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アカプルコ幻想

作者: 三坂淳一

「 アカプルコ幻想 」(時代背景は1979年2月)


 眼下には、アカプルコの海が広がっていた。

 飛行機は徐々に高度を下げ、アカプルコ空港への着陸態勢を取り始めた。


 「辻君、一昨年亡くなったプレスリーのことだけど、君はプレスリーの‘アカプルコ万歳’という映画を観たかい?」

 「いや、残念ながら観ていません」

 「そうか。あの映画は何年前の映画だったろう? 僕が高校一年か二年の頃だから、もう、かれこれ11年か12年前になるかなぁ。随分と昔の映画だよ。プレスリーも随分と若く、カッコ良かった頃だ」

 「陸奥さんも純情可憐な美少年だった頃ですね」

 「ハァッハッハッ! そうだよ。紅顔可憐な美少年でプレスリー同様、カッコ良かった頃だよ。エルビス・プレスリーの映画は何本か観た。当時、通学時に映画を観ることは学校から禁止されていた時代で、かなりのスリルを感じながら、放課後、街の映画館で観ていたんだ。もう、映画の筋は忘れてしまったが、例えば、‘ラスベガス万歳’、‘ブルーハワイ’とか云ったのがプレスリー主演の映画として日本で上映されたんだ。僕は、プレスリーが好きだったなぁ。いかにも、アメリカ的な雰囲気が漂っていたしね。歌い方も今から思うと、とんでもなくセクシーだったんだろうな。とにかく、辻君のような都会育ちと違って、僕みたいな地方の田舎町の少年にとって、アメリカの雰囲気というのはとても刺激的だったんだよ。プレスリーの次が、ビートルズさ。そして、大学時代は何と言ってもサイモン&ガーファンクルだったなぁ。大学時代は全共闘華やかなりし頃で、僕もいっぱしに黒ヘルをかぶっていたしね」

 「陸奥さんたちは全共闘エイジなんですね。僕が大学に入学した頃は、もう全共闘は沈滞していた頃で、さしたる記憶は無いんですが」

 「そうかも知れない。70年安保が僕の大学2年の時で、辻君は僕より3つ下だから、高校2年の頃か。辻君が大学に入学した頃は、全共闘は消耗していた頃かも知れんな。

昭和22年から26年生まれあたりのベビーブーマーが全共闘世代だからね」


 陸奥優次郎は飛行機の窓から外を眺め、あの頃のことを思い出していた。当時の全共闘のスローガンを思い出していた。それはこのようなスローガンだった。

 【 連帯を求めて、孤立を恐れず。 力及ばずして倒れることは辞さないが、力を尽くさずして退くことを我々は拒否する 】

 陸奥はこれらの言葉で語られるリリシズムが理屈抜きで好きだった。陸奥自身はそれほどの活動家ではなく、云わば、いつのまにか全共闘の渦の中に居て、70年安保を境にして全共闘運動が退潮していく過程の中で、いつのまにか姿を消していった、いわゆるノンセクト・ラジカルの一人に過ぎない存在だった。しかし、陸奥はあの頃のことを思うと、いつもじりじりとした苦い思いに駆られるのが常であった。敵前逃亡という思いに悩まされるのだった。俺は畢竟リリシズム的に、あの全共闘の闘争を愛しただけなのか。情緒的に愛しただけなんだ。窓の外のメキシコの明るい太陽、大地の風景の中で、陸奥は薄暗がりの中で蠢く自分の心のもどかしさを感じていた。


 陸奥たちを乗せた飛行機はアカプルコ空港の滑走路に静かにその身を滑らせ横たえた。

 「豊田さん、着きましたよ」

 辻真一郎が後ろの座席でまどろんでいた豊田栄一に声をかけた。

 「うーん、もう着いたの」

 豊田は軽くあくびをしながら言った。

 「豊田君、メリダに残してきたアマポーラのことを夢に見たんだろう。随分と幸せそうな顔をして眠っていたよ」

 陸奥が笑いながら、豊田に言った。

 「あれっ、そんな幸せな顔をしていましたか? 今、僕は悩んでいる最中なんですよ」

 「ええ、陸奥さんが言われたように、豊田さん、すごく幸せそうな顔をしていました。眠っている時の顔は正直ですから」

 辻がからかい気味に言い、三人は笑いながら、飛行機のタラップを降りて、アカプルコ空港のターミナルビルに向かった。


 「セニョール! どこか、快適で安いホテルを知っているかい? 僕たち、ホテルの予約をしていないんだ」

 タクシーに乗り込みながら、豊田が運転手に訊いた。

 「予約していないのかい。今はシーズンだから、ホテルはほとんど満員なんだよ。うーん、・・・。あのホテルなら泊まれるかも知れないな。エル・シッド・ホテルというところなんだけど。感じが良い割には割合安いし、満員になることも無さそうだし。行ってみるかい」

 「行ってみよう! 文句は言わないよ」

 「エスタ・ビエン(OK)。バモス(行くよ)」


 タクシーは超高層ホテルの林立する海岸沿いの道を快調に走った。やがて、エル・シッド・ホテルの駐車場に入り、運転手がホテルに入っていった。

 5分ほどして戻ってきた。宿泊が何とか取れたとのことだった。陸奥たちは少しチップをはずみ、ホテルに入っていった。外観はさほど立派なホテルでは無かったが、ホテルのロビーを含む内装はなかなかのものであった。ホテルの裏手には、満々と水をたたえたプールもあり、観光客とおぼしき男女で結構賑わっていた。但し、陸奥たち三人の部屋はそれぞれ階も違い、離れていた。


 「じゃあ、30分ほどしたら、下のロビーで落ち合うこととしよう」

 「了解。じゃあ、陸奥さん。30分後に!」

 エレベーターの扉が開き、陸奥は軽く手を振って、豊田、辻と別れ、部屋に入った。

 部屋はかなり狭かった。それでも、日本のビジネスホテルよりは格段に広く、ツインベッドで一人で居る分には十分のんびりできるスペースはあった。陸奥はカーテンをいっぱいに開けた。アカプルコの海が見えた。淡い褐色を帯びた砂浜の向こうに青い空が広がっていた。プレスリーの映画の砂浜と海はどうだったろうか。陸奥には懐かしい風景のように思えた。今、そのアカプルコに居るのだ。陸奥は軽いときめきを覚えた。常夏の国際的リゾート地、アカプルコ! 眼下に広がる蒼く澄んだ海を見ながら、陸奥は心が自然と、のびやかに広がっていくのを感じた。アカプルコ、と呟き、海に向かって微笑んだ。


 「さてと、どこに行きますか?」

 陸奥がロビーに行くと、ソファーにゆったりと座り、くつろいでいた豊田が訊ねてきた。

 「そうだねぇ、別にあては無いけれど、辻君が来たら、砂浜でも歩いてみようか。このあたり周辺は確か、オルノスビーチと言って、支倉常長の銅像もあるということだから」

 陸奥と豊田がタバコを吸いながら、通りを行き過ぎる車や人の群れを眺めているところに、辻が現れた。辻は、メリダに来てすぐ黒縁の眼鏡はやめて、コンタクトレンズを着用し、サングラスをかけるようになった。それ以来、彼のトレードマークになっているグラデーションが入っている淡い茶褐色のサングラスをかけていた。サングラスとチェックの半ズボン姿が良く似合っていた。

 「辻君、今、豊田君とも話していたんだが、これからどこをぶらつこうか? 今は11時だから、昼食にするには早過ぎるし、・・・、ビーチでもとりあえずぶらつこうか」

 「ええ、僕は構いませんよ。ビーチを歩いて、ひさしぶりに目の保養でもしますか」

 「じゃあ、決まった。目の保養をしよう。なにしろ、ここは国際的リゾート地だから、刺激的な水着姿のセニョリータにもお目にかかれようから」

 三人は笑いながら立ち上がり、ホテルを出て、通りを横切り、浜辺に出た。

 季節は2月になっていたが、常夏の暖かい風が快く三人を包んだ。陸奥たちは淡褐色の砂浜に降り立ち、ぶらぶらと砂を踏みしめながら歩いた。


 「セニョーレス! パラカイーダ、やってみない?」

 麦藁帽子をかぶった客引きの若者たちが三人に声をかけてきたが、マス・タールデ(後でね)と言うとあっさり引き下がっていった。

 パラカイーダというのは、パラシュート・セイリングのことで、砂浜には観光客をあてこんだパラセーリング業者が何組かおり、盛んに客を引いていた。モーターボートに引かれ、空中高く引き上げられていくパラシュートは雲一つ無い空に映え、いかにも南国のリゾート地の風情を感じさせる光景であった。


 支倉常長の像の前に行き着いた。両刀を携えた侍の像は椰子の樹を背景にして建立されていた。侍と椰子の樹と蒼い空。あまりにも日本の気候と違う異郷の地に降り立った侍の一行がどのような感慨を持ったか、それを示す文献はほとんど残っていない。


 「支倉常長。仙台藩士。仙台の月の浦港を出港し、このアカプルコに着いたのが、1614年。ローマ教皇に拝謁し、日本に帰ったのが1620年と云われている。実に、7年がかりの長旅となったわけだ。しかし、この間で日本の情勢は出国前と大幅に変わり、切支丹は弾圧され、国は鎖国の道を歩んでいた。帰ってきた支倉一行は全員棄教を余儀なく求められ、冷遇、失意の内に支倉は2年後にひっそりと死んだと云う。日本に帰ってからの支倉の暮らしを伝える記録は皆無に近い。ひそかに殺されたとか、切腹して果てたという説も巷間流布されているくらいだ」

 支倉の像を眺めながら、陸奥が呟くように言った。


 「挫折させられし者、ということですかねぇ。しかし、その死までの2年間で、彼の胸に去来したものは何だったんでしょうね。すごく興味をそそられます。この地の思い出も、その内の何パーセントかは占めていたんでしょうか。林立する椰子の樹、限りなく澄みわたった青い空、蒼い海、異郷の言葉で話しかけてきたインディオたちの群れ。日本を出国し、初めて異国の地を踏んだのが、このアカプルコだったとしたら、おそらくそうなんでしょうけれど、その印象はさぞかし強烈だったのではないでしょうか。苦渋に満ちた追憶の中で、その思い出が、つまりこのアカプルコの明るい砂浜の思い出が唯一明るさに満ち満ちた思い出であったとしたら、・・・、何となく救われる気持ちになりますね」

 陸奥の言葉を受けて、辻も感慨深そうに言った。


 「挫折させられし者、挫折せし者、挫折せざる者、挫折まで至らざりし者。歴史は幾多の挫折に彩られています。或る者の勝利の陰に、必ず挫折せし者ありき、ということですかねぇ。悲劇の人、支倉常長、か」

 支倉の銅像を見上げながら、豊田も憂鬱そうに呟いた。

 豊田の呟きを聞きながら、陸奥は、俺は挫折まで至らざりし者か、微かな自嘲を感じた。そうだ、俺はあの全共闘運動の中で、挫折はしなかったのだ、挫折という名に値する

ほどのことは何もしなかったのだ、情緒的に参加し、情緒的に敗北感とやらを味わった

だけに過ぎないのだ、それに引き換え、ここに居る支倉常長は徹底的に挫折した者、挫

折させられし者なのだ。陸奥はふと、メキシコシティの吉川純子のことを想った。熱い

想いであった。陸奥の心の中で純子の存在は日増しに膨らむ一方であった。陸奥は純子

に愛を感じてしまった自分を強く意識した。ただ、同じ会社の宮野も純子が好きなようだ。

純子の気持ちはどうなんだろう。宮野か、それとも、俺か、どちらを純子は好きなん

だろう。宮野だとしたら、愛してはならぬ女性、恋してはならぬ女性を不覚にも愛し、恋してしまったことになる。

 ふと、陸奥の心に昔読んで感銘を受けた万葉の歌が甦ってきた。

 「夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ」

 誰が詠んだ歌か、は忘れてしまったが、吉川純子に対する想いはまだ彼女には知られていない、と陸奥は思った。

南国の眩しい陽光の下、陸奥はネグラ・メランコリーア(黒い憂鬱)のベールに包まれ、銅像の前に立っていた。


 「グアナフアトでは、いろいろと宮野さんにお世話になりました。私に今度メリダに行く機会があったら、陸奥さんに宜しく、とおっしゃっていました」

 メリダに吉川純子が来たのは昨年の11月だった。斉藤和子たち、シティ研修の看護婦グループと一緒にカリブ海旅行の途中、メリダに立ち寄った。昼、陸奥のアパートでカレーライスを作って、メリダ・グループにご馳走してくれた。そのお礼として、夜は陸奥たちメリダの社会人研修生がトロバドールというバル(酒場)に招待した。

 「ああ、そうですか。宮野とは時々手紙のやりとりをしています。宮野も元気で第二の大学生活をエンジョイしていますよ」

 だが、宮野は陸奥への手紙の中で、吉川純子に対する好意を彼らしい率直な言葉で書いていた。陸奥は宮野の手紙を読みながら、複雑な心境であった。陸奥もオアステペックで初めて吉川純子に会った時、妙な胸騒ぎを感じた。これは、ひと目惚れというものか、と陸奥はその時思った。大分長いこと、忘れていた感情だった。

 

 「セニョーレス! パラカイーダはいかが? 面白いよ」

 支倉常長の銅像を後にしてホテルに戻ることとした。その帰り道で、さきほど声をかけてきた麦藁帽子の若者たちがまた陸奥たちに声をかけてきた。

 「いくらだい? 安くするんだったら、乗ってもいいよ」

 「160ペソ(2000円程度)だけど、・・・、100ペソにしておくよ」

 結局、三人共パラカイーダを楽しむこととした。くすんだ鼠色の安全ジャケットを着込み、モーターボートに引かれるままに少し助走すると、体はふわっと宙に浮かび、大空に舞い上がった。

 パラシュートを牽引するロープにはゴム製の浮き輪が取り付けられており、万一の場合の安全の備えとされていた。パラシュートはモーターボートに牽かれ、海上はるか沖に向かって一直線に舞い上がっていく。豊田が最初に乗った。陸奥と辻は手をかざして太陽の眩しさを避けながら、豊田のパラカイーダを見物した。雲一つ無い、晴れ上がった大空に、赤と白に染め抜かれたパラシュートは鮮やかに舞い上がっていき、見る間に小さくなっていった。浜辺は入り江になっており、遠くに、コンデッサビーチに林立する超高層の豪華ホテルが見える。やがて、10分程度の空の旅を終え、豊田が地上に戻ってきた。二人の若者が手際よく、辻の装備を整えた。そして、辻も飛び立っていった。

 「豊田君、空の旅はどうだった?」

 「ほんの一瞬ですね。でも、なかなか面白いものです。この湾を囲むなだらかな山々、高層ホテル群、そして青い空と海。自然と詩人になりますよ」

 その間にも、麦藁帽子の二人の若者は、陸奥の後に乗る観光客を探し、浜辺を歩く人に声をかけていた。米国人と思しき客を釣り上げたようであった。その夫婦連れの観光客は微笑みながら、陸奥の後に並んできた。やがて、辻が戻り、陸奥が飛び立っていった。

 「安全かね?」

 米国人夫婦の男性が辻たちに訊ねてきた。

 「ええ、安全ですよ。心配することはありません。但し、時間の割に料金は高いですけど」

 という辻の答えに、彼は肩をすくめた。


 陸奥が空の旅から戻り、三人は浜辺の高く生い茂った椰子の木陰に置かれた萱葺きのパラソルに入り、木のビーチチェアに腰を下ろした。

 「さて、いい時間になったから、昼食としようか。このところ、メリダでは自炊暮らしが続いたから、栄養不足になり始めているんだ。このアカプルコではナイトライフを満喫するためにも栄養を摂らなくては」

 「いや、陸奥さん、そんな心配はご無用です。第一、血色も良いし、日本と違って楽をしていらっしゃいますから、下手にカロリーを取り過ぎると鼻血が出ることにもなってしまいますよ」

 「そうか、辻君にそう言われては仕方がないなぁ。フルコースはやめて、野菜を中心とした食事とするか」

 「そうだよ、陸奥さんは辻君と違って、精力を持て余しているんだから。辻君みたいに、適当な遊びもやっていないしねぇ」

 「あっ、豊田さん、それは聞き捨てならぬお言葉ですな。仙人みたいな暮らしをしている陸奥さんから言われるならともかく、豊田さんには言われたくないですよ。僕はこのところ昔みたいな羽目を外した遊びはやっていませんよ。そりゃまぁ、一時期多少は遊び狂った時期もありましたけど、それは、豊田さん!、豊田さんも同類ですよ」

 「いいよ、いいよ、二人共、昔の詮索はよそうよ。今は、メリダ・グループは変人の集まりじゃないかと、他グループから冷やかされるぐらいに、清廉潔白、坊さんみたいな暮らしをしているんだから。まぁ、もっとも、豊田君はアマポーラという素敵なノビア(恋人)がいるけれどね。近頃、どう? 彼女との進展状況は?」

 「うーん、前にも言ったかと思いますけど、この頃少し、・・・、悩んでいるんです。僕たちの研修生活もこの4月に終わりますよねぇ。その後、どうするか?、なんです、僕の悩みは。僕は26歳、アマポーラはまだ19歳。まぁ、年齢的には別に問題はないんですが、問題は僕の両親なんです。父は中学の校長をしていますが、とても頑固なんです。外国人の嫁なんて、とんでもないといった感じで。また、母も昔気質の女性でして、頭から外国人の嫁を迎えるということにすごく抵抗を示し、反対しているんです。この二人、つまり僕の両親をどうやって説得していくか、それが目下の難問で頭を悩ましている問題なんです。姉は問題ないと言ってくれているんですが。陸奥さん、何かいい知恵はありませんか?」

 「うーん、・・・、困ったなぁ。僕も豊田君とは二つしか違っていないし、まだ結婚もしていない青二才だから、適当なアドバイスを与えることなど到底できやしない。それで、アマポーラのご両親はどうなの?」

 「ええ、アマポーラの両親の方は比較的僕に好意的なんです。勿論、娘を日本に行かすということに関しては、多少のこだわり、不安感は当然持っているようですが、娘が望む限り、それは娘の人生だろう、という原則的態度は持っているように感じられます。まぁ、諦めかも知れませんが」

 「それなら、案外簡単に行くかも知れない。結婚の場合、嫁に出す方が一番大変だということだから。しかし、豊田君の場合は静岡の旧家ということだから、いろいろとあるんだろうな。僕も長屋門を巡らし、中で畑仕事をやっている旧家を知っているけど、そこに嫁いだお嫁さんは大変らしいよ。部屋の掃除とか庭の手入れだけでも半日仕事となるとか。それに、舅、姑の世話、近所付き合い、親類縁者との付き合いも加わり、肉体的にも精神的にも大変だとか、聞いている」

 「それほどの旧家ではありませんが、家は昔の農家造りで、かなりの部屋数があり、母は舅、姑が健在だった頃は結構大変だったようです。まぁ、今は農業もやっていませんし、僕は東京暮らしですから、アマポーラに苦労はかけさせないつもりですが、何分うちの両親の頭がすっごく堅くて、往生しています」

 「豊田さん、一度、ご両親をメキシコに呼ばれたらどうです。理解不足故に、反対していらっしゃる面もあるんじゃないですか? こちらに来られて、アマポーラさん本人、アマポーラさんの両親と会われたら、少しは気持ちも変わるんじゃないでしょうか」

 「そうだね、辻君の言う通りかも知れない。豊田君、その方向で検討してみたら、どうだい」

 「呼んでも、来るかどうか、判りませんけどね。来るとしたら、結婚を承諾した時でしょうね。でも、そうですね。トライしてみます」

 「それと、来年日本に帰って少し落ち着いたところで、夏休みあたりでアマポーラを日本に呼んで静岡のご両親に会わせるという手もあるよ」

 陸奥の言葉に豊田は頷いた。


 陸奥たちの座っているパラソル周辺も観光客で混み始めてきた。多くは米国人であったが、言葉を聞く限り、ヨーロッパからの観光客もかなりいるように思われた。

 カラフルな水着に交じり、Tシャツ、半ズボンといった姿も見受けられ、思い思いのバケーションを過ごしているといった感じで画一的でないところが和やかでリラックスした雰囲気を醸し出していた。日本人は増えない方が良い、と陸奥は苦笑しながら思った。画一的な日本人旅行者にはバケーションを楽しんでいるという雰囲気が無い。自分も含めて、そうだと陸奥は思った。日本人を語る時、どうしても痛みが伴う。 

全共闘の時もそうだった。集団による組織的な暴力、国家的な圧政を批判しながら、自分たちも同じように、学校内の少数の敵対者に対しては、同じように圧迫していなかったか。日本人を語る時、自分がその日本人であることを十分に意識しているのか、その日本人と自分はどこがどのように違っているのか、偽善的態度は決して許されるものではないだろう。だが、・・・、くよくよ考えてもしょうがない、もっと自由でもいいんじゃないか。 

そんなことをとりとめなくも無く思いながら、真昼のアカプルコの暑い浜辺に居た。


「さて、昼食にしよう」

陸奥が声をかけ、三人は立ち上がり、ホテルのレストランに向かった。ビールで乾いた喉を潤した。冷えたビールを瓶のまま飲んだ。ビールに関しては、三人とも好みがそれぞれ異なっていた。陸奥はボエミア、豊田はスペリオール、そして辻はコロナというブランドのセルベッサ(ビール)に決めていた。豊田は一息で飲み干し、ウエイターに追加を注文した。

「メキシコで何がうまいって言ったって、このビールほど美味しいものはありませんね。ギュンギュンに冷えたビールをグラスに移さず、瓶でそのまま乾いた喉に押し込んで飲む、この快感はたとえようもなく、うまいの一言に尽きます。特に、ここアカプルコは無条件に暑く、今は2月で冬にもかかわらず、暑い。この暑さの中でいっき飲みをする喜び、これはもう最高!という感じですね」

「豊田さんのビール賛歌、いいですね。じゃあ、僕も追加しようっと」

「しかし、こうして三人ともビールの好みが違うというのも面白いね。僕はボエミアに決めているし、豊田君はスペリオール、辻君はコロナだ。僕がボエミアにしたのは、これが一番苦味があって、日本のビールに似ているからなんだ」

陸奥も美味しそうに、ボエミアを飲み干した。目敏く、ウエイターが近づいてきた。

「エスタ・リコ(美味しい)。ウナ・マス、ポール・ファボール(もう一本、お願いね)」

その内、料理が運ばれてきた。三人は愉快に談笑しながら、料理を平らげていった。

コクテル・デ・カマローネス(海老のカクテル)、コンソメ・デ・ポージョ(チキン・コンソメ)、ビステック・デ・レス(ビーフステーキ)、そしてデザートとしてニエベ・デ・リモン(レモンシャーベット)を取った。


「1時半か。今日は6時起床で、7時の飛行機でメリダ空港を発って、アカプルコ空港に着いたのが9時40分か。ちょっと眠くなってきたよ」

「ハッハッ、陸奥さん、ビールを飲んでいっぱい食べて満腹になったんで、眠くなってきたんでしょう。それでは、メキシコの習慣にのっとって、スィエスタ(昼寝)としましょうか。午後4時にまたロビー集合という線でどうでしょうか?」

豊田が提案した。二人に異存は無く、三人はレストランの出口のところで別れた。


陸奥、豊田と別れ、辻はコステラ・ミゲル・アレマン大通りを西に歩いていった。

昨夜は早めに寝たせいもあり、昼寝をしようという気持ちにはなれなかったのである。辻は生まれつき勤勉な性格であり、昼寝というメキシコの習慣は彼には馴染まなかっ

たのである。それに、25歳の若者らしく、刺激を、言い換えれば、胸をときめかせるようなアベントゥーラ(冒険)を求めていた。昼寝は彼にとっては時間の浪費を意味した。 

アベントゥーラという言葉の響きは甘美な響きとなって辻には聞こえた。

辻は、アカプルコの暑さの中で、トタン屋根の猫のように、じりじりとした欲望の熱さを感じていた。身を焦がす何かを求めていた。


いつのまにか、サン・ディエゴ砦に着いていた。この砦から見る湾の眺望は素晴らしかった。沖には悠然と海上の道を行く、世界各国の豪華客船の姿があった。海賊の襲撃に備えて築かれた、この要塞は五角形の建物で、どこか日本の函館の五稜郭を思わせる建物だった。また、眼下の波止場には客船を主に多種多様の船舶が所狭しと停泊しており、観光客の好奇の目を楽しませるに足るものだった。


「失礼ですが、日本の方ですか?」

波止場を見下ろしていた辻の背後から、女性の声がした。辻が振り返ると、そこに若い女性が立っていた。

「ええ、僕は日本人ですが、・・・。何か?」

「この手紙の文章の内容を知りたいんです。ご迷惑でなければ、スペイン語に訳して戴けないでしょうか?」

彼女はハンドバッグの中から、一通の手紙を取り出し、辻に渡した。

辻は中から便箋を抜き取り、ざつと内容を確認した。それは、彼女宛に出された、日本からのファンレターだった。

「あなたはフラメンコ舞踊団の方ですか?」

「ええ、フラメンコ・ダンサーです。今、セントロ・アカプルコの劇場で踊っているの」

「スペイン人なんですね?」

「ええ、スペイン人ですわ」

彼女は漆黒の髪を持ち、メキシコ風の発音とは異なったスペイン語を話した。

「それでは、・・・、訳します。えーと、これは日本の女性からのファンレターです。・・・。スペイン語がほとんどできないので、日本語で書くことをお許し下さい、と先ず書いてあります。それから、東京の公演であなたを観ました、とても素晴らしかった、です。フラメンコの情熱的な踊りに強く印象を受けました。私もフラメンコを踊ってみたい。来年、2年間の予定でスペインの大学に留学するので、もし、あなたの個人的な住所を教えて戴ければ、あなたの都合の良い時にお伺いしてレッスンを受けたい、といったようなことが書いてあります」

「ありがとうございます。日本のそのセニョリータの手紙には、そのようなことが書いてあるのですね」

彼女は辻から手紙を受け取り、ハンドバッグにしまいながら、困惑したような表情をした。それから、辻に向かって、呟くように語りかけた。

「日本のセニョリータのフラメンコに対する好意はとても嬉しいんだけれど、私たちは旅から旅の公演がほとんどで、固定した住所は持っていないのよ。マドリッドにはちゃんとしたフラメンコ教習所があるから、そこに行かれた方が良いと思うの」

「そうなんですか。・・・、良ければ、僕の方から彼女に断りの手紙を書いてあげましょうか?」

「・・・、そうね、そうして戴いた方が良いわね。このまま、連絡しないよりは、その方が良いわねぇ。でも、あなた、ご迷惑じゃないこと?」

彼女は辻を見詰めた。おそらく二十歳前であろうが、彼女の美貌は辻を圧倒した。

これほどの完璧な美貌はまだ見たことがない、と辻は思い、軽い心の弾みを覚えた。

「いや、ご心配はご無用に。ただ、手紙を書くだけのことですから」

彼女は辻に礼を言い、ファンの手紙を辻に渡した。辻は手紙の住所とファンの名前を手帳に書き写した。手紙は彼女に返した。

彼女の名は、カルメンと言った。セントロ・アカプルコという娯楽センターの劇場で数日前から公演しているフラメンコ一座の若手のダンサーであった。今月の半ばまでの二週間ほど、このアカプルコに滞在し、それからブラジルのリオ・デ・ジャネイロに公演旅行が続くとのことであった。日本にも過去数回公演で行っており、東京、大阪は好きな街だ、と楽しそうに語った。

「セントロ・アカプルコでの公演は何時に始まるの?」

「夜の9時と11時半の二回よ。お友達を連れていらっしゃいよ。一生懸命踊るわ」

「うん、必ず行くよ。貴女のフラメンコが楽しみだなぁ」

彼女は婉然と辻に微笑んだ。辻はその微笑に痺れた。彼女と別れ、ホテルに向かう辻の足取りは軽かった。辻は心が次第に浮ついていくのを感じ、ひとり照れた。


辻がホテルに着き、ロビーの方に目を向けると、陸奥がいた。陸奥はぼんやりとした表情で海を見ていた。どことなく頼りなげで淋しそうな表情をしていた。いつもの快活な陸奥と違った表情をしていた。


「ああ、陸奥さん。まだ、4時前ですよね。昼寝はされたんですか?」

「辻君か。少し、昼寝をしてきたよ。豊田君はまだだよね。辻君、ここに座って僕につきあってくれよ。まあ、別に話は無いんだけれど、実はこのところ、僕は憂鬱でね」

「陸奥さんが憂鬱なんですか?」

「辻君、そんな意外そうな顔はないだろう。僕だって人並みに憂鬱になることもあるさ。それに、海というものは不思議なものだ。じっと見詰めていると、なんだか非現実的な夢の中に引きずり込まれていきそうな感じになる。自分のこれまでの人生が、なんと言ったらいいのか、そう、無意味でくだらないものに覚えてくるんだ。大学を卒業、銀行に入って、こうしてメキシコ暮らしを謳歌して、日本に帰って、お見合いをして結婚して、子供をつくり、そして、・・・、エトセトラ。そんな人生しかないのかなぁ。もっとドラスティックな波瀾万丈といった人生はもう無理なのかなぁ。そんな人生は僕には向いていないのかな。海を眺めて憂鬱になっても仕方ないんだけれど、なんか今日はどうしても落ち込んでしまう。支倉常長が原因かなぁ」

「陸奥さんにしては珍しいですね。もしかすると、陸奥さん、そろそろ第何回目かのホームシックに罹り始めているのではないですか? あと二ヶ月の辛抱です。二ヶ月したら、日本に帰り、また忙しい日々に戻るわけですから。それとも、・・・、陸奥さん、怒らないで下さい、もしかすると、あの吉川さんのことで、・・・」

「いや、それは違うよ、辻君! 吉川さんのことは関係ないんだ! 吉川さんは僕にとって悩む対象ではないんだ」

陸奥は、その言葉を最後に黙り込み、辻も黙って海の方へ視線を移した。


やがて、豊田が現れた。

「お待たせしてすみません。いやぁ、ひさしぶりの昼寝、とても気持ちよくぐっすり眠ってしまいました。どこかで、コーヒーでも飲みませんか? ビールでもいいですよ。付き合います」

「豊田君と付き合っていたら、本当に酔っ払ってしまうから、ビールはやめて、通りの喫茶店で寝覚めのコーヒーでも飲もうか」

「そうですね。デニーズでも探して、ネスカフェ・コン・レチェ(熱い牛乳にネスカフェの粉末を入れて飲むコーヒー)でも飲みましょうか」

辻が笑いながら二人を誘った。

「ネスカフェ・コン・レチェ、か。これは、メキシコ独特のものだろうなぁ。デニーズ

のメニューの中で見た時、冗談かなと思ったものね。熱い牛乳とネスカフェのインスタントコーヒーの粉末パックが付いてきて、ご自由に、というわけさ。しかし、なかなか美味しいものだ。じゃあ、デニーズを探すとするか」

辻がホテルのカウンターでデニーズの場所を訊いてきた。幸い、すぐ近くにあった。


「辻君、そのアイスクリーム入りメロンの味はどうだい? 半分に切ったマスクメロンの上にバニラアイスをたっぷり載せて、なかなか豪勢な感じじゃないか」

陸奥の質問に、辻が満足そうな顔をして答えた。

「陸奥さん、その質問は愚問です。僕の顔を見れば、一目瞭然ですから。リッチこの上ないという味です。しかし、メキシコという国は食べ物、特にフルーツに関しては素敵な国ですね。このマスクメロンだって、見掛けこそ日本のものより劣るけど、味に関しては甘く香りもあって最高です。それにこのバニラアイスだってたっぷりとした量でリッチな味ですよ。これで、15ペソ(180円ほど)ですから」

「豊田君、そのフルーツの盛り合わせも素敵な感じだね」

「ええ、バナナ、パパイヤ、マンゴー、オレンジ、メロン、キューイフルーツ、林檎、葡萄、パイナップル、スイカ、・・・。見ているだけで満腹感を持ちます。陸奥さん、良かったら、自由に手を伸ばして召し上がって下さい。応援、大歓迎です」

辛党の豊田はあまりの量の多さにげんなりしていたらしい。

「うん、それじゃあ、お言葉に甘えて」

陸奥は豊田のフルーツ皿に手を伸ばした。

「あと二ヶ月ですね。このメキシコ暮らしも。もう八ヶ月も暮らしたんですねぇ。おかげで、スペイン語の会話には不自由を感じなくなってきましたが、日本に帰るのが少し不安になってきました。すっかり、南洋ボケをしているでしょうから。日本で暫くの間は職場復帰へのリハビリが必要でしょうね」

豊田がマンゴーの汁を気にしながら言った。豊田はこのところ口髭を生やしていた。

「リハビリ、か。確かに、必要かも知れないね。勉強もしたけど、日本と比べたら、あまりにも優雅な暮らしにすっかり馴染んでしまっているからね。日本の過酷な職場の雰囲気にすんなりと溶け込んでいけるか、どうも自信が持てないなぁ」

「僕なんか、また先輩のメッセンジャーボーイか、代筆業に戻りますよ」

珍しく、辻がぼやいた。陸奥がニヤリとして辻をからかった。

「期待されるキャリアーも入省二、三年では小間使いと一緒なのか。でも、数年後には地方の中堅都市の何とか局長になるんだろう。それなりにビシッとした態度も求められるし、貫禄も求められるところだ。辻君、大変だね。コンタクトレンズに、そのサングラスも日本に帰ったら、やめる仕儀となるかも」

「またぁ、陸奥さんの皮肉が始まった。僕はやめたくはないんですけど、周りから雑音が入るかも知れませんね。・・・。時に、話は変わりますが、今夜、何か予定しているところ、ありませんか?」

「そうだね、僕の方は特に無いけれど。豊田君の方は、どう?」

「いや、別に何も考えていません」

「そうですか。お二人さえ良ければ、セントロ・アカプルコというところに行きませんか? 聞くところによれば、そこは一大娯楽センターで、レストラン、野外劇場、室内劇場、バーなどが固まってあり、なかなか面白い場所だそうです」

「別に予定は無いし、とおりいっぺんのナイトライフ観光をしたところで、つまらないと思うし。じゃあ、セニョール辻のリコメンドに従うこととするか」

 話は纏まり、夜の7時に再度ロビーに集まることとして、三人はデニーズで別れた。

 豊田はレコード店を探し、陸奥は民芸品市場とかカテドラルの方へ歩いて行った。

 辻は海岸通りを横切り、浜辺をぶらぶらと歩いた。

夕焼けの時刻だった。浜辺には肩を寄せ合って歩く恋人たちの姿がここかしこで見られ、辻も見るとはなしに、恋人たちの仲睦まじげな情景を見ていた。

陸奥さんにはおそらく吉川純子という恋人が、豊田さんにはアマポーラというノビアがいる。自分には恋人と呼べる女性は誰もいない。少し、淋しかった。辻はまだ25歳の若者だった。年齢より老けていると見られるのが嫌で、このメキシコに来た折、かつての黒縁の眼鏡をやめて、コンタクトレンズにしたのだった。

 椰子の木陰で涼しい風が吹いていた。辻は腰を下ろし、静かに暮れていくアカプルコの黄昏を観た。黄金色に染まっていく沖にぽっかりと浮かんでいる太陽を見詰めた。常夏の地の太陽は今その役割を終えて、静寂の内に海に沈もうとしていた。カルメン! 辻は昼間会ったばかりの漆黒の髪をしたフラメンコの舞姫を想った。彼女の輝くばかりの美貌と端麗な容姿は25歳の若者を完璧に魅了した。セントロ・アカプルコで夕食を摂ったら、少し時間を潰し、9時から始まるフラメンコ・ショーを観ることとしよう。陸奥と豊田に、昼間の彼女との出会いをロマンティックに話してやりたい。二人は少し羨ましく思うだろうか? 昼寝をしたことを後悔するだろうか? ゴージャスに暮れていく夕焼けを観ながら、辻はそんなことを思いながら笑みを浮かべていた。ふと、今日知り合ったばかりのカルメンとのロマンスを夢想した。辻は、現実にはありえぬことを想っている自分に気づき、苦笑混じりの溜息をついた。

 やがて、陽は完全に沖に隠れ、夜となった。遠くに、コンデッサ・ビーチの高層ホテルの照明が華やかに見えていた。闇の中に燦然と輝く光のスペクタクルはそれだけで芸術であった。

 浜辺に座って、暫く眺めた。

 歓楽の地、アカプルコ。支倉常長が降り立った小さなインディオの漁村は巨大なアメリカ合衆国資本の下、国際的リゾート地として変貌し、生まれ変わった。

 平穏!。平穏、は日本でいくらでもある。自分はロマンティックに生きたいのだ。ロマンティックに生きてみたい。辻は強く、そう思った。


 「セニョール、セントロ・アカプルコという場所を知っているかい?」

 午後7時、ホテルの前に駐車していたタクシーに乗り込み、辻が運転手に訊いた。

 「スィー、セニョール。そこまで行くのかね。了解」

 20分ほどでセントロ・アカプルコに着いた。なかなか照明に凝っているところだと陸奥は思った。入口の中央に長い池があり、何本かの噴水が大量の水を勢いよく噴き出している。照明に照らされ、噴水の水は色を変えながら噴き出していた。幻想的な効果が得られるように設計、演出されていると思った。

 三人はモザイク状に形づくられたコンクリートの床を歩いて、中に入って行った。中はいくつかの建物で区切られており、いろいろな催し物、ショーが連日行われているようであった。今日の野外劇場の公演は、この地方の民族舞踊であった。しかし、公演にはまだ時間があった。夕食を摂ることとし、近くのレストランに入った。そのレストランはバイキングスタイルの夕食もとることができ、三人は思い思いに皿に料理を盛り、ワインを飲みながら食べた。陸奥はフルーツ、野菜を中心に食べ、豊田と辻は肉料理も交えた盛りつけで食べた。

 「こういう感じのバイキングスタイルも夕食にはうってつけだね。食べる人はいっぱい食べ、食欲の無い人はそれなりに簡単に済ませることができる。合理的だよ。しかし、豊田君の食欲には恐れ入谷の鬼子母神だ。まさに、エストマゴ・デ・アセーロ(鋼鉄の胃袋)だよ」

 「そりゃあ、僕は陸奥さんみたいに上品じゃありませんから、画一料金だと、つい欲張って余分に食べてしまうんです。根が貧乏性なんで。しかし、こうして見ると、ちょっと取り過ぎました。こりゃあ、食べるの大変ですね」

 三人はお互いの皿を見比べて、大笑いした。

 「しかし、僕たち、画一的な服装をしていますね。メリダのグアヤベラ(白いワイシャッツ風のメリダ独特の衣装)を三人とも着て、まるでユカテコ(ユカタン人)ならぬハポテコ(日本・ハポンとユカテコをかけている)ですね」

 「なるほど。辻君、うまいことを言うなあ。そうだよ、8ヶ月も住んでいるんだもの、立派なハポテコさ。それに、このグアヤベラはメリダの礼装だし、着ごこちも最高だ。僕はその内、シルクのグアヤベラを一、二着ほど作っていこうかなと思っているんだよ。土産代わりにね」

 「僕、メリダでグアヤベラのオーダーメイドで安いところを知っていますから、後で陸奥さんにお教えしますよ。アマポーラのお父さんがよく利用するところですから、保証付きです」

 豊田は旺盛な食欲をみせ、皿の料理を平らげながら陸奥に言った。

 「そうか、メリダの人がリコメンドするところならば、間違いは無いね。後で、メリダに戻ったら、教えてよ。それと、・・・、女性用の民族衣装の店も。あの、・・・、手でいろんな花とか模様を刺繍した本格的な衣装、さ」

 「ええっ! 陸奥さんが女性用の衣装を。一体、誰にあげるんです?」

 「うん、いや、なに、・・・、妹だよ。そう、妹の土産にするんだ」

 「そうですか? どうも信じられないなあ。なあ、辻君。もしかすると、妹さんの名前は早川緑という名前じゃあないですか?」

 「まさか、早川さんじゃないよ! 日本に居る実の妹だよ」

 辻は、二人のやりとりを笑いながら聞いていた。陸奥のあわてた様子が面白かった。早川緑はメリダの留学生仲間の女子学生で、陸奥はオアステペック以来、妹分として可愛がっている女の子だった。しかし、この場合の陸奥の「妹」は早川緑では無く、おそらくは、吉川純子だろうと思った。陸奥さんと吉川さん、いいカップルだと思った。

 「それじゃあ、その、陸奥さんの妹さんに乾杯しましょうか。豊田さん! 陸奥さんにワインをたっぷり注いで下さい。・・・、じゃあ、メリダの綺麗な刺繍入りの衣装をプレゼントされる陸奥さんの幸運な「妹」さんに、乾杯!」

 陸奥も照れながら、二人に合わせて乾杯した。ワインがすこしほろ苦かった。


 レストランを出て、三人は民族舞踊が催される野外劇場に行った。民族舞踊は既に始まっていた。ギターの演奏に合わせ、この地方の民族衣装をまとった美しい娘たちが優雅な舞いを披露していた。明るい野外ステージの照明の中で、スカートの端を持って蝶のように軽やかに舞い踊っている姿は、まるで天女の舞いのようであった。豊田はふと故郷を思った。彼の郷里は三保の松原に近かいところにあった。天女伝説で知られた、この松原を彼は小さい頃から時おり訪れた。好きな場所の一つで、砂と砂利で覆われた砂浜を歩きながら、小高い丘に延々と続く松原を眺めるのが好きだった。天女の舞い。羽衣では無く、豪華な衣装に包まれていたが、ここで踊るセニョリータたちは確かに観客を魅了する天女だった。豊田は陶然とした思いで、ステージで繰り広げられる舞踊を見詰めていた。

 ステージは40分足らずで終わった。見物人と共に、三人は席を立ち、会場の外に出た。

 歩きながら、辻が言った。

 「良ければ、これからフラメンコのショーを観に行きませんか? 実は今日、皆さんがスィエスタしている時に、僕はサン・ディエゴ要塞を見物に行ったんです。その時に、ここでフラメンコの公演をしている舞踊団のダンサーと知り合いになったんです。どこかの建物で公演しているはずなんですが」

 「おや、辻君もすみにおけんなあ。フラメンコか、面白そうだ。どうだい、豊田君、観に行こうか」

 「賛成ですよ。本場スペインのフラメンコなんでしょう。迫力あると思います。行きましょう」

 三人は公演会場を探して歩いた。ほどなく、公演会場が見つかった。ナイトクラブに隣接した屋内劇場で開かれていた。三人は入場料を払い、中に入った。9時からの開演で少し時間があった。ロビーでテカテという缶ビールを飲みながら、開演を待った。やがて、開演を告げるベルが鳴り、陸奥たちは会場に入った。前の方に席を占めた。館内が暗くなり、幕が上がった。舞台にはギター弾きが三人、舞姫が4人、椅子に腰掛けていた。ギターが情熱的にかき鳴らされ、踊り手が一人ずつ前に出て踊った。ギター、カスタネットそしてフラメンコが完璧に調和していた。漆黒の髪に華麗な髪飾りをつけて、薔薇の花を一輪、朱唇に咥え、黒を基調としたピチッとした衣装に身を包み、長いスカートの裾を軽やかに翻して踊るフラメンコは観る者の感性と情念を揺すぶらずにはおかなかった。迫害され続け、今もなお、その自由気侭な旅暮らし故に、いわれのない差別を受け続ける放浪の民ジプシーの哀しみと意地にも似た誇りがその踊りの中にはあった。館内はほぼ満員となり、舞姫の踊りが済むと拍手を惜しまなかった。良い踊り手と良い観客、これらは不可欠であると陸奥は拍手しながら思った。

 辻が昼間会話を交わした、あの美貌の舞姫は三番目に出て、踊った。ダンサーの中で一番若く、その美貌と容姿は抜きん出ていた。

 このセニョリータです、と辻は左右にいる陸奥と豊田に小声で告げた。豊田が小さく感嘆の口笛を吹いた。辻もなんとなく誇らしげな気分になった。カルメンは踊りながら、観客に視線を走らせていたが、辻に気づいたのであろうか、辻の方を見詰めながら数秒踊った。微かな笑みを浮かべ、辻を見詰めているように思えた。辻は、あの薔薇になりたい、と真剣に思った。見詰められていると思った時、背筋がぞくっとした。

 4人の舞姫の踊りが終わり、男性の踊り手を交えた、カップルでの踊りとなった。カルメンも出て、男性のダンサーと絡むように踊った。カルメンは時々、相手のダンサーに微笑を与えた。その都度、辻は軽い嫉妬にも似た感情をその相手となった男に覚えた。

 カルメンの額は激しい踊りのためか、汗で濡れた。カルメンの上気した顔はなんともいえず官能的だった。フラメンコは奔放なセックスを思わせる、と辻は思った。豊満な胸を誇示するかのように大きく胸元を開けたドレス、激しくしなる細い腰、艶然と男心を誘う婀娜っぽい眼差しと時おり見せる眉根を寄せた陶酔に沈んだ表情、その挙止をつぶさに描写すれば、これは立派なポルノグラフィになってしまう、とも思った。しかし、卑しさ、嫌らしさからは見事に解放されており、フラメンコはそのまま踊りの芸術だった。辻は知らず知らずにフラメンコの織り成す甘美で妖艶な世界に魅了され、感動していた。最後のフィナーレを飾る、全員で踊るフラメンコが終わった。辻は誰よりも熱狂的に拍手をしていた。


 劇場を出て、三人はバーで軽く飲んだ。辻はマルガリータを口数少なく飲んでいた。辻の心は先ほどのフラメンコの余韻で満たされていた。カルメンの踊ったフラメンコを頭の中で思い出しながら、マルガリータを飲んだ。

 

その夜、ホテルに着いた時は零時をかなり過ぎていた。アカプルコの零時はまだ宵の口であったが、三人は快い疲れを感じ、お休みを言い、それぞれの部屋に別れた。


 翌日は、ホテルのレストランで遅い朝食を摂った。ベーコンと卵を2個使ったスクランブル・エッグ、野菜サラダとフルーツの軽い盛り合わせ、オレンジ・ジュースとコーヒーという典型的なアメリカンタイプの朝食だった。


 「昨夜のショーはとても良かったねえ。特に、あのフラメンコ。さすが、本場スペインからの舞踊団だけあって、迫力満点、圧倒されたよ。しかし、フラメンコは色っぽい踊りだね。例えば、眉根を寄せ、長い睫毛を伏せる、あの表情。どうだろう、辻君、あれは、そう、・・・、エクスタシーの表情そのものだよ。いやあ、朝からこんな話をしてごめんよ。でも、僕はそう思うなあ」

 「陸奥さんには似合わない話ですねぇ。でも、うん、僕もそう思いますよ。だから、フラメンコに関しては、好き、嫌いがはっきりするんじゃないですか。嫌いな人には、ただ猥雑な踊りという印象だけしかないと思うんです。勿論、僕は感動しましたけど」

 「あのセニョリータ、名前は何て言ったっけ。ああ、そう、カルメンさんだったか。凄い美人ですね。辻君に限らず、あんな美人に突然話しかけられたら、びびって、僕なんか、スペイン語を忘れてしまいますよ」

 ひょうきんな豊田の言葉は軽い笑いを誘った。

 「今日も暑くなりそうですね。今日は何をしましょうか? パラカイーダは昨日したし、あと、アカプルコの目玉といったら、・・・、遊覧船とか「死のダイビング」といったとこですかねぇ」

 辻がコーヒー茶碗を静かにテーブルの上の皿に置きながら言った。

 「遊覧船で湾内クルーズをして、少しホテルのプールで泳ぎ、それから夕方「死のダイビング」を観るといったところかな。夜はまた、セントロ・アカプルコに行って夕食を食べることとするか。それとも、どこかのホテルのディスコで踊るか」

 「確か、湾内クルーズなら、このホテルでもチケットが買えるみたいですよ。さっき、クルーズの時間を見たところでは、午前は11時発でした。今は、・・・、9時半か。浜辺を散歩して、少し時間を潰してから、乗ってみましょうか」

 辻が提案した。バモス(行こう)と陸奥が言い、三人はレストランを出た。外はかなり暑くなっていた。半ズボン姿の観光客がのんびりとした歩調で海岸通りを歩いていた。若いカップルは肩を組み合い、時々はキスを交わしながら歩いていた。年配のカップルも見かけた。奥さんをいたわるように歩いている老年の男性を見ると、自然と心が和んだ。素敵な情景だな、と陸奥は思った。夫婦連れで日本人が気軽に海外旅行をするようになるのは、いつのことか、と思いながら歩いた。その時、初めて日本人は国際化するのかも知れないと幾分大袈裟に思った。

 

10分ほど歩き、遊覧船のはしけに着いた。かなりの人が遊覧船の出航を待っていた。やがて、乗船開始の時刻となった。陸奥たちもボナンサという名の船に乗り込んだ。

船内でビールを買い込み、甲板に出た。デッキには赤、青、黄色のデッキチェアが数

列置かれていた。陸奥たちは座り、青い空と蒼い海を眺めながら、よく冷えたビールを飲んだ。船はゆっくりと動き出した。波はほとんど無く、揺れもあまり感じなかった。


 「揺れはほとんど感じませんね。僕は元来船に弱く苦手なんですが、この程度の揺れ

ならば問題無いですね」

 豊田が遠ざかる浜辺を見ながら言った。

 デッキには米国人観光客の集団が賑やかに動き回っていた。子供たちもたくさん乗り込

んでおり、ポップコーンを食べながら、船上を走り廻っていた。陸奥は時おりカメラを取

り出し、子供たちを写真に撮っていた。

 「陸奥さんは子供が好きなんですか?」

 辻が飲み終えたビールをデッキチェアの下に置きながら訊いてきた。

 「えっ、好きかって? そう言われてみれば、好き、なのかな。大人はあまり好きじゃ

ないけど。子供はどこの国の子供でも可愛いねぇ。彼らのしぐさは本当に見ていて飽きな

いし、天真爛漫に振舞う、そこがまた可愛いところなんだ」

 「じゃあ、陸奥さんは結婚したら、何人でも子供を作りたがるほうですね」

 「いや、それとこれは別さ。自分の子供となると、話は別だよ。だって、考えてごらん。

自分とよく似た子が生まれたら、いつも自分を見ているようで、あまりいい気持ちはしな

いよ。ナルシストなら、別だろうけど、僕は嫌だね。他人の子供が好きなだけさ」

 陸奥は辻に笑いながら言った。三人が談笑している内に、船は速度を上げ、洋上を快調

に滑るように走った。陸奥のエネケンの帽子が飛ばされそうになった。洋上の風は強く、

豊田の長髪は乱れ、蓬髪の様相を呈した。豊田は笑いながら、下でタバコを吸ってきます、

と言い残し、甲板を降りていった。

 「陸奥さん、僕は今夜もセントロ・アカプルコに行こうかと思っています。カルメンの

フラメンコをまた観たいんです。あの情熱的なフラメンコをもう一度観てみたいんです。

こんなことを言って、気障と思われるかも知れませんが、あのような情熱、狂おしいまで

の情熱、没我的な情熱こそ、今までの自分には一番欠けていたものではないか、とさえ思

っているのです。陸奥さんにもお話しするのは初めてなんですが、何だか今日は妙に素直

な気持ちになれるので、お話ししますが、僕は日本で完璧に失恋して、このメキシコに来

たのです。いや、正確に言うと、失恋ではありません。恋の思いを僕の方から一方的に断

ち切ってしまったのです。理由は、今から考えると実につまらない理由です。いつか、司

法試験に落ちて、ひどく絶望的な気分に陥ったことはお話ししました。実は、司法試験に

合格したら、結婚を申し込もうとひそかに決心をしていたのです。司法試験に落ちて、僕

は決心した通り、彼女から去らざるを得ませんでした。今から考えると、実にくだらない

決心をしたものです。彼女は、一方的に去っていく理由も知らずに、ただ僕に嫌われたの

だと誤解し、とても悲しんだようです。後で、彼女の友達から聞きました。彼女は一年前

に結婚し、今年子供が生まれたとのことです。今も僕は彼女が好きですし、当時の決心を

後悔しています。そのような馬鹿馬鹿しい決心を深刻なものとした自分を憎悪しています。

あの時、なぜ、もっと自由になれなかったのか、なぜ、愛をもっと大切にしなかったのか、

砂を噛むような索漠とした後悔を今でもしています。後悔に疲れ果てた自分の気持ちの中

で、自分に欠けていたものは、根本的な情熱では無かったのか、と思っています。受験勉

強に打ち込む情熱、司法試験に打ち込む情熱、それらは単なる過渡期の情熱なんです。

根本的な情熱は一生持続するものだと思います。その情熱が当時の僕には無かったし、今

でもあるのかどうか、判りません。昨夜観たフラメンコは僕に、この情熱がお前にあるか、

感性と情念の世界でのみ光り輝き、人生に深い明暗を与える、この情熱がお前にあるか、

と語り続けているように僕には思えたのです。それで、今夜も僕は行こうと思っているの

です。この語りかけ、問いかけに対して自分なりの回答を与えたいのです」


船は静かな海上を滑るように走っていた。目に見える陸の風景は断崖とごつごつとした

岩場だけだった。山の中腹に建てられた巨大な二つの豪華なホテルが見えた。また、ハリウッドスターたちの豪華な別荘もここかしこにあった。陸奥と辻は、それらの別荘を紹介する船内のアナウンスを聴きながら、微かな船の揺れに身を任せていた。熱い太陽と青い空、蒼い海と快い風。陶然とした酔いに身を委ね、二人は言葉少なにデッキチェアに座って、移りゆく風景を眺めた。豊田が新しいビールを抱えて戻ってきた。もう完全にいい気分だよ、と言いながらも陸奥は豊田の差し出す冷えたビールに手を出した。


 船内が急に騒がしくなった。後ろを振り返ると、デッキの中央付近に海賊が居た。髭面の男が縞のシャツと片目の眼帯というお決まりの海賊姿で単発銃とナイフを振り回し、乗客を脅かしている光景が目に入った。この思いがけない余興に観光客は喜び、喝采しているという次第だった。海賊は勿論好色であり、女性の客を主体に驚かし、追いかけまわしていた。傍らで、写真屋がその光景を写真に撮り、後でその客に売りつけるということで、なかなか抜け目のない商売をしていた。ひとしきり、若い娘を追いかけまわした後、次のターゲットは白のスカーフで頭髪を巻き、黒のビキニ姿という派手な恰好をした年配の米国人の婦人に移っていった。婦人は大袈裟に悲鳴を上げ、脇で、でっぷりと肥ったご主人がにこにこしながら、その光景を見守っているという情景が展開された。やがて、海賊は陸奥たちのところにもやって来て、陸奥たちをホールドアップさせて、写真を撮っていった。


 やがて、ボナンサ号は元のはしけに戻り、遊覧就航は終わった。陸奥たちは近くのレストランで昼食を摂り、ホテルに戻った。そして、水着に着替え、ホテルの中庭にあるプールに向かった。プールは午後の日光浴を楽しむ人々で混雑していた。


 「素晴らしい天気だ。二月の陽気とは信じられない。さすが常夏のリゾート地だ」

 陸奥がサン・デッキチェアに寝そべり、トロピカルドリンクを飲みながら、辻に語りかけた。

 「肌もあらわなギャルたちもいっぱい居ますし、目の保養になりますよね。ねぇ、豊田さん!」

 「そりゃあ、そうだよ。ほらっ、陸奥さんなんて、口から涎が出ている」

 「冗談言っちゃいけない。メリダの聖人君子の僕がギャルなんかに心を動かされるものか!」

 「それじゃあ、日向ぼっこの陸奥さんを置いて、辻君、僕たちはナンパしに行こうか」

 「じゃあ、陸奥さん、僕、豊田さんにつきあってきますから」

 二人はプールに勢いよく飛び込んでいった。陸奥は彼らを見送りながら、軽い倦怠感を覚えた。この優雅な生活もあと二ヶ月の期限付きとなった。4月に帰ったら、仕事が待っている。元の職場に復帰して、元のような仕事に戻るか、それともどこか別の支店に転勤して、別な業務を担当することになるのか。過ぎ去った8ヶ月間のことをいろいろと思い出していた。楽しい追憶もあったが、嫌な思い出も数多くあった。しばらく、それらの思い出が走馬燈のように陸奥の脳裏を駆け巡っていった。陸奥は太陽に燦然ときらめき揺れるプールの水面をぼんやりと眺めていた。


 「陸奥さん、どうしたんですか? そんな苦虫を噛み潰したような顔をして。一体、何匹、苦虫を噛み潰しているんです」

 気がつくと、傍に辻が水を滴らせて立っていた。

 「10匹ほど、噛み潰しているんだ。・・・、豊田君は?」

 陸奥が苦笑しながら訊いた。

 「あそこです。ほらっ、白のビキニのセニョリータの脇でニコニコしていますよ。豊田さんは誰とでもすぐアミーゴ(友達)になってしまうんです。得な性格をしていますから」

辻が少し呆れながら、豊田を揶揄した。

「豊田君の人徳だよ。何てったって、彼は人柄の良い静岡県人だよ。僕も少しは見習わないといけないな。何のロマンスもなく、10ヶ月が終わったら、それこそ悲劇、か」

陸奥は自嘲気味に呟いた。色とりどりの水着のセニョリータたちに囲まれて、豊田は生き生きと輝いて見えた。豊田がこちらの方を振り返り、何か叫んだ。陸奥は辻と一緒に、豊田のところに行った。

「陸奥さん、今夜、彼女らとディスコに行きませんか? 一緒にフィーバーしましょうよ」

「うん、僕はOKだ。でも、辻君はどうする?」

「いや、僕はちょっと。夜はまた、カルメンの踊りを観に行きますから」

「じゃ、豊田君、君と僕とで彼女たちとつき合うこととしよう。それでいいね」

「OK。この場は僕にしきらせて下さい」

豊田は、その場のセニョリータたちに自分と陸奥の二人がつき合うことを告げ、またお喋りを始めた。明るい笑い声がプールを包んだ。


夕方になり、陸奥たちはプールで知り合った昼間の娘たちと「死のダイビング」、ラ・ケブラダを観に行った。

50メートルの断崖絶壁から松明を咥えて真下の海面に身を躍らす、このショーは日没から夜中の12時近くまで毎晩行われていた。アカプルコ名物の一つであった。陸奥たちは、エル・ミラドールのバルコニー・バーから女の子たちと歓談しながら、この、死を賭けているとは言え、半ば日常的と化した冒険ショーを見物した。彼女たちは4人で、ロサ・マリアとアナが姉妹で両親と共にアカプルコに遊びに来ており、それぞれ仲の良い友達、マリーナとフランシスカを連れてきている、ということだった。彼女らはシティから来ており、裕福な上流家庭のお嬢様といった感じだった。ロサ・マリアはUNAM(ウナムと呼ばれる。メキシコ国立自治大学)の経済学部の学生で、なかなか知性溢れる美貌の持ち主だった。会話は年長のロサ・マリアとその友人で銀行のOLをしているマリーナの二人が主体だった。それを横で、アナとフランシスカが微笑みながら聴いている、といった感じであった。

「あなたがたの仲間がいっぱい、UNAMで勉強しているわ。例えば、ケンイチ、そう、セニョール・ケンイチ・イシダ、知ってる? 知っているわね。その他、セニョール・アキヤマとか、女の子としては、ジュンコ、ムツミといった人たちがあなたがたの仲間よね」

「石田憲一はシティの団長で、且つ我々研修生グループの総団長をしているんだ。秋山さんはあの秋山さんかなぁ。安田順子さんと加藤睦美さんは確か、メリダの柾木君、田中君の同級生だよ。・・・、ロサ・マリア!、セニョール・坂田は知っているかい? 彼は、このセニョール辻の友達なんだけど」

陸奥がロサ・マリアに訊ねた。彼女はその問いに、白く長い指で耳たぶの金のピアスに触れながら答えた。

「セニョール・サカタ? ああ、ノブユキのことかしら。ムツミのノビオ(恋人)ね。あの二人、いつも一緒に歩いているわよ。ブエナ・バレーハ(お似合いのカップル)だわ」

話題はシティの留学生のことから、陸奥たちが住んでいるメリダ、メリダ周辺の町、カリブ海へと移り、陸奥たちは気の置けない楽しい時を過ごした。ひと通りのショーが終わって、簡単な夕食を摂ってから、辻はセントロ・アカプルコに行き、陸奥と豊田はロサ・マリアたちを連れて、ホテルのディスコへと向かった。


翌朝もアカプルコの空は快晴で雲ひとつ無く晴れわたり、ホテルの窓からは沖を悠然と滑るように航海していく白い客船が見えていた。現代で一番リッチな旅はもう客船ぐらいしか残っていないかも知れないと辻は部屋の窓から、沖を行き交う海の貴婦人を思わせる豪華客船を眺めながら思った。飛行機は速さと機能性を追求する中で、優雅さとくつろぎの時間を失っているし、汽車の旅も今はもう昔みたいなロマンは失われている。贅沢さを感じさせ、社交性とくつろぎに満ちた孤独を約束し提供する旅の手段は、船旅しか残っていない。辻はそう思いながら、沖を優雅に航海していく客船を暫く見詰めていた。遠くで汽笛の音がした。昨夜のカルメンの舞台の感動と興奮も今は遠いものに覚え、彼は明るさに満ちた静寂の中に佇んでいた。

カルメン! この類い稀な美貌と容姿を併せもつ、天性豊かな舞姫のことを辻は想った。フラメンコという踊りの持つ、妖しい魔力に魅了されてしまった自分を強く意識すると

共に、一観客に過ぎない自己の卑小さも痛烈に感じていた。明日は、陸奥たちとシティに行き、その後はメリダに戻り、残り僅かとなったメキシコ滞在の日々を数えながら、日常の暮らしにまた埋没していく。また、カルメンも観客に媚を売りながら、果てしのない旅を続け、幾つかの恋をして、いつかは嘗ての容色を失くし、老いていくのだ。いつか、自分の存在もカルメンは忘れ果て、忘却の彼方へ追いやってしまう。そのような、じりじりとした思いは彼を苦しめた。

 カルメンは忘れても、自分は、自分だけは決してカルメンを忘れない。いつか、どこかで会うことがあったら、綺麗な薔薇の花束を届けよう。かつて語り合い、華麗な舞台を観て感動した者としての追憶のメッセージを付けて。そんなことしか、できないのだから。

 その時、カルメンは、シンイチロウ・ツジという名前を思い出してくれるだろうか。


 辻が燦燦と明るいホテルのカフェテリアに入っていった時、窓際のテーブルには既に陸奥と豊田が腰を下ろし、大きなカップでカフェ・コン・レチェをのんびりと飲んでいた。

 軽い挨拶を交わし、辻も二人のテーブルに就いた。

 「辻君、昨夜のショーはどうだった? カルメンのフラメンコは素晴らしかったかい?」

 陸奥が微笑みながら訊ねた。

 「ええ、とても素晴らしかったです。今夜も行くつもりです。陸奥さんたちも夕食のついでということで、一緒に行きませんか? カフェ・コン・レチェ、ポール・ファボール」

 ウエイターが注文を取りに来たので、辻も陸奥たちと同様に、ミルク・コーヒーを注文した。

 「そうだね。今夜はまた行こうか。豊田君もいいだろう?」

「ええ、いいですよ。セントロ・アカプルコもなかなか良いところですから」

「そうそう、豊田さん、昨夜のディスコはどうでした? ロサ・マリアさんたちと楽しく踊りましたか?」

「うん、結構楽しかったよ。しかし、それにしても、陸奥さん、彼女たちは実に踊りが上手でしたねぇ。きっと、家でもかなり練習しているんでしょうね。アマポーラの妹のエマなんかも、自分の部屋でディスコ・ミュージックをかけて、毎晩練習していますよ。とにかく、彼女たち、実に恰好よく決まっていましたね」

「そう、豊田君の言う通り。リズムに完全に乗りきっていたし、ダンスの型もたいしたものだったよ。相当、彼女たちは練習していると思うよ」

「それじゃあ、行かなくて正解でした。僕は運動神経が鈍い方だから、ゴリラのダンスになってしまうから」

辻が笑いながら言った。

「さて、今日はアカプルコ最後の日だ。何をして過ごそうか? 何かいいオファー、あるかい?」

「夜は決まっています。セントロ・アカプルコで夕食を摂って、フラメンコを観ます。問題は、これから夕方までの予定ですね。エストレージャ・デ・オロの営業所に行き、シティ行きのバスの切符を買わなければなりません。行きがてら、近くのパパガージョ公園を散歩することはできます。その後、方角は違いますが、プラヤ・ラ・ランゴスタでのんびりと海水浴というのはどうですか? タバコと本を持って行き、砂浜に寝そべって無為の時間を過ごす。これもなかなかのものじゃないですか」

 愛煙家の豊田らしい提案だった。陸奥がニヤリとしながら言った。

 「ウナ・カハ・デ・シガリージョ、イ・ウン・リブロ(一箱のタバコと一冊の本)か。それも悪くない」


プラヤ・ラ・ランゴスタ(ロブスター浜辺)は小さな入江だった。波はほとんど無く、浅瀬で海水浴には最高の浜辺だった。椰子の葉が微かに揺れ、常夏の太陽の日差しに火照った身体にはそよ風が最高のご馳走であった。

陸奥たちは椰子の木陰に腰を下ろし、波打ち際で戯れる男女の群れと白い飛沫を飛ばして砕け散る波と、あくまで蒼い海を眺めていた。エメラルド・グリーンに輝くカリブ海と比べ、アカプルコの海はコバルト・ブルーの色をしていた。

「明日はシティだ。サントリー・デ・メヒコに行って、豪勢な和食でも食べることとしようか」

「へへっ、また陸奥さん、心にもないことをおっしゃって。あそこは高いばかりであまり美味しくないとおっしゃったのはどこのどなたでしたっけね」

豊田が陸奥を揶揄して言った。

「でも、あそこは連日満員という話だよ」

「接待でね。だって、値段の高いところで接待する、というのがメキシコ流らしいという話をどこかで聞きましたよ。味なんて関係ないんです。高ければ高いほど、接待される人の自尊心は満たされ、つまり自分はそれだけの値打ちがある人間なんだというプライドが満たされ、また、接待する側としては誠意を示していると見なされる国なんですから」

「サントリー・デ・メヒコの味は悪くないよ。ただ、値段との相関関係で言っただけだよ」

「僕は、シティで食べるならば、レスタウランテ・東京とか大黒で十分ですよ。サントリーにはまだ行ったことはないけれど、どうせ着物姿のお嬢さんがにこやかに迎え、店内はエキゾチックな日本風にデコレーションされているといった感じなんでしょう。お琴かなんか、日本の音楽も流れていたりして。容易に予測がついてしまいます」

辻も豊田に同調して皮肉っぽく言った。

「どうも、豊田君も辻君もアンチ・サントリーレストランで困ってしまうな。よし、こうなったら、僕が君たちを招待するよ。僕のおごりで、明日の夜は一緒にサントリー・デ・メヒコに行って、晩餐をしようではないか」

「えっ、大丈夫ですか、陸奥さん! お寿司が一万円ですよ」

「大丈夫ですよ、豊田さん! 陸奥さんは我々と違って、メリダで浪費しなかったから、懐具合が潤沢なんです。陸奥さん、それでは遠慮無く、ご馳走になります」

陸奥は苦笑しながら、辻の背中を軽く叩いた。

「時に、陸奥さん。ここだけの話ですけど、柾木君が斉藤和子さんと交際しているの、知ってます? まあ、交際といっても、かたやメリダで、かたやシティですから、文通程度なんですが」

「斉藤さん、て、・・・、あの、シティで研修している看護婦の斉藤さんかい?」

豊田の問いかけに陸奥が困惑気味に言った。

「そうです。あの斉藤さんです」

「いやあ、知らなかった。だって、柾木君は奥村さんとつきあっているんだろう」

「いや、それはもう過去のことらしいです。今、奥村さんはホルヘのノビアですよ」

「あの医者の卵のホルヘかい? どうも、僕は迂闊だなぁ」

「それで、奥村嬢は4月以降もメリダに残って、留学を自費で続けるつもりのようです。ゆくゆくは、ホルヘと結婚するかも」

 「うーん、個人的には危うさを感じるけれど、奥村さんの人生だから、とやかくは言えないなあ。それにしても、柾木君は本気なのかねぇ。だって、斉藤さんは美人で若く見えるけど、柾木君よりはずっと年上だぜ。確か、僕と似たような年齢だと思ったけど。ちょっと、信じられない組み合わせだねぇ。確かかい?」

「この間、柾木君が元気が無かったので、彼を誘ってトロバドールで飲んだんです」

「その時に、彼から直接に聞いたのかい?」

「ええ、そうなんです。彼は苦しんでいるんです。彼は本気なのに、斉藤さんからはつれなくされているようなんです」

「と、言うと、柾木君の片思いなんだね。しかし、ずっと年下の男から慕われた斉藤さんの気持ちも複雑だろうなぁ。この件、辻君はどう思う?」

「僕は少しは柾木君の年齢に近いので、彼の気持ちは解るような気がします。年上の、ちょっと姉さんっぽい女性に憧れる気持ちは、彼の年齢の男ならば誰にもある感情だと思いますし、その感情の強さは個人によって異なるものと思います。まして、斉藤さんは僕の目から見ても素敵な女性ですから」

「辻君もまんざらでもない顔だねぇ。今の柾木君の愛が続くということを前提に考えたら、後は斉藤さん次第だ。斉藤さんは知的なひとだから、冷静に考えていると思うよ。つまり、ひとときの愛なら、必ず覚めるもの、そんな風に思っているんじゃないかなあ」


陸奥の言葉を最後に、三人は黙り込んだ。三人はそれぞれに自分の愛の行方を考え始めていたのだ。陸奥は吉川純子のことを、豊田はアマポーラのことを、そして辻はカルメンのことを想っていた。

そろそろ、午後にさしかかろうとしていた。アカプルコの太陽は燦燦と輝きを増していた。色とりどりの水着が織り成す浜辺の光景を眺めている陸奥たちの心にけだるげな影がさしかけてきた。それは想念に沈んだ心の影だった。

遠くで、正午を知らせる汽笛が鳴った。陸奥が顔を上げ、その方向に視線を走らせた。それから、ごろりと砂浜に横たわりながら呟いた。

「愛は愛とて、なんになる、か」

その言葉を聞いて、豊田が微笑んだ。

「陸奥さんも古いなあ、それ、あがた森魚、でしょ」


午後2時をまわった頃、三人はホテルに戻り、昼食を摂った。

「あと2ヶ月でこの国ともお別れなんですねぇ。早いと言えば、早いものですね。去年

の7月始めにこの国に来て、もう8ヶ月目を迎えているわけですから。陸奥さん、日本に帰っても、僕らメリダ・グループは時々同窓会を開きませんか。毎年とまではいかないまでも、5年毎に開催するというのは、どうでしょうか」

辻が提案した。

 「僕も賛成です。5年毎のメリダ同窓会。ロマンチックでいいじゃないですか。ねぇ、陸奥さん、僕が幹事をやりますから、みんなに提案しましょうよ」

 豊田も真顔で同意した。

 「同窓会か。いいねぇ。気の置けない仲間たちと晩餐を共にする。赤坂とか六本木あたりのメキシコレストランで。考えただけでも、ぐっとくるね。よし、メリダに帰ったら、フィエスタを開き、みんなに提案してみよう。5年毎か。少し間隔が空きすぎる感じもするけど、実際的にはそんなところが現実的だと思うよ。東京周辺のメンバーは毎年でも良いと思うし、我々は適当に集まろうや」

 陸奥はビールの瓶を上げて、乾杯を促す素振りをした。


 辻は、ホテルの近くの花屋に居た。彼は、そこで薔薇の花束を買った。カルメンに良く似合う真紅の薔薇で纏めた。彼はメッセージを付け、セントロ・アカプルコの劇場に届けさせることとした。彼は、その後、浜辺に降り立ち、暮れていくアカプルコの海を眺めた。

 暮れなずむ沖を客船が通り過ぎていく。客船の窓を飾る灯りは彼を感傷的にさせた。

 彼の傍らを恋人たちが肩を寄せ合って通り過ぎていった。彼は淡い色のサングラスを外し、丁寧に拭った。ガラスに少し水滴が付いていた。ハンカチで拭き取りながら、ふと、かつての恋人、内藤香代子のことを想った。カルメンと比べている自分に気づき、彼は独り苦笑した。カルメンを動とするならば、香代子は静であった。香代子は今は医者のところに嫁ぎ、一児の母となっている。母の話によれば、幸せに暮らしている、とのことであった。自分と一緒だったら、もっと幸せになっていただろうか、それともそれほどの幸せは感じない暮らしをしていたであろうか。しかし、全ては過去のことであり、自分の身勝手、我侭ゆえに失ってしまった愛をいくら悔やんだところで仕方の無いことだ、と辻は寂しく思った。湘南の小さな喫茶店で会った時の香代子の端正な横顔を思い浮かべた。額にかかる漆黒の髪が窓から忍び込んでくる冬の風に微かに震えていた。窓の外には暗黒色の冬の海が広がっていた。あの時、僕と香代子は確かに幸せな状況にいた、このことは間違いなかった。辻はサングラスをかけなおしながら、過去の感傷にまだ囚われている自分を薄く笑った。


 豊田はホテルのベッドに腰をかけ、メリダのアマポーラと電話で話していた。アマポーラの少しハスキーな甘い声は耳に快く響いてきた、アマポーラは好奇心の強い女の子で、豊田と彼の仲間たちの行動の全てを知りたがった。そして、おかしそうによく笑った。その明るい笑い声を聴きながら、豊田は自分の心が軽やかに満たされていくのを感じた。

 彼はアマポーラの唇の感触を想った。初めてのキス。忘れもしない。サンタ・ルシア公園からの帰り道だった。彼は木陰のベンチにアマポーラを誘った。街灯の淡い照明がベンチに肩を寄せ合って座る、豊田とアマポーラを優しく包んでいた。豊田はアマポーラの胸の高鳴りを生々しいものと感じながら、アマポーラの唇に接吻した。キスの甘さは豊田を有頂天にさせた。アマポーラは彼の胸に頬を寄せ、初めてのキスだと打ち明けた。豊田は彼女を抱き締め、結婚したい、そして君を日本に連れていきたい、と囁いた。彼女は豊田の顔をじっと見詰め、それから微笑み、頷いた。豊田はその時のアマポーラの優しい微笑みと茶色の瞳を思い出していた。

 受話器を戻し、豊田はベッドに横たわった。受話器から聞こえてきた、早く帰って来て、というアマポーラの言葉は切なく彼の心を捉えていた。愛している。愛がこのように切ないものだとは知らなかった。愛は気分であり、感情の一つに過ぎない、と彼はこれまでの人生の中でそう思い、信じてきた。しかし、今は違った。間違った理解をしていたのだ、と彼は少しほろ苦く思った。愛は、全ての感情の根源にあるものだ、と今は思うのだ。喜びであり、怒りにもなり、寂しさをもたらすものにもなり、悲しみにもなりうるもの、そ

して、楽しさももたらしてくれるもの。喜怒哀楽。なんという陳腐な表現だ。それらの根源に、愛はあるのだ。豊田はそう思い、アマポーラを熱烈に求めている自分を感じた。俺は今、満たされており、幸せだ。それは、熱く火照るような思いとなっていた。


 午後6時、彼らはホテルのカフェテリアに居た。彼らの他にも、5、6組のカップル、家族が居り、カフェテリアはほぼ満員だった。


 「アカプルコも今夜限り、明日はタスコを経由してシティに行く。明日の夜の今時分はサントリー・デ・メヒコで豪華な和食に囲まれているはずだ」

 陸奥がボエミアを飲みながら言った。

 「ひさしぶりの日本食ですね。期待で胸がときめきますよ。これ、この通り、胸も震えています」

 豊田がスペリオールを片手におどけた。

 「そうですね。僕もかれこれ2ヶ月ぶりです。メリダには日本食レストランは無いんですものね。サントリーの翌日は、和食ではないんですが、ムラルトに行ってみましょうか」

 辻もジンジャーエールをグラスに注ぎながら二人に提案した。

 「ムラルト? ああ、あの超高層のラテンアメリカ・タワーの屋上のレストランか。いいね、僕はまだ行ったことがないんだ。でも、あそこは予約が必要だよ。予約してからにしようよ。予約無しに、あの40数階まで行って、満員ですと断られて、また40数階下りて戻るというのは嫌だよ」

 「シティに着いたら、予約の電話を入れてみます。シティの素晴らしい夜景を眺めながらの晩餐、想像しただけでも心が弾みます。そうだ、斉藤和子さん、吉川純子さんも呼びましょう。メリダに来た時、カレーライスを作ってくれましたし、すき焼きの材料もお土産に持ってきてくれたりして。そのお礼ということで、どうでしょうか?」

 辻の言葉に、陸奥も豊田も同意した。陸奥は斉藤和子の楚々とした容姿、吉川純子の愛らしく微笑んだ顔を脳裡に描き、自分たち三人がいろいろとエスコートする姿を想像し、心が自然と和むのを感じた。素敵な女性は素敵に歓待されなければならない。陸奥はそう思った。

 「さて、と。そろそろ、セントロ・アカプルコに出かけませんか。今夜が最後のアカプルコの夜ですから。パーと遣りましょう。カルメンさんのフラメンコを満喫して、ナイトクラブでカクテルなぞ飲んで、陽気に遣りましょう」

 豊田が二人を促し、立ち上がった。


 三人はホテルの前に待機しているタクシーに乗り込み、セントロ・アカプルコに向かった。入口の噴水が照明に照らされ、夜の闇に華やかに浮き上がっていた。夜になり、気温も大分下がり、快適さを増していた。三人は入口付近のレストランに入り、フルーツと野菜サラダを中心とした軽い食事を摂りながら、シティでの行動予定とか、連絡する友人の噂話とか、他愛の無い話に興じ、陽気に談笑した。


 劇場はほぼ満員だった。観客の多くは米国人観光客であり、場内、ロビーを問わず、英語が飛び交っていた。舞台の緞帳の背後からはギターの調弦の音が微かに聞こえてきた。

 辻は今夜で三回目であった。辻は少し感傷的になっていた。おそらく、アカブルコに来ることはもう無いだろう。縁が無ければ、もう一生来ることはないのだ。おそらく、今夜が最後になる。カルメンの舞台を観るのも今夜が最後だろう。自分が齢をとるように、カルメンも齢をとっていく。カルメンが踊り続けていられるのも、あと10数年だろう。その後。その後は、自分より若い娘に舞台を譲り、後進の指導にあたるか、静かに身を引いていくか、の違いはあっても、華やかな舞台からは消え去っていくのだ。


 やがて、開演の時が来て、一瞬の静寂の中で、舞台の緞帳が静かに上がっていった。

 舞台は暗黒の中にあった。

 暫くの沈黙の後、一筋の照明が舞台中央を照らし出した。

 そこに、真紅の衣装に華麗な容姿を包んだカルメンがいた。

 舞台の袖から、「カルメンシータ」という掛け声がかかった。

 カルメンは婉然と微笑んだ。

 舞台の左隅から、ギターを掻き鳴らす激しい音が聞こえた。

 そのリズムに合わせ、カルメンが静かに踊り出した。

 ある時は激しく、ある時はけだるげに、ある時は静かに、カルメンはひたむきに踊った。

 踊りの合間に、辻の方に流し目をくれた。


 カルメンの後、ソロで三人、デュエットで男女の踊りが二組、最後にカルメンを含めた女性ばかり四人のフラメンコでフィナーレを迎えた。

 観客から割れんばかりの拍手の嵐が沸き起こった。

 拍手の渦の中、カルメンたちは愛嬌をふりまきながら、舞台の袖に消えた。


 更なる感動は、その後に来た。


 観客のアンコールに応え、カルメンが舞台の袖から艶然たる姿を現したのであった。

口許を飾るのは一輪の鮮やかな真っ赤な薔薇である。

そして、熱情的なギターに合わせ、婀娜っぽく踊り出した。

オーレ!、という掛け声と共に、カルメンの身体は静止し、形を決めて、踊りを終えた。

その後、舞台の片隅のマイクロフォンのところに歩み寄り、語りかけた。


それは、辻への語りかけであった。


「セニョール・辻。薔薇の花束をどうもありがとうございました。三日間、欠かさず来てくれて、どうもありがとうございました。明日はメキシコシティに旅立つとのこと。良い旅となることを心からお祈り致します。いつかまた、お会いできることを楽しみにしています。その時まで、さようなら!」


この語りかけの後、カルメンは舞台前方に来て、辻の名を呼んだ。

最前列の席に腰を下ろしてカルメンを見詰めていた辻が立ち上がった。

カルメンは先ほどまで口に咥えていた一輪の薔薇を辻に投げ与え、投げキッスをしながら、舞台の袖に消えていった。

割れんばかりの拍手が辻を包んだ。

一座の花形の美貌の舞姫から熱烈な好意を受けた、この若き日本人への祝福の好意溢れた拍手であった。


陸奥も思わず目頭が熱くなるのを覚えた。

辻は静かに腰を下ろした。

豊田は辻を冷やかしてやろうと辻の肩を叩きかけて、ふと辻のサングラスの下から流れ落ちてきた、一筋の涙に気づき、その手を止めた。


観客が去り、ほとんど無人と化した場内に、三人が残った。

辻はカルメンから贈られた薔薇を右手で握り締めていた。


やがて、場内の照明が静かに消えていった。

三人のシルエットも徐々に周囲の闇の中に消えていった。


そのシルエットは肩を寄せ合うように消えていった。




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