野生に生きる美しき狼族アリオン。彼らは何処から来て何処に行き着くのか ?
彼はじっと自分の指先を見つめた。細くしなやかな指の先端、白い爪は徐々に細長く伸びて、指と指の間から柔らかな産毛ともつかない銀色の糸が伸びるように、艶やかな毛が生え揃っていく。それに合わせて指先も、まるで魔法をみるように形を変えた。
両肩にかかる見事な銀色の髪が、流れるように伸びて全身を覆うと、身体がしなって背筋が伸び、やがてその姿はしなやかな獸に変わる。さっきまで5本の指を持ち、人間だった彼は、目の前に横たわる湖の、湖面に映る自らの姿を満足そうに見つめた。
プロローグ~ 「アリオン」
彼はじっと自分の指る先を見つめた。細くしなやかな指の先端…。白い爪は徐々に細長くのびて、指ふのと指の間から柔らかな産毛ともつかなるい銀色の糸が伸びるように、艶やかな毛が生え揃っていく。それに合わせて指先もまるで魔法を見るように形を変えた。
両肩にかかる見事な銀色の髪が…流れるように伸びて全身を覆うと、身体がしなって背筋が伸び… やがてその姿はしなやかな獣に変わる…。さっきまで5本の指を持ち、『人間』だった彼は、目の前に横たわる湖の湖面に映る自分の姿ぬを満足そうに見つめた。
半分人間、半分狼…。同じ身体のひとつの細胞の中に2つの遺伝子を持つ彼らが、この世界に現れた起源は誰にもわからない…。きっとこの世界を作った創造主の気紛れな想像力が、ふたつの異なった姿をあわせもつ彼らをこの地上に送り出したに違いなかった。
普段生活する時は人間として過ごし、狩りをするとき、闘いに身を投じるときなど、本能に基づいて行動するときのみ、彼らは狼の姿に変身した。それは彼らにとってはごく自然なことで、急激な細胞の変化に伴う苦痛も感じることなく、ほんの一瞬…陽の光が翳るがごとく、数秒でその姿を変えることが出来た。
でもそれも彼らが生きてきた長い年月の中で少しづつ変化を遂げ…しだいに人間の姿でいる時間が長くなるにつれて、その能力も変化しているのだろう…。
遠い昔、彼らがまだ狼の記憶を多くその身体に留めていたころには、彼らの生活は原始そのままで、群れを成して平原を自由に駆け回り、狩りをして移動しながら暮らした。それが次第に1ヵ所に留まって村を作って定住し、知恵を持つようになると…人の姿の方がはるかに暮らしやすいことを学んだ…。
彼らが持つ長い歴史の中で、その能力をどう生かしながら生きてきたか…? それは、それぞれのおかれた環境によっても違っていたのである。
そして…数ある狼一族の中でも「アリオン」と呼ばれる一族は、少数ながら黒銀色の美しい毛色と宝石のような碧い瞳を持った類い稀な狼達であった。彼らは神々に愛され…その美しい容姿に似つかわしい素晴らしい数々の力を自然から与えられていたけれど、他の狼達のように1ヵ所に落ち着くことを知らず、群れを作って暮らすことを嫌ったため、次第にその数を減らしていった。
そして今では、伝説の狼として…広く語られるのみとなっていた。
~ トルン ~
そして季節は春ー。
山々の根雪も解けはじめて、あちこちに小川のせせらぎが聞こえる頃、奥深い山脈の山裾に「トルン」と呼ばれる小さな狼一族の村があった。長い冬籠もりの季節があけて、村の至るところに春の訪れを告げる小鳥のさえずりが聞こえ、あたり一面…雪を割って小さな草花たちがいっせいに顔を出すと、村人たちはみな揃って家の外へと飛び出す。
村外れから見える森の湖の湖面に浮かぶ解けた氷にきらきらと春の日射しが反射して、それはもう眩しいくらいだった。
村の子供たちは、所々のぞく赤茶けた大地を駆け回り、女たちはみな冬の間締め切っていた住居の掃除に忙しかった。
「マイラ、今日はみんなの帰りが遅いわねぇ…。遠出でもしてるのかしら…?」
隣り合って洗濯物を干しながら、少し年配の女が尋ねた。
「4ヶ月ぶりの狩りだもの。ずいぶんあちこち回っているんじゃないのかしら、」
もうひとりの年若い女が答える。女たちが春を迎える準備に忙し忙しい中、男たちは久しぶりに平原へと狩りに出掛けていた。彼らの生活は完全に分業化されていて、年頃になって成人した若者はみな狩人として、一族を養うために平原へと狩りに出掛けて行く…。それ以外の年をとって狩りの出来ないものや、身体的理由で狩人に成れない者達は技術者として村に残ってそれぞれの仕事に従事していた。
「そうねぇ、今年は春が遅かったから今日が来るのが待ち遠しかったわね。でもそれよりライザさまの具合はいかがなの? もうあれから3週間も経つというのに、未だに床に臥したままだなんて、本当に大丈夫なのかしらね?」
「ええ…あんまり毎日お辛そうなので、お世話する私たちも辛いのよ」
「それはそうでしょうねぇ…お生まれになったお子さまを亡くされたんですもの。本当にお気の毒だわ。だから今日の狩りに、ジェイドさまも行かれずにずっと付き添っていらっしゃるのでしょう?」
「ええ、今日はロウブがジェイドさまの代わりに、狩りの指揮をとっているはずだけど…ジェイドさまも御心配でしょうね?」
二人は忙しく手を動かしながら、さっきからずっとこの村の長であるジェイドの妻の様子について語りあっていた。年若い女の名前はマイラ。ジェイドが自分の片腕として信頼しているロウブの妻である。
実はそのジェイドの妻であるライザが3週間前に男の子を出産したけれど、その子は生まれて数時間後に死んでしまったため、気落ちしたライザの身を案じて、マイラが身の回りの世話をしているのだった。
ライザは年齢で言えばすでに35歳。これが初産だったことを思えば、次の子供を望むには年を取りすぎている。それにもともとからだの弱かった彼女にはなおさらのことで、ましてライザの夫ジェイドはこの村の長であり、その妻にとってその子供を生むことは、彼女の生涯最大の目的であったのだから、ライザの落胆ぶりはかなりのものだったに違いない。
「さあ、ライザさま、窓を開けましょうね。今日はとても良いお天気ですのよ」
そう言ってマイラは、ライザの臥せっている枕元の窓を開けた。
「今の私にはこの日射しは眩しすぎるわ…あの子が生きていればどんなにか気持ちのいい朝だったでしょうに…」
ライザは布団を頭から被ったまま…顔を上げようともしない。
「お亡くなりになられたお子さまはとても気の毒でしたけれど、ライザさまさえお元気になって元どおりになられれば、また丈夫な赤ちゃんはいくらでもお産みになれます。ジェイドさまもきっとそれを望んでいらっしゃいます。」
「いいえ、マイラ…。あなたがそう言って慰めてくれる気持ちは嬉しいけれど、身体の丈夫でない私にはもう無理なの。それにジェイドも私も年をとりすぎているわ…。」
「ライザさま…」
あまりのライザの落胆べりにマイラも言葉を失う。それほど彼女の受けたショックは大きかった。
と、その時急に外が騒がしくなって、何人かの男たちの声と足音が近づいてきた。狩りに行っていた男たちが戻って来たらしい。
「族長❗、族長❗」
さけびながら慌てて駆け込んで来たのは、ジェイドの代わりに男たちの指揮をとっていたロウブだった。彼はひどく慌てた様子で、挨拶をするのももどかしげにジェイドの側に駆け寄って来た。
「おう、これはロウブご苦労であったな。」
奥の部屋でひとり考え事をしていたジェイドはロウブをにこやかに迎えた。
「ジェイドさま、これをご覧下さい!」
ロウブは少し興奮ぎみにそう言いながら、片手に大事そうに抱えていた皮袋のふたを開けて中を見せた。
「何と?! これはいったい!!」
思わず、ジェイドは息を呑む。ロウブの差し出した袋の中には、片手にのるほどの小さな赤ん坊が静かに眠っていたのである。
「じ、じつは…」
そこでロウブは、獲物を追って入ったここから数十キロ離れた谷で、倒れている狼一族の夫婦を見つけたこと。男の方はすでに息絶えていて、女の方ももはや虫の息だったが、その死の間際に生まれたばかりの自分達の赤ん坊をロウブたちに差し出すと、
「この子は私たち一族の最後の子供です。どうか…私たちの代わりにこの子を…」
そう言って息絶えたことなどを話した。」
「しかし、なんという…」
ジェイドはその生まれたばかりだとかいう赤ん坊をぞっと抱き上げると、じっとその顔を見つめる。眠っているその子の髪の毛はふさふさとして黒く、愛らしい口元とその肌は透けるように白い。明るい色の髪と褐色がかった肌の多いトルンの人々とは明らかに種族の違う赤ん坊である。さすがのジェイドも戸惑いを隠せなかった。
「一族最後の子供だと言っていたとか…?」
「はい、じ、じつはジェイドさま、この子の死んだ両親というのは、それは見事な黒銀色の狼でして…。もちろん、それを見たのは私だけではなく、そこにいたすべてのものがみております。」
「うむ、それが本当なら、この赤ん坊はあの伝説の狼、「アリオン族」の子供ということになる。アリオンは伝説だけだと思っていたが…。」
ジェイドが驚くのも無理ははない。彼がアリオンの噂を聞いたのは遠く遥か昔、幼い頃の昔語りに村の長老がしてくれた物語の中だったのである。もちろん、その長老でさえ、アリオンの姿を見たことは一度もなかった。
二人が驚きの表情でじっと赤ん坊を見つめていると、それまで眠っていたはずの赤ん坊が突然、大きな声で泣き始めた。
「おぎゃあ~‼ おぎゃあ~‼」
まだ結婚したばかりで子供のいないロウブは、どうしてよいかわからず、ただオロオロするばかりで、ジェイドさえ、先日やっと我が子を得たとはいえ、その子は生まれて間もなく亡くなってしまい、赤ん坊の扱いなどわかるはずがない。
泣き続ける赤ん坊を前に二人が困り果てていると、そこへ臥せっていたはずのライザがマイラに支えられて入ってくる。
「まあ、赤ちゃんが…。あなた、お願い、私に抱かせて…。」
ライザがジェイドの腕から赤ん坊を抱き取って、愛しげに頬を寄せると、赤ん坊も乳の匂いがわかるのか、夢中で探し始めた。
「あら、この子はお腹が空いているのね。よし、よし、今すぐおっぱいをあげるわね…。」
ライザはまるで我が子をあやすように優しく胸に抱いて傍らに腰を下ろすと、自分の乳房を赤ん坊に与えた。赤ん坊もよほど空腹だったのか、夢中になって乳首に吸い付く。
「まあ、なんて美しい子なんでしょう? 雪のように白い肌に、見てマイラ…この子の瞳はまるで碧い宝石のようだわ! ねえ、あなた。この子を私たちの子供として育てましょう! きっとこの子は、子供を亡くした私たちを哀れに思った神様が授けて下さったのよ。ええ、きっとそうに違いないわ!」
ライザは赤ん坊を抱きながら、幸せそうに微笑んだ。まるでさっきまでの深い悲しみが嘘のように…。ジェイドも妻のこの手放しの喜びように、とても嫌などと言えるはずがなかった。むしろ彼でさえ本当に死んだ我が子が生まれ変わって戻って来たような気がしていたのだから…。
ジェイドは微笑んで傍らのロウブを見る。ロウブも、ライザの側でこの様子をじっと見つめていた妻のマイラも、静かに微笑みながらゆっくりとうなずいた。
こうしてこの「アリオン族」最後の子は、レイナス-アリオンと名付けられ、トルン族の族長ジェイドとその妻、ライザの子供として育てられることになったのである。
やかて、季節はめぐり、18年の歳月が流れた。トルン族の長、ジェイドの子となったアリオンのレイナス(以下、レイと呼ぶ)は、両親をはじめ、温かい村人に包まれてすくすくと育ち、立派な若者になった。
身の丈はすでに数年前には父ジェイドを越えて、スラリとした長身に硬く鍛えられた鋼のような筋肉を持ち、生まれた時には漆黒だった髪も、今では見事な 黒銀色になっていた。碧色の瞳はさらに深い色を称え、端正な顔立ちをより引き立たせている。そしてさらにその素晴らしい容姿もさることながら、何よりも素早い脚と敏捷性を持つ、彼の生まれながらにしての能力に、彼がまさしく「アリオン」であることを、もはや誰も疑わなかった。
季節はまさしく春―。
柔らかな陽射しが大地に降り注ぎ、すべての生き物が心浮き立つ春。トルンの村の若者たちも例外ではなく、村のあちこちに恋を楽しむ若いカップルの姿が見える。
娘たちは思い思いに着飾って、少しでも優れた若者の気を惹こうと躍起になり、若者たちもあちらの花こちらの花と渡り歩いている。
今年成人(トルンでは18歳の春)を迎える若者たちは、この春から大人たちに混じって狩りに出ることを許され、その狩りで一人前と認められれば妻を持つことも許される。もちろん今年成人を迎える若者の中には、あのアリオン族のレイも含まれていた。
とにかく子供の頃からすべてにおいて村の若者の中でも抜きん出たレイである。当然村の娘たちはみんな彼に夢中といってもよいくらいなのだが、当の本人はまったく無関心だった。同い年の若い狼たちが新しい恋と狩りの話に毎日夢中になっている中で、レイだけは日長一日森の木の上で昼寝したり、小高い丘に登って遠くに見える地平線を眺めて過ごしている。
「ねぇ、誰か、レイを見なかった?」
いつものようにライザがレイを探している。
「さっき村外れの丘の上でチラリとお姿を拝見しましたが…」
「まあ、しょうのない子ねぇ…。いつもふらりと居なくなってしまうんだから。さっきあれほどお父様が、後で話があるから、どこにもいかないようにって言っておいたのに…」「レイさまもお若いんですもの。いろんな事に興味をお持ちなのですよ。それに季節は春なのですもの、村の若者はみんな恋に夢中ですわよ」
「だったらまだ心配はしないのだろうけど。あの子はどうも昔から他の子とは違って、あっちの方には全然興味を示さないのよ。どこかいつもひとり遠くを眺めて、考え込んでばかりいるようで心配だわ…」
そしてその頃、レイはいつものように村外れの丘にひとり腰を下ろして、じっと眼下に広がる平原と、その遥か彼方に見える地平線を見つめていた。
(何故だろう…? ここにこうしていると妙に落ち着かなくなる。あの地平線の向こうには、いったい何があるのか…。無性に行って確かめたくなるのは何故だ…)
彼は物事付き始めた頃からずっと、繰り返し繰り返し何度も、心の中に湧いてくる疑問に自問自答していた。その度に答を出せない苛立ちから、やがてその想いは深い焦燥感へと変わっていく…。
(何があるのか、行ってこの目で確めてみたい。だが…。)
レイは何度この村を出て、自分をここまで駆り立てるものが、いったい何なのか? 行って確めたいと思ったことだろう…? だがその度に、自分が居なくなったあとの父と母の失望と悲しみを思うと、今一つ踏み切れないでいた。
いつの頃からか、レイは自分が父と母の本当の子供ではないことはわかっていた。そして、村の他の仲間たちと自分の姿が大きく違っていることも…。
だが、別段それがどういうことを意味するのか、考えもしなかった。ただ、父と母が血の繋がらない自分を、実の我が子のように慈しみ、育ててくれたことを深く感謝しているのである。
それ故に一族の長である父ジェイドが、自分に何を望んでいるのか、レイは痛いほどわかっていた。だから彼の横顔には、いつも深い苦しみの表情があった。心の底から沸き上がる(行ってみたい…)という本能の叫びと、両親への想いの板挟みになって、始終彼はくるしんでいた。
その苦しみが、彼を歳のわりには
妙に寡黙な、青年にしているのかもしれない。
村の同じ年頃の青年たちは、毎日を愉快に過ごしている。しかしレイだけは、いつもたったひとりで、一日の大半を過ごし、暇さえあればこの丘に来て地平線を眺めているのである。
そしてまたそんな彼を、遠くからじっと見つめるひとりの少女の姿があった。少女の名前はリーザ。ロウブとマイラの娘で、16歳。小柄で華奢な感じのある、歳のわりには少し幼さの残る可憐な少女である。村の若者の中でも、とりわけ目立つレイの容姿は抜きん出ていて、彼に憧れる娘は多く…彼女たちは、あらゆる手段で彼に近づこうとするものの、彼はまったく相手にしていない。
リーザも彼に想いを寄せるひとりだったけれど、彼女はあまりにも気弱で…引っ込み思案のため、今まで1度も、声をかけるどころか、その存在さえ気付いてもらえないでいる。
(レイさま…。1度でえからお話ししてみたい…。)
彼女はいつも村外れの丘にひとりたたずむレイの姿を、遠くからじっと見つめて、溜息をついている。
幼い頃、森に花を摘みに行ったリーザは、夢中になって摘んでいるうちに、知らず知らずのうちに森の奥深くに迷い込んでしまった。薄暗い森の中で、心細くて泣き出してしまった彼女の前に不意に現れた少年、それがレイとの初めての出会いだった。
トルン族では年頃になるまで、女の子はあまり外を出歩かない。ほとんどがその家のまわりで、常に母親の側で暮らすため、よその男の子と顔を合わす機会はほとんどないのが普通である。
彼女の前に突然現れた少年は、髪は夜の闇のように黒く…瞳は湖の色より碧い…。キリリと引き締まった眉と口元。涼しげな眼をした、まるで夢物語に出てくる森の男神のようだった。
「動くな‼」
ボーッとその場に立ち尽くしていたリーザに、彼は鋭い一言を発すると、素早く茂みから飛び出して、彼女の足下スレスレをかすめていく。
ビックリして、さらに目を真ん丸にして見ているリーザの目の前に、少年は片手を差し出した。彼の持つ木の枝の先には、太い頭の中心を見事に突き刺され、くねくねと体をよじる毒蛇がいた。
「馬鹿か、おまえ。このあたりには、こんな奴がうじゃうじゃいるんだぞ」
少年の激しい言葉に恐怖と驚きでパニックになったリーザは、思わず大声で泣き出してしまう。逆に困ってしまったのは少年の方で、とっさに毒蛇から少女を助けてしまったものの、母ライザや身の回りの世話をしてくる大人の女たち以外、異性など見たこともないレイは、いきなり泣き出した生まれて初めて見る少女にすっかり驚いてしまった。
すぐにでもその場から逃げ出したい気分だったが、ここに少女ひとり残していくわけにもいかず、ばつ悪そうにその場に立ち尽くしていた。
やがて少女の泣き声が、小さなすすり泣きに変わったのを見て、やっとのことで声をかける。
「おまえ、ひとりか…?」
「…」
リーザはコクりとうなずく。
「迷い込んだのか、仕方ないな、ついてこい。」
レイはそれだけ言うと歩き出した。リーザも慌てて後を追う。彼女を気遣いながらゆっくり歩いているレイだが、それでもかなりの速足で、リーザはその姿を見失わないようにするだけで一生懸命だった。
いくつもの茂みを抜けると、急に目の前が開けて、いきなり見慣れた村外れの広場が現れた。
「…? 」
急にレイは立ち止まると、無言で振り返ってリーザに目の前を指さした。見慣れた景色に安心して、思わず駆け出すリーザ。途中、思い出して振り返るともうそこにレイの姿はなかった。
その時出会った少年が後にアリオンのレイと知ったのは、それからずいぶんあとのことだったけれど、凛々しい横顔と研ぎ澄まされた鋭い瞳が強烈な印象となって、幼いリーザの心に深く刻まれた。その時、レイ8歳、リーザ6歳。十代の後半で初潮を迎え、男の子よりひとまず先に成人する村の娘たちは、祝いを済ませると、他の大人の女たちと同じように野山に出て、日々の仕事に精を出す。
リーザも14歳で成人してから、初めて村の祭で、ジェイドの隣に座るレイを見るまで、彼のことを本気で森の男神だと思っていたから、ひどく驚いた。でもそれが自分と同じ一族の若者だと知ってうれしくもあり、今までずっと心の中に抱いていた憧れが、いつしか淡い恋へと変わるのにたいして時間はかからなかった。
(あの時のこと、あの人は覚えているかしら…? 会って確めてみたい。でも…もし、何も覚えてなかったら…)
そんな想いが邪魔をして、リーザは顔を合わせるどころか、側に近寄ることさえ出来なかった。
「リーザ? またこんなところにひとりでいる…」
そう言って近づいて来たのは、リーザよりひとつ年上のランていう少女だった。ランはリーザの幼なじみで、親友とも言える間柄である。
「こんなところで何をしていたの? は…はん…? またここからレイさまのこと見てたのね? もうリーザったら、遠くから見ているばかりじゃなくて、行って話しかければいいじゃない?」
「え―っ? ダメよ、そんなこと!」
リーザは真っ赤になってうつむく。
「もう、ホントに弱気なんだから…。タルラやジェーンを見なさいよ。何度無視されようと、せっせ、せっせと通ってるじゃない? 」
「だって、私はタルラやジェーンみたいに綺麗じゃないもの…」
「何言ってるの! リーザは綺麗よ。可愛いいし、自分で気が付いてないだけなのよ」
「だって…」
ランはリーザよりひとつ年上の17歳。性格もリーザとは正反対で、何事にも積極的でとても面倒見の良いところがある。だからリーザもランを実の姉のように感じて慕っていた。
「ランは恋人のリュウとは一緒じゃないの?」
「うん、先週からまた狩りに出てるの。もうすぐ戻って来ると思うんだけど、でも…?(チラリとレイの方を見て)確かにレイさまっていい男よねぇ…? 銀色狼なんて他にいないもの。力でも村の若者の中ではピカイチだし、なんたってジェイドさまの息子なんだもの。次の族長間違いなしだもんね」
確かにランの言うとおりだとリーザは思う。レイは見た目にも野の神々のごとく凛々しいが力でも、村の若者で彼にかなうものは誰一人としていない。村の年頃の娘たちのほとんどが彼に夢中になるのも仕方ないとわかっていながら…その中から自分のことを選んでくれる確率など、万にひとつもないような気がする。そんな想いが彼女をさらに消極的にしているのかもしれない。
「頑張ってね、リーザ。私も応援してるからね」
それだけ言ってポン!っとリーザのかたをたたくと、ランは笑いながら去って行った。
「あ~あ…、ランの言うとおりになれたら、どんなに良いかしら…。ただでさえ、レイさまは近寄りづらい雰囲気があって、それに私たち、若い娘には全然興味無さそうなんだもの…。」
リーザが再びレイのいた方向を振り返ると、ちょうどレイが立ち上がって丘の向こうの林へと歩いて消えるところだった。彼の銀髪が西陽に透けてキラキラと輝いている。それを見るにつけ、またリーザは深い溜息をつくのだった。
その日のレイは平原へ続く丘陵地で、他の何人かの仲間たちと一緒に獲物を追い込む役を担っていた。彼らの狩りはすべてグループによる分担制で行われる。その役割は、まず獲物となるターゲットを群れから狩り出すグループと、狩り出した獲物をある場所まで追い込むグループ…そして最終地点で待ち伏せて倒すグループに分かれている。それを決めるのはすべてのリーダーたちの頂点に立つロウブだが、そのメンバーはいつも同じとは限らない。その日の天候や狩場の条件に因って変わってくる。
でもたいがい最初に獲物を狩り出すグループは中堅の狼たちで、次に一番運動量を必要とする追い込み役は、今年成人を迎えた若手たち、そして最後の仕上げともいえる獲物に止めをさす役目は、経験豊富な年長者が担うことが多かった。
今日のターゲットは大シカの群れで、この巣立ちの次期には群れから若い牡鹿たちがたくさん巣立って行く…。群れの中心でもなく、かといってまだ完全に巣立っているわけでもない彼らは、狩り出すには格好の標的だった。
レイたち若手グループは、群れから少し離れた場所で、狩り出された牡鹿が飛び出して来るのをじっと待っていた。彼らのいる場所はシカたちの群れからは風下に当たる。狩りをするに当たって彼らが隠れる場所は、絶対に相手の風上であってはならない。その匂いに因って相手に気づかれてしまうからである。ただし、狩り出す役は別で、わざと相手に気付かせ警戒させることで、その先に待つ仲間たちから獲物たちの気をそらさなければならない。
仲間たちは二手に分かれて、左右からいっせいにシカの群れの中に突進し始めた。群れにはそのグループのボスである牡鹿と、今年生まれた子供を連れた母シカ…そしてそれを取り囲むようにして巣立ちを迎えた若い牡鹿たちがいる。
突然の狼たちの出現にパニックを起こして、彼らは一斉にある方向へ走り出した。母シカたちは子シカを守るように外側に円陣を組むように走り、群れのボスである牡鹿は力も強い上に体も大きく、彼を倒すのは並大抵のことではないだろう。
彼らが選んだのは、群れの一番外側を走る若い牡鹿だった。近くにいる牝シカには目もくれず、数頭の牡鹿に狙いを定めると、左右から挟み込むようにしてある一方へと追いたてていく…。やがてその中の一頭が、群れから外れて逆方向へと走り出した。
そこでやっとレイたちの出番が来た。牡鹿の位置を確認すると素早く隠れていた草むらから飛び出して後を追う。牡鹿の両サイドに飛び出して、一定の距離をおいて追いかけるのだが、牡鹿も必死で…いくら若い彼らといってもかなりの運動量を必要とするこの作業は、今年成人を迎えたばかりとはいえ、彼らを疲れさせ…他の仲間たちがみな息が上がる中で、レイだけは平然と駆け続けた。
レイが狩りに参加するのは今回で三回目、最初の二回は高台で先輩の仲間たちが狩りをするのを眺めるだけだったから、実質、彼が参加するのは今日が初めてと言える。
レイは始め仲間の後をついて走っていたが、目の前を走る仲間たちがみな疲れてスピードが徐々に落ち始めると、一気にその上を飛び越えて前に出る。もう少しで追い付くところまで詰めたところで、すぐ前方に止めをさす役の年配のリーダーたちの姿を認めて、そのスピードを緩めた。
たぶんそのまま追い付いて、止めをさすのは簡単だったが、今日のところは一応リーダーたちの顔を立てなければならない…。そのまま近くの繁みに身を隠して様子を見守った。
まっすぐ自分たちのところへ突っ込んでくる牡鹿を四人のリーダーたちは両サイドから一斉に飛び掛かって仕留めに行く…。しかし彼らが思っているよりも牡鹿の力は強く、まだ完全に生え揃っていない角を振り回しながら必死に狼たちを振り払おうとしている。しばらく格闘して遂に牡鹿は、彼らを振り切ってまた勢いよく駆け出した。
「ちっ…‼」
リーダーたちは悔しそうに舌打ちしたが、狩りの場面ではこういうことはよくあることだった。いくら優秀な狩人たちでも、いつも上手くいくとは限らない。逆に成功するよりも、失敗する確率の方が圧倒的に多いのだ。
彼らが諦めて、牡鹿の走り去った方向を茫然と眺めていると、目の前の草むらの中を素晴らしいスピードで駆け抜ける狼が一頭…。銀色のシルエットをなびかせて、あっという間に牡鹿との距離を詰めると、その背に飛び乗って…自らの上体をひねって目にも止まらぬ速さでその首筋に牙を突き立てた。そしてその頃勢いを利用して自分の体重を乗せ、相手をその場に引きずり倒す。さらに倒れ際に牡鹿の首に牙を立てたまま、自らの身体を反転させると、牡鹿は不自然な形でもんどり打って倒れ…「ボキッ!」という鈍い音ともにピクリとも動かなくなった。
レイはゆっくりとくわえていた牡鹿の首を離して変身を解くと…血の滴る口元を手の甲で拭いながら、ゆっくりと立ち上がる。
「レイ…!」
離れていた仲間たちが駆け寄って来て、足下に転がっている牡鹿を見て目を丸くした。
「首、首が折れてる…。」
今までこれほど鮮やかに獲物を仕留めた者はいない。その光景を目にした者たちはみな、レイがアリオンであることを疑わなかった。そしてまたその様子を遠くからじっと見つめていた人物がいた。ジェイドの片腕ロウブである。
「やっぱりあいつは間違いなく純血種のアリオンだな…。」
となりでそうつぶやいたのは、もうひとりの重臣アッサムだった。
「ああ…先がたのしみになりそうだ。」
ロウブも目を細めてニヤリと笑った。
恋
そして、次の満月の夜、村の長ジェイドの館には、一族の重臣たる男たちが集まって、村の将来を決める大切な会議が開かれていた。
主だった重臣は四人。ジェイドの片腕と言われているロウブとアッサム。それ以外のデノン、ネスト。それを取り囲むように十数人の男たちが顔をあわせている。彼らの決定はすべて合議制で、長を中心に多数決で決められる。
皆の顔がそこにあるのを確めて、ジェイドが口を開いた。
「皆に集まってもらったのは他でもない。来月で息子のレイも18になり、成人として我々の仲間入りをすることになるが、皆も知っているとおり、あいつは他の若い者とは違って少し変わっておる。わしもずいぶんと歳をとったし、いずれは息子のレイに後を譲ろうと考えているのだが、それについて皆の意見を聞きたいと思う…。」
ジェイドは居並ぶ仲間たちを見渡して言った。しばらくの沈黙のあと、最初にロウブが口を開く。
「レイは、間違いなく純血種のアリオンだ。先日の狩りでもここに居るみんなが見たはずだ。見事な牡鹿をあいつひとりで倒すのを。あの力と技は誰にも真似出来ん。。レイの持つ素晴らしい力は、一族の繁栄には是非とも必要なのだ。」
「そうだな。ロウブの言うとおりかもしれん。あいつには我々にない力がある。我々が生き残って行くためには、強い力が必要だ。」
ロウブに続いて口を開いたアッサムの言葉に皆黙ってうなずく。豊かな自然に守られた彼らの生活といえども、少しづつ変化する厳しい自然の掟の中で生き延びて行くことは、並大抵のことではないのだ。
「だが心配事がひとつある…。アリオンは孤独な狼だ。群れを嫌い、ひとりで行動する。レイの人嫌いも、恐らくそこからきていると思うのだが…。わしはどうも、いつかレイがこの村を出ていくのではないかと心配でならないのだ…。」
「…」
皆は黙って一斉に顔を見合わせた。
ある午後の昼下がり、村の湖の畔で、いつものように村の娘たちが集まって、水遊びを楽しんでいる。もちろん、その中にはリーザとランの姿もあった。成人した娘たちは、午前中は他の女たちと同じように掃除や洗濯といった細々した家事を手伝い、午後は娘同士集まって、新しい恋の噂話に花を咲かせる。彼女たちの最も愉しい時間でもあるのだが、そのなかでもやはり、いつも真っ先に出て来るのはレイの名前だった。
「タルラ、あんたまたわざとらしくレイさまの家の近くに行っていたんですってね?
「あら、何よ! あんただって、いつもレイさまの通る時間を見計らって、待ち伏せしてるくせに…!」
「ふん…! 何度も無視されてるくせに、厚かましいんだから…!」
「あら、それはお互い様!だけど、またあのつれなさがいいのよねぇ…美しい黒銀色の髪にあのクールな碧い瞳がたまんないわぁ…!」
「うん! うん! 1度でいいから、あの逞しい腕に抱かれてみたいわぁ~!そしたら死んでもいいわ…!」
娘たちは口々に、自分がどんなにレイのことを想っているか、語り合いながらはしゃいでいる。
それを見ながら、ランが呆れて言った。
「なんだろうね? あれは…。だけど、今のままじゃあ、あなた、レイさまにここに居ることさえ、気付いてもらえないわよ…」
「わかっているけど…。でも…」
けっきょく、その話になると、リーザは口をつぐんでしまう…。このままでいくと、本当にランの言うように、同じ村に暮らしながら、一生関わることもなく、終わってしまうのかもしれない…。そんな絶望的な想いが、余計にリーザの心を頑なにしていた。
「じゃあ仕方ないわね。取って置きの恋のおまじないの秘術、教えてあげる」
「えっ…!? おまじない?」
「そう、昔、ちっちゃい頃、おじいちゃんの本の中で見つけたんだ」
ランの祖父は村の祭事には欠かせない占い師で、大切な決め事の時には必ず、その秘技を尽くして占う。村の長であるジェイドも一目おいている占い師であった。だから、占いの類いは、ランにとっては得意な分野である。
「うん、もしかして、リュウ(ランの恋人)もその手で…?」
「ばっか! リュウは違うの!」
ランは悪戯っぽく笑うと、わざとリーザの耳元で囁くように言った。
「いい…? よく聞いて。満月の夜にゼノンの森にある光る洞窟に行って、そこにある光る石を取ってくるの。それにおまじないの文字を彫って、願い事を心の中で三回唱えるのね。そして、それをアクリールの花の根元に埋めるのよ。そうすればばっちり! レイさまの心はもうリーザのものよ。どう? 簡単でしょ?」
「うん…!」
次の満月の夜、リーザはランに教えてもらったとおり、ひとりこっそり家を抜け出すと、ゼノンの森に行って光る石を取ってきた。家族が寝静まるのを待って、ひとりで家を出るのはとても勇気がいることだったけれど、まじないというものはいつでも、人に見られてしまったら何の効果もないという風に決まっている。けれど、今のリーザには、そんな暗闇の恐ろしさよりも、何としても想いを遂げたいという気持ちの方が強かったのだ。
「これに呪文を彫って、アクリールの花の根元に埋めるのね? えーっっと…あの村外れの丘に咲いてたっけ?」
リーザは月明かりに照らされたほの明るい道を光る石を大切に抱えて、村外れの丘へと向かう。
アクリールは春から夏に咲く小さな白い野草で、その実は薬にもなるが、古くから占い師の間では、その根には魔力があると信じられていた。
「あった…じゃあ、願い事を三回と…
(どうか、私の想いがレイさまに伝わりますように…)」
逸る心を押さえながら、心の中でしっかり願い事を繰り返しつぶやいた。そして、ひとつ深呼吸して、目の前の花畑に一歩踏み出す。
「……!? 」
花に向かって片足を踏み出した瞬間、リーザはそこにあった何かにつまずいて、思いっきりその場に倒れ込んだ。
「きゃあ…!?」
おまけに倒れ込んだ場所が急に動いたものだから、リーザは二度ビックリする。
「……!?」
実はリーザが足を踏み入れた場所はレイがよく昼寝している場所で、その日は何故かいつもよりぐっすりと寝込んでいたらしく、夜になったのも気付かなかったらしい。そこにいきなり何かが倒れ込んで来たのだから、レイも慌てて半身飛び起きた。
「きゃっ…!? (レ、レイさま…!?)」
倒れた瞬間、リーザがレイの胸にもたれ掛かるような格好で、二人は互いに顔を見合わせる。
まさか、こんな形でレイと再会するなんて…。まったくの予想外の展開に、リーザはすっかり動転してしまう。
「ご、ごめんなさい…!?」
リーザは慌てて跳ね起きると、今まで自分が何をしていたかも忘れて、走り去る。後に残されたレイも訳のわからないまま、そろそろと起き上がった。
(こんな夜中に若い娘が、たったひとりで何の用だろう…?)
そう思って足下を見れば、何か光る小石と、小さな髪飾りが落ちているのに気がつく。
(なんだ…?)
石には何か文字らしいものが彫ってあるが、意味はまったくわからない。髪飾りの裏にも小さな文字が…。(我が娘、リンへ…)
(あの娘の名前か? それにしても、ハ、ハ、ハ…!)
鉢合わせした時の娘の驚きようがあまりに可笑しくて、レイもひとり笑いながら立ち上がってその場を去る。晩春の夜の、ちょっとした妖精の悪戯か、この夜の出会いが、後のリーザとレイ、二人にとって、とても大きな意味を持って来ることを、この時はまだ二人ともまったく気づいていなかった。
それからさらにしばらく経った頃、レイはジェイドの元から独立して、自分の館を持つことになった。それはとりもなおさず、彼が一人前の男として認められたということであり、成人した立派な狼として、一族に認められたということでもある。
そして、トルンでは18歳になった若者は、成人した証に両親から、その名前を刻んだ銀のブレスレットを贈られる。それは一人前の証であり、危険の中で生きる彼らが仮にどこかで命を落としても、その身元を明かす印になるからだった。レイも誕生日を迎えたその日に、ジェイドとライザから見事な細工のブレスレットを贈られている。
その祝いの席で、彼を取り巻く大人たちから、たくさんの祝いの言葉が寄せられたが、当の本人のレイはちっともうれしくなかった。今までは日永一日、自由に野山を駆け回って、野うさぎや豬相手に狩りの真似事をして遊んだり、同い年の若者たちと力くらべとして、どちらが疲れてギブアップするまで取っ組み合ってその優劣を競ったりした。
それが成人をした日から、彼らの生活はガラリと変わる。朝早くから大人の男たちに交じって、一族を養うため平原へと狩りに出掛けて行く。彼らの狩りは何人かのグループに分かれて行われるが、それぞれのグループにも必ずリーダーが何人もいて、そのリーダーの命令には絶対に服従しなければならない。たとえ長の息子といえども例外ではなかった。
最近では歳をとってまったく狩りに参加しなくなったジェイドに変わって、ロウブが全体の指揮を取ることが多いが、その下にもリーダーは何人もいる。
レイに直接狩りの手解きをしたのはロウブだが、村には若者の教育係が何人かいて、14、5歳になると集められて狩りの仕方を教えられる。いずれは一族全員を養える優秀な狩人を育てるため、ロウブはじめ村でも屈強な男たちばかりが選ばれてその役を担っていた。
彼らは時にとても厳しく、特に集団の中での絶対服従ということには、ことさら厳しい。狩りの中でひとりでもその和を乱すことは、時にグループ全員の命を危険に晒すことにもなりうるのである。
もともとレイは集団での狩りは苦手である。ひとりの方がよっぽどやり易いのだが、それをあえてリーダーの意志に従わなければならないのは、彼にとっては苦痛以外のなにものではない。おまけに疲れて帰って来てもそうそう解放してもらえず、大人の男たちに交じっての祝宴が毎晩のように続く。話題は決まってレイが、彼に夢中になっている村の娘たちの中から誰を選ぶか。まったくもってうんざりである。
(女なんか、うるさくて面倒くさいだけだ…。)
本気でそう思っているレイは、毎日彼の気を引こうと、入れ替わり立ち替わり現れる彼女たちは、まるで目の前を飛び交う、うるさいハエと同じだった。
同い年の若者が語る、村の娘との熱い恋物語を耳にしても、馬の耳に念仏、レイには全く興味のない話である。ただ…父ジェイドと母ライザの、自分に対して抱いている期待だけは無視出来なくて、それが重い重圧となってレイの肩に重くのし掛かっていた。この頃、歳をとって妙に気弱になったライザは、レイの顔を見ると、早く孫の顔が見たいと…口癖のようにそればかり言っている。
そして…いつものように、気の重い大人たちとの祝宴を終えて、自分の館に戻ってきたレイは、どっと全身に疲れを感じて、寝室の夜具の上に体も倒れ込んだ。。その拍子に何かが枕元から何かがコロコロと転がり落ちた。
「……?」
見ると髪飾りがひとつ、床の上に転がっている。
(なんだ…? あの時の…? )
いつかの晩、娘が走り去った後に拾った髪飾りである。リンという娘の名前はわかっても、それをどうすることも出来ず、髪飾りはそのままレイの手元にあった。
髪飾りを拾い上げて目の前にかざして見る。白い骨を削って、小さな水晶を幾重にも繋げて作られた見事な細工物である。
(ふ……)
レイは急に、あの晩の娘のビックリした顔が浮かんで来て、自分でも可笑しくなって笑ってしまう。
(変なやつ……)
酔いと相まってひとりケラケラと笑っていると、そこに不意にジェイドが現れる。
「レイ…」
「父上…?!」
ビックリしてレイは跳ね起きる。レイが独立してから数週間、直接ジェイドの方から訪ねて来るのは、今日が初めてである。
「どうじゃ? レイ、ひとり暮らしは慣れたか?」
「はい、少しは…」
「大人の仲間入りは慣れんことばかりで、いくらおまえと言えども、苦労することも多かろう。だがおまえはわしの子じゃ。一人前の男として立派にやっていける。おまえはわしらの自慢の息子だからな」
「父上…」
ジェイドは微笑みながらレイの傍らに腰を下ろすと、白くなった髭を片手でなぞりながら呟いた。その横顔には長い間、一族の長としてその重責を担って来た苦労がありありと感じられる。その頬や額に刻まれた深いシワを見るにつけ、レイは年老いた父の哀しさを見るのが辛くて、思わず目を伏せた。
「母さんが、おまえは家を出てから1度も会いに来てくれないとぼやいておったぞ。時々は元気な顔を見せてやってくれないか?」
「はい…」
ジェイド同様年老いたせいで、このところ体調の優れないことの多くなったライザは臥せりがちなことも多い。あの美しかった母の、やつれていくその姿を見るのもレイには耐え難く、いつの間にか足が遠退いてしまったのかもしれない。
「そこでだか…」
そう前置きして、急に真顔になると、ジェイドはまっすぐレイを見据えて少し強い口調で言った。
「わしが今日、ここに来たのは他でもない。先日の会議で決まったことを直接おまけに伝えるためだが…」
「会議で決まったこと…?」
いつにない父の真剣な表情に、レイは戸惑いを隠せない。
「そうだ、おまえももう18になって、立派に成人を迎え、一人前の男になった。村の誰ひとりとしてそれを疑う者はない。と、そこでだが…」
ジェイドは先日行われた会議の模様を、レイに語って聞かせた。
「どうだろう…? レイに花嫁を迎えては…」
そう言って口を開いたのは、ジェイドのもうひとりの重臣、アッサムだった。
「えっ?! 花嫁を、レイにか?」
あまりの突然の提案に、ジェイドをはじめ、皆驚きの声を上げる。確かに成人をして、狩りも一人前と認められた若者は、自由に連れ合いを持つことを許される。しかし、それはあくまでも本人たちの問題で、お互いこれと認めあった者同士が、家族や村の主だった者たちに祝福されてのみ、成立することである。
立派に成人したとはいえ、今のレイにそれに見合う相手がいるとはとても思えない。それどころか、逆に避けている様子さえある。皆が驚くのは無理はなかった。それに構わず、アッサムは続けた。
「そうです。レイも成人した。連れ合いを持つのに早すぎる歳ではない。それにあいつの中に流れるアリオンの血は、何があっても次代へ残さなければならない。」
「それはそうだが、相手は…!? 誰でもいいってわけにはいかないぞ。それなりの相手でなければ、あいつだって納得するまい。」
それまでじっと黙って聞いていたロウブがはじめて口を開いた。
なるほど…というふうに皆、低く唸る。
「村の若い娘の中から、レイ自身に選ばせればよい。娘のほとんどはレイに夢中だ。あとはレイの気持ちしだいということになるのではないか? 」
「うーん、それもそうだな。女ができれば、あのレイも多少は変わるかも知れん…ジェイドさまの心配もなくなるというものです。」
重臣たちの意見をじっと目を閉じたまま、腕組みをして聞いていたジェイドは、ひとつ大きな溜息をついた。
「そなたたちの意見はよくわかった。しかし、問題はそれをレイが承知するかどうかだ。ただでさえ、気難しいうえに、あいつはそっちの方面には、まったくと言っていいほど興味を示さぬ。わしもライザも困っておるのだ」
「それならばなおさらのことです。一族のため、長としての命令ということで、父ぎみであるジェイドさまからおっしゃっていただければ、あのレイとて嫌とは言えますまい。なあ、ロウブ…?」
「う、む。アッサムや皆の言うことにも一利あります。ジェイドさま。」
「そうじゃな。」
重臣の中でも、最も信頼しているロウブの言葉にジェイドの心は動いた。
「というわけじゃ…。レイ。これは村人すべての意志でもあり、決定でもある。わしはこの村の長として、おまえに命令せねばならぬ。3ヶ月後の満月の夜、村の娘の中からおまえは連れ合いを選らばなければならない。よいな。まだ時間はたっぷりある…よく考えるがよい。」
そう言い残して、ジェイドはレイの館を後にした。
「このおれが連れ合いを…?!」
あとに残されたレイは、なかば呆然としながら独り言のように呟いた。当たり前の若者なら、いつかはそういうことも考えるだろう。でもレイは違う…。叶うことならば、いつかはこの村を出て、自由に平原を駆け巡ってみたい。そしてあの地平線の…真っ赤な夕陽の沈んでいくはるか彼方に、自分の行く途があるような気がしていた。
しかし、群れに生きるものにとって、その長の命令は絶対である。父ジェイドが、連れ合いを選べというのであれば、息子といえども従わなければならない。それが彼らが生きて行くための知恵であり、掟でもあった。
レイはどこをどう歩いたのか、気がつけば母ライザの居室の前に来ていた。
「誰?…ジェイドなの?」
人の気配にライザが気付く。
「母上…」
少し遅れて、レイはライザの部屋へと入る。昔から何か悩みがあると必ず母の元へと自然に足が向いてしまう。母の優しい声を聞くと、どんな嫌なことも忘れてしまうような気がしていた。
でも今だにそんな思いにとらわれている自分に苦笑しながら、母の伏せっている枕元に歩み寄る。
「レイなの…?」
ライザもレイの姿を見つけると、慌てて起き上がろうとする。
「いけませんよ、母上。寝てなければ…」
「いいのよ、あなたが訪ねてくれたんですもの。うれしくて、病気なんてどこかへ飛んで行ってしまったわ。ねぇ、もっとよく顔を見せてちょうだい…!」
ライザは瞳を輝かせて嬉しそうに笑った。
「れい、あなた何か、悩みがあるのね?」
少し青ざめたレイの表情にライザは何かを感じて尋ねる。
「え…? 何でもありませんよ」
そう言って笑ったものの、母は昔から人の心の中がとてもよくわかる人だった。何もかも見透かされたようで、レイは赤くなってうつむいた。何も言わなくても、きっと母ならわかってくれる。まるで春の陽だまりのような人で、今のレイは無性にその母の暖かさが恋しかった。
「お父様から話を聞いたのね?」
「……」
レイは黙ってうなずく。
「誰も皆、心配なのよ。レイ、あなたは自分自身がアリオンだということを誰よりもわかっていることでしょう…。見た目でも力でも、トルンの誰もあなたには叶わない。でもね、あなたは今はトルンの人間なのよ。アリオンじゃない。この村のみんなも、私もジェイドも…あなたを愛している。アリオンは孤独な民と聞いているわ、あなたの中にもそのアリオンの血は流れている。あなたが村の中に溶け込めないで苦しんでいることも、私もジェイドもよくわかっているのよ…」
母の言葉にレイは、今まで押さえていた何かが、急に込み上げて来るのを感じた。
「このまま行くと…あなたはいつかどこかへ行ってしまうのでは…?みんなそう心配しているのよ。だから今、あなたに花嫁を迎えることで、あなたにこの村にずっと居て欲しいと考えているの。あなたを愛しているわ、レイ。あの早春の朝…あなたが私達の所へやって来たその時から、あなたは私とジェイドのかけがえのない宝なのよ。私達はあなたを失いたくない…」
そう言って泣き崩れる母の、痩せ細った肩を抱きながら、レイはおもった。
幼い頃から、同い年の子供に交じって遊んでいたが、その容姿や行動に至るまで、ことごとく仲摩との違いを、レイ自身嫌と言うほど感じて来た。年頃になると力の違いはさらにはっきりしてきて、同い年はおろか年長の若者でさえ、力くらべでは誰ひとりとして彼にかなうものはいなくなった。そうなると、自然に仲間たちも彼を敬遠するようになる。力の差が有りすぎて、気軽に声を掛けられないのである。
日を追うごとに、レイはしだいに孤独を感じることが多くなり、寡黙な青年べとべと変わっていく。昨日まで一緒に騒ぎ、ふざけあっていた仲間から、畏れと羨望の眼差しで見つめられることに、レイは耐え難い心の痛みを感じていた。
(こんな力など要らない…。みんなと同じでいい…。)
何度も心のなかで密かに願いつつ…しかし、レイの想いとは裏腹に、さらに背丈も伸び、幼い頃には漆黒だった髪が、その肩先まで伸びて見事な黒銀色に変わる頃には、村人の誰しもが彼の中のアリオンを尊敬するようになり、尊敬しながら畏れた。
(トルンやアリオンがどうしたというのだ。どちらも同じ狼一族ではないか。それに片方はすでに滅びの運命にある。おれにとってのアリオンなど、何の価値もない…)
そう思いながらも、心の中に沸き起こる不思議な感覚…。何かを打ち破って自由に飛び出したいという欲求に、時おり呑み込まれそうになる自分が、無性に怖かった。怖れながらも、いつかはそうなってしまいたいという切なる願いも、心の奥深くに宿っている。レイはその心の内に眠っている二つの相反する自分と、常に闘っていた。自分の中のアリオンがそうさせるのか、今の重圧から逃れたい一心で、そう思うのか…。
いずれにしろ、近いうちに自分はここを出ていく…。そんな予感めいたものがレイにはあった。
これから先何が有ろうと、自分の意志で村を離れることはないと…言葉でひとまず母を安心させ、レイはその場を後にした。
(愚かなことをしている…。いったい、いつまで自分の心を偽りつづけるつもりだ…)
そうつぶやく心の声に自分でも呆れながら…レイは自分の館へ帰る道を歩いた。
(この村に残るということはつまり…村の重臣たちの言うとおり妻をめとり、子を成してこの村に骨を埋めると言うことだ。そんな事がおれに出来るのか…!?)
病弱な母を安心させるためとはいえ、心にもない嘘を吐いてしまった自分に、レイは深い嫌悪感を覚えた。
そんな事を考えながらフラフラ歩いていると、やがて近くの茂みから、何やら男女の争うような声が聞こえて来る。
(おれには関係のないことだ…)
そのまま行き過ぎようとした時、男の方の声に妙な聞き覚えがあって、思わず足を止めた。
「やめて!もう構わないでって言ったでしょう!?」
「何でオレじゃあダメなんだよぉ…!? オレの方がよっぽどおまえを幸せにしてやるって言ってるじゃないか!」
どうやら男の方が一方的にかなりしつこく迫っているらしい。女にはその気がまったくないのが、聞いているこちらにもわかるくらい、言葉の端々にも嫌悪の気持ちがハッキリと現れている。
「嫌っ…! 誰があなたなんか…」
「何だと‼ おまえもあのレイに夢中だって言うのかよ!」
「関係ないわ、あなたには…、!」
しばらくそのまま聞いていたが、再び歩き始めた時、そこで急に自分の名前が出てきたことに驚いて、レイは歩みを止めて振り向く。
が、次の瞬間、業を煮やした男の方がいきなり強行に出たのか、茂みから突然甲高い女の悲鳴が上がった。
「きゃあ、嫌っ…‼ 止めて!」
「せっかくこっちから下手に出てやっているのに、おまえがその気にならないなら、力づくでもオレのものにしてやるまでだ‼」
そのただならない雰囲気に、レイがとっさに振り向いたのと、茂みからひとりの少女が飛び出して来たのは、ほぼ同時だった。
「……?」
少女は一瞬立ち止まると、そこにいるレイの姿を見て、信じられない様子でしばらく呆然と見つめていたが、ハッと我に帰ると、すぐさま青ざめた頬をひきつらせて泣きながら走り去る。レイもその少女にどこか見覚えがある気がして、じっと後ろ姿を見つめた。すると…やがてその少女の後を追うように、でっぷりと太った体格の良い青年が茂みから現れた。
彼は無言でそこにレイがいるのを見ると、罰悪そうにフン…!と鼻を鳴らした。
(やっぱり、こいつだったか…。)
心の中でつぶやく。
彼の名はヴァント。レイより3歳年上の若者で、ジェイドの重臣のひとり、アッサムの息子である。
顔一面にニキビを浮き立たせた、お世辞にも見栄えがいいとは言えない青年だが、父親がジェイドの重臣ということで、仲間内では一目おかれている。性格もわがままで、自分勝手なところがあるために、始終回りの大人たちから諌められているが、本人は一向に堪えていないらしい。おまけに太っているから、狩りに出ても動きが鈍い。そのくせ大した働きはしてないくせに、態度だけは偉そうで、まったくもってレイにとっては鼻持ちならない相手だった。
「レイ、何でおまえがここに居るんだ?」
ヴァントは罰の悪さを誤魔化すように、ここで会ったのがさも意外と言いたげにつぶやいた。
「さあな、おれは偶然通りかかっただけだがな…」
レイも面倒くさそうに答える。
「フン! おまえのおかげで、せっかくの大事な獲物を取り逃がしてしまったじゃないか…、!」
どうやら娘に逃げられたのが、レイが邪魔したせいだとでも思っているのか、嫌味めいた口調で絡んでくる。もともとまったく相手にされていないのを、こいつが勝手に入れあげていただけだろうに、まったくもって勘違いも甚だしいが、そんな事をこいつに言っても解る筈がない。
「おまえにとって女は獲物と同じか?」
「何だと…!?」
レイの言葉にカッとなったヴァントだが、さすがにレイに向かっていく気にはならない。敵わないことは十分にわかっているのである。そのかわり、とんでもない嫌みを投げてきた。
「いいよなぁ~! おまえは。何もしなくても女は寄って来るし、おまけに嫁取りの段取りまでしてもらえるんだからな…」
昼間から酒を飲んでいるのか、顔も赤く、鼻息も荒い。
(こいつ、何でそのことを知っているんだ…!?)そう思ったが、はたと思い当たる。こいつの親父はアッサムだった。
「なあ、レイよ。おまえ、連れ合いをもらうからには、女はもう知っているんだろうな? どうやったら、あの時、女がひぃ、ひぃ言って悦ぶか、教えてやろうか?」
ヴァントは赤ら顔でへらへら笑いながら、酒臭い息を吹きかけてくる。本当に嫌なやつである。
「これ以上、おれに用がないなら、さっさと消えろ‼ 」
さすがのレイも我慢できなくなって、吐き捨てるように言った。
「フン! 言われなくても消えるがな。これだけは言っておく…。おまえが誰を選ぼうとおれの知ったこっちゃないが…ロウブの娘のリーザだけは止めとけ! おれが先に目を着けたんだからな…!」
そう言い残すと、またふらつく足を引きずって、茂みの中に消えて行った。
(ロウブの娘だと…? ではさっきヴァントの毒牙から危うく逃げて来たのは、そのリーザとかいう娘なのか? しかし、あのヴァントに気に入られるなんて、なんとも不運な娘だな、ロウブはこの事を知っているのか…?まあ、オレの知ったことではないが…。)
思いを巡らせながら、レイも家路を急いだ。だが、まさか、その娘が、いつかの満月の夜、アクリールの丘で出会った娘だとは、さすがのレイも知る由がない。
それから瞬く間のあいだに、3ヶ月後の満月の夜、レイが村の娘たちの中から花嫁を選ぶという話は、村中に広まった。レイに夢中になっている娘たちは皆、有頂天になって、自分こそが選ばれるのだと、意気込んでいる。けれどその中で、リーザだけはひどく落ち込んでいた。
「あなた、この頃リーザの様子が変なんですよ。急に塞ぎ込んでしまって…。何か思い詰めているようなんですけど、いくら理由を聞いても何も答えてくれなくて…」
リーザの母が心配そうにつぶやく。
「フム、またレイの事を考えているのではないか? 誰にでも平等にチャンスはあるが…何せ選ばれるのはひとりだけ…こればかりはわしでもどうしてもやることも出来ない…
」
さすがのロウブも困り顔である。子供心にリーザが幼い頃からずっとレイに憧れていたことは知っていた。その願いを叶えてやりたいと思うものの、若い男女の問題に口を挟むなど、そんな無粋なことは、ロウブでも出来ない。まして相手はあのレイである。年上になって、あきらめて適当な相手を見つけて幸せになってくれれば良いと考えていたが、そこにこの嫁取りの騒ぎである。願ってもないチャンスだが、もし選ばれなければ、今以上にショックを受けるにちがいない。
(どうしたものか…?)
二人が思案に暮れていると、しばらくずっと閉じ籠っていたリーザが奥から姿を現した。
「リーザ…?」
ずっと泣いていたのだろう。両目は赤く泣きはらして、頬にも涙の痕が見える。
「ランのところへ行ってくる…」
ポツリとつぶやいて、彼女は出ていく。二人ともあまりの彼女の痛々しい様子に、それ以上声を掛けることが出来なかった。
リーザはこの数日、ずっとひとつの想いが頭の中をぐるぐると駆け巡り、繰返し何度も浮かんで来る否定的な答を、自分自身で打ち消す事が出来ないで苦しんでいた。
(もう駄目かもしれない…。ヴァントに言い寄られているところを、よりによってあのレイさまに見られてしまうなんて…。きっと、あの人はもう私のことを当たり前には見てくれないに違いないわ…)
絶望的な言葉だけ、次から次へと浮かんでくる。するとまた涙が溢れて来て、もうリーザはどこをどう歩いて来たのか、自分でもまったくわからなくなってしまった。
「リーザ?」
誰かに名前を呼ばれて振り返ると、そこにはランが立っていた。ランの顔を見て、安心したのか、リーザは大声で泣きながら、ランに駆け寄った。
初夏の燃え立つような夕陽が、山脈の山裾を舐めるように照らしていく。ランの住まいになっている小屋の西の明かりとりの窓にも、名残陽が長い影を落としていた。
「どう? 少し、落ち着いた?」
ひとしきり激しく泣いたあとで、
やがて、その声が小さなすすり泣きに変わる頃、ランは優しくリーザに語りかける。
「何があったの? リーザの様子がおかしいって、おばさんが心配してたから…」
「だ、だって……」
ひどく泣いたせいで、リーザの声はかすれている。それでも途中何度も詰まりながら、この前からの出来事…満月の夜の出合いから、ヴァントの無理な求愛から逃げて来たところを偶然、レイに見られてしまったことなどを話した。最初は黙って聞いていたランも、ヴァントの話になると、自分のことのように怒りを爆発させた。
「なんていう奴なの! 許せない…! ロウブさまに言って懲らしめてやったら!?」
「ダメ! そんな事したらレイさまに見られたことがわかっちゃう!それにきっと、レイさまは私のこと変に思ったに違いないわ…」
そう言ってまたリーザは泣きはじめる。
ランもひとつ大きな溜息をついた。雪解けの頃から、ヴァントがリーザに何かとちょっかいを出して来ているのはなんとなく知っていた。でもそれは他愛のない悪ふざけだとランも思っていたから、それほど気にはしていなかった。それが、自分の思いどおりにならないとわかって、力付くの行動に出るなんて…。
もしそこにレイが通りかからなければ、リーザはどうなっていたことだろう…? ただ、偶然とはいえ、逆にリーザにとっては幸運だったのかもしれない。どんな形であれ、レイに印象付けることは出来たはずだから。
「でもどうしてそんなところへ行ったの? あれほどひとりにならないでって言ってたでしょ?」
「髪飾りを探していたの。父さんにもらった大切なものだったから…」
「あの、水晶の飾りの付いた?」
「そう…」
「でもあれには名前が彫ってあるって…」
「ううん、あの名前は私が子供の頃のものだし、その名前を呼んでいたのは、父さんだけだもの」
「そっかぁ…じゃあ誰かが拾ったとしても、それがリーザのものだなんて、わかんないわね。でも元気を出して、リーザ。レイさまはあんたのことを変な娘だなんて思わないわよ。悪いのはヴァントだもの。あんたはレイさまに救われたのよ。彼が現れなければ、どうなっていたかしら…? ねっ? おまじないは効いたでしょう?」
ランはそう言って悪戯っぽく笑う。
「ううん…ダメよ。けっきょく最後まで出来なかったもの。」
「そうじゃないわ、おまじないは、心の中に相手を想う時からもう始まっているのよ。だから、あの晩、あんたが行ったあの丘にレイさまがいたのも運命なら、ヴァントに襲われたその場面に、レイさまが居合わせたのもみんな運命なの。でも、一瞬でもレイさまに触れられたんでしょう? タルラたちが聞いたら、卒倒しちゃうわよ。抱きついちゃったんだから…」
思わず、あの晩のときめきがフラッシュバッグしてきて、リーザは真っ赤になる。転んだ弾みとはいえ、互いの頬が触れるくらい近くに寄ってしまった。一瞬触れたレイの胸は広くて、とても温かだった。
月明かりがあったとはいえ、彼からは逆光になっていたから、きっとリーザの顔は見えなかったに違いない…。
「ねっ…? 信じようよ。奇跡をさ…」
「うん…」
そこでやっとリーザは笑顔に戻った。
「(あなたが好きです…)」
誰かが耳元でささやく…。ささやきながら、白く細い腕を彼の首に絡みつけてくる。
「(…誰だ…?)」
叫びたくても、うまく言葉にならない…。相手の顔は暗くて見えないのに、甘い髪の匂いと妙に柔らかい肌の感触だけが伝わってくる。
そんな心地よい感覚の中で、やがて何かが体の中心を突き上げるような衝動に、レイはビクッとして飛び起きた。
(やっぱり、夢か…!?)
辺りを見回せば…静寂に満ちた夜の暗闇があるだけである。この頃決まって毎晩、同じ夢を見るようになった。誰かわからない相手に、優しく抱きしめられる夢。甘く切ない想いだけが、ひしひしと伝わってくる。
彼はどうしてよいのかわからないまま、身動きひとつ出来ずにやがて目覚めるという繰返し…。
自分でも変だと思う。いつかの晩、リンという娘に会ってからかもしれない。倒れてきた娘を抱き留めた時感じた、甘い髪の匂いと肌の柔かさが、今も時々不意によみがえってきて、レイを戸惑わせる。彼だって若い健康な雄である。精神では拒絶していても、身体は正直なのだ。その証拠に、目覚めたあとで、自分の体の一部が、妙に熱っぽくいきり立っているのをレイは、戸惑いながらも苦々しく感じていた。
今日はいつになく狩りの収穫も多かったので、大人たちはみな上機嫌だった。レイたち若者も、いつもの祝宴の片隅に陣をとって、酒を酌み交わしながら、賑やかに互いの労をねぎらい合っている。
「凄かったよな…? あの水牛の群れ、いつかあんなの倒せたらなぁ…」
「ばか言え、下手に突っ込んだら、踏み潰されてペシャンコだぜ。」
彼らは口々に今日の狩りの感想を述べあって、楽しげに騒いでいる。もう何度も狩りに参加している者、そうでない者、その経験や働きによって自然と座る位置も決まってくる。当然、今年成人を迎えた若者の中では、レイが一番中心に近い所に位置していた。
今日の狩りでも、レイは並の大人の2倍、年上の若者でさえ数人がかりでしか倒せないものを、彼ひとりで易々と仕留めていく。
しかし、回りがはしゃぐ中、レイはひとり黙々と杯を傾けている。昔から賑やかな場所は苦手だった。
「よっ…、! レイ、久しぶりだな…」
そう言って彼の隣に腰を下ろす若者がいる。見ると4歳年上の従兄、リュウだった。リュウはジェイドの妹の息子で、レイとは従兄同士ということもあり、幼い頃からよく一緒に遊び、レイが少年時代、唯一負けた相手だった。
リュウはとても爽やかな青年で、容姿も清々しく、狩りの腕もいい。将来は村を支えていく、大切な重臣のひとりになるだろうと言われている。村の若者の中でも、レイの次に人気のある青年だが、来月すでにランとの結婚が決まっている。
「リュウ…?」
「相変わらず無愛想なやつだな…ライザさまが嘆くわけだ。これでもう少し愛想が良ければ、おまえもっともてるぞ…?」
「ぬかせ!」
二人は互いに酒を酌み交わしながら、冗談混じりに昔話に花を咲かせる。幼馴染みで従兄同士という気安さもあって、普段は無口で無愛想なレイも、この気さくな青年にだけは心を開くことが出来た。もっともリュウが成人したあとは、お互い生活の場所が違うこともあって、ほとんど顔を合わす機会もなかったが…。
「おれは嬉しいよ。またおまえと一緒にかけまわれて…。だけど、もうおまえにはかなわないな、狩りでも何でも…」
「リュウ…」
レイはこの年上の従兄をじっと見つめた。
(おまえまで…?)
という気持ちが自然と表れていたのかもしれない。リュウは慌てて言い直した。
「おれは、おまえの力を認めた上で言ってるんだ。おまえならいつか必ず村のリーダーになれる。そうなった時、おまえの側で、一番でおまえを助けるのはこのおれだからな…!」
そう言ってリュウは自慢気に笑う。その言葉にレイは、長いこと忘れていた感情が込み上げて来るのを感じた。やはりリュウは他の奴らとは違う。もの心つく前から一緒に遊び、過ごした仲間なのである。
「でもその前に、おまえも男にならなきゃな!」
「ぶっ!」
いきなり背中を叩かれて、思わずレイは吹き出して、激しくむせる。
「悪ィ、悪ィ…、!」
激しく咳き込みながらも、今のレイはリュウの存在がたまらなくうれしかった。
「ところで、おまえもう相手は決まっているのか?」
ひとしきり笑ったあとで、今度は興味深そうにリュウが聞いてきた。
2ヶ月後のレイの花嫁選びのことを言っているのだろう。
「いや…」
「いないのか? 誰も?」
「いない…」
そっけなくレイも答える。
「呆れたやつだな…。それでいて、一生連れ添う女をこれから選ぼうっていうんだから、信じられないね。」
リュウは本当に呆れたような顔をして杯の酒を一気に飲み干した。彼に何と言われようと実際にいないのだからしょうがない。ただ…あの名前の娘をのぞいては…。
「じゃあ、おれが教えてやる。タルラは村一番の美人だが、ちょっとわがままだ。ジェーンはグラマーだけど、ありゃ、年取ったら絶対太る質だな。その証拠におふくろはスゲーデブだ。それに…」
「もう、いい…。おまえにとっていい女はランだけじゃないのか?」
「当たり前だ。でもランは止めとけ、もう男がいる」
「ばか…、!」
他愛もない悪ふざけが、リュウとなら自然に出来る。
「なぁ、この村にリンという名前の娘はいるか?」
「リンだって? 聞いたことないな…。この村の娘に間違いないのか?」
「さぁ、わからない…」
「なんだ、おまえにもそれなりに心当たりがあったってことか…。おれは本気で心配してたんだ。おまえは女には興味がないんじゃないかってさ…」
「そんなんじゃない…!」
むきになって否定するものの、心の中では多少の落胆は、隠せない。
(この村の娘じゃなかったのか? そうだろう…若い娘が、夜中のあんな時間にひとりで出歩くなんて、どうかしている。どうやら、おれは、森の妖精にでもからかわれたらしい…。馬鹿げたことだ…。)
妙な期待を抱いていた自分に、ないんじゃないかって半ば呆れながら…レイは想いを絶ちきるように杯を一気に飲み干した。
「レイ、こっちに来て一緒に飲まないか?」
奥の重臣達から声が掛かる。リュウを見れば、(行けよ…)という風に目配せしている。渋々レイは、呼ばれた方へ座を移した。
重臣達の席は皆より1段高くなっていて、ジェイドを中心にその両側
にロウブ、アッサムと村の主だった者達が連なって座っている。さすがのレイもその中に入っていくのには抵抗があった。
「レイ、ここへ…」
傍らに座るロウブが、少し場所を空けて自分とジェイドの間にレイを招き入れる。レイも父であるジェイドに一礼して、その場に腰を下ろすた。
「今日の一番手柄はレイだな。見事であった。誇りに思うぞ。」
「ありがとうございます」
他人行儀な挨拶も、皆の手前仕方がない。例え長の息子でも、ここでは新参者のひとりに過ぎないのである。
レイが加わって、それからまたひとしきりの酒盛りがはじまる。せっかくのリュウとの再会に水を差されて、少し不機嫌なレイだが、ここではそういう表情をあからさまに出すことは出来ない。またいつもの無表情な彼に戻って、ひたすら注がれる酒を飲み干した。
それからどれくらい経った頃か、重臣の誰かが近くにいた世話役の女に何かを耳打ちすると、やがて座の端から若い娘の一団が現れる。
「どうじゃ、レイ…今夜の余興に娘たちを呼んでおる。いずれも若く美しい花嫁候補ばかりじゃろう?」
「……!?」
驚くレイを尻目に娘たちは、嬉々として彼を取り囲み、先を争ってその杯に酒を注ごうとする。たぶん、前から娘達と大方の話はついていたのだろう。なんとも手際が良い。レイに逃げ出す隙さえ与えないとは…。
「娘たちよ、今夜は存分にレイを酔わせてやってくれ。明日は狩りは休みじゃ。潰れさせてもよいぞ。あとはそなたたちに任せる…」
(冗談じゃない…この勢いで来られたら、さすがに身がもたない…何とかしなければ…)
そう思いながら、居並ぶ娘たちを見渡すと、列の最後尾に見覚えのある娘が居るのに気づく。
(あれはいつか、ヴァントに言い寄られていたロウブの娘…?)
ひとりずつ酌を受けて、やっとリーザの番が回って来た。よほど緊張しているのだろう。酒を注ぐ手元が震えている。すると、酒は杯から溢れてレイの膝を濡らした。
「ご、ごめんなさい…!」
リーザは慌てて、自分の衣の裾でレイの濡れた膝を拭う。
「かまわぬ、気にするな…」
あまりの狼狽ぶりに気の毒になって、レイはそう声を掛けたにすぎないのだが、彼女が彼の膝を拭こうと身を乗り出した拍子に、後ろに束ねていた長い髪が不意に前にしなだれ掛かってきて、突然なんとも甘くいい香りが彼の鼻先をくすぐった。
(この香りはどこかで……?)
そう思って顔を上げると、そこにもうリーザの姿はなかった。
「すまぬな、レイ。娘は奥手でな、甘やかして育てたせいか、幼くて……」
いつもは堂々としているロウブも、さすがに愛娘のことになると弱いらしい。心配げにじっとリーザの消えた方向を見つめている。
(今、一瞬…あの時と同じ髪の香りがした。おれの気のせいか…それとも酔いが回ったか…?)
その晩レイは、いつ自分の舘に戻ったのかもわからないくらい、酷く泥酔していた。何度か途中吐いたのは覚えている。普段から酒はそんなに弱い方ではない。むしろ底無しで、いくら飲んでも酔ったことがないくらいだった。それが今夜は杯の空く暇もないほど、次から次へと来るのだから、さすがのレイもたまったものじゃない。途中ロウブが止めに入らなければ、本気で潰れさせていたかもしれない…。重臣連中の下らない好奇心を満たすために、昨夜は本当に酷い目にあった。
望みもしないのに娘たちに囲まれて、浴びるように酒を飲まされた挙げ句、酔った連中の好奇心に晒されて…。思い出す度、舌打ちしたくなるほど苦々しい想いが胸に込み上げて来る。
(二度とあんな誘いに乗ってたまるか…。女などまっぴらごめんだ…!)
そう思いつつ…昨夜の父ジェイドの満足そうな顔を思い出すと、また大きな溜息がもれる。
再び、狩場―。
朝から季節外れの霰が降り、そのせいか、皆の士気も鈍り気味である。平原には獲物となる動物の姿も少ない。途中何度も激しい雨に叩かれ、泥にまみれた身体は重たい…。さすがの屈強な男たちにも、疲労の色は隠せなかった。
「仕方がないな…。今日はここまでで引き上げるか…?」
「そうだな…これ以上追っても無駄だろう…」
リーダー達の判断でその日の狩りは中止と決まる。
「レイたちはどうした?」
「東の渓に向かったはずだが…」
程なく、若手を中心にしたグループが戻ってくる。しかし、その中にレイの姿はなかった。
「レイはどうした…?」
「先に引き上げろと言ってあいつだけ残ったんだ…。直に戻るから心配ないと言って…。」
「ひとりでか…? 無茶をする。」
ロウブは溜息をついて、まだ当分止みそうもない空を仰いだ。
その頃レイは数キロ離れた渓の茂みの中で、じっとチャンスをうかがっていた。彼の目の前、十メートル程先に見事な角を持った雄シカが立っている。時々頭を上げて辺りを用心深くうかがいながら、足元の草を食べている。目の前の茂みの中にレイが隠れていることに、まったく気づいていないらしい。それどころか、少しずつこちらに近付いて来ている。
(よし、いいぞ、その調子で…来い‼)
茂みに身を寄せたまま…腹這いになって直ぐ飛びかかれる体勢ををつくる。強い雨が降っているせいで、少々の物音に気付かれる心配はないし、何よりも雨が自身の匂いを消してくれる。さらに数メートルというところまで迫った時、レイは勢いよく茂みから飛び出した。慌てる雄シカ。驚いて瞬時に後ろに飛び下がったものの、レイの方が一瞬早かった。次の瞬間にはもうその喉元深く鋭い牙を突き立てていた……。
半時程待って、それでも戻らないレイに、さすがのロウブも焦れて来た。大木の根元に寄り添って冷たい雨をしのいでいた仲間たちも、寒さと疲れのために皆気短になっている。
「あいつひとりを何で待たなきゃならないんだ…?!」
さっきからそう言って悪態をついているのは、アッサムの息子のヴァントとその仲間である。彼は前にレイに、リーザとのことを邪魔されたと一方的に思っていて、ずっと根に持っているのである。
「ひとり勝手なことするやつ、許していいのかよ! そのために俺たち全員が危険な目にあってるっていうのによぉ…?!」
「……」
もはやロウブも一言も発しない。レイを子供の頃からみて来た。ロウブである。何故レイがひとりになりたがったのか、およそ想像がつく…。たぶん、他の連中が足手まといになって上手く動けないのだろう…。それほど、彼らとの力の差は大きいのだ。
ロウブがしばらく物思いにふけっていると、急に背後のしげみがざわついて、中からレイが現れる。両肩には見事な雄シカを背負っている。
「レイ、おまえ…」
「遅れてすまない…」
ポツリと呟いて、足元に自分の体重と同じくらいありそうな獲物を転がした。彼の髪も身体も冷たい雨にすっかり濡れそぼっている。しかし全身は熱を帯びて、ゆらゆらと水蒸気が上がっていた。
さっきあれほど騒いでいた連中も、レイの持ち帰った獲物をみたとたん、皆口をつぐんでしまう。強い者、力のある者がすべてに優先される世界なのである。
もう予定の満月の夜まで、あと幾日もない頃、ロウブの家でもその時のための準備に大忙しだった。
マイラは娘のリーザのために丹精込めて美しい衣を織り上げ、薄紅色のドレスを造った。
「どう? びったりね、良かったわ…。間に合って。」
「ありがとう、母さん…とても素敵だわ…」
出来立てのドレスを着て、しあわせそうな娘の姿にマイラもロウブも満足げなえみを浮かべた。先日の酒席での失敗に、どれ程落ち込むかと思っていたのに、思ったより元気でいてくれることが嬉しくもあった。
実のところ、リーザにしてみれば、レイの服に酒をこぼしてしまったことは、とても恥ずかしいことだったけれど、彼が「気にするな…」と言ってくれたことが、たまらなく
嬉しかったのだ。
今まではただ遠くから見つめるだけで、いつかの晩の出来事を除いて、リーザがレイにあれほど近くで接したことも初めてなら、声を掛けてもらうのも初めてだったから…天にも昇るほどうれしかった。
「でも父さん、母さん、選ばれなかったらごめんなさい…。せっかく準備してくれたのに…」
「何を言うか…その時は、おまえはずっとこの家で父さん、母さんと暮らせばよいではないか…。リンは父さんにとっては、ずっと可愛い娘なんだから…。」
「嫌だ、父さん、もういつまでも子供じゃないんだから…リンって呼ぶのはやめてって言ったでしょう?」
「ああ…そうだった。」
ロウブは目を細めながら、いつの間にか美しく成長した娘の姿を眩しそうに見つめた。そして、どうかこの娘の願いが叶うようにと…願わずにはいられなかった。
「その日」が近づくにつれ、レイはだんだん落ち着きを無くしていた。最初はどうでもいいと思っていた彼も、毎夜のように見る夢に悩まされるうち、次第にことの現実に気が付いた。力こそ他の若者とは比べ物にならないくらい優れているものの…男としての知識はサッパリなのである。子供を作るだけの連れ合いなら誰でも良いと思っていた。自分の中のアリオンを次の世代に残せばそれでいいと考えていたから…でもどうやって…?
だんだん焦りにも似た感情が湧いてくる。リュウにでも聞けば答は簡単なのだが、それではレイのプライドが許さない…。
気がつけば、父ジェイドの館の前に立っていた。
(聡明な父のことだ。何かきっとヒントをくれるに違いない…。でも、どうやって切り出す…?)
思案しながら、歩いていると、やがてジェイドの部屋の前にやって来る。声を掛けようとして、一瞬立ち止まる。誰か先客がいるのだ。時々笑い声が漏れる。ジェイドがここまで笑い声をあげるからには、よほど気の置けない相手なのだろう…あきらめて引き返そうとした時、中から聞きなれているロウブの声が聞こえてきた。
「いよいよですね。」
「そうじゃな…あれをその気にさせるのには苦労した。何せ年頃になってもあっちの方にはまったく興味を示さんのでな…。嫁を取るなんてことは考えもしなかった…。」
「本当にアッサムは大したことを思いついたものです。これで良い娘を嫁にもらって、子供でも出来れば将来は安泰ですよ」
「そう上手く行けば良いがな…」
どうやら自分のことを話しているらしい。
「娘といえば、そなたの娘、リーザだったかな? いくつになった? 」
「16です…。」
「ほう、早いものじゃ。先日宴で見たが、美しくなったな…?」
「そうですか? まだまだ子供でもだと思っていましたが、昨日…もうリンなんて子供の名前で呼ばないでくれと叱られました 」
「ほう…リンか…? そう言えば、そう言って目にいれても痛くないほど、可愛いがっておったな…?」
「恐れ入ります…」
(リンだって…? ではあの夜の娘は、ロウブの娘だったのか…?!)
それまで何気なく聞いていたレイは、その名を聞いたとたんハッと我に返る。
(リンが愛称だったとはな…。それではリュウでもわからないはずだ。だが、それではおれが探していた娘はあのリーザだったのか…?あの夜、あの丘で出会った娘…。何度も夢の中に現れては、愛しているとつぶやく娘…。)
急に熱を帯びたように、全身は熱く火照っている。レイは慌ててジェイドの館を後にした。森の妖精に騙されただけだと自分に言い聞かせて、無理に忘れようとしていた。それが突然、こんなかたちでいきなり現実になって目の前に現れるとは…。レイは自分でも呆れるくらい動揺していた。
(それがどうしたというのだ…。偶然出会った娘の素性が知れただけではないか…? あの夢もおれの不埒な妄想にすぎない…。)
空を見上げれば満天の星…明るく照らす月は間もなく満月を迎える。
その日のレイは妙にイライラしていた。いつもはたいして気にならない仲間達の下らないおしゃべりや悪ふざけでさえ、その日に限って堪らなく煩く感じて仕方がない。
相変わらずの騒ぎの張本人はあのヴァントで、それも余計レイの神経を逆撫でした。
今日の狩りのリーダーはレイだったが、それがヴァントにはおもしろくないのだろう。何かにつけて、ことごとく逆らってみせる。
「合図をしたのに何で来なかった…?」
集合場所に向かう途中、レイはヴァントを捕まえた。
「悪ィな…見えなかったんだよ…」
少しも悪びれない様子にさすがのレイも切れた。
「何ィっ…‼。もう一度言ってみろ‼」
グイっと首もとを掴むと、いつにない激しさで牙を剥く…。碧い瞳がさらに碧く、美しい銀糸が逆立って…それだけ彼の怒りの激しさを現している。今にも掴み掛かっていく勢いに、ヴァントをはじめ回りの皆が震え上がった。レイがここまで感情を顕にするのは初めてなのだ。
「止せ、レイ…! 仲間を傷つけちゃいけない…‼」
どこからか、騒ぎを聞きつけてリュウがやって来た。リュウの言葉にやっと我にかえったレイは、突き放すように掴んでいた手を放す。
ヴァントは腰が抜けたのか…その場にへなへなと座り込んだまま、動けなくなってしまう。仲間に支えられてやっとのことで立ち上がると、ソロソロと後ろへ下がって行った。
「やつには良い薬だが、少しやり過ぎだ。おれも正直言ってお前が本気でヴァントを殺っちまうんじゃないかって思ったぞ」
「ばからしい…。」
吐き捨てるようにレイは言った。しかし、本当にばからしいのは、ヴァントごときに本気でイラついてしまった自分だ…。やつごときに…。
自分の行く途はもうすでに見定めていたはずだ。自分はいずれこの村を出る。連れ合いを選び、子を産ませ、自分の中のアリオンをこの村に残したあと…。いまさら何を迷うことがある? そのための連れ合いなら誰でもよい…、誰でも…。
その日は朝から村の大人たちは忙しく働いていた。まるでこれから大切な祭礼でも始めるかのようである。村の中央の広場には綺麗なたくさんの花が集められ、それらで回りをぐるりと取り囲むように小さなステージがつくられている。
そのまわりを人々が座れるような、大きな円座が備えられていて、女たちは朝からご馳走の準備に大忙しだった。若い娘のいる家々ではまるで、婚礼に向かう花嫁の支度のような目まぐるしさである。どの娘も美しく着飾って、自分の出番を待っていた。
今日は約束されたレイの花嫁選びの日…。誰がレイの花嫁に選ばれるのか? 村中の誰もが、ワクワクしながら…その時を待っていた。
夕刻前から広場にはたくさんの料理が並べられ、村の重臣たちから普段はあまり一緒に同席することのない幼い子供たちまで、今夜はジェイドの計らいでその席に座することを許されている…。
「さあ、楽しみだな…レイさまはいったい誰を選ばれることやら…」
「さあなぁ…? でも、誰が選ばれてもめでたいことだ…。これでジェイドさまやライザさまも安堵されることじゃろうて…。何にしても、めでたい…。」
広場に集まった村人たちはみな、口々にそう囁き合っている。村中が慶びに沸き立つその中、ひとりだけ浮かない表情をした者がいた。当のレイ本人である。
未だに心の迷いを吹っ切れずに…悶々とした日々を過ごしていたのだが、朝からの村中のお祭り騒ぎの雰囲気を逃れて、いつもの村外れの丘でひとり、草むらに寝転んで流れるくもを眺めていた。
(今ならまだ間に合う…。このまま村を出てしまえば…もう煩わしいものに振り回されることもない…しかし…。)
ふいに両親の顔が思い出されて、(それは出来ない…)ともうひとりの自分が激しく抵抗する。(それでいいのか? レイ…。今村をあとにすれば、二度と戻って来れない。両親とも、優しかった村人とも、そして…あの娘とも二度と会えなくなる。それでいいのか…? あの娘、何度も幻だと言い聞かせてきた。幻に惑わされただけなんだと…それで満足出来るのか…?)
抑えがたい自由への憧れと、父と母…強いては村全体を裏切ることへの罪悪感…。それらに責め苛まれながらどうすることも出来ない自分にひどく苛立っていた。
(ずいぶん情けない話じゃないか…)
半ば自嘲ぎみになっているところに近づいてくる誰かの足音が響いてくる。レイは寝返りを打って、その場に身を潜めた。
誰か若い娘だろう…。彼の居る直ぐ側をすり抜けていく。レイの居る位置からは、娘の足元しか見えないため、顔はまったくわからなかったが、身に付けている衣装から今夜の花嫁候補のひとりに違いない。うす紅のドレスを着て、何かを口ずさみながら…ゆっくりと歩いていく。
生い茂る草の陰に隠れて、彼女からレイの姿は見えない。そこに誰かいることなど疑いもせず、子守唄だろうか…優しい声音で歌い続ける。
(何だろう…? 遠い昔、どこかで聞いたような…とても懐かしい響きがする…。)
どんな娘が歌っているのか知りたくて、顔を上げてその顔を盗み見した時…レイは思わず驚きの声を上げそうになった。
(ロウブの娘、リーザじゃないか…?!)
彼女は誰かに見られているとも知らないで、濃い紫色の瞳を天に向けて…まるで夢見るかのように軽やかに歌う…。
「まるで、無垢な妖精だな…。」
レイはこの娘の姿を、思えば今初めてまじまじと見たのかもしれない。最初は夜、月明かりに照らされていたとはいえ、はっきりとはわからなかった。次にあったのは、ヴァントに言い寄られていた時、驚く顔と泣き顔しか知らない…。そして、あの酔いつぶれた晩、酒をこぼして真っ赤になってうつむいていた顔…。考えてみれば、偶然とはいえ何度も顔を合わせていたのだ。
それにしても、薄紅の…ちょうどこの夕陽のいろのドレスに身を包んだ姿は、飛びきりの美人というわけではないが、華奢な感じのする可憐な少女である。明るい栗色の髪を風になびかせて…時々乱れた前髪をかきあげる仕草が妙に可愛らしい。あの髪に触れてみたい…。そんな想いがふっと浮かんできて、レイは自分でも驚く。
「リーザ!」
誰かの呼び声に振り向くとランが立っていた。
「ここにいたのね? おばさんたちが探してたわ。そろそろ支度しないと間に合わないって…。何してたの?」
「もし選ばれなくても仕方ないって、自分に言い聞かせてたの。レイさまが幸せならそれでいいって…。」
「もう、あんたって娘は本当に優しいんだから…私がレイさまなら絶体あんたを選ぶんだけど…。かりにもしダメだったとしても、リーザはいつかきっと幸せになれるよ。」
「うん…。」
娘たちが去ったあと、レイもそろそろと起き上がった。西に大分傾いた夕陽を見つめながら、彼はひとつ大きな決意をしていた。
(このまま…行けるところまで行ってみようか…。)
不思議とさっきまでのイライラが嘘のように跡形もなく消え失せている。あの娘の澄んだ歌声が、荒んだレイの心の波を一気に洗い流してしまった。そう、あの歌は子守唄なのだ。遠い昔…母の膝の上で聞いた、あの懐かしい調べ…。
花嫁
広場の中央の花で飾られたステージの上には、今夜の花嫁候補になっている、いずれ劣らぬ美しい娘たちが立ち並び、それを取り囲むようして、村人たちが祭の始まりを今か、今かと心待ちにしている。
「レイはまだか…? 」
「さあ…、先ほど、村外れの丘で姿を見たというものもおりますが…」
さあ、すべての準備が整ったというものに、肝心のレイが現れない。まさか逃げ出したのではないかと、内心ジェイドは穏やかではない。
今日はひとりにさせるのではなかったと、ひとしきり後悔していたところで、何処からか…ふらりとレイが現れる。集まった村人は、彼の姿を見つけると一斉に歓声をあげた。彼の登場でいよいよ祭りが始まるのだ。レイはその人混みをかき分けるようにして、ステージ脇に立つジェイドのもとへゆっくりと歩み寄る。内心はともかく…その表情はいつもと変わらない無表情だった。
「今宵はわが息子、レイナスのためにたくさんの村人が集まってくれた。礼を言う。息子もこの春で成人を迎え、皆の仲間入りをしたわけだが、男として新たなる証を立てなければならない。そこでだ…、一族の娘の中から花嫁を選ぶことになった。いずれ劣らぬ美しい娘ばかりじゃ…。よいな、レイ。そなたの望みの娘をひとり選ぶがよい…。」
ジェイドの言葉が終わると、回りからさらに大きな歓声が沸き起こる。それが静まるのを待って、レイはステージに上がる。
どの娘も美しく着飾って、自らが花嫁として選ばれるのを心奮わせて待っている。レイはあくまでも無表情を装いながら、娘たちの中にリーザの姿を探した。
(いた…!)
列の一番端に遠慮がちにうつむいて立っている彼女の姿を見つけた。やはりかなり緊張しているのだろう。肩が小刻みに震えている。
レイはゆっくりとした足取りで、居並ぶ娘たちの前を、ひとり…またひとりと通りすぎていく…。そして、リーザの前で立ち止まると…躊躇わずにその手を取った。
その瞬間、回りからワッと大きな歓声が上がる。当のリーザは、なにが起こったのかわからないまま頭を上げると、自分を見下ろす碧い瞳とぶつかって…。
(レイさま…? 信じられない…)
リーザの唇は声にならない言葉をつぶやく。そしてやがてその瞳が宙をさ迷ったかと思うと、そのままレイの胸の中に崩れ落ちた。
「おっと…!」
慌てて、レイも彼女を抱き留める。
「レイの花嫁は、ロウブの娘リーザと決まった。祝言は1週間後に行う。今宵はめでたい祭りじゃ…皆心ゆくまで楽しむがよい…!」
上機嫌のジェイドは、満面の笑みを浮かべて回りの観衆に向けて手を上げるとまたワッと歓声が上がり、それを合図にどこからか楽しげな音楽が流れてきて、祭りは一気に盛り上がる。
「レイ、リーザはおまえの花嫁だ。連れて行って介抱してやりなさい。」
ジェイドに促されつつ、レイは胸にしなだれ掛かっているリーザの華奢な身体を抱き上げると、その場を後にした。
(さて…どうしたものか? )
いくら介抱せよと言われても、いきなり邸に連れて行くわけにもいかない。村外れのあの丘の…咲き乱れる花々のじゅうたんの中にリーザをそっと下ろした。
(これで良かったのか…? あの時おれは自分の心の命じるままに、この娘を選んでいた。アリオンの血を残すだけの連れ合いなら誰でも良いと思っていたはずなのに…。確かにおれはこの娘の何かに惹かれ、欲しいと思った…。何故…?)
まだ気を失ったままのリーザの顔を見つめながら、レイは自問自答していた。
どれ程経った頃か、小さな寝返りを打って彼女は目覚めた。目を開けて回りを見れば、月明かりに照らされた一面の花畑…。
(わたしは今夜、レイさまの花嫁選びの席に居たのではなかったかしら…? それがどうしてこんな所に…? あの時、突然目の前にレイさまがいらして…、目があったらわたし…気が動転してしまって…。それから気を失ってしまったんだわ…。レイさまは…?)
そこでやっとリーザは、傍らに腰を下ろして、じっと何かを考えている風のレイの姿に気づいた。
子供の頃からずっと憧れ続けてきた端整な横顔が直ぐそこにある。森の湖の碧よりずっと深い碧い色の瞳…。流れる銀糸…。
(わたしは、この人に選ばれたんだわ…。)
そう思う時、再び心臓が早鐘のように打ちはじめた。
「なんともないか…?」
彼女が目覚めたことに気がついたレイは、ポツリと声をかける。
「は、はい…」
再びの重い沈黙…。逸る想いに何か話さなければと心は焦るものの、喉が焼けるように熱くて、とても言葉にならない。ドクン…ドクン…と、鼓動だけが激しく鳴り続ける。
(お願い…何か言って…!)
心の中で祈るような気持ちで、リーザはレイの言葉を待ち続けた。だが意外にもレイの言葉は…。
「送って行こう…」
「……?」
そう一言って、スイっとレイは立ち上がって歩き始めた。リーザも慌てて後を追う。少し早足のレイに、遅れないように小走りで付いていくので精一杯だったが、リーザは、前にもこんなことがあったような…。
そんなことを思い出して、自然と笑みがこぼれた。
(もう、迷わない…。だってこれからはずっとそばで、この人を見つめていられるのだから…)
リーザの家に着いても、レイは寡黙で、待っていたマイラに、
「あらためて、ロウブを訪ねる…」
そう一言告げただけで、そそくさと帰ってしまう。
「レイさまもきっと照れておいでなのだわ。こういうことには慣れていらっしゃらないのだから…」
素っ気ないレイの訪問にも、マイラは本当に良かったと手放しの歓びようだった。
「さあ、1週間後が結婚式なら忙しいわねぇ…。ロウブと相談しなければ…。それにあなたも、もっとお料理を覚えなきゃね…」
「意地悪ね、母さん…。」
久しぶりにリーザは心からの笑顔を見せて笑った。
その頃、レイは広場の騒ぎをよそにひとり館に戻っていた。
「リーザか…。」
部屋の中で、目の前にいつかあの晩に拾ったリーザの髪飾りをかざしてみる。さっきからの自分の行動に、納得出来る答えを求めて…あれこれ想い巡らしてみるが、どう考えてみても納得のいく答えが見つからない。もっともそれは…恋なのであって、そんなものに答なんてあるわけないのだけれど…。
1週間後―。
ジェイドの言葉どおり、レイとリーザの結婚式が村をあげて行われる。その日は老若男女、老いも若いもみんな無礼講で騒ぎ、祝うことを許されていた。
「ちきしょ―っ‼ レイのやつ、リーザだけはやめとけって言ったのによ―っ‼」
そう言いながらやけ酒を煽っているのはあのヴァントである。いつかレイに逆らって、こっ酷くやられてからはすっかりおとなしくなっていた。
「止せ、止せ…レイにかなうわけないだろ…?」
仲間達も慰めるふりをして、からかって楽しんでいる。ともかく今夜はすべてに無礼講なのだ。未来の長の結婚式なのだから…。
村の広場で結婚式は盛大におこなわれている。いつもは軽装しか好まないレイも今日は華やかな花婿の衣装を身に付けて、座の中心に大人しく座っている。そしてその横には美しい花嫁衣装に身を包み、ちょっと恥ずかしげにうつむきがちなリーザの姿があった。
「まあ、なんて綺麗な花婿、花嫁なんでしょう…?!」
「本当に…! とてもお似合いだわ。それにふたりとも、なんて初々しいこと……!」
人々は口々にそう言ってふたりのことを語りあう。そして花嫁になれなかった娘たちも、他の若者たちもみな、羨望のまなざしでふたりの様子を見つめた。
「族長ジェイドの息子…レイナス、アリオン。あなたは大地の神、オルトカル神の御名において…この娘、リーザ、モレナを妻としてめとり、生涯固い契りを交わすことを誓いますか…?」
「…誓います…。」
「リーザ、モレナ…あなたはレイナス、アリオンを生涯の夫とし、貞節を守り、従うことを誓いますか…?」
「…はい…」
「では誓いの盃をもって、ふたりを永遠の夫婦とする。」
ふたりは祭壇の前に立ち、祭司の差し出す盃を互いに飲み干した。
「これによりわが息子、レイとロウブの娘、リーザは、オルトカル神の御前において夫婦となった。この年若い二人を祝福し、今宵はみな存分に楽しんでくれ…!」
ジェイドの一言にさらなる歓声が沸き起こり、みな口々にジェイドにお祝いの言葉を述べてゆく…。今日は格別彼も上機嫌で、ロウブたち側近と楽しげに酒を酌み交わしている。そして女たちは女たちで、ライザを囲んで、楽しげに談笑していた。
「おめでとうございます。ライザさま。今日はなんて素晴らしい日なんでしょう?」
「ありがとう。これでひと安心よ。レイはあの正確でしょ? 花嫁を迎えるなんて、もう半分諦めていたのよ…」
「まぁ…?」
「それにしてもレイの花嫁が、リーザのような素直で可愛い娘で良かったわ。マイラ、よろしくね…。」
「勿体ないことです。ライザさま、まだリーザは子供で、至らないことも多いですけれど、どうかよろしくお願いいたします」
ライザもレイの結婚が決まってからと言うものの、とても体調が良いらしく…顔色も好い。今の彼女にとってレイは、生活のすべてと言っていいのかもしれない…。
そんな雰囲気の中でひとり、レイだけが妙に白けていた。彼はもともとこんな儀式めいたことは嫌いである。動きづらい衣装を着せられ、ひたすらじっとしていなければならない時間は、苦痛でしかないが…長としてのジェイドの立場と母ライザの手放しの慶び様を見れば、堪えるしかなかった。
無表情のまま…次々と注がれる酒を飲み干している。
「わたしがあのレイさまの花嫁だなんて…まるで夢のよう…。もしこれが夢なら、あたし…死んでしまうわ…」
リーザはもう天にも昇る気持ちで、まともにレイの顔を見ることさえ出来ない。それでもちらりと見上げたレイの横顔はとても美しく、黒銀色の髪が明かりとりの松明の炎にに透けて、キラキラと輝いていた。これが夢でありませんように…。そう願わずにはいられないほど、リーザは至福の想いに酔いしれていた。
宴会は深夜まで続き、レイとリーザがやっと解放されたのは、かなり夜も更けてからのことだった。結婚式のその夜から、花嫁が花婿の館で暮らすのがトルンの習わしであり、その日のためにレイの館も手入れされて、新婚らしく寝所も美しく整えられていた。
まだ賑やかさの残る祝宴を離れ、やっと二人っきりになったものの…実のところ、レイがリーザを花嫁に選んだあの晩から、二人はまったく言葉を交わしていない。リーザも花嫁の気恥ずかしさからか、うつむいたまま…部屋の隅にポツンと座ったままである。レイも落ち着かない様子で、反対側に寝転んだ。
「…」
無表情を装ってはいるが、内心はかなり動揺している。
(こんな時、いったいどうしろと云うんだ…。)
初夜の床で、花嫁を前にして狼狽える花婿も珍しいが、男としてのレイは、その行為そのものは頭で理解していても、もともと人と接するのは苦手なのだ。まして相手は初めて触れる生身の女…。
「おまえも今夜は疲れただろう…。ひとりでゆっくり休むがいい…。おれも今夜は外で寝る…。」
レイはそれだけ言うのがやっとで、あろうことかそのまま…何か言いたげなリーザを残して、部屋を飛び出してしまったのである。苦々しい想いが胸を過る。それを振り払うように、勢いよくレイは夜の闇の中に走り出した。
そのまま…村外れの丘まで駆けて行って、バっタリと花の上に倒れ込む。
「ふぅ……!」
急に酔いが回った気がして、頭がクラクラする。
(おれはいったい何をしてるんだ…?)
初夜の晩の床から、花嫁を置いて逃げ出したと知ったら、父ジェイドはなんと思うだろう…。ヴァントのやつは…?伝説とは似ても似つかぬ
腑抜けのアリオンと物笑いになるか…。ふ…ふ…ふ…。」
自虐的な言葉が次々と浮かんできて、思わず苦笑する。酔いのせいか、白けた笑いばかりが浮かんでくるのだ。
ひとしきり笑ったあとで、今度は胸が塞がれるばかりの刹那さが込み上げてきた。閉じた瞼に浮かんでくるのは、大きく見開かれた澄んだ真っ直ぐの瞳…。そう、さっきレイが部屋を飛び出す前の…リーザのすがるような眼差しだった。
(何故…?)
その瞳はそうつぶやいていた。
(何故…。そう何故なのか…。自分でもよくわからない…。確かに何かに惹かれてリーザを選んだ。その瞳…その髪に触れてみたいと思いなから、その澄んだ疑いのない真っ直ぐな瞳をおれは素直に見つめ返すことが出来ないのだ…。)
死闘 ―。
そんな悶々とした夜を過ごすうち、瞬く間に数週間が過ぎる。二人の生活はそこにあっても、レイは相変わらず必要なこと以外は話さない。朝早く、日の出とともに狩りに出掛け、戻って来ても男たちと酒を酌み交わしたあと、夜になると決まって、何か怒ったような顔をして…また何処かに出掛けてしまう。
リーザはまた夜になって、レイがまたいつものように何処かに出掛けて行くのを物音で知ると、大きな溜め息をついた。
「また今夜もあなたは何処かに行ってしまわれるのですね…? わたしはそんなに嫌われているのでしょうか…? 選んで下さったのは、ただの気紛れだったのですか? 愛されなくても…ただお側に居られるだけでも幸せだと思っていたのに…。」
不意に深い悲しみが込み上げて、ワッとその場に泣き崩れた。
そんなある日の午後、村外れでひとりたたずむリーザの姿を見つけて、ランが声をかけた。ランも先月、リュウと結婚している。
「リーザ? まあ久しぶり…?! どうしているかと気になっていたんだけど…どう? 幸せ…?」
結婚式の前に会ったっきり、ランとは顔を合わせていない。懐かしいランの顔を見たとたん、リーザは抑えたものが一気に込み上げてきて、彼女の胸にすがり付くと激しく泣きじゃくった。
「どうしたの? リーザ…。あんなに好きだったレイとさまと結婚して、今村の中で一番あなたが幸せのはずなのに、どうして…?」
驚くランにリーザは、今の二人の生活ぶりをポツリ、ポツリと語り始める。
「信じられない…レイさま、今まであなたに…指一本触れてないの?」
驚いたようにランはリーザを見る。リーザはコクりとうなずくと、消え入りそうな声で呟いた。
「あたしは…嫌われてるかもしれないの…」
「何言ってるの…?! 嫌いなら最初からあなたを選んだりしないわ! 彼はそんな人よ。きっと何か理由があるはず…。待ってて、リーザ。リュウにそれとなく調べてもらうわ…」
「で、でも…」
「 大丈夫。心配しないで…。さっきの話はリュウにも話さないから、わたしに任せておいて…。」
ランはいつもの明るい調子で、泣いているリーザの肩を軽くポンっ!と叩いて笑って見せた。
その日の狩りも終わって村に戻る道すがら、硬い表情をして黙って歩くレイの隣にリュウがやって来た。
「よお、レイ…!今日もおまえのチームは豊猟だな? おれたちはさんざん走り回って小者ばかりだ。また戻ってランにどやされると思うと、気が重いぜ。おまえの女房はしあわせものだな? 」
そう言うリュウにレイは苦笑する。
「そういやぁ、ランが心配してたぞ。近ごろ、リーザが元気ないらしくて…。最近何か悩んでるみたいだってさ…。おまえたち、上手くいってるんだろう? わかった、おまえ…新婚だからって毎晩、嫁さんを可愛がり過ぎてるんじゃないか? やりすぎは女をダメにするぞ…!」
リュウはからかうようにレイの肩に腕を回すと、その顔を覗き込んだ。
「ばかか…!」
リュウの冗談に顔を少し赤らめて、レイはフンっ!と鼻を鳴らしてその手を払いのける。
「うちのランとおまえんとこのリーザは幼馴染みだ。何かあれば相談に来いよ!」
それだけ言ってまたリュウは自分たちのグループに戻って行った。その後ろ姿を見送りながら、レイはさっきのリュウの言葉を思い出していた。
(リーザが何か悩んでいるって
…? 悩んでいる…。それはそうだろう…。まともな女なら悩まないはずがない。夫となった男からまだ1度も愛を受けていないのだから…。)
辺りが寝静まった頃…。レイはいつものようにそっと館に戻って来た。物音を立てないように、静かに寝室の扉を開ける。
月明かりに照らされた明るい室内に、眠っているはずのリーザの姿を探した。彼女は寝台の中央に小さく身を屈めるようにして眠っている。その頬にはっきりとわかるいく筋ももの涙のあとを見ると…レイは堪らない気持ちになる。その頬に触れようと指先を伸ばしたところで手を止める。
(中途半端な優しさなど、無いに等しい…。いっそのこと、無くしてしまえば、清々するか…。)
溜め息にも似た囁きがレイの口から漏れる。
次な日の朝…いつものように狩りに出掛ける前に、レイはリーザを振り返って言った。
「此処に居るのが辛ければ、ロウブのところへ帰っていいぞ。そして帰って伝えるがいい…。アリオンのレイは男としては腑抜けの役立たずだだったと…。そうすれば誰もおまえを責めたりはしないだろう…。」
「レイさま…」
リーザは言葉を無くして、信じられない…という風に大きく目を見開いたまま、レイを見つめた。やがてその瞳から大粒の涙がいくつもいくつも溢れてこぼれ落ちる。
「わたしは…子供の頃からあなたのことが好きでした。覚えていらっしゃらないでしょうか? 前に…花を摘むのに夢中で、知らないうちに森の奥に迷い込んで泣いていたわたしを、あなたは毒蛇から助けて下さいました。あの時のあなたを、わたしはずっと森の男神だと思っていたのです。」
「……」
黙って聞いていたレイは、しばらくリーザを見つめる。しかし、直ぐ背を向けると、わざと冷たく言い放った。
「そんなことは、覚えていない。あったとしても、どうせ気紛れでしたことだ。忘れてしまえ…。」
「でも、お願いです! どうか、わたしをこのままお側に置いて下さい。愛されなくても、いいんです…。ただ…お側に居られるだけで…お願い…レイさま…帰れなんて言わないで…!」
リーザの悲痛な叫び声は最後は涙で途切れてしまう…。
その時レイの心の中は、激しくあらゆる感情が入り乱れていた。自分からリーザを突き放しておきながら、心のどこかで深く後悔している自分がいる。本当は失いたくないのだと何かが叫んでいる…。
「勝手にしろ…!」
やっとのことで、それだけ喉の奥から絞り出すと、レイは振り返りもせずに外へと飛び出した。木立から差し込む初夏の陽射しが眩しかった。
死闘― 。
その日はいつになく、レイは落ち着かなかった。狩りを終えて、みなが帰り支度をはじめても、妙に何かの気配が気になって仕方がない…。(何だろう…?)
あれこれ思い巡らしてみても、どうもこれといった答えが見つからない。
今朝、リーザに叩きつけるように発したあの一言を、レイ自身激しく後悔していた。今手放してしまえば、もう二度と戻って来ないとわかっていたのに…。胸の奥に例えようのない傷みがはしる。
(たかが、おんなひとりになんだ…。)
打ち消すように走り出した時、突然…今までに感じたことのない激しい気配を感じて振り返る。
「……?!」
「どうした、レイ?」
レイの異変に回りにいた若者が声をかける。
「みんな、止まれ‼」
とっさに発した大声に、驚いたロウブがアッサムを伴ってやって来た。
「どうした? レイ、何があった…?!」
「何かが後をつけてきている…今までに感じたことのない気配だ。何か、強くて…大きい…。ラングーンかもしれない…。」
「ラングーンだって…?!」
ロウブとアッサムは驚いて、互いの顔を見合わせた。ラングーンとは、ここから数百キロ北に棲むという大型の肉食獣で、体長は二メートル前後、全身を覆う長い毛皮と鋭い牙、爪を持つ…野獣である。
本来なら寒いところを好む彼等は、北の氷に閉ざされた山岳地帯に棲み、こんな平原に姿を現すことなど絶体にあり得ないのである。
「待て、レイ。この時期にラングーンが現れるなど考えられない…。何かの間違いじゃないのか…?」
ラングーンと聞いて誰も信じられないのは当然である。彼らの誰ひとりとして、それを実際に見たものは誰もいないのだから…。だがそれがラングーンだとレイにはどうしてわかるのか…? つまりは感である。彼の天性の感がそうだとハッキリ教えるのだ。
「どうやら、後を付けられている。このまま行くと…村の在処を教えてしまうことになる。ロウブ、少し遠回りになるが、平原を南に突っ切って、山脈の尾根伝いに村に帰って欲しい…。おれはここに残る。」
「それはかまわないが、おまえは残ってどうするつもりだ…?」
ラングーンと聞いてロウブの表情も険しくなる。
「やつを殺るしかない…」
「待て、レイ…、殺ると言っても、やつに本気で勝てると思っているのか…? いくらおまえでも、そう簡単に勝てる相手ではない…」
「誰かが殺らなければ、いずれやつは村の在りかを突き止める。やつは殺し屋だ。必ずいつか、現れる…。もし男たちが留守の間に村が襲われたら…。」
レイの言葉にその場にいた全員が青くなって言葉を失う…。そうラングーンとは、北の殺し屋と恐れられているくらい獰猛で狡猾な相手なのだ。普段は氷河の上で暮らす大型の生物を食料にして生活しているが、昔から何かの間違いで、時々南下してきたこともあったらしい。しかし、それもこの半世紀以上なかったことで、その事実を知る者はほとんどなく、知識として恐れられてきただけだったのである。それでも、狼ごときがまともに闘って、勝てる相手ではないことは誰でも知っている。
「おまえだって大切な身だろう…。何かあったら…?」
(ロウブは娘婿としてのおれの身を心配しているのか、なるほどおれが死ねばリーザは自由になる。もう余計な物思いは無くなるというものだ…)
そんな皮肉めいた言葉も浮かんでくるが、今はそんなことを考えている余裕はない。きっとやつはもう十数キロと離れていないところまで迫っているに違いない…。鋭い殺気にも似た気配がもうすぐそこに感じられるのだ。
「悩んでいる隙はない。直ぐ帰って父に伝えて欲しい。4日経って戻らなければ、諦めろと…。」
「レイ…!」
「心配するな、おれだってただで殺られはしない…。必ずやつの息の根を止めてみせる。」
不安げに見つめる仲間にニヤリと笑って見せると、レイはくるりと踵を返した。一瞬あとにはもう彼の姿は何処にもない。
レイの消えたあと、すぐさまロウブも、他の仲間を率いて速足でレイの指示どおり南寄りの途を行く。レイの無事を祈りながら…。
レイは走りながら、今まで感じたことのない鋭い緊張感に、全身の毛が逆立ってくるのを感じた。ゾクゾクするような期待と興奮…。そう、おれはこれを待っていたのかもしれない…。
今まで、命をかけて闘うほどの存在に出会うこともなく、過ごしてきた。そんな退屈な毎日に飽きていたのかもしれない…。それがラングーンというかつてないほどの強敵に向かうことで、今まで眠っていたアリオンの闘争心に火がついた。命を落とすかもしれないという恐怖心さえかき消してしまうほど、それは激しかった。
じっと茂みの中に身を隠して相手を待つ。きっと相手もレイの気配を感じているに違いない。相手の体長も2メートルあまり…体格にそれほど差はないものの、やつは鋭い爪と牙を持っている。例え敏捷性ではレイが優っていても、その爪に捕まれば
間違いなく致命的になる。何とかやつを谷の岩だなまで誘い出せれば…。
陽の沈む少し前に、ロウブたちは村に帰り着いた。かなり遠回りをしたのと、重い獲物を抱えての強行軍はかなり堪えたのだろう…。仲間達はみなぐったりと地面に這いつくばとたまま動けなかった。その中でロウブだけはひとりジェイドのもとへ走る。
「ジェイドさま…?!」
転がり込むようにロウブが飛び込んでくると、ジェイドはちょうど村の司祭と間近に迫った祭の打ち合わせをしていた。
「どうした? 血相を変えて…。何かあったのか?」
いつも冷静なロウブがここまで慌てているようすに、ジェイドは何か異常事態が起こったことを知る。
「そ…それが……。」
休みなく走ってきたせいで、ロウブの息もかなり上がっている。ロウブは、苦しい息を何度も継ぎながら…つい数刻前に自分たちに起こった出来事をジェイドに報告する。ラングーンの出現とその後のレイの行動と…。
「なんと…?! それでレイはたったひとりで、そのラングーンに立ち向かっているのいうのか…?!」
「はい、おそらく今頃は……」
ロウブも苦しげに目を伏せた。いくらアリオンの血を受け継ぐレイでも、ラングーンを相手にして無事でいられるわけがない。それほど、相手は何倍も強いのだ。
その場に重苦しい空気が流れる。
「レイは…4日経って戻らない時は、諦めろと…。もちろん、もしものことですが…。」
「馬鹿な…」
さすがのジェイドも言葉を失う。
「ジェイドさま、わたしも元気の残っている者を連れて、直ぐ引き返します。お許しを…。」
「おお…! すまぬな…。よろしく頼む。誰か、この事をリーザに知らせてやってくれ、きっと心配していることだろう…。」
それからすぐさま、ロウブとアッサム、残りの若者を中心にしたグループが構成されて、レイを探索するため村を後にする。もちろん、その中にはリュウの姿もあった。
その頃、レイの身に起こった一大事を母マイラとランの口から聞かされたリーザは、青ざめてぶるぶる震え出した。
「いやっ…! このまま…あの人が帰って来ないなんて…。あんな言葉を残したまま、死んでしまうなんて…。そんなの絶対に嫌っ! 信じないから…わたしは絶対に信じない…‼ 」
何度心の中で首を横に振ってみても、次々と不安が大きなうねりとなって押し寄せて来る。
(このまま本当にあの人が帰って来なかったら…? 1度も本心を確めることも出来ないで、永遠の別れが来てしまうなんて…。神さま…あまりに酷すぎます…。)
心の中で、ずっと彼女を支えてきた何かが壊れたような気がして…そのままリーザはその場に崩れ落ちた。
「リーザ…! リーザ…! しっかりして…!」
北の山脈に広がる渓谷を、真っ赤な夕陽が山肌を舐めるように沈んでいく…。すべてを焼き尽くすように燃える陽炎が地平線を揺らして…やがてくる闇の静寂を誘っている。
そこからさらに遥か北の渓谷の岩だなで、いつ終るとも知れない死闘が繰り広げられていた。
双方とも身の丈は2メートルあまり…一方は全身を焦げ茶色の長い毛で覆われ、上顎から下顎にかけて10センチ位の長い牙を持ち、足には鋭い爪を持っていて、いかにも狡猾そうなギラギラとした眼光が相手の背筋を凍らせる。
そしてもう一方は、豊かな黒銀色の毛並みを持った大型の狼で、驚くほど身のこなしが軽い。しなやかな肢体とスッキリと整った容貌…だが鋭い射るような眼差しが、真っ直ぐ相手を捉えて放さない…。
ラングーンの鋭い爪を避けるように、ヒラリ、ヒラリと体を交わして、相手に決定的な一撃を与えるチャンスを狙っている…。
狭い岩棚は2匹が行き交う度にカラカラと少しずつ足元が崩れていって、その遥か下には深い谷底が、大きな口を開けて待ち構えている。
「ちっ……‼ 」
ラングーンの鋭い爪の一撃を、寸でのところで避けて後ずさった拍子に、レイの後ろ足が岩棚から外れて落ちる。そのバランスを崩した一瞬をラングーンは逃さなかった。
ガツン…‼ という衝撃と同時に激しい傷みが右肩に走る。やつの鋭い爪が、レイの右肩を深く抉った。
「くそっ…‼ このまま殺られるか…‼」
レイは次に来るであろうやつの牙の攻撃を避けようと思い切り脚を蹴り上げた。ラングーンの身体はレイの肩を捕らえたまま、宙に浮くと…2頭はひと塊になって谷底へと転がり落ちた。長い尾を引くような叫び声を聞いたあと…、やがてまたあたりはまた真っ暗な静寂に戻る。
一晩中かけてロウブたちは、レイの姿を探し回ったが見つけられず、翌朝疲れ果てて村に戻って来た。
「ジェイドさま、レイの姿は何処にも…。」
ロウブの報告を黙って聞くジェイドも、深くうなだれたまま顔を上げようともしない。
「ご苦労だったな…。ゆっくり休むがよい…」
それだけ言うのがやっとで、ジェイドも一晩中起きていたのだろう。声にちからがない。側では妻のライザが両手で顔を覆うようにして泣いていた。
「神さま…今頃になって、また私たちの息子を奪おうと言われるのですか? あんまりです…。」
村は深い悲しみに包まれ、いつもは賑やかな村の広場も、ひっそりとして誰ひとりいなかった。
リーザはレイの居ない館の中で、ひとり…思い出しては涙にくれている。もう涙はとっくに枯れてしまったはずなのに、忘れられないその人の面影が浮かんでくる度に、あとから、あとからと目処もなく溢れてくる…。せめて彼の温もりだけでも欲しくて、抱き締めたレイの上着から、何かがカラカラと転がり落ちた。
「……?」
拾いあげて見れば、小さな髪飾り…それはいつかの晩に、リーザが無くしたと思っていたあの髪飾りだった。
「どうしてこれが、ここに…?」
何度考えてみても納得のいく答えが見つからない。まさか、あの晩レイが拾ってそのまま持っていてくれたのだろうか…? それならどうしてすぐ返してくれなかったのだろう…。そう思うとまた涙が溢れてきた。
それから3日過ぎても何の手掛かりも見つけられないまま…4日目の朝、北の渓谷を流れる河の岸辺に引っ掛かるように横たわる巨大なラングーンの骸が見つかった。
「確かにラングーンだった。長い爪と牙を持っていた。話にきいていたのと同じだった。」
「ラングーンが死んだのなら、レイは生きているのではないか? やつの骸の首には、確かに止めを差した痕があったぞ。」
「だが、あれほどの奴を相手にして、無事でいられるはずがない…深手を負っているとしたら、今まで戻って来ないのはもうすでにレイも…」
村人たちは口々に噂しながら、約束の4日が過ぎても戻らないレイをみんなが諦めかけた頃…。
遊んでいた子供が村外れの丘で、意識を失って倒れているレイを見つけた。自慢の黒銀色の髪は泥で汚れ、全身は傷だらけ…右肩は胸にかけて服ごと無惨に裂けて、真っ赤な傷口がパックリ口を開けている。裂けた服にこびりついた赤茶色の血の塊がわずかに震えてみえるのは、確かに彼が生きている証しだった。
「レイだ…レイが生きていたぞ―!」
その報せはすぐジェイドの元へ届けられる。同時に村人によって彼は屋敷に運ばれ、直ぐ薬師の手当てが施された。
「信じられませんな…これほどの手負いを受けて、生きておいでとは…。全身の傷はどれもかなりの深手です。しかしわずかですが、急所を外れていたのが幸いでした。」
「それでレイは助かるのか…?」
「しばらく熱が出るでしょう…。ここ、2,3日がやまでしょうが…。」
傷の手当てをした薬師もしきりに首をひねっている。それほどレイの受けた傷はどれも深い…。
ラングーンと一緒に深い漆黒の谷底に落ちたまでは覚えている。肩に食い込んだラングーンの鋭い爪がギリギリと肉を貫き、骨を砕く…。灼けるような痛みにやがて手足がしびれてくる。もつれるようにして、上になり、下になりしているうちに、何度か激しく背中を岩棚に打ち付けた。
そうしながらも、レイは朦朧とした意識の中で、最後の力を振り絞って、ラングーンの喉元を狙って力一杯牙を突き立てた。あとはすべてが夢の中…。
どれくらい意識を失っていたのか…? 気が付けば、狭い岩棚の…わずかな隙間に引っ掛かるようにしてレイは横たわっていた。
「おれは…生きて…いるのか…?」
目蓋が重い…手も足も…身体中が痺れて動かない…。目を閉じながらも、陽の光の明るさはわかる。身体は動かないのに、喉だけが灼けつくように熱い…。
どうしたものかと、辛うじて動く顎をわずかに右に傾けると、幸運にも頭の上に茂る湿った苔を伝って、わずかだが水滴がおちてくる。それで喉を潤しつつ…辛うじて命を繋いだ。
それから夜が2回、朝が3回きて、やっと上体を動かすことが出来るようになると、レイはようやく自分がどこに居るのかわかった。
渓谷の切り立った崖の中腹…突き出るように張り出した岩場のわずかなくぼみに、引っ掛かるようにして横たわっていた。その遥か眼下には目も眩むほどの深い谷底があって、左右を見渡しても崖をよじ登るだけのわずかな足場もない…。
さぁ、どうしたものか…。仮に登れたとしても、この手足が動くのやら…。ズキズキする痛みを感じながら、片手の指を1本ずつ動かしてちる。どうにか動くとわかってからは夢中で、岩と岩のわずかな隙間を手探りで探しつつ…あとは必死でよじ登った。それからはどうやって村までたどり着いたのか…。自分でもまったく覚えていない。ただ帰らなければ…その一心で動かない手足に鞭を打つ。
(何としても帰らなければならない…。あの娘のために…。)
気が付けば父ジェイドの館の一室に横たわっていた。
確かに意識はあるのに目蓋が開かない…。自分を心配そうに見守る人の気配と微かな啜り泣き…。母ライザの声だろうか…? 何かを囁きかける声が遠くで聞こえる。未だ夢の中なのか?それとも現か…?
「レイ…! お願い、目を開けてちょうだい…!」
レイが横たわる寝台にとりすがるようにして、母ライザが激しく号泣している。そのとなりで、ジェイドも為す術がないというように、首を横に振って妻の身体を抱き寄せた。
「ライザ、レイの命は神に委ねよう…。オルトカルの神はきっと…我々を見捨てたりはなされまい…。信じて待つのじゃ、そしてリーザよ…」
「は…い…?」
不意に名前を呼ばれて、リーザも涙に濡れた顔を上げる。
「哀れな娘よ…あの慶びのあとで、このような凶事が待っていようとは…。すまぬな、村のためとはいえ、若いそなたを独りにしてしまうかもしれん…。」
何かに堪えるようなジェイドの声…。直ぐ近くに控えているロウブ、マイラも一言も発することなく、深くうつむいている。
「ジェイドさま、わたしは信じています。レイさまは必ず助かるはずだと…わたしは信じて…」
言葉の最後は涙で途切れてしまう。
何の前触れもなく…スイっと目蓋が開いた。直ぐ傍らに母ライザの涙に濡れた顔、まだぼんやりとしか映らない…。そして父ジェイド…、それから…?
虚ろな瞳が何かを求めてさまよう…。
「レイさま…?!」
「レイ…!」
まわりの呼び掛けにも、微かに唇を動かすだけで、ただ瞳だけが何かを捉えてわずかに微笑んだ。
(リーザ…? おれは…生きて…いるのか? それとも…)
全身は熱を帯びて怠く、何処もかしこもちぎれるような痛みに苛まれる。その中で、微かに見えたリーザの姿は、一条の光を見たように感じられた。だがまたそれもつかの間で次の瞬間…また意識を失ってしまう…。
「やはりかなりの高熱にうなされておいでのようです。さっき差し上げた薬が効いてくれると良いのですが…。このまま、何日も熱がさがらなければ、いくら屈強なレイさまといえどあるいは……。」
年老いた薬師は苦しそうな表情で伝えてくる。まわりにいた誰もが…深い溜め息を吐いた。
「聞いてのとおりじゃ…すべては神の御心にお任せする以外にはない…どうか、レイのために祈ってやってもらえまいか…。」
沈痛なジェイドの言葉を聞いて、側に控えていた他の重臣たちは、深く頭をたれたまま、ひとりまたひとりと部屋を出て行った。ライザも両側を支えられながらそろそろと立ち上がる。その瞳にはすでに光はなく、不意に訪れた悲しみにすべての生きる力を無くしてしまったようだった。
その後ろ姿を苦しげに見つめていたジェイドは、最後に残ったロウブ夫妻を振り返る。
「ロウブ、このままリーザを連れて帰ってもらえないか?」
「……?!」
弾かれたようにリーザはジェイドの顔を見る。
「おそらく、ここ何日かは心労で眠っておるまい…。この上おまえにまで倒れられては、村の灯火をふたつとも失いかねない。何かあれば報せはよう…今夜は両親のもとでゆっくり休むがよい…」
ジェイドの顔にも深い苦渋のあとがありありと見てとれる。この上リーザまで失いたくないという想いは痛いほどわかるのである…しかし…。
「お願いです。ジェイドさま…。どうかわたしをこのまま、レイさまのお側においてください。ずっと…お側についていたいんです…。もしも…レイさまに何かあった時には、わたしも一緒に逝けるように…」
「リーザ、おまえは…」
リーザの必死な訴えにジェイドは言葉を失った。今さらなからの想いの深さに、もはや何の慰めもいらないのだと、澄んだその瞳が訴える。
「すまぬな…では頼む…」
何かに堪えるように、目頭を押さえながら…ヨロヨロと立ち上がってジェイドも部屋を後にする。ロウブ夫妻も、娘の後ろ姿に軽く頭を下げて出て行った。
みなが居なくなると…また二人っきり…。夕闇が近づいて薄暗くなった部屋に、リーザは灯りを点した。
明るい燭台に照らされるレイの横顔は、瀕死の傷を負って生死をさ迷っているとは思えないほど美しい。時々苦しげに口元が歪むのは、熱のせいかもしれない…。額に浮き出る汗をリーザはそっと拭き取る。
(このまま、何も語らずに逝ってしまうつもりなら…あんまりです。せめて…無くしたと思っていたあの髪飾りが、あなたの手もとにあったわけを教えて下さい…。せめて…あなたの心の片隅に…たとえほんの一時でも居られたという証が欲しいんです…。)
つれないほどに整った横顔に、ついそんな恨み言のひとつも言いたくなる…。
(このままあなたが…ひとりで逝ってしまうと言うのなら…わたしは…。きっと、あの世まで追いかけて…あなたの本当の心を聞き出してみせる…必ず…。)
気が付けば、レイは深い森の中にたたずんでいた。樹齢何百年という大木が立ち並び、生い茂る木立の合間から、キラキラと春の陽射しが溢れている。
その眩しい木漏れ陽を見上げるようにして、レイはひとりその場に立っていた…。
たぶん…此処は幼い頃、養育係りのロウブの目を盗んでよく遊んだ場所に違いない…。でもどうして今頃こんなところに…? と思った瞬間、レイは自分の姿が、8歳の子供に戻っているのに気付く…。
(まさか…これは夢だ…。さては現実から逃れるために、心が都合のいい夢を見せているのか…? それでもいい…たとえ一時でも、あの狂おしい想いから逃れられるのなら…。)
そう思った刹那…物陰から何かが飛び出した。目を凝らして見ると、幼い少女がひとり、何かに怯えたように草むらの中に立ち尽くしている。ワナワナと震えながら…しきりに辺りを気にしている様子だった。
年の頃は6、7歳くらいか…。二つに分けて前に垂らしたお下げ髪が愛らしい少女だが、恐怖のために頬はひきつり、乱れた後れ毛が汗に濡れて細い首筋に張り付いている。
道に迷ってかなりあちこち歩き回ったのだろう…呼吸も荒くかなり体力を消耗しているのがハッキリとわかる。
だがそれよりも、少女の足下に一匹の毒蛇が、今にも飛び掛かろうと鋭い牙を向けているのに、その少女はまったく気が付いていないのだ。
レイは次の瞬間、猛然と少女に向けてダッシュしていた。驚く少女の目の前に、頭を貫かれてもがく毒蛇を掲げると、少女は大きく目を見開いてレイを見る。
「馬鹿か、おまえ…。このあたりにはこんなやつがたくさんいるんだぞ!」
ぶっきらぼうなレイの言葉に、さっきまで凍り付いたような少女の張り詰めた表情がふっと緩む。そして、その瞳から大粒の涙があとから、あとから溢れてこぼれ落ちた。
「……?!」
初めてみると、少女の涙に戸惑うレイ…。でも心の何処かで、もうひとりの自分がつぶやく。
(おれは…この少女を知っている…。たぶん、この澄んだスミレ色の瞳も…柔らかそうな栗色の髪も…思えば…そのままではないか…?)
でも…その知っているはずの面影を、どうしても思い出せないもどかしさに、不意に息苦しさを覚えたレイは、想いを振り払うように少女の方へ向き直った。
「迷い混んだのか?」
コクりとうなづく少女…。
「ついてこい…」
レイがくるりと少女に背を向けると、少女も慌ててレイの後を追う。感情の高ぶりがそうさせるのか、自然と速足になって…途中何度か立ち止まっては、少女が追い付くのを待ってまた歩き出す。
やがて見慣れた場所まで行き着くと、安心したように走り出す少女…。レイは近くの茂みに隠れて様子を見守った。
ホッとして駆け出す少女が、途中何かに気付いて振り返った。何かを探すようにキョロキョロ辺りを見回していたが…やがてまた村の方向へと消えて行った。
少女を見送りながら、レイは奇妙な想いに囚われていた。少女に大切な何かを伝えなければと思いながら…それが何なのか、思い出せないでいた。ただそれが…自分にとってとても重要なことのような気がしてならない…。
(それは何だ…? おれはいったい何を忘れている…? 思い出せ…!)
頭の中で、同時にいくつもの想いが駆け巡り…もうこれ以上堪えられないと思った時、不意にありありと…目の前に鮮やかな面影が浮かび上がってくる。
愛らしく澄んだスミレ色の瞳…長い栗色の髪にスッキリと整った小さな面差し…さっきの少女と何処か似通っているものの…ずっと大人びて憂いを秘めた眼差しは、ドキッとするほど美しい…。
(そう…おれは…ずっとこの面影を探していたんだ…やっと見つけた!)
そう気が付いた時、その澄んだ瞳から大粒の涙が、いくつもこぼれ落ちた。
(これも…夢が…?)
そう思った時、確かな声の囁きを、レイはしっかりとその耳で聞いた。
「ああ…レイさま…神さま…、感謝します…。」
「…リー…ザ…?」
そこでやっとレイは、自分が現実に返ったことに気付いた。
(おれは生きていたのか…? てっきりもう命は失われてしまったと思っていたのに…。あの朝、おれは酷い言葉でリーザを傷付けた。自分から遠ざけることで、その苦しみから逃れようとしたが、それはけっきょくもっと自分を苦しめることになった。愚かなことだ…。)
レイは虚ろな視界に映る
リーザの面影に向けて、やっと自由になる左手を伸ばした。リーザはその手を取って、自分の涙に濡れた頬に押し当てる。
「良かった、生きていてくださったのですね…。あたし……あたし…嬉しくて…。」
嬉し涙があとから、あとから流れて、レイの手のひらを濡らした。
「本…に…おまえ…は…泣…だな…。」
何か話そうとしたが、上手く言葉にならない。
「……?」
誰かを呼びに行こうと立ち上がりかけたリーザの手を、レイは掴んで引き戻すと、誰も呼ばなくていいと無言で首を横に振って、指先で濡れた頬を撫でた。
(思えば最初から、おれはこの娘を泣かせてばかりいるな…。最後に笑顔を見たのは、結婚式の日だったか…。愚かなことだ。だが今ならはっきりわかる。何が大切で、何が必要なのか。もう二度と失うわけにはいかないそれを取り戻すために、どうしても今やらなければならないことがひとつある…。)
「リーザ…すまない…おれを…許せ…。」
レイは声を喉から絞り出すように語りかける。
「レイさま、あまり話してはお身体に障ります。」
「いや…今…話しておかなければ…ならない。おれは眠っている間、ずっと夢を見ていたんだ…。」
「夢を…?」
「ああ…遠い昔の…そうおれとおまえが初めて出会った頃の夢だ。あの朝…おれはおまえに…そんな昔のことは覚えていないと…言ったが…、心が忘れていなかったらしい…。夢の中で、ずっとおまえの面影を探していた…。」
「レイさま……」
「聞け…リーザ、いつか月夜の晩に村外れの丘で、会ったことがあっただろう…? おれはてっきり妖精にでもからかわれたんだと思った。でもそこで「リン」と名前の入った髪飾りを拾って…」
「ああ…それは…。」
「それがおまえのものと知るまで…時間がかかったが…おれは、それまで…花嫁など誰でも良いと思っていた…。どうせこのアリオンの血をこの村に残すためだけの連れ合いなんだから、感情など必要ないと思っていた…。」
「ではどうして?」
「なぜ…おまえを選んだのか、ききたいのだろう…?」
リーザはコクりとうなずいた。
「それは…おまえの…その瞳が、おれにはとてもまぶしく感じられたから…。それに、いつか…歌っていただろう…? その…歌声が忘れられなかった。懐かしくて…温かくて…その歌声をもう一度聞きたくて、おまえを選んだのかも知れない…。」
「レイさま…」
「なのにおれは…ずいぶんとおまえに酷いことをしたな…。内心では惹かれながら、未熟なおれは…おまえにどう接していいのかわからなかった…。許してくれ…リーザ…。出来ることなら、おれの身体が元に戻ったら…もう一度、あの結婚式の夜からやり直さないか…?」
苦しい息を継ぎながら、長い告白を終えて…レイはまっすぐリーザの瞳を見つけた。
「レイさま…許すも、許さないも…わたしは、こうしてあなたが生きて帰って来て下さっただけで充分なんです。それ以上何かを望んだら…わたし…。」
幸せすぎて怖いんです…。小さな声でつぶやくと、また涙が頬を伝って落ちる。本当によく泣く娘だと笑いつつ…レイは、そのまま彼女の腕を引いて、寝台に横たわる自分の傍らに引き寄せた。
リーザの重みを受けて、思わず傷の痛みに口元が歪む。
「レイさま、傷が…。」
「構わない…。誰かを呼ぶのは明日になってからでいい…。今夜はこのまま眠りたい…。」
レイの左胸に顔を埋めるようにしてリーザは寄り添った。素肌の上に巻かれた白い包帯が痛々しくて、出来るだけ体重を掛けないようにしているのがよくわかる。レイはその背中に腕を回して、ぐっとさらに強く抱き寄せた。
「もう何も心配は要らない…。もう二度と辛い想いはさせないと約束する。」
「レイさま…わたしも、もしあなたがこのままあの世に行ってしまわれたら、追いかけて…あなたの本当の心を聞きたいと思っていました。あなたの居ない生活など、わたしには考えられないから…。」
そう言うリーザの頬をまた熱い涙が濡らすと、これは嬉し涙です…。
微笑むリーザをもう一度優しく抱き締めた。
永遠のアリオン―。
一週間ほど、リーザと一緒に父ジェイドの館で過ごしたレイは、体力が元に戻るのを待って、自分の館へと帰って行った。
レイが助かったという報せは、直ぐ村中に知らされ、それまで悲しみに沈んでいた村中の雰囲気は一変に明るさを取り戻した。
レイがジェイドの元に居る間、重臣たちをはじめ、多くの村人が代わる代わる見舞いに訪れたが、誰も彼もが慶びと安堵に湧き、若い夫婦の仲睦まじい様子に微笑んで帰って行く…。
あの晩、互いの気持ちを確め合ってから、より二人は強く惹かれ合うような気がしている。起き上がれるようになったとはいえ、まだ完全に傷の癒えないレイのために、リーザはせっせと薬草を採って来ては彼の傷の手当てをする毎日である。
「痛……!」
「ごめんなさい…痛みますか…?」
右肩の傷に薬を塗り込みながら、リーザは心配そうにレイの顔を見上げる。
「いや…少し染みただけだ。大したことはない…。」
平気だ…。レイは笑って見せるが、表面こそ塞がったものの…骨の近くまで達した肩の傷の治りは遅い。ラングーンの鋭い爪に抉られた傷である。そう簡単に癒える筈もなく…時々激しく疼いてはレイを苦しめた。
「そんなに心配そうな顔をするな…。おまえの煎じてくれる薬のおかげで、大分楽になったから…。」
「本当に…?」
レイの言葉に嬉しそうにリーザは笑った。そうなのだ。本当にこの娘は笑顔がよく似合う…。幸せそうに微笑む時、その澄んだスミレ色の瞳がキラキラ輝くことを、今のレイはよく知っている。
「今夜は満月だな…?」
窓から見上げる夜空には、中天にかかる満月が美しい姿を見せている。
「いいところへ連れて行ってやろう…。」
レイはリーザの手を取って立ち上がると、側にあった柔らかな夜具をふわりと彼女の肩にかける。
「……?」
不思議そうに見上げるリーザにレイは黙ってうなずいて見せた。
月明かりに照らされた夜道を、二人は寄り添って歩いた。二人がやって来たのは、太古の昔から数多の神々が住むというゼノンの森…。
大きな大木が生い茂り、普段誰も立ち入ることのない森は、太古のままの姿を保ち、本当に神々が住むに相応しい佇まいを見せている。
この森の奥深くの一角には、光る石の洞窟が幾つか有って…そこにある石には不思議な力がある と言われているのである。
そう言えば、いつかランに教えられて、この森にまじない用の石を取りに来たことをリーザは思い出した。
あたり一面キラキラと輝く洞窟の中を、二人は奥へ奥へと進んでいく。小柄なリーザのために、レイはゆっくりと歩いている。
しばらく歩いて、やがて少し広い場所へと出くわした。どうやら洞窟はそこまでで…天井も高く、見上げると、そこには…巨大な水晶が固まって出来ているのだろうか、幾重にも月の光を反射して…無数の光のイリュージョンを造り出していた。
目の前の中央に横たわる大きな透明な石の下からは、澄んだ水が湧き出ているのが透けて見える。それが徐々にしみだして…そのまわりに小さな小川を造っていた。
「綺麗…。」
この世のものとは思えないほどの美しさに、思わずリーザは溜め息をもらした。
「凄いだろう…? 子供の頃に見つけてからは、ずっと…おれだけの秘密の場所だった。だから傷が癒えたら、必ずおまえをここに連れて来ようと思っていた…。」
「レイさま…。」
「もうレイでいい…。」
レイはリーザの手を引いて、目の前の透明な石の上に上がる。石の表面はなだらかな平面をしていて、二人が腰を下ろしたちょうどその真下を…幾筋もの澄んだせせらぎがゆっくりと流れていく…。
「もう一度、今はっきりと言う…。おれはおまえを愛している…。他の誰でもない、おまえでなければ駄目らしい…。」
「わたしも…あなたでなければ駄目なんです…。」
そう言うリーザの肩が小刻みに震えている。そして、またその頬を伝う一筋の、涙…。
レイは静かに微笑みながら、片手で…その頬の涙をぬぐうと、その唇にそっと口づける。
誰に教えられるわけでもなく…自然に…。互いに愛しいと想う気持ちが二人を引き寄せるか、向き合ったまま…お互いの身に付けている衣の紐を解く…。
ふたりを照らす、ほの明るい光の中に、リーザの白い細身のシルエットが浮かび上がる。華奢な身体からは想像できないほど豊かな胸を、恥じらうように両手で隠すさまが初初しくて…思わずレイは息をのむ。
初めて目にする生身の若い娘の…ありのままの姿に、さっきから鼓動は激しく鳴り響き、頭はクラクラするようなめまいにおそわれていた。
ひとつ息を吸って呼吸を整える。リーザを片手で抱き寄せ、反対の手で支えながら…優しくその場に横たえた。
二人の視線が上下に絡み合う。もう逃げないと決めてから…レイのなかで迷いはなかった。
レイの腕のなかで、リーザの身体が小刻みに震えているのがわかる。
「おれが恐いか…?」
「……。」
リーザはレイの問いかけに小さく首を横に振る。彼女も、これから初めて体験することの期待と不安にドキドキしているのである。頭の片隅で、嫁ぐ前の晩、母マイラから贈られた言葉を思い出していた。
愛する人を受け入れる時、決して恐れないこと…。水面に揺れる水草のように…その流れにすべてを任せて、決して逆らわないこと…。
そうすれば、苦しみなど感じなくて済むのだと…。
静かに微笑んで、リーザは目を閉じる。
レイは逸る気持ちを抑えながら…ゆっくりと再び唇を重ね合わせた。
剥き出しの肩も胸も…触れあう肌は熱を帯びて熱くて…思わず何もかも忘れてしまいそうだ…。絶え間なく洩れる熱い囁きと吐息と…。月の光が造り出す華麗なイルミネーション
に包まれて…これから二人だけの儀式が始まる。
熱い嵐のような時間が過ぎ去ったあと…二人はぴったりとその身体を寄せ合いながら微睡んでいた。
互いの脱ぎ散らかした衣を敷き詰めたその上で、リーザはレイの左胸に頭をのせて小さく身体を丸めている。その剥き出しの肩を抱きながら、レイは心地よい疲労感に酔っていた。
(今まで感じたことのないような、満ち足りた高揚感…。これが誰かを愛するということか…。)
誰かを愛しいと思うことが、こんなにも自分の心を満たしてくれることを、レイは初めて感じていた。
そしてリーザも、今こうしていることが信じられず、今自分を抱いているこの手が本当にレイなのか…急に不安になって、顔を上げてレイを見た。
「どうした…?」
気配を感じてレイも目を開ける。
「ごめんなさい、起こしてしまったのですね? わたしを抱いているこの手が、本当にあなたなのか…不安になってしまったの…」
「バカな…」
レイは笑いながら…半身を起こして、じっとリーザのスミレ色の瞳を見下ろした。左腕を彼女の枕に置いたまま…右手でリーザの頬にかかる髪の毛を払う。
「この手が幻なわけがない…。確かにおまえを抱いている…。」
「ええ…わかっていても、不安になるんです。前に父が誰かと話しているのを聞いたことがあって…。あなたはいつか、この村を出て何処かへ行ってしまうのではないかと…。あなたのなかのアリオンの血がそうさせるのだと言っていました。」
「そうだな…確かに、おまえを知る前のおれは…毎日、遠い地平線の向こう、さらにその先へ…いつか行ってみたいと…そんなことばかり考えていた。アリオンは流浪の一族だ。おれの中に流れる血も一ヵ所に落ち着くことを良しとしないのだろう…。だが、今のおれにはおまえがいる。おまえの存在がおれをここに引き留めているのだから、他の誰でもない…。おまえでなければ駄目なのだ…。」
それからしばらく経ったある日、すっかり傷の癒えたレイは、また前のように仲間たちに交じって狩りへと出掛けて行った。 力強く大地を駆けて行く狼たちの一団の中で、ひときわ目を引く存在…先を行く先頭グループの中に黒銀色の狼が一頭…見事なシルエットを見せて、眼下に広がる平原の中を疾走していく…。
それを村外れの丘からじっと見守る娘がひとり…。見違えるほど美しくなったリーザである。
「リーザ…!」
後ろから声を掛けられて、振り返ると幼馴染みのランが立っていた。
ランも今ではレイの従兄弟にあたるリュウの妻である。ほんの少しお腹が膨らんで見えるのは、この夏ごろから身籠っているせいだろう…。
「すっかり元気になられたわね、レイさま…。」
「ええ…。」
はるか遠くに消えつつある彼らの姿を見送りながら、リーザはうなずいた。
「それに、あなたもとても幸せそう…。彼とは仲直りしたんでしょう…?」
「そんな、仲直りだなんて…。」
「くす…くす…照れなくてもいいわよ、あなたを見ていればよくわかる。彼はとてもあなたを愛してくれているのでしょう? この頃のあなたは、眩しいくらいに綺麗だもの…。」
ランの言葉に微笑みながら、リーザはうなずいた。
確かに、今の自分はレイに愛されている…。そう思えることへの自信が今の自分を強くしているのだと思う。
もう何も怖くない…。仮に…たとえそれが今だけの幸せでも…いつか、レイの中にあるアリオンの血が目覚めて…遠くへ旅立つ日が来ても…決して今を後悔しない…。
遠く隔たれて…二度と会えなくなる日が来ても…わたしは、わたしだけのあの碧い瞳を忘れない…。
空はどこまでも青く…風は秋の色をはこんでいく…。リーザは遠い空を仰ぎ見た。
心はいつまでもあなたのそばに…。
わたしだけの…アリオン…。
第一部 おわり