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幽霊船、異世界を航海する  作者: 七色春日
第一章 遺骸あさりの幽霊船
8/17

陸地の匂いと紅玉の誘い

 中層甲板に位置する大食堂は船員にとって居心地がいい場所だった。


 両舷の出窓のおかげで通風が利いているし、背を丸めながら歩かねばならない通路や頭にぶつかる梁材が遠ざかる広間は快適だ。


 鎮座する巨大な横長テーブルは作戦会議用としても使われるせいか木版や石版が部屋の隅に立てかけられ、それと一緒に嵐が来た際の食器固定用の枕木も雑多に重ねられていた。


 天井と床面を通過し、下層へ向かうメインマストの中間点となる大柱にはピン止めのメモが張り付けられ、配給される食事のメニューが記載されている。


 月ごとに変動するが一貫して日曜日は干しブドウに花丸がふられ、火、木曜日の塩漬け豚肉には丸が打たれ、ずくずくの雑穀粥の日には『くたばれ司厨長(チーフスチュワード)』の文字の後に正視に耐えない卑猥な文言がつづってあった。


 時刻は正午を少し過ぎたところだった。


 和気あいあいと食事を摂っている騒がしい女子の一団もいれば、しんみりと酒を舐めている休日の骸骨水夫もいる。


 茶色の硬木で組み立てられた長テーブルの端に座ったトーヤは獣脂で作られたプリンをスプーンの上でぷるぷると揺すってみてから舌先で舐めた。


 配給された動物油は固形状になっていた。高密度の脂肪分はとろりとして甘く、飲むこむと胃袋は拒否しようと嘔吐感を発生させるが脳みそはダイレクトに美味だと訴えかけてくる。


 癖のありすぎる味にスプーンはためらいがちになり、堅い乾燥パンに手を伸ばした。


 噛んでみると歯が欠けそうなほど堅い。


 フランスパンが裸足で逃げ出すほどで、きっと材木から作ったのだとトーヤは真剣に考えていた。


 食堂で珍味な船員食を楽しもうと懸命に努力していると、対面に座るリリードは赤ワインとラム酒を交互にあおっていた。


 ラム酒とはサトウキビの絞り汁で造った酒であり、ポピュラーな船乗り御用達の褐色の飲み物だが彼女は苦味のあるビールやワインなどを愛飲していた。


 年齢的に飲酒が許されるのか不明だったが誰も眉をひそめたりしていないのでこの世界的には適法かもしれない、とトーヤは推察していた。


 飲むように促されることも度々あるし、土鍋にぶち込まれた配給酒(グロッグ)を配られたことがあった。


 褐色の液体を恐る恐る口にしたが舌が慣れないのか、まだアルコールの味はわからないままだ。


 対してリリードのピッチは速い。


 瓶口を直接口につけてラッパ飲みでごきゅごきゅと喉奥へ流しこんでいる。何か嫌なことでもあるのかと勘ぐってしまうほどだ。


 酒の臭いをまき散らし、悪酔いしているのか頭をぐわんぐわん回している。念のため酒を飲むのは年齢的な問題があるではないかとさり気なく問うてみたが「飲まないとハッピーになれないだろ」という意味不明な返答を頂いた。


「げぷ」

「なんか飯がまずくなるんですが」

「あーん? てめえ、まさかかと思うが……あたしみたいな美少女と飯が食えて不満だとか言っちまうのか。そんなカマ野郎は早急にくたばっちまえよ。てめえのちんけの短銃はまったくもって火薬が湿ってやがる」


 酷い侮辱を浴びせる酒豪リリードはトーヤの目の前にある小皿を前腕でたぐり寄せ、ぽいっと口の中に塩豆を放り込み、ポリポリと噛み砕いた。


「俺の干し豆を奪わないでください」

「うるせーんだよ。ちくしょう。こうなったら『ピーッ!』するしかねえのかな。というか、あたしの金貨の王子様はどこにいるんだよ! 後腐れなく使い切れる王子様はどこにいるんだよっ!」


 ふざけやがってちくしょうめ、とテーブルに酒瓶の底をガンガンぶつける酔っ払いはスイッチが入っていないときは実にあられもない。


 彼女の狂態には二週間あまりの付き合いで慣れてしまった。猥褻語に精通した歌人であることは間違いない。


 実に楽しく退屈しない女であり、放散する雰囲気には“トゲ”はあるが可愛らしい。眺めていて飽きないほどではあるが付き合いきれないところもある。


「金貨といえば宝石を引き揚げましたし、儲かったんじゃないんですか」

「んんっ、てめえ金か!? 女より金っつーのか!?」

「俺、マジで一文無しなんで金はないよりあった方がいいっす」


 トーヤは神妙な顔つきで率直に返した。リリードは「うっ」と引いた。しばらく乞食を見るような目でトーヤをぬめつけていたが閃くものがあったのか、ぽんっと拳を開いた手の平に落とした。


「あー……じゃあこの銀貨三枚やるからあたしの彼氏になってくれよ。一回でいいから彼氏持ちになってみたい」


 ポケットをごそごそやったかと思えばテーブルにじゃらっと銀貨が弾む。


「いや、アンタそんなんでいいですか!? お願いだから金で釣らないでくださいよ! 違う! 額が少ないって意味じゃないから!」


 金でなんとかならねえのかよ、めんどくせえな――リリードは銀貨を戻したが、一枚を人指し指の先でくるくると回転させた。


「原石ばっかで目的のもんがなかったからなぁ、全部売っぱらって金貨四十枚くらいになればいいってエティールが言ってたな」

「大金なんですよね」

「つっても、税金払ったりや経費もあるしな。全員で分けちまったらあんま残らねえよ。百人近くいるんだぜ」


 配分は船長を筆頭に次に各長が主だったもので、残りは有能船員(エイブルシーマン)一般船員(シーマン)で分けるが見習いは一般船員の半分になる。


 骸骨水夫や亡霊といった死者にも賃金が支払われるシステムにはトーヤは少々衝撃を隠せなかった。てっきり魔術で強制的に無償労働させているとばかり思っていたからだ。


 自分の取り分について尋ねると掌帆手(ボースンズメイト)として銀貨二枚貰えると聞き、一瞬だけ手放しで喜ぶ素振りをしてみたもののどのくらいの価値かわからなかったので落ち着きを取り戻した。


 リリードに例えてもらうと「陸揚げの荷役人の一か月分の給料くらい」との返事が戻ってきた。


 そう悪くないようにも聞こえた。何よりも給料という響きが素晴らしくいい。


掌帆長(ボースン)。ちょいと封蝋くれねえかい?」


 頭骨をカリカリ掻きながらケニーが背骨を曲げてリリードに声をかけた。うろんな目のリリードは口に運ぼうとした干し豆を皿に戻した。


「あん? アリサに頼めよ」

主計長(ホーサー)は錨泊するまで許可くれません」

「すぐに必要な理由はなんだ」

「さっき女房への手紙を書いたんですが誤って先に香料を振りかけちまって、早めに封をしとかないと香りが逃げちまう」

「仕方ねえな。おら、鍵だ」


 ごそごそとベルトにつけた鍵束を取り出すと、一つをケニーに渡した。備蓄倉庫の鍵だった。


 ケニーは慇懃な仕草で両手で受け取り、ぺこりと頭を下げてそそくさと立ち去った。


「ケニーさん、奥さんいるんですね」

「そりゃあいるだろ。死んだ後も金を稼いで家族に仕送りしたいって野郎は結構いるぜ。律儀な馬鹿どもだ」


 字面は悪口のようであったが口調にトゲはなかった。


 死んでからも家族に尽くす。奇妙なことに聞こえたがこの幽霊船では常識なのかもしれない。


 実際、生者と死者が混じり合って共同で生活空間を築いている。


 トーヤは空気の読めない常識的な言葉が口からこぼれ落ちそうだったが、危ういところで留めた。


 死んじまったら生きてる人と結婚生活なんてできるはずがない――誰もがわかっていることをさも良識人のような顔で言いたくなかった。


「トーヤくぅん、おかわりどう?」


 厨房からコック服のまま現れたソルテが甘ったるい声で囁いてきた。


 トーヤの右隣からフライパンを傾け、炒った干し豆を大量に流した。更に黄土色の豆がぱらぱらと落下していく。


 金髪の縮れ毛を持ち垂れ目は人懐っこく、歳は二十代後半だが化粧のためか濃艶を秘めていて匂い立つような色気を放っていた。


 焦げた小麦粉の匂いと女の体臭が混じった独特の色香が鼻先をかすめて、トーヤはのぼせ気味に低頭した。


「あ、どうも」


 ソルテはにこにこしながら手を振って厨房の方に戻っていく。


 一連の流れを眺めていたリリードは左腕をどんっと音を鳴らしてテーブル置き、身を乗り出してトーヤに顔を近づけてソルテの去った方をちらちら見ながら声をひそめた。


「おい。てめえ、あのババアに狙われてるぞ。完全にベッドで色つきの強風(ゲール)を吹かす気だ」

「マジすか!」

「ああ、前に『トーヤくんのお尻ぷりぷりでおいしそう』とか呟いてたのをあたしはこの耳でしかと聞いたんだ」

「マジすか……」


 モミアゲ付近をとんとんと叩くリリードの顔に嘘はなかった。


 トーヤは光り輝く歓喜から一転、闇深き奈落に沈んだ。


「気を付けろよ。処女奪われるぞ。あいつ、飢えてくると女でも食っちまうんだぜ。お前なんてあいつにとってこんがり肉みたいなもんだ」

「情報ありがとうございます。この豆あげますよ」

「豆うめえ」


 トーヤは空になった食器を手に持って席を立った。


 食堂と厨房は障壁で仕切られているが真ん中に縦幅一メートルの差し出し口が開いていて、皿を受け取って運べるようになっているし、右脇には後片付け専用の投入口がある。


 食器を置くと手が重ねられてすすすと撫でられた。


「あ、ごめんなさい。食器を取ろうとして……」

「いえ」


 ソルトの指使いはくすぐるようなものであって、とてもそんな感じに見えなかったが謝罪を受けてトーヤは足を止めた。


 ソルテはトーヤを真っ直ぐ見ながら憂いた表情を浮かべた。


「トーヤくんは年頃の男の子なのに豆ばかりのさびしい食事なんて耐えられないでしょう?」

「いえ、そんな。満足してますよ」

「ごめんなさい。気を遣わせちゃったかな……あ、そうだわ。実はとっておきのお肉があるの。よかったら食べる?」

「頂けるなら」

「でも、そのお肉はとっても筋張ってて……すりこぎ棒でたっぷり打ちつけないといけなくて……雄牛の角みたいな硬くて太いのが必要なの」


 目線を下げ、困ったようにソルテは豊満の胸の下に腕を組んだ。


 押し上げられた二つのふくらみにトーヤはちらりと目線を下げて「うっ」とうめき、非礼にならならいギリギリの間ですぐに持ち上げた。


 わざと隙を作ったことは間違いなく、ソルテの口の端はしてやったりという風にゆがんでいたがトーヤは気付かなかった。


司厨長(チーフスチュワード)の仕事のお手伝いができるなら微力ながら」

「ありがとう。二点鐘(一時間)したら手伝ってもらおうかな。トーヤくんはお肉を叩いたことある?」

「ありません」

「そう、それはそれは……ああ、なんて、その、喜ばしいことなのかしら」


 ソルテは唇の中に指を入れてちゅるりと音を立てて物欲しげな表情を見せた。


 そそられたトーヤの胸の裡で期待と不安が稲妻となって交錯した。


 動悸が激しくなり、情欲の炎がぞわりと身の内を焼いた。


 つい、立ち尽くしていると彼女は色っぽく片目をつむり、丸い尻をくねくねと振って背を向けた。


 肉を叩く――いったい、なんの肉を叩くというのだトーヤよ。わかっているのだろう。こんなにも不道徳なことが許されていいはずがない。


 落ち着け、今からでも純愛を探す旅路も開かれている。誘惑に屈したらあの怖い船長に何をされるかわからないぞ。


 ああ、しかし、行先は地獄かもしれないが、そこには練乳をかけた蜂蜜のような甘美があるのかもしれない。


 そうだ。たとえ、処女を奪われたとしても一緒に童貞も奪ってくれる可能性も考慮しなければならない。


 氾濫する情報社会がもたらした様々な媒体で伝え、教えられていた性交渉の最中では痛みの先に快楽があると聞く。


 それゆえのささやかな代償ではないだろうか。女という祭壇に祈りを捧げるためには生贄が必要ではないか。


 いや、何か違う。違うが――いっそ間違っていたとしてもよいのではないか。


 決然として死地に立ち向かうことを怯えてどうする。男児の本懐とはなんだ。死中に活を求めることも一つの美徳ではないか。


 最初の一歩に恐れをなしては何も始まらないじゃないか。確かに、その通りだ。否定しようなくそうなのだろう。


 これは思い描いていた恋愛とは違う。


 学生としてラブレターから恋が始まると思っていた。言葉を交わし、手をつなぎ、愛をささやき、キスをする。手順はすべてすっ飛ばすかもしれない。


 こんな展開は予想外だ。自分と同じ年頃の恥じらう少女が相手じゃなくて、大人の女性だなんて。


 恐らく、いや、きっと、限りなく一夜限りの公算が高い。


 大人の火遊びなのはわかっている。彼女はうわついていて、綿毛のように軽い気持ちだ。


 それがわかっていてそんなみだらで不届きなことをしようとするのは実に間違っている。倫理観はノーと言っている。


 だけど、そんなことはクソ食らえだ。机をひっくり返してやる。そして、この場合に適当な言葉を旗にして掲げてやる。


 ロマンスだ。


 何もかもロマンスでなんとかなる。


 そう、誰もがアモーレを求める哀れな旅人なのだ。虹の橋を駿馬で駆ける挑戦したがりのカウボーイなのだ。


「行かねば」


 きりりと顔を引き締めてトーヤは切腹前の武士のように腹を決めた。


 激しい葛藤はあったが若さは盲目的でどうしようもなかった。


 古式作法に乗っ取り身綺麗にしようと洗い場に向かうため、大股で廊下を歩み出したトーヤは高揚感に包まれながら死ぬ覚悟を固めていたが、曲がり角でばったりとヘルビアに出くわした。


 トーヤは総毛立った。運命の神が――きっと自分をあらん限りの力で憎悪しているに違いないと確信した。


 外行きなのか襟長の緑色のジャケットを身にまとい、首筋には飾り布が巻かれ先端を胸元に垂らしている。


 革の長靴はヒールが低いが鋭い曲線を描き、腰紐はメッキの金鎖でまとめられ、こげ茶色のホルスターが引っかかっていた。


「トキミズか。ちょうどいいところにきた。随伴しろ」

「俺は夜直なんですが」

「馬鹿者。船長の命令はいついかなるときでも絶対だ」

「ノーです。今から俺はハッピーセッティングタイムなんです。今日はマジでゴーゴーなんで。俺のキャパシティがオーバーしてリスペクトしてるんで」

「『苦痛(ア・テン)』」

「あばらばっ!」


 脳みそをゆだらせ、両手をぶらぶらさせてチャラついた動きをしながらも断固とした拒否を示したトーヤは激痛にさいなまれて床板に転がった。


 陸に揚げられたエビのような動きで跳ねまわる。脳内を針で突き刺されたような鋭い痛みが襲ってきたせいだ。


 ヘルビアの左手から針状になった霊気の糸が手の平を覆っている。


 とげとげしくも海底の岩盤に貼りついたイソギンチャクのようにゆらゆらと揺れ、それがなんらかの力の発現であることはトーヤにもわかったが、人に向けてはいけないものではないかとも思った。


 肘をつきながら起き上がろうとしたトーヤを見下ろすヘルビアの赤い瞳に妥協の色はなく、罪意識の欠片もない。


「随伴しろ」

「アイサー……」

「よろしい。駄賃をやるからそう悲壮な顔をするな。まったく」

「金ですか」


 小遣い銭は嬉しくないわけではないが船内では用途は限られる。


 主に酒や煙草など船員間で売り買いすることはあるが、そもそも個々の物資の持ち込み量が制限されているのでロクなものはない。


 舌を刺激する調味料や甘衣の菓子を寝台の下や衣服箱の下段に隠し持っている者もいるが安値では絶対に売らない。


「陸地に降りて仕事を終えたらいくばくの自由時間を与える」


 陸地――頭上から骸骨水夫のわいわいとしたはしゃぐ声が交わされているのに気が付いた。


 窮屈で不安定で逃げ場のない船上生活からの開放。揺れ動かない床の確かな感触。誰にとっても好ましい瞬間だ。


 そうか。陸地についたのだ。


 安定した地面に足を置くことができる。異様なほど塩辛い肉や絶望するほど硬いパンからも一時的におさらばできる。


「ところで、なんで俺をお供に連れて行くんですか?」

「なるほど、私と出かけるのは嫌だと言いたいわけだな。なんとまあ、偉くなったものだなトキミズよ」

「いいえ、滅相もございません。喜んでついていきます」

「ならいい」


 気難しい船長に頭を垂れたトーヤは大人の階段をのぼることを諦めた。のぼっていけない階段だったかもしれなかったので、小さな安堵ももたらされた。




 ◇◆◇




 大檣下桁(メインヤード)の突端に滑車装置(テークル)が取り付けられた。


 長艇の両端に滑車から伸びた紐が括り付けられると、艇長を勤める虎猫娘のコリーが片手を頭上で手を突き上げ、上体を大きく振って巻きの合図をした。


 巻き上げ機(キャプスタン)の棒を五人の骸骨水夫たちが足を踏ん張って押し始める。鼓形の縦軸胴を中心にぐるぐる回り、脳天気なかけ声をあげて余裕ぶりながら。


 ――こんなのは女房が踏み台から落ちてきたときに比べれば綿毛みたいなもんだ。

 ――ちょっと待て、お前が死んだ理由って確か。

 ――おい、そのデッドジョークは聞き飽きた。


 逆転防止用の爪が引っかかるカタンコトンとした音とともに吊り下げられたボートの船底が着水する。


 ロープが切り離され、釣り柱がしなりから解放された。


 波は穏やかで白波は立っていない。対岸が三角州となっているせいか遠波が打ち消されている。


 手漕ぎ型の船に乗るのはヘルビアを中心として、トーヤを含めて五名の骸骨水夫だった。


 親しい骸骨水夫ではケニーが同船していたがいつもの軽口を叩こうとはしなかった。考えごとでもしてるか沈黙を保っている。


 骸骨水夫は人目を忍んでいるのか麻地の全身をすっぽり覆い隠す灰色の僧衣にくるまり、目下までフードを深く被り骨を見せないようにしていたが、ちょっとしたほつれから白骨は見え隠れしていた。


 注意深く見なければ墓守の僧侶然といった具合だ。


「港につけないんですか」

「遠浅だ。それに我が船が真昼間に大手を振って港につければ阿鼻叫喚になる。漕ぎ方、始め!」


 船尾席で腕組みして座るヘルビアの前で骸骨水夫と同じく両手でオールを漕ぎながらトーヤが尋ねると、素っ気なく答えが返ってきた。


 幽霊船というのはこの世界でも常識外の存在だとわかってトーヤは安堵した。毎日のように人骨と話をしていると死と生の境目がないような気がしてくる。


 紺碧の海は透き通っていて白地の砂浜が浮き彫りになっていた。イワシのように細い形をした魚が尾ひれを振って泳いでいる。水深は浅い。<レイス・ザ・フォール号>のような小型船でも乗りつけることは難しい。


「最近は」


 ヘルビアは言いかけてから、続ける言葉を考えているようだった。


 鉛のように重くなっている唇が開くまで、ジッと耳をそばだてていなければならなかった。一糸乱れず規則正しく漕ぎ手たちがオールを反転させる。


「よくやっているようだな」

「あ、ああ。ええ」

「マストの頂部にのぼってもガタつかなくなった。重い太索(ホーサー)を扱うことができるようになった。索具の適切な用法を覚えてきた」

「いや、まだまだです……」


 観察されていることが驚きだった。


 冷たい態度から歯牙にも欠けられていないと決めこんでいた。それとも、常に目を光らせているぞ、との脅しだったのかもしれない。


 ブームを移動する時はいつだって体温が下がる。風でがたがたと足下のブームは不安定に揺れるし、やりたくもない嫌な訓練もある。


 代柱を立てる補修訓練のときなどがそうだ。重量たっぷりの丸太を滑車で吊り上げて帆柱を継ぎ足す作業は檣楼員(トップマン)でいることを後悔する時間だ。


「私は優秀な船乗りが好きだ。頑強で自己抑制に長けてるならなおいい。そうした理想が高すぎるゆえか、私が好きな男は骨ばかりになってしまったが」


 一斉に骸骨水夫が振り返って顎骨をかちゃかちゃと揺り動かした。声を出さないことが彼らにとって上品とされている。


 見慣れているトーヤすらそれにはぎょっとしたが、どうやらヘルビアの十八番のユーモアだったようで、本人も口の端に微かにだが笑いをのぼらせていた。


 船員になるなど考えてもいないことだったが気のいい仲間と肉体労働をするのは悪くなかった。


 高いところに登るのはちょっとした度胸が必要だったが、とうに慣れてしまった。


 自分のロープによって船が動き、風圧を受けて帆がふくらみ、大きな波山を船首が破砕して突き進んでいくのは一つの快感でもあった。


 船乗りは悪くない。新世界は悪くない。


 ただ食べ物にちょっぴり不満があるだけだ。


 眼前のルド・エルムの町は沿岸を軸として扇のように広がっていた。


 西方大陸に位置するオルト公国の直轄領に分類され、拠点航路として開発が進んでいる。


 住民としては大海からたまに押し寄せてくる不安定な恩恵に期待するよりも背後に連なる山脈の恩恵を受けることを選んだのか、肝心の港はそれほど整備されておらず、おなざりに伸びた桟橋には小型の商船が何艘か係留されているだけだった。


 寄港しようとする大型船は海岸から離れてヘルビアたちのように湾外錨地に船を留めてボートで上陸するか、水先案内人に大枚を払って河口付近にある断崖、それも岩礁のない幅狭な水路に連れて行ってもらうしかない。


 遠目で並ぶ建物の多くは材木と石材の混合建築であって高層のものもあった。集合住宅らしきものもあり、戸数は数千を越えている。


 森の裾野に面しているせいか町の周辺は濃緑が囲っていた。ヤシ科の植物が海岸に目立ち、砂浜に一味つけている。


 全体的に屋根が平坦であって、坂道となっているメインストリートが街を二つに分けるように真っ直ぐ伸びていた。


 家屋が密集して雑然としているが行き交う人々には活気はある。露天で品物を売る商人たちや、住居の建築にかかっている大工たちの姿も見える。


 港にボートが横付けするとヘルビアは突堤の脇に事務所を構える湾岸職員に挨拶しに行き、乗組員の健康帳と船舶荷の帳簿を渡して手続きを行った。その際、漂泊のために銀貨を数枚支払った。


 ついでに航海に必要な真水や食料の仕入れ先を職員に相談すると幾つかの物流商の名を連ねられた。


 その中から良心的なものを選択し、必要なものを仕入れに向かった。


「真水を五トン。砂糖五十キロ。塩を七十キロ。食物油を百キロ。干しブドウと干し豆を五百キロ。酢漬けのキャベツ(ザワークラフト)を二百キロ。去勢牛か豚の塩漬け肉を二トン。なければ鹿でも羊でもいい。麦粉を……なんだトキミズ。(ライス)? お前は米が好きなのか? 止めろ。わかった。服の裾を引っ張るな。お前は子供か。米を五キロくれ……新鮮な果物や野菜、バター樽はどのくらいある?」


 手帳を持ってメモをしていた老年の番頭は渋い顔をして目玉を泳がせた。


「大口が入ってまして。肉や野菜には時間がかかります。荷役人夫も足りません」

「期日は?」

「一月ほどもらえればある程度の準備が整います」

「話にならんな。別口を探す」

「他も大口に対応しているので同じです。売れるときに売れぬのは私の苦しみでもあります」


 鼻白んだ番頭の言は筋道が通っていたが、踵を返しかけたヘルビアは再び向き直って両手に腰を当てた。


「あちらは前払いか?」

「いいえ」

「こちらは前払いしよう。適正価格よりも上積む。小さな港だ。武力に脅かされることもあろう。できるだけ努力してくれ。荷役も不要、こちらで済ます」


 番頭は迷った振りをしたが、やがて動きを止めてむっつりと沈黙した。


 大口ということは船影は見えないが数百人規模の戦艦が来ていることは間違いない。彼らは武力を盾に物資の些細な瑕疵――僅かな傷みや汚れに文句をつけ、支払いを渋ることは間違いない。


 それらは半ば慣例というものであり、局地の港で商いをしている商人も重々承知していて、どう折をつけるか腕の見せ所であるができればやり合いたくないのが人情だ。


 ヘルビアは先に誠実さを示してみたが早まったかと考えた。


 番頭は片目をつむったことで交渉がうまくいったことを悟り、大いに満足した。


 そのまま町の掲示板の前で立ち止まり、腰を折り前傾になって顎に手をあてて見定めた。


 多様な商店が軒を連ねている地図を頭に入れているようだった。


 目的地を定めたのか歩き出した。道路は側溝もなく粉っぽい黄土道だったが踏みしめられて硬くなっていた。馬の蹄の跡や通った車輪の轍が無数に積み重なっている。


 トーヤは久しぶりに土と草の匂いを鼻で味わった。


 そうだ。陸地にはこんな青臭さがあった。普段生活していた頃は気にしたことがない風味だ。


 上陸許可をヘルビアが出すと、骸骨水夫たちは仲間を迎えに長艇を漕ぎ出した。なぜか一人だけ残されたトーヤはヘルビアの顔色を窺いながら首の付け根をもんだ。


 ひとまずヘルビアの私物らしい巨大なボストンバッグに手を伸ばし、両手で抱え込む。この行動が正解だったようでヘルビアは口火を切った。


「まずは郵便局に行く。海難回収物について多方面に報告書を提出せねばならない」

「宝石を売るためですね。好きに売っていいんですか?」

「いいわけないが、概ね事後通告でよい。我々は依頼人である海事専門保険会社――海運省、海運商組合。港管理局などに領海や沈没船の状態などを仔細に通達する必要がある。それらの手続きをすることで正式に我々の財産とすることができる。無論、経費がかかり過ぎたり、依頼人が嫌な奴だったりすれば私の目が曇って拾った量を間違えることは稀にあるが」

「……あはは」


 冗談にしてはうまく笑えない。


 サルページ専門商船がどれほどいるか知らなかったが、ありそうな内実ではある。


「基本は法に則って公平に仕事にとりかかる。そうすれば次の仕事も舞い込んでくるからな。その場限りの利益よりも先の利益も見据えるのが大事だ」


 そうした将来を見据えた煩雑な手続きを行うためにトーヤは郵便局で三時間ほど待ちぼうけを食らった。


 ヘルビアは書類の大部分を船で作成していたようだが、それらは几帳面過ぎて厚みがあり、要所を訂正したがったのでハンコを押す郵便局員を困惑させる結果にもなったし、書類だけでもなく証拠となる物品の郵送等も含まれていたため内容物の点検などの時間も食ってしまった。


 トーヤが幼少の頃のジャングルジムから天辺から見た景色を思い返し、付き人として生きる人生に疑問を持った頃、小まめなヘルビアは郵便局の建物からようやく出ることを決心してくれた。


「終わったな……うむ、酒でも飲むか」

「酒ですか?」

「付き合えトキミズ。ここは船ではない。私も少しだけ、お前と打ち解けてみようと考えている。お前は私の騎士なのだから」

「船長……」


 腹を割って話そうではないか、そう組織の長に言われては下っ端の身上では無下に断ることなどできない。


 本音では少しイヤだとしても。



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