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幽霊船、異世界を航海する  作者: 七色春日
第一章 遺骸あさりの幽霊船
9/17

水魔の元同僚

 港沿いの宿付きの大衆酒場に連れてこられたトーヤは嗅ぎなれない酒精のつんとくる残り香に戸惑いながらずんずんと進むヘルビアの後を追った。


 酒樽の上に丸板を置いただけのテーブルにヘルビアが腰掛けたので、それにならった。


 天井からワイヤーでぶら下げられた厚塗り容器の黄色ランプには火が灯されておらず、太陽はまだ昇っていることもあってテーブルは半分も埋まっておらず客足はかんばしくない。


 営業が本格化するのはこれからというところか。


 ちらほらとカウンターに座り、バーテンダーと差し向いで飲んでいる者もいるが、部屋の隅で樽の上に座った白粉化粧を施した酌婦(しゃくふ)は退屈そうに玄関口を眺めていた。


 妙齢の彼女は一夜の妻になるつもりでいるが、相手にしてくれる相手を選ぼうとしていた。


 根が純情なトーヤが物珍しさから興味に惹かれ、ついつい酌婦にぶしつけな視線をやると、気付いた酌婦はお愛想を作った。


 そうして商売の手順として少女趣味な小花模様にのスカートの端布を上へとするりと持ち上げた。


 太ももから先には暗闇で、はっきりとわからなかったが何も存在していないように見えた。それが男心をくすぐる手であり、若者の心に強烈なインパクトを残す結果になった。


 ヘルビアはメニューに目を落としながらブーツでトーヤの向う(ずね)を蹴った。弁慶の泣き所を打たれてトーヤは拳をテーブルに置いて涙目で身悶えた。酌婦はくすりと笑った後に玄関口に視線を戻した。


 二人が座ったのは従業員の通用口から近い右側の壁に面した席であってウェイトレスを呼びやすそうではある。


 メニューを眺め続けているヘルビアは憮然としていた。機嫌の良し悪しはわからない。


「トキミズ、嫌いな物はあるか?」

「いえ、どんなものでも食べます」

「そうか。毒クモのカラアゲはどうだ。カタツムリのバターソテーと大ミミズのごった煮もいいな。精がつくぞ」

「すいません、前言を撤回します。俺、好き嫌いありまくりです。精をつけない方向でお願いします」

「そうか。健啖ぶりが見れるかと期待したのだがな。ああ、そこの君、注文をお願いしたい」


 からかいの意地悪もあったが――幾つかの料理と酒類の注文がされると、駆けつけの一杯とばかりに蒸留酒が二杯ほどやってきた。


 ヘルビアがグラスの取っ手を掴むと無言で一気飲みしたのでトーヤはおののいた。目は座ったままであったし、発散されているハリネズミのようなオーラのせいで何を話しかけたらいいかわからなかった。


 陶器人形のようなヘルビアは切れ長の目の涼やかな美人ではあるが、よほどのことがない限り普段から隙が皆無だった。


 背筋が真っ直ぐで衣服にも乱れがない。下手なことを言えば辛辣に返されそうであるので、話題を探すのに頭を回転させなければならない。


 トーヤは堅物な女子の受けそうな話題をフル回転で検索したが該当結果はなかった。


 そんなことができれば現代世界でもモテモテだったはずだ。せめて話を繋げるために無難に仕事絡みのことで責める方向にする。


「船長は……その、この仕事始めてから長いんですか」

「五年になる。私が十二歳の頃、始めた。当時は錆びた釘のつまった樽をすくいあげただけで喜んだものだ」

「早くから独り立ちしたんですね」

「家出したからな。私は家族に追い出されてな」

「そ、そそそうなんですか」


 何これ――重いよ。重い過去を背負ってるっぽいよ。やめて、そんなこと告白しないで。そこまで打ち解けなくていいから。


 トーヤは内心で悲鳴をあげながら運ばれてきた去勢牛のステーキにナイフを突き刺した。


 食事に集中することでこの荒行を乗り越えようとしていた。ぎこぎこと音を立ててナイフを引く。食卓マナーなどほとんど学んだことはない。


 血と肉汁が滴るそれは旨味がたっぷり含まれていて舌を巻くほど美味だった。香辛料などろくに振っていないが生臭い血の味すら香ばしく思える。


 船上生活の難渋は味覚を衰退させていたが、表面だけが焼かれたステーキがよみがえらせてくれた。


 付け合せの生野菜のサラダもしゃきしゃきしていて、噛むと幸せな気持ちになった。久しぶりの乾物のない新鮮な食事に頬を緩ませる。


 これだけの物ならば決して安くない値段になるだろう気づき、うかがいながら心配したがヘルビアは少しだけ、ほんのちょっぴりだけだが柔らかく頬を緩ませていた。


 船上ではまるでお目にかかれない優しい顔つきだったのでコレは恐らくねぎらいか親切であるとトーヤは判断した。


 ならば遠慮なく、とフォークをひるがえして飢えた獣のように胃の中に詰め込もうとしていると、小食なのかさほどさじの進んでいないヘルビアはぼんやりしながら尋ねてきた。


「トキミズはどうなんだ。家族や……両親は心配してないか」

「いや、もう他界しまして」

「そうか……お前を呼び寄せてすまないことをしたと思ってる。私のミスだ。しかし、立ち入ったことになるが聞いてもいいか?」

「なんですか」

「トキミズは死者になった経験はないか……いや、仮死状態になったことはないか?」

「……え、どういう意味すか」

「本来、私の術は生者を呼び寄せるものではない。異界の亡者ならば稀に呼べるが……船に来る前は何をしていた」

「食事をしようとしてましたけど」

「ではそれで死ぬ運命だったのかもしれんな。さしも冥界の(きみ)も時間差で判定を誤ったのか」


 俺、牛丼屋で死ぬ予定だったのかよ――トーヤの意識は銀河系の先へと向かった。


 食中毒か窒息死かわからないが、自分が死ねば庶民の食事処に熱い風評被害を巻き起こすところだったのかもしれない。


 ニュースとしては笑い話になる可能性もある。この世界に来たのはいいことばかりでもないが、そう考えると慰めになった。


 異世界召喚も悪くない。一人の男が下っ端水夫になるだけで牛丼チェーン店が救われたのだ。


 トーヤはきらりと光る涙を指先でぬぐった。


 恐らく飯を詰まらせて死ぬなどだろう、見苦しい死に方をしなくて済んだのもめっけものだ。


「船長……俺、船長に感謝しなくちゃいけないみたいです」

「仮定の話だ。それに私に感謝するのはまだ早い。首なし騎士(ディラハン)になった者は己と己の能力の狭間で苦しむものだ。かつての自分を見失い、暴虐の力に酔い、いつしか内側の亡霊に魅入られる」


 ヘルビアの血だまりのような深紅の瞳はトーヤは通して別の人間を映し出しているようだった。


 遠い日のあやまちを悔やんでいるような寂しげな顔つきで、トーヤは自分までも否定されたような気がして、いたたまれなくなった。


 呪いの剣は一度だけ用いたが役立っている。何一つとして不都合ないし、誰かに害を与えるつもりもない。


 使いどころさえ間違えなければ便利なものになるかもしれないし、身を護る手段の一つにもなる。


 トーヤはヘルビアがどの程度、自分について知っているか調べるつもりで尋ねた。


「……船長、俺はどんな力があるんですか? というか、そんなリリードさんみたいな力とかってあるんですかね」

首なし騎士(ディラハン)とはそもそも、荒ぶる精霊や堕落した神霊、伝説怪物や英雄の霊などを閉じ込めた生ける媒体のことを指す。それゆえに中身の次第で発現する能力も変わる。トキミズのは私のコレクションの中からのものではないだろう。欠落がなかったのでな」

「え? どういうことなんですか」

「つまり、わからん。何か能力に目覚めたか?」

「いえ……ただ、船乗りとして生きてく能力とかはもらえたような気がします。身体能力は向上した気もしますし、潜水の時間もびっくりするほど長くなりました」

「ふむ……それくらいか。まあ、満足してるならいい。都合が悪そうならば解呪しなければならないかと思っていたくらいだから」


 完全に真実を告げないことは気が咎めたが、やはりヘルビアには知られたくなかった。


 恐ろしい能力を身につけていることは彼女の心配の種を増やすことでもあるし、無用な面倒を引き起こすだろう。


 いいや――違う。本音では奪われたくないのだ。


 せっかく手にしている宝物がガラクタであっても、握るのをためらわせるいびつな毒まみれの刃物であっても、世捨て人同様のトーヤにとってみれば何かの役に立つ代物かもしれなかった。


 そもそもヘルビアは首なし騎士(ディラハン)のこと自体、よく思っていない節がある。自分で行った術について懐疑的なのだ。トーヤにとってみても不可思議な矛盾だった。


「船長は死霊術師(ネクロマンサー)で……たとえば、信頼できる部下に強い霊を持たし続ければ……配下を増やせば危険が減る、とか考えないんですか」

「凡俗が伝説級の妖魔や英霊の力を得たとして、素晴らしい存在になれるはずがない。己の欲望に溺れて世に災いをもたらす者になるか、滅びの運命を辿るだけだ。そして、我々の多くは凡俗なのだ。そう、小さいな宝石を血眼になって追いかける程度のこじんまりとした冒険家でいい」


 くいっとビールを傾けた。今度はちびりちびりとしたものだ。


「船長は凄い魔術師だって聞きましたけど」

「世は広い。魔術師としては私よりも格上の者は多くいる。死霊術師(ネクロマンサー)としては残念なことにまだ会ったことはないが」


 何気なくだが、自慢されたのでトーヤは苦笑した。多少のことながら船長は酔い始めているのかもしれない。


 トーヤも酒の味を楽しんでみようとグラスを持ち上げて、つるりと手から取りこぼした。


 結露した水滴によるものか――グラスが前に倒れてステーキ皿の鉄板にぶつかった。水が飛び散り、テーブルを水浸しにした。


 泡を食ってウェイトレスを呼ぼうとしたが見当たらなかった。


「拭くものを借りてこよう」

「失礼しました。船長、俺が」

「座っていろ」


 ヘルビアが席を立ち、従業員を呼びに勝手口の向こうに消えた。


 失態にトーヤは頭を抱えながらも、濡れた手の平の感触がおかしいことに気付いた。水滴が細かい虫のように這いずりうごめいて指先に集めっていた。


 ぎょっとして、手を振ったが水滴はへばりついていて飛んでいかなかった。


 気味が悪くなり、反射的にテーブルに手を叩きつけようとした瞬間。巻き戻し映像のようにグラスの中に水滴が戻り、倒れたグラスをくんっと持ち上げて元に位置に立たせた。


「うえっ!?」

「こんにちわ」

「え、あ、はい」


 挨拶されて目を回していたトーヤは顔を向けた。


 知らぬ間に対面のヘルビアの席の見知らぬ若い女が座っていた。


 癖のある毛があちこちに跳ねた長髪は色素が薄すぎるせいか水色をしていて、方々に散らかっていた。


 タンクトップの紐がだらしなく片方外れていて、バックパッカーのように衣服は擦り切れだらけだった。


 鼻梁はすっきりとして肌は白い。口元は親しげに笑っていてほころんでいる。


 両目が深く閉じられてまつ毛の存在感が増して目の切れ目が谷底のように見えていた。盲目なのかもしれない。


<レイス・ザ・フォール号>のすべての船員の顔と名前を覚えたわけではない――だが、顔も見たこともない女だった。酌婦なのかもしれないと思ってトーヤはどきどきしたが、ヘルビアが戻ってきたときにどんな皮肉がぶつけられるかわからないと思うと気が気でない。


「私はレティア・イーサリィ。ちょっとお話しない?」

「いえ、すいません。連れがいまして」

「ルビーは今、調理棚から落ちてきた牛乳を被るからさ。当分出てこないから大丈夫」


 丁重にお断りしようとした矢先、がちゃんっと金物が落下する音が厨房の方からした。コックが大声で謝罪する叫び声も聞こえてくる。


 トーヤはレティアと厨房を交互に見た。


 壁の向こうで何が起こっているかはわからないが駆け付けようとして半分ほど腰を浮かせ、席を立とうとしたがレティアは二句を告げた。


「私も首なし騎士(ディラハン)よ。身に潜む亡霊の名は水魔のケツァルコアトル。ごめんね。からかっちゃったかな」

「失礼ですが、船に……いらっしゃいましたっけ?」

「ううん。<レイス・ザ・フォール号>ならとっくに下船したわ。あ、店員さん。ビールお願いしますー!」


 陽気に手を振って注文するレティアには敵愾心がなかったのでトーヤは腑に落ちないものの、浮かせた腰を元に戻し、席に座り直した。


 水滴が奇妙な動きをしたのは目の前の女の魔術か何かかもしれない。それにしても、新人には水を被せるのが流儀なのだろうか。


 昔の職場を懐かしむために近づいてきたのか、見当がつかないが邪険にするのも気が引けた。


 閉じられた眼のままだが、口笛さえ吹きそうなほど機嫌がいい。まじまじと見るように顔を近づけてくる。


「いいな。私の欲しくてたまらなかった亡霊を君が持ってる。どうしてルビーは貴方に与えたのかな。どういう関係? 恋人? その素霊だけは絶対に復活させないと思ったのに」

「いえ……特別な関係ではないです。ただの部下ですよ」

「そうなんだ。また戦争が始まるせいかと思っちゃった。ねえ、どっちにつけばいいかな?」

「どっちとは?」

「帝国と共和国。支配と自由。虐殺者と金の亡者。血統主義と能力主義。偽りなき人と偽善者。正直、迷ってるんだ。どっちの支配者も気に入らないけど長いものには巻かれないとね」


 ウェイトレスがビールを運んでくる。レティアはちびちびと飲んだ。


 マイペースな人間なのか、困惑しているトーヤが受け答えしなくても独りでずっととりとめのないことをしゃべっていた。


 けらけらと自分の言いだした冗談を笑い、世を儚むようなことを口にし、不平不満を並び立てて愚痴をこぼす。


「今さ、軍艦で用心棒やってるんだけど面白くないのよね。船上生活が窮屈で苦しいものだってわかっていたはずなのに、陸の上であって紛争はあるのに、やっぱり私は海に出てしまう。一番有利なフィールドだからなのかな。でも、一回誰かと付き合ったりするとドロドロしてくるのよ。元彼が四人も同じ船に乗ってるのよ。たまらないよ。飽きちゃった人に会うのはだるいし、どうしてこう少し遊んだくらいで執着してくるのかな」

「レティアさん。あんた何しに来たんですか?」

「あー、あー……あっ、思い出した。そうだった。ごめんごめん。フレイヤードの魔力石を積んだ<バウンド・ロック号>なんだけど、この地点に沈没してるよ」


 薄汚れた鞄から紐で結ばれて巻物になっていた海図が取り出された。


 料理皿の並べられた机の上に遠慮なくばさりと広げた海図に点が記される。じわじわと染み込んだシミが浮かび上がる。


 地図上ではひしめく群島の中を通り抜けるような水路を示しており、現在地から更に西方へと向かっている。


 赤く塗られた陸地、アッカサン鋭鋒と記された文字の横だった。


「どうして教えてくれるんですか?」

「親切だよ」


 馬鹿げてる物言いだった。誰が好んで宝石が埋没している場所を教えるものか。


 レティアは両肘をついて顎を乗せ、怪訝な顔をしているトーヤの反応を楽しむように口を丸くした。


「あ、そうだ。君も戦艦に乗らない? ばかすか砲弾打って、わーっと皆で乗り込んで、ぎゃーっとして、ひゃっほーだよ。南へ二キロくらいの港につけてる<ブルー・ティターン号>って船。基本的に弱いものイジメばかりだから楽でいいよ。負けなしの船だし、今なら個室もあげちゃうよ。いいよねえ個室は。誰かのことなんて気にするとないし、砲列甲板(ガンデッキ)だと寝返りも打てないでしょ。もしも横に手を伸ばしたりしたら誰かに当たっちゃうかもしれないし」


 個室――砲列甲板で敷物を敷いただけのハンモック暮らしのトーヤは惹かれてしまったが、ほいほい乗り換えるのは仁義にもとると考え直した。


 自分が骸骨水夫よりも特別待遇であることも薄らとはいえ理解している。


 新人教育を施されているのは自分だけで、それは恐らくだが船で生きていくための技術を身につけさせてくれようとしている。


「お誘いはありがたいのですが、俺はもう少し今の船で頑張りたいんです。周りの人は皆、親切で……多分、それだけでも幸せなんだと思います」

「そっかぁ……そうだよねえ。でも、悪食の(デットイーター)首なし騎士(ディラハン)さんは敵にしたくないからさ。考えといてね」


 手元のグラスがカタカタと揺れている。


 誰も触れていないのに中身のビールが飛び跳ねてトーヤの顔面に降り注いだ。


 目を閉じて顔を下向け、ごしごしと腕の裾でぬぐった。このようにして魔術とは脈絡もなく発動するものなのか。それにしても、性質が悪い。


 人の気配を感じて横を向くと仏頂面のヘルビアが横に立っていた。


「トキミズ。飲み食いをタダにしてもらったぞ。しかし、まったく喜べん。ん、なんだ? 机の上も乾いてではないか。拭いたのか」


 乳臭さを漂わせるヘルビアはどかっと席に座った。いら立っているのかサラミを口に咥えて憎々しげに噛み砕く。


 レティアの姿はどこにもいなかった。海図も消えていた。濡れた袖口すら渇いている。



 ◇◆◇



 ぬるいシャワーで清潔さを取り戻したヘルビアは二階の宿で早くも一眠りしようとしていた。


 酔いも手伝って眠気を呼び起こしている。トーヤはなかなかレティアのことを言い出せなかったが、思い切って名を口に出すとヘルビアはぎょっとして顔を強張らせた。


 寝台が一つにサイドボード。鏡台に前に花瓶があるくらいの簡素な部屋に連れてこられる。


 豪勢ではないが清掃は行き届いていた。


 座るのも気が引けて壁に背にして事情を報告し――自分の能力に関する情報の一部を省き、判断を仰ごうとすればヘルビアはこめかみに指を押しあて、疲労が増したようにベットに倒れ込んだ。仰向けになって腕を目元に持っていき、脱力した。


「……示された地図の場所はわかるか?」


「ええ。地図上には大きくカヤー州って書かれててアッカサン鋭鋒の南の方でした。この町からそう遠くない距離です。ほんの二百海里です船長」


 一海里は約二キロ(千八百五十三メートル)に相当する。<レイス・ザ・フォール号>は風力に依るが百キロ前後は航行できるので五日、天候に恵まれない場合でも遅くても一週間足らずに到着できる形になる。さして労苦ではない距離だ。


 ヘルビアは頭の中で海図を広げてから思い至るものがあったのか、眉根を寄せた。


「そうか……ご苦労だった。レティア・イーサリィはいくつかの国における大罪人となっている。賞金首帳簿(ハンティングリスト)では上位に位置しており、ならず者だ。たわごとだと思え」

「船長、彼女は俺と同じ首なし騎士(ディラハン)だと言っていました。何者なのですか?」

「元部下だ。それ以上でもそれ以下でもない。無用な詮索をするな」


 感情を抑制した凍てついた声での命令は逆効果であって、その裏に何かあることを明確にしてしまった。ヘルビアはそのことに勘よく気付くと一瞬だけ不機嫌そうに形相を歪め、寝返りを打った。背中は細く頼りなく見える。


 トーヤは口をつぐんでヘルビアの心が整理されるのを待った。もしも話してくれないのなら単に出ていけと言われるはずだ。


 沈黙はそれほど苦にならなかった。背中を軽く壁に預けて腕組みをして待機していると、数分後にヘルビアは再び声を出した。


「今回の探索は成功している。フレイアードの魔力石は魅力的な宝だが、<バウンド・ロック号>はエレボスの軍艦に拿捕された公算が高い。危険を冒してまで欲する代物ではない」

「レティアさんは沈没していると言ってました。俺は彼女が嘘をついているとは思えないのです」

「止めろっ! その名はもう二度と聞きたくない。いいかトキミズ。二度と口にするな。我慢にならないのだ。怒りで我を失ってしまいそうになる。ああ、それは真実を聞きたがっている何食わぬ顔だな。いいだろう。一つだけ教えてやる。私にとってあの女は裏切り者なのだ。おっと、勘違いするなよ。服装のセンスや些細な口論で仲違いしたわけでもない。決定的に、お互いに血を流した上で争っているのだ」


 語気強い矢継ぎ早の言葉に面を食らった。


 怨恨さえ感じさせるヘルビアはむき出しにした感情の波動でトーヤは昆虫採集で釘に刺されたセミのように動けなくなった。


 突発的な怒りに恥を覚えたのかヘルビアは俯いた。


「むやみに過去を話させるな……古傷を開くようなものだ」

「わかりました。おやすみ船長」


 見えざる透明な壁が再びできてしまったような感触。気軽に言葉を交わすことを難しくする壁だ。つい数分前はなくなってくれていたのに。


 これを機に仲良くするはずだったが酷い結果だ――トーヤは気落ちしたが、音を立てないように静かに扉から室外へ出た。


 そのまま数分ほど立ち尽くした。


 心を平衡にするにするための僅かな時間が必要だった。


 二人に何かしらの確執があるようではあったが、知ることはかなわなかった。好奇心はあるが、藪を突いてヘビを出すのもはばかられる。


 しかし、目的の船があるのならばたわごとで済ませていいのだろうか。


 口からため息がこぼれた。顎をさすりながら思案する。


 同じ首なし騎士(ディラハン)であるリリードに尋ねればレティアの人物像や事情を知っているかもしれない。されど聞かないでくれとまで言われたことをあれこれほじくり返すのは礼を逸するのではないか。


 それに悪食の(デットイーター)首なし騎士(ディラハン)――不吉な、嫌な感じのする呼び名だ。


 まるでお前は餓え渇いているとでも宣告されたような気がする。


 せめて、こちらの方の正体だけでも調べたい。


 悩みながら大広間に続く階段を降りていると、骸骨水夫の一団が酒盛りをしていた。陽気にスコットが杯を上下させている。


 一人がぼんやり顔のトーヤに気付いた。ジョッキを持った片手があげられる。


 近づくと深々と被ったフードの下を指でめくり、下顎を揺すった。


「ぼうや。飲もうや」

「リリードさんはどこにいますか?」

「おいおい坊主。女の尻ばかり追いかけるのはよくねえぜ。ときには男同士の付き合いも必要だ」

「そうとも。いつも追いかけてばかりじゃいけねえ。たまには追わせるんだよぼうや。振り返らせるだけでもいい。足を止めて余裕のあるふりをするんだ」

「最初に忍耐だぜ。どうせ付き合い始めたらもっと忍耐することになる。結婚したら更に忍耐が必要になる。俺たちは常に我慢の石を積んでいくんだ。そうして苦しみがあるから幸せの形がよくわかる」

「ええっと」


 トーヤは強引に席に座らせられた。


 色濃いブランデーがグラスにとくとくと注がれた。


 両脇が固められ、口がこじ開けられ、胃の腑が焼けるような液体が喉道を焦がしながら流れこんできた。


 目が回った。世界が景気よく回転した。


 何もおかしくもないのにおかしくなってきた。




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