第一話 白い世界
僕はベタな空間にいた。
じゃなかった、白い空間にいた。
空はなく、地平線もなく、真っ白な景色が果てしなく広がっている、そんな異世界物の小説によく出てくる空間。
完全に白一色な空間だと、上下の感覚が曖昧になる。
他人の家やホテルなんかで夜中目覚めた時、自分がどっちを向いて寝ているのか、上下左右に何があるのか一瞬分からなくなる感じに似ている。
目に飛び込んでくる色が白だけなので、目を開けているか疑問になったけど、そもそも目を閉じているのなら真っ黒なはずなのであっさり自己解決。
これって夢?
なんてメルヘンチックな台詞、自分で使う事になるとは……それこそ夢にも思わなかった。
でも仕方がないよね、こんな変な空間が現実とは到底思えないし。
むしろ夢なのかと、疑問に思うのも馬鹿らしいくらい。
こんなの夢に決まっているじゃないの、ヤダー超ウケるんですけどー。
……そう思っていた時期が僕にもありました。
だって夢って普通、触覚なんてないよね?
あるんだよね……今は。
地面に足を着いて立っているという感触が、足の裏にしっかりとある。
それだけじゃない。
自分が呼吸をしているという感覚もあるし、皮膚には柔らかい日差しのような温かさを感じる。
「現実……?」
口の動く感覚と喉の振動が更に、夢である可能性を否定する。
《申し訳ないが、これは現実だよ》
突然。
しわがれた老婆の声に肯定された。
それは頭の中に直接語りかけてきていて、僕は今まで体感した事のない感覚に戸惑ってしまう。
慌てて周囲を見渡してみても、どもまでも白い空間が広がっているだけで、声の主の影すら見当たらない。
《声だけですまないね、もう時間がないのだよ。詳しい説明をする時間は、もう私には残されていない》
頭の中に響く声はその奇抜な手段とは裏腹に、昔家の隣に住んでいたお婆さんを思い出させる、優しくて穏やかな音色。
僕はその声に対し、何も言えないでいた。
聞きたい事は山ほどある。
ここは何処だとか、あんたは誰なんだとか、元の世界に戻れるのかとか。
だけどあまりの出来事に頭の処理速度が付いていけなくて、言葉が口から出て行ってくれない。
ぱくぱくと、池の鯉のようにただ口を動かすのが精一杯。
《聞きたい事はあると思うが、もうそちらの様子が見えなくなってしまったよ。私の命も尽きようとしているからね。でもこんな婆の命でお前さんを見つけ出し、つれて来られたのなら本望だよ》
まるで僕の思いを見透かすように、そして一方的に、不穏な言葉をぶつけてきた。
それを信じるのならば、この状況は声の主の仕業なんだろう。
これがもし現実なら、いや多分現実なんだろうけれど、一体これから僕の身に何が起こるのか、元の世界に戻る事は出来るんだろうか。
《何も心配する事はないよ。お前さんがどういう形であれ命が尽きれば元の流れに戻る。何も起きなかった、その日その時にね。そうすればこれから起る出来事は、全て夢物語に感じるだろうね》
老婆は僕の頭を撫でるかのような優しい声で、《だからね》と続けた。
僕は唾を飲み込んで、聞きたいような聞きたくないような、不安な気持ちで言葉の続きを待った。
《命のある限り、竜の姫達を頼んだよ》
聞こえて来た言葉は、僕には全く理解出来なくて……。
「……え?」
素っ頓狂な声を上げて、白の空間が四隅から真っ黒に塗潰されていく様を、ただぽかんと見つめていた。
◇◇◇
真っ黒な視界の中心から、ゆっくりと緑が広がっていって、気が付けばそこは草木に満ち溢れた、どう見ても森の中だった。
耳に感じる森の静けさと小鳥の囀り、僕は肌寒さに両腕を擦る。
息を吸うと胸一杯に、清涼な空気と盛り独特の香りが広がり、木々の合間から差し込む光と合わさって、やけに清々しい気分にさせる。
もういい加減認めるしかない……。
まぁ既に半分以上認めているけど。
これは、夢じゃない……。
一度認めてしまうと、何だかスッキリした。
そもそも選択肢が幾つもあって迷っていた訳じゃなく、信じるか信じないかの違いなだけだし。
周囲を見渡すと森のど真ん中という景色が広がっていて、どっちを向いても木と草ばかり。
どっちに行けばいいかなんて、僕に分かるはずもなく。
……一体どうしてこんな事になったのか。
近くの木に背中を預けて、立ったまま目を瞑り記憶の引き出しを漁る。
何かに意識が引っかかったのを感じ、それを全力で手繰り寄せた。
そうだ……僕はあの時、自宅のベッドの上で眠れない夜を過ごしていたんだ。
何度も何度も寝返りを打って、学校での出来事を思い出し悶々としていた。
その日は僕が高校三年生になった初日。
クラス替えが発表されて、仲の良い友達────親友と最後の高校生活を共に過ごせる事が分かった日。
そして……僕がその親友を見捨てた日。
その日見た親友の、僕を見つめる何とも言えない目が脳裏に焼き付いて、犯した過ちに後悔し自分を責めていた。
明日どんな顔をして会えばいいんだろう……。
そんな事を思いながら薄暗い天井を見つめていた時、急に目の前が真っ白になったのだ。
……そうだった。
記憶を掘り起こすことには成功したけど、こうなった理由やどうすればいいかなど、ヒントの欠片すら見つけ出せなかった。
むしろ友達の事を思い出し憂鬱な気分になっただけ。
だけど今はそんな感傷に浸っている場合じゃない!
「しっかりしろ! 直江仁!」
自分の両頬を、結構な強さで叩く。
衆人の前でやったら注目度急上昇な行為も、ここには僕しかいない。
恥ずかしい事なんて何もない。
「もっと! 熱くなれよ!」
……恥ずかしかった。
誰もいなくても流石にこれは恥ずかしい。この台詞は修○しか無理なやつだ。
熱い痛みと羞恥心で、沈んでいた気持ちを無理矢理引き上げる事に成功した僕は、自分の体へ視線を降ろして固まった。
「げっ……」
着ている服は……パジャマでした。
寝ていた時のまま、薄い布製パジャマの上下。
ベッドに寝ていたんだから、もちろん裸足。
そんな格好で森の中。
「本当に、どうしてこうなったんだろう……」
例えば僕が幼女だったとしよう。
それならばこの姿も、ある意味絵になると思う。
幼女がパジャマ姿で森に迷う。
うん、何だかとっても良い童話が出来そうな気がする。
だけど僕は高校三年生。
身長も百七十五センチあり、幼女のような可愛らしい外見なんて持っていない。
そんな男が森の中でパジャマ姿って……。
まぁただ、この格好が直前までベッドで寝ていたという証拠でもある。
見知らぬ場所にその格好で放り出された事を考えれば、自然と今の状況も見えてくる。
【異世界転移】
頭に浮かんだのは、小説なんかでよく見る単語。
もちろんここが本来の世界で、僕が知らない森の中にいるだけって線もあるけど……。
でも白い空間での出来事を考えると、やっぱり異世界に来てしまったと考える方が自然だ。
「とりあえず人のいる所を探すしかないな……」
多分異世界、多分森のど真ん中、そしたら多分魔物が出るのがお約束。
何かチートな能力があればいいけど、生憎何も説明されてないし、持っているとも限らない。
ぶっつけ本番で魔物と戦うとか、それは物語の中だけにして欲しい。
普通魔物と戦うなんて、怖くて出来るはずがない。
人のいる場所を探す事にしたのはいいけど、どっちに行っていいのか分からない……なので当然どっちにも行けない訳で、しばらく呆然としていた。
そんな時ふと足元を見ると、ビー玉より少し大きい程度の、金色の丸い玉が転がっていた。
これは軍資金になるかもしれないと、下衆で全うな考えを思い浮かべて手に取った瞬間、色を失い灰になり手からこぼれてしまう。
とても悲しい気持ちになったけど、灰を拾っても仕方がないので、気持ちを切り替えまた辺りを見渡した。
とりあえず動いてみるしかないか。
いつも外れる勘を頼りに、僕は当てずっぽうに進んでみる事にした。