第二十話 思惑
◆◆◆この記号の後、視点が変ります。
風の流れを感じない緊迫した空気。
殺気が飛び交う数多の視線。
虫の鳴き声も止んだ。
静寂の夜を、満月の月明かりが照らしている。
月光の下、セシリア邸の玄関前には四人の住人が立っており、その傍らには少し場違いな荷物の山があった。
そして十五メートルほど間を空け、四人を半円状に囲み蠢く豹頭の黒い獣人達。
その数は三百に迫る勢い。
蠢く黒獣の中から、一際大きな個体が前に進み出る。
窮屈そうなズボンを履いており二足歩行、人の部分はそれだけである。
それ以外は全て猫科の猛獣を思わせる姿。
体長二メートルを優に超える黒獣は、琥珀色の目をぎらつかせ、白い牙を覗かせていた。
「久しぶりだな紅竜姫。大人しく絶滅すればいいものを、色に目覚めやがって。まぁお陰で手柄を立てる機会が出来たのだ、感謝しているぞ」
若くて力強い、侮蔑を含む音色が庭に響き渡る。
黒獣は下卑た笑みを隠そうともしない。
声に呼応し進み出たのは真紅の幼女。
小さな体で前へと進み、仁王立ちで平然と視線を受ける。
「ほう。親父を捨て駒にして妾から逃げた小僧が、大層な口を利くようになったもんじゃ。確かアルドとか呼ばれておったかのぉ。親父は最後まで貴様の事を心配しておったぞククク」
幼女の唇から紡ぎ出されたとは思えない、濃厚な毒気が発せられ、アルドという名の黒獣は周囲に聞こえそうなくらい奥歯を擦り合わせる。
「うるせぇぇ! このクソトカゲが! 今からてめぇの愛しい婿殿を血祭りに上げてやるから、覚悟しやがれ!」
「ほう。大きく出たのぉ小僧が……。そのような事をしでかしてのうのうと生きて帰れるとでも思っておるのか?」
幼女の全身から迸る自信と迫力に、アルドは気圧されたかのように一歩後退する。
「殲滅じゃ。一匹残らずじゃ。セシリアには悪いが、この庭を獣の屍で埋め尽くしてくれるわ、ククク」
残酷に、凶悪に、冷酷にそう言い放つ紅竜。
そして誰もが、それが成されると幻視する。
アルドは顔を顰め、言葉を詰まらす。
一族を率いる器ではないですね。
クレハの迫力に呑まれたアルドを、ポニーナはそう評価した。
「アルドでいいんだよね?」
ジンがゆっくりとした足取りで、前へ進む。
「今夜は僕のために、こんな盛大なパーティーを開いてくれてありがとう」
大きく両腕を広げ、ジンは優雅に頭を下げた。
堂々と──ともすれば不遜な態度のジンに、アルドの縦に裂けた瞳が見開かれる。
大方気の弱そうな、ただの一般人とでも報告されていたのだろうと、ポニーナは内心ほくそ笑む。
「昨日は君の部下にお世話になってね。危うく死に掛けたよ」
驚きから一転、アルドの口角が徐々に嫌らしく上がっていく。
「お陰で僕は固有スキルを手に入れる事が出来てね、君には感謝しているよ」
そしてまた、アルドの目が見開かれた。
よくもまぁころころと表情が変る事だ。
冷ややかな目をアルドに向け、ポニーナは分析する。
戦場と呼べる場所で、一々相手の言葉に惑わされ表情を変えるなど、指揮官にはあるまじき行為。
何故このような者が一族を率いているのか、ポニーナにはそこだけが理解出来ないでいた。
「さてアルド、ここで一つ提案だけど……」
──ジン様の方がお若いのに……覚悟の違いでしょうか。
覚悟を決めた途端、演技とはいえ堂々と振舞う姿に、ポニーナは先日見た恐怖で震える姿は嘘だったのでは、と疑いたくなった。
「僕はこの固有スキルが使いたくてしょうがなくてね。君の狙いは僕なんだろ? まどろっこしい事はせずに、僕と一対一の勝負をしよう」
「……は?」
「やれやれ、獣人の癖に耳が悪いのかい? じゃあもう一度言ってあげるよ、僕と一対一の勝負をしよう」
出来るだけ勘に障るように、ジンは少し大げさに口を叩く。
「ぎゃはははは! お前が? 俺と? 一対一の勝負だと? 笑わせてくれるぜ。昨日死にかけた雑魚の癖に」
「僕はもう昨日までの僕じゃない。もっとも、僕と一対一の勝負をするのが怖いというなら話は別だけど」
ジンの言葉を咀嚼し、やっと理解したのかアルドは侮蔑の表情と共に笑い出す。
それを聞いたジンは、畳み掛けるように挑発したのだった。
「いいぜ! やってやる! お望みどおり一対一でな!」
ジンが発した挑発の言葉に、ポニーナは一瞬あからさま過ぎではと心配したのだが、アルドは驚くほどあっさりと承諾した。
「なら僕達は、この裏へ行くとしよう」
屋敷を指差した後、ジンは建物の裏に向かうため、右手へと歩を進める。
「お前達はこいつらを監視していろ」
アルドは黒獣達に指示を出した後、ジンの背中を一瞥し、自身は左手へと歩を進めた。
族長の声に、ジンの行く手を遮る黒獣達が足音もなく道を空ける。
逆にポニーナ達への包囲は狭まり、彼我の距離は五メートルを切っていた。
固唾を呑んで見送るポニーナ達は、ジンが屋敷の影に消えるまでその背中を見つめ続けた。
しばらくしてポニーナは、ジンとアルドが建物の裏手へ到着した事を気配で感じる。
それはクレハとセシリアも同じだったようで、三人は同時に顔を見合わせた。
最初に口を開いたのはクレハ、それは自分達にしか聞こえないほど小さな声。
「婿殿は幸運の持ち主のようじゃの。こやつらこんなに密集し、接近して来おったわ」
じわりじわりと黒獣達は、警戒しながら、限界を見定めるかのように距離を縮めていた。
「それは予想外の幸運としても、ここまでジン君の思い通りになるなんて……」
「だいぶ大雑把で綱渡りの策でございましたが、族長の性格がジン様の策に適していたのが幸いでございました。まるでご存知だったかのようで、少々驚きました」
聞き耳を立てようとしているのか、黒獣達の包囲がまた一歩狭まる。
「それではそろそろかの……ゆくぞ!」
合図を感じ取ったクレハの言葉にポニーナは頷き、下着があらわになるのも厭わずエプロンドレスの裾を翻し、両太ももに備えてあった二振りの短剣を手に取る。
セシリアは「はい」と短く答え、右手で剣を抜き左手を夜空へかざす。
息を大きく吸い、そして言葉と共に吐き出した。
「『静寂の境界線』」
セシリアの魔法が発動する。
色もなく、音もなく、空気の波が広がるだけの静かな発動。
その魔法は本来自己を包み込み、光と音と気配を外部に漏れ難くし、隠密行動を行うための初級魔法。
黒獣達は首を傾げていた。
何故目視されている状況でその魔法を使うのか、不思議に思っているのだろう。
しかしポニーナは知っていた。
莫大な魔力を注ぎ込まれたこの魔法が、どれほどの範囲に、どれほどの効果を及ぼすのか。
光と音と気配を外部とどれだけ遮断するのかを。
「次は妾じゃ」
月光を浴びながら、紅の乙女が静かに手の平を合わせる。
その手には赤い宝石が握られており、手を合わせた衝撃で砕けた破片が、さらさらと手の隙間から零れ落ちていく。
次の瞬間、眩い光が手の隙間から放たれる。
光はドーム状に大きく展開されたセシリアの魔法に阻まれ、外に漏れる事はない。
閃光が消えた後、そこに現れたのは真紅の巨竜。
セシリアとポニーナは、既に巨竜の肩に乗じていた。
「さっきも言ったであろう?」
顕現と同時に、黒獣を数体下敷きにした巨竜は、目を細め牙を覗かせ、矮小な黒獣達に小さく吼えた。
「殲滅じゃ。一匹残らずじゃ」
黒獣達の悲鳴は外に届く事はなかった。
◆◆◆
「三人とも、僕の話を聞いて欲しい」
僕は覚悟を決めて、そう切り出した。
不思議と体は震えていない。恐怖も感じてはいない。
僕はどこか壊れてしまったのか、逆に体の奥底から燃えるように熱いものが湧いてきている。
「時間がないから手短に話す。まずはセシリア」
「は、はい!」
セシリアの右手が勢い良く伸ばされる。
手は挙げなくていいんだけど……。
そんな僕の視線に気付いたのか、セシリアは恥ずかしそうに頬を染めて、おずおずと手を下ろす。
「セシリアが昼間使った、声を聞き取り辛くする魔法。他にも気配や光を阻害する魔法もあって、複合して使えるんだよね?」
「はい、あります」
「そうか! それで全員隠れて逃げるのじゃな?!」
「屋敷を囲まれているんだから、目視されたら終わりだろ」
「そうじゃった……」
僕の素っ気ないツッコミに、がっくりとクレハは肩を落とす。
「でも私の場合調整が下手で……本来単体魔法なのですが、範囲魔法になってしまうのです。一つの魔法なら辛うじて狭い範囲で済みますが、複合魔法だとどうしても広範囲になってしまって……」
僕が聞いているのは、簡単に言うと他人に気付かれ難くする魔法の事。
自分を魔法の魔力で覆い、内部の情報が外に漏れなくするのだ。
本来自分だけを覆う魔法なんだけど、セシリアの場合は広範囲を覆ってしまう。
そうなると内部の面積が増えてしまい、そこに入られると魔法が意味を成さなくなるのだ。
「それってセシリアが全力で使うと、範囲はどれくらいになる?」
「広くする分には結構広く出来ますね。屋敷と庭全部囲む事も出来ますし、一定以上大きい範囲であれば、形も変えられます」
「効果は?」
「多分完全に遮断されると思います」
完全って……。
まさかそれほどとは思ってなかったな。
「分かった、セシリアにはその魔法を使って貰う。じゃあ次はクレハ、お前だ」
「ふぁい!」
僕の気迫に圧されたのか、裏返った声で元気良く返事をする幼女。
「竜化したら竜力が大幅に減るんだったよね? その減った竜力で、邪獣族全員倒せる?」
「うむぅ……。倒せぬ事もないとは思うが……何なら消費を肩代わりする道具を使ってもよいぞ。ケチって取り返しの付かぬ事になってもつまらんからの」
「よし、じゃあクレハはそのつもりで頼む。最後にポニーナさん」
「はい」
ポニーナさんは平常運転。
「ポニーナさんは身の安全を第一に考えて下さい」
「……?」
ポニーナさんは不思議そうに首を傾げると「ああ」と何かに納得したように頷く。
「ジン様申し訳ございません、私謙遜して申し上げただけでして、戦える自信はございます」
「ジン君、ポニーナは元8級冒険者です。実力は私が保証します」
「あ……そ、そう……」
謙遜して言ったと、堂々と口にするあたり流石ポニーナさんだ。
それにしても意外な……いや、意外でも何でもないところに伏兵がいて嬉しい誤算だ。
「じゃあ作戦を伝える、悪いけど反論は認めない。これよりいいアイデアがあるなら別だけど」
僕はそう前置きする。そして作戦を伝える。
「僕が族長を引きつけるから、三人は────」
「さて、始めようか。ぶっ殺してやるよ」
悪意に満ち溢れたアルドの声に、僕の回想が遮断され、目の前に意識が集中する。
屋敷の裏の広い庭に、僕達はそれぞれ別方向からやって来ていた。
足元は綺麗に刈りそろえられた、広大な芝生の絨毯。
庭の隅には花壇なんかもあって、これから戦う場には相当不釣合いに見える。
僕とアルドを遮るものは、屋敷から漏れる部屋の明かりだだけで、二人の距離は約二十メートル。
この距離でもアルドの異常な体格が見てとれる。
身長は二メートルを余裕で越えているけど、真っ黒な毛に覆われているせいで、月明かりと窓から漏れる光がなければ、見失ってしまうかもしれない。
異様に発達した逆三角形の上半身と、それを支える人間用のズボンを履いた下半身とが非常に不釣合いで、見ているだけで生理的嫌悪を覚える。
豹頭でなければ、少し足の長い大熊と言ってもいいかもしれない。
獣の顔に浮かぶ二つの眼光は、月明かりを浴びて妖しく光っていて、その下に見える四本の犬歯は、鋭さを隠そうともしない。
だけど僕は恐怖を感じていない。
「……ドラゴンフォース」
低く呟く。
黄金の光が僕の体を包み込む。
体に力が漲るのを感じる。
夕食前に試した時と同じで、いとも簡単に発動した。
「固有スキルとほざきやがるから、どんなものかと思えば。お前それただの身体強化スキルだろ! ぎゃはははは!」
「身体強化の何が悪い?」
こっちを指差して下品に笑うアルドに、僕はちょっとムッっとしてしまう。
「お前は馬鹿だろ? 人間の、それもただの小僧が、ちょっと身体強化した程度で俺に勝てる訳がないだろうがよ」
「やってみないと分からないだろ?」
「ぎゃははは! お前身体強化スキルがどんなものか知らないんだな? 身体強化ってのは元の身体能力を基本として上昇させるんだぜ? 元が貧弱なお前が使っても結局雑魚なんだよ!」
確かにアルドの言う通りだ。
普通のならば。
でもこのドラゴンフォースは普通じゃない。
それは練習場で起こった出来事が証明してくれている。
あの時アンドレさんは、変身前の獣人の蹴りで吹き飛ばされていた。
アンドレさんが吹き飛ばされる威力なのに、更に変身した後の蹴りを、僕が一時的にでも防げるなんておかしい。
身体強化系のスキルはよくて三割増強らしいけど、ドラゴンフォースは何十倍もされる気がする。
本当にチートだ。
「試しに攻撃してみろよ! 特別に喰らってやるぜ?」
僕を馬鹿にしたように、アルドは両手を広げて懐を晒す。
僕はファイティングポーズらしきものを取りながら、アルドを睨みつけ、さぁ行くぞと気迫を飛ばす。
「いつでもいいぜ? 婿殿よ。ぎゃはははは!」
僕は芝生を強く踏みしめ。
更に強くアルドを睨み。
そして僕は────。