさらないが、目的をもって必死になれる神宮寺のようになれない。
愛された人間だからこそ、思い入れはたくさんある。忘れたくないという気持ちがある。
俺にはそれがないから、忘れたい記憶だらけだったから、この世界に来たときは全てゼロにする気持ちでいたんだ。
結局は、何も変わらなかったけれど。
「そっか……僕もその方が、君と同じで全部ゼロにした方が良かったのかもしれないね」
神宮寺はそう言って困ったような笑みを浮かべていた。
その奥には確かに、どこか諦めたような、苦しんでいるような、そんな感情がふつふつと伝わってきた。
……理由は分からない。けれど、こいつは今の現状と理想とで板挟みになっているんだろう。
俺のように……か。
「いいや、無理だろ。神宮寺が俺みたいになったらこの世界が滅んじまう。これからも頑張ってもらわないとな。うんうん」
「おいおい、君も勇者として召喚されたんだろう? 何を他人事のように……」
「だって他人事だもん」
「全く……君という奴は」
神宮寺は呆れたように嘆息しながら頭を抱えてしまう。けれど、どこかその表情はとても安堵したようなものにみえた。
ずっと手の届かない光の存在で苦手知識があったけど、この時ばかりはちょっとだけその距離が縮んだように感じた。
ほんのちょっと。小指の爪の先程度だけど。