思いがけぬ海中死闘
人魚のような泳ぎだ。
水を蹴るリリードは水の抵抗などないかのように滑らかに舷窓にするりと入り込むと、廊下をふさぐかのように両側から斜めに積み重なった梁材の山を巧みにかわしていった。
割れて砕けた空き瓶、切れたシーツ、破砕されて細切れになった木材の木端、ほどけたランプを繋ぐ細鎖、漂う障害物をかき分けながら船内の廊下を進んでいる。時折、背後を振り返ってトーヤの存在を確認までする余裕もある。
沈没船の内部は沈んでからそれほど時間が経過していないのか――緑白色の藻類がカビのように所々に生えているだけで、塩分に比較的やられやすい金属類もそれほど腐蝕していない。
異形の姿をした怖気を呼ぶようなフジツボも存在するが、目新しい木目もまだまだ残っている。
ギザギザになった隔壁の底に黒茶色の球体が転がっていた。頭に鎖がついていて留め具がひしゃげている。
鎖付き砲弾だ。
鎖に繋がれた二つの鉄球が分厚い砲列甲板を完全に破壊している。ひしゃげ、曲り、圧潰した側壁が生々しかった。致命打を受けた際、二つに分離した人間の死体が転がっていた。戦闘の痕跡には違いない。
トーヤはリリードの小ぶりな尻を追うのに必死だったが――風景を楽しもうという気持ちにはなれなかった。
水圧で肌はびりびりとするし、息切れの不安な感情からか、たえず肺の中の空気を意識しなければならなかった。
息苦しさに負けて恐慌きたせば溺死は免れない。恐ろしい惨状についても同様だが、「ここは遊園地のアトラクション施設だ」と自分に言い聞かせることでどうにかした。
逆向きになった昇降階段を一つ上がり、U字型の廊下の突き当たりでリリードは足を床につけた。
逆さであるので、天井につけたともいえる。狭い木造廊下で二人は足を止めた。
ついてきたトーヤの顔を見てリリードはやや両眉を吊り上げて、驚いたような顔をしたのであえてトーヤは自らの唇を指を当てた。
――空気は要りますか?
――ばかやろ。
唇の動きだけで言っていることは理解できた。自分でも意外だが、息はもっている。あまり苦しくない。
まるで別の体に生まれ変わったようだ――最近思い続けていること。いい方向に向かっているのなら構わないではないか。
鉄で補強された鎧扉を前にしたリリードは真剣な顔つきで手の平を垂直に立てた。片手を添え、力を溜めているようでもある。まるで剣に見立てている。
力を込めた細腕は振り下ろされた。均等にケーキを切るような丁寧さのあるゆったりとした動作だった。
ではあるが、モーションは扉を袈裟切りにするためだ――なんの冗談かとトーヤは見学していたが――実際にスパンッと鉄扉は両断された。
切り口は刃物のように滑らかで、手刀によるものとは思えない。
トーヤはあんぐり口を開けかけた。こぽりと小さな泡が溢れたのですぐに閉じた。
親指をくいくいとリリードは不敵に指し示す。でたらめな技だ。でたらめな力だ。
これが首なし騎士の力か――言いようのない羨望を抱いた。あの力が自分に備わっているのなら何も恐れなどないだろう。実際のところリリードは恐れ知らずのように思える。無論、ヘルビア船長を除いてだが。
船倉に入ると室内は樽と褐色の麻袋が無造作に埋まっていた。逆さになったショックからか固縛していた縄が水中を漂っている。
一部の樽から、濁って紫黒のものが水煙となって蓋縁からちょろちょろ溢れていた。ワイン樽だ。
何かの拍子に板が穴が空いたか封が開いてしまったのだろう。海水に浸かってしまっては商品価値はない。
トーヤが麻袋の方を確認するために封を紐解こうとして、リリードが壁の方を指差した。
ガラス戸がひび割れたような亀裂が入っていて、向こう側の青い水中が見える。人ひとりくらいならぎりぎりで通り抜けられそうな隙間でもある。
――息継ぎですか。
――もう五分だぜ。
不機嫌さを隠さないリリードの五指は開いていた。トーヤは麻袋に突っ込んだ手を戻すと――サファイアの原石を掴んでいることに気付いた。
カットが済まされていないせいでごつごつとして、不純物の岩石がくっついてしまっている。
手元から眼前に持っていき、目を凝らして眺めると荒削りの多面体であったが輝きはまばゆい。人を惹き付ける光がある。
ポケットの麻袋で包んだ。そうだ。成果としてヘルビアに見せてみよう。どんな顔をするだろうか。
いつも不機嫌で難しい顔をしているが、たまには微笑んでくれるだろうか。誰だっていつも笑顔で生きたいに決まっている。
トーヤの純情な思惑をよそにぎぎぎ、と木材が軋む音がしたので亀裂に顔を向けた。リリードが断面を掴んで脱出口を広げようと腕に力を込めはじめているところだった。
「っ!?」
突然。
重い地響きがして船倉がぐらりと揺れた。
震動が海水に伝わって皮膚をあわ立たせた。てっきり傾いていた船体が海崖に向けて落ち始めたかと思えたが、暗青色をした流線形の魚体が穴の前をゆらりと横切った。
一瞬だったが、無機質な黒い瞳がちらりと船内を窺った。
冷たい、ぎょろりとした目。鮫だ。鮫が外を旋回している。あれが体当たりを仕掛けたのだ。
リリードとトーヤは視線を交錯させた。
呼吸はお互いに残り一分か二分しか持たないと予想していた。早急に息継ぎをしなければならない。そして、鮫を刺激しないようにやり過ごす必要がある。できるならゆっくりと離脱すべきだ。
しかし、失敗すれば溺死よりも恐ろしい目に遭うかもしれない。
無数の牙に皮膚を食い破られ、肉を食いちぎられる。一分間だけでも鮫が遠くに行くのを期待して留まるのも選択の一つではある。
だが、通りがかっただけの鮫が闇雲に体当たりなど仕掛けるだろうか?
想像が背筋を凍らせて体温を低くさせる。足が動くことを拒もうとしていた。トーヤは思考を失い、凍りついたように動けなくなった。
先に決断したのはリリードだった。矢のように船倉から飛び出すと船腹の上に立ち、周辺を確認してぎょっとした。
空が暗い――暗雲によって天空の光がさえぎられてしまっている。視界が利かな過ぎる。追い払おうとして、抵抗を試みただろう骸骨水夫の何人か鮫に解体されている。
更に鮫は――ただの鮫ではない。下腹も尾ひれも真っ黒に染まっていて、びりびりと球体状に放電している。
知恵のある魔物、海獣として危険度の高い電気鮫だ。体長は四、五メートル。
背びれだけが銀色で自らが感電のダメージを受け過ぎないようにアース線の役割を果たしていると言われている。
捕食する前に電流を操り獲物を動けなくさせる習性を持っている。
大型の獲物も狩ることもあり、群で行動して放電でしびれさせ、弱らせてから食らいつくのが常套手段だ。
リリードが船腹に立った際、一匹の若い鮫が獲物が姿を現したことで好機とばかりに後方に旋回しながら勢いをつけ、左右に大きく身体を振りながら速度をあげていった。
ばちばちと帯電しながらも大口を開き、乱食い歯と赤黒く血まみれたような口内をぱっくりと開いて見せた。
リリードは闘牛士のようにひらりとかわし、すれ違いざまにえらを素手でつかみ、えらごと頬肉をそいだ。
血煙が海の中で舞い上がる。若い鮫は悲鳴を上げて遠ざかっていったが、それが群れの習性を目覚めされる行いとなった。
同胞の血液が流れたことに興奮した電気鮫たちはフォーメーションを取り始めた。たった一合のやり取りにすぎないが、目の前の生物が柔らかな肉だけを持つたやすい獲物ではなく同族を殺しえる強敵だと認識したのだ。
獲物の周囲を陣形を組み、徐々に弱らせていくための戦法は本来なら大型海獣に用いるものだった。
それだけの脅威と認められた話だったが、それは同時に苦境へ駆け足で向かうことになることでもあった。
息苦しくなったトーヤが顔を出すと、リリードは振り返らずに指先を真横に指示して潜水樽へ向けた。
電気鮫の注意は群れを傷つけたリリードに注がれていたし、新たな獲物に動じることはなかった。
鮫の集団への動揺と疲労で呼吸困難になりかけていたトーヤは樽に向かって必死で泳いだ。距離は十メートルもなかったが、意識が霞みかけていた。
中の空気を吸い込み、危機を忘れてあえいだ。空気のありがたさはこれ以上になかった。
深呼吸を繰り返し、肺の中が酸素で満たされるのを楽しんだ。これ以上にないほどうまい空気だった。
「はぁーっ! はぁっー! ふぁ……ああ……鮫か、鮫もいるんだな……」
しかも電気を流す性質を持つ鮫だ。自分の身長の二倍以上もあり、横幅だってある。
巨大な生き物だ。
更に遠くからでも電気風呂に浸けられようなぴりぴりとした微弱な傷みを感じた。間近になればその衝撃は計り知れないものになるだろう。
このまま海面に逃げれば命が助かる――弱気な心が逃亡を支持する――そうして生き延びてどうするというのだ? 何になる?
歯を食い縛った。頭骨が軋むほど額に指を立てて力を込め、迷う心を握り潰して意を決しなければならなかった。
苦悶しながらもトーヤは再び海底へと身を投じた。たった一度でも生存本能から背を向けなければならなかった。
※ ※
圧力の首なし騎士、リリード・レイクはトーヤが潜水樽に泳いでいくのをちらりと横目で見ながら電気鮫に意識を集中させた。わずかな安堵感が胸を軽くする。
戦闘にも操帆にも慣れない新人に無理をさせるわけにはいけないという先輩としての自負があった。
これで心置きなく探査の邪魔者どもと対決できる。
隙あらば突撃しようと旋回している数匹が交互に、しかも上下左右から波状攻撃を仕掛けてくる。
しかし、決してまともに食いつきに来ないし、後陣の十数匹が出番くるのを待って待機している。じわじわとこちらの息切れを狙っていることに疑いはない。
理に適った戦術――知性のある海獣は手ごわい。リリードは手の平に漂う海水の流れを変えた。ほぼ視認できない水流がぼやけた球体の残像を取る。
電気鮫が下方から牙をむき出しにして、迫りきたところで『圧力の玉』にぶつかって鼻先をかくんとずれた。
隙だらけの横っ腹に『圧力』を込めた掌底で叩き込む。びくりと鮫が胴震いして跳ねた。ばたばたと尾ひれを振って口から流血しながら群れの中に逃げ込む。交代要員がフォーメーションに加わる。
触れたものを圧迫する能力。
それがリリードが亡霊から得た力だった。内蔵された亡霊の名はアルタナ。大地に還れなかった孤独な巨人霊。非協力的なため出力は不安定。
水中戦闘はリリードにとってそれほど苦ではなかった。方向転換や急旋回は能力を使用すればドルフィンキックで事足りるし、息切れも圧縮した空気を肺腑の
中にため込んでいる。
トーヤに圧縮した空気を分けてやることだって冗談ではなく本気で実行できた。
潜水時間は十分超はいける。たかだか電気鮫の群れごとき敵ではない。
だが。
なんだ――こいつら、逃げねえ。
歯噛みしながら身をひるがえして五匹目の鮫を殺害した。
今度は怒りに任せて過大な『圧力』を加えたため頭部を消し飛ばした。血潮以外の内容物がさらされ、残酷な演出をしても電気鮫の群れは引き下がる気配を見せない。
それどころか嬉々として同胞の死骸を食いちぎっていた。共食いをするほど餓えているのだ。本来ならばこの辺りにいる種の鮫でもなく、獲物の少ない不毛な外洋に出ることのない近海の鮫だ。
それが必死になって獲物を得ようとしている。
リリードは潜水樽を一瞥した。トーヤが呼吸を整えている。ひとまずあそこへ行ってから空気の補給をしなければならない。口惜しいが互いに逃げる算段をしなければならない。
徐々にだが確実に息苦しくなってきている。
身体は重くなり、休憩を欲しがっている。
身体の向きを変えたところ異変に気付いた。
大樹が執拗なほど斧を打ち付けてきた木こりに切り倒されるような、派手に軋む音が鼓膜を打ったからだ。
振り返ると斜めに開いた谷に向けて微妙に船体が傾いていた。船底がじわじわと開口へと向かっている。
戦闘の際の些細な衝突のせいか、そもそも海流のせいであったのかはわからない。浮標としてのロープはつけているが、あまりに海溝の深度がありすぎれば骸骨水夫とて回収は困難になるだろう。
せっかくのお宝を逃がすわけにはいかない。
全力を出して船体を引っ張りあげなければ――背後からきた三匹の鮫が好機とばかりに動揺して隙を見せたリリードに襲い掛かった。
能力は――能力は傾いた船を押し留める方に向けてしまっている。それでも一匹は蹴飛ばした。もう一匹はぶん殴って勢いを殺した。
もう一匹は――もう一匹はさばききれなかった。
自らの細腰に牙を突き立ててくる。無意識の内に能力を防御に使用――皮膚下に必要以上に牙が食い込むのを避ける。
めまいがした。意識が飛びそうになっている。体力と能力の乱用で限界がきている。薄れゆく意識の中でかろうじて電気鮫の頭に肘鉄を落とそうとした。
◇◆◇
トーヤは海中で目を凝らした。
腰ひもに巻き付けた水兵ナイフの刃を指先で起こした。荒縄を切るには頼りになる道具だが硬皮を持つ鮫相手には通用するかどうか。
水をかきながら苦戦しているリリードの元に近づいていく。遠目でわかるほど彼女の顔は蒼白になっていた。
酸欠を起こしている。鮫に――鮫に食われかけようとしている。トーヤは目の奥が灼熱になったように熱くなるのがわかった。
既に十分が経過している。驚異的な肺活量は既に限界に達しているに違いない。いかに強くても、水中では酸素がなければ無力なる。
鮫の攻撃をかわす身のこなしが精彩を欠いていた。
目が半分閉じられてしまった。胴部に不自然に噛みついていた鮫が身をひねり、頭をかじり取ろうと態勢を変えようとしていた。
――オゥラァ!
胸中で叫びながら鮫の鼻面をナイフで横殴りした。上体をひねって反動をつけ、満身の力でぶん殴ったが手応えは鉛を叩いたように鈍く、出血はあったがダメージは薄い。鮫は嫌がってすり抜けていっただけに終わった。
リリードが身体は弛緩して浮いていた。
もう手足から力抜け、無力になって目が閉じられている。
慌てて唇から酸素を送り込んだ――だめだった。
口から泡が漏れてしまっただけだ。意識がない。すぐに潜水樽か潜水鐘に連れて行かなければならない。
背後からの気配がした。怒り狂った電気鮫の放電が脳天を貫いた。
大口を開けての発動――それは大波のように流れてきて、カーテンのように広がった広範囲にわたる電撃だった。横も縦も関係なく、獲物向かってのみ放たれる死の電流だ。
なすすべもなく、トーヤは耐えるしかなかった。受けると目の奥がちかちかとした。回避不能で受け流すことなどできない攻撃だ。
腕がしびれ、足裏が傷んでいる。神経が焼き切れてしまいそうだ。感電によるダメージは身体の内奥をえぐりとる。
リリードを脇に抱えたまま。絶望的な思いで周囲を見回した。未だ数も多い。十は越えている。いや、二十か。
段々とその数が増えてきているのは周辺の探索を終えた群れの者たちが集まってきているかもしれない。
もはや潜水樽に戻ったところで海面に戻る前に体力を使い果たすか、食い殺されるのは予想できた。
手に持ったナイフを見つめた。こんな情けない武器で勝てるはずがない。いや、漁槍や水中銃があったとしても対抗しきれるものではない。
気を失っているリリードが無力な自分の代わりに空気を吸っていてくれたら――時間がない。弱音にまみれたり、現実逃避している場合でもない。
打開するためにどうしたらいい。どうしたらいいんだ。
首筋をなぞった。呪われた宝箱があるとエティールが言っていた。リリードは何もないと言っていた。ヘルビアは――ヘルビアは何も言ってくれなかった。自分を変えた張本人のくせに、何も教えてくれなかった。
何かがあるのなら。今すぐ使わせてくれ。
自分を助けてくれた人をどうか助けさせてくれ。
複数の鮫が弧を描いて接近してくる。
巨体に食欲と殺意をみなぎらせて。歯噛みしながら柄を握りしめた。戦うしかない。可能な限りあがくしか救われる道はない。
こいつらは俺を食おうとしている。
腹を食い破り、血と臓物をまき散らして肉を自らの喉奥に導こうとしている。筋肉と脂肪の味を堪能しようしている。
ならば――ならば。
先に食っちまえばいい。
思考に割り込んできた答えはトーヤも予想だにしないものだった。
条件反射で伸ばされた手から尖った棒状の物体が出現していた。それは前腕から伸びた六角の棒のようなもので、鉤爪のように先端が曲がっていた。
鮫の黒肌よりもなおも黒く、何一つも色を存在することを許さないように漆黒だった。伸びた細長い短槍のようでもあったが、手首の裏から伸びた代物であったので暗器めいてもいる。
切っ先は鮫の目玉に突き刺ささった。浅い刺突だったが劇的なほど効果があった。刺されるとぴくりとも動かなくなり、ただの物言わぬ物体に成り下がっている。
日照りで草木が枯れていくように電気鮫は徐々に細まっていった。
皮膚は光沢を失って渇いた大地のごとく黄土色にまで変化している。瞳から生命の色が消え失せた。海面へと尾先からのぼっていこうとしていた。
トーヤは戸惑ったが一匹を始末したところで正気に返った。
今はそんなことを喜んでいる場合でもない。空気のある場所へ一刻も早く泳がなければリリードの命がない。
「ぼうや。早いとこ戻りな」
唐突にケニーの声が真横から聞こえた。
カトラスを持って海中に立っている骸骨水夫たち――いつの間にか集団で応援に駆け付けてきていた。
槍を持ち、鮫を突いている者もいる。数には数。正しい対抗手段でもある。
トーヤはリリードを抱えて潜水鐘に向かった。
潜水樽ではスペースが狭すぎて救命活動を行うのが難しいと判断したせいだ。
潜水鐘をかいくぐり、リリードを出っ張りに斜めに座らせて片手で抱きかかえながら掌底で心臓マッサージを開始した。
「リリードさん! ちきしょうっ! 無茶しないでくださいよっ!」
再び、肺の中に酸素を送り込んだ。ここで死なれるのは許せなかった。なんにしても死なせたくなかった。
だから、ごぼっと濁音がして、口から水を吐き出したときは神に感謝した。どんな神が助けてくれたにせよ、毎日お祈りを捧げても惜しくないとすら思った。
薄目が開かれる。呼吸が開始されるとトーヤは涙ぐんだ。顔をぐしゃぐしゃにしながら腕で涙をぬぐった。
「てめえ……ひでぇ面だな」
「あんたのせいですよ。本当にもう、だめかと思った」
「っで……やったか?」
「鮫なら一匹仕留めましたよ」
「違うって……ほら、これだよ」
とんとん、と唇を示す。
色気も何もあったものじゃなかったのでトーヤは今更、羞恥心にかられたが首を振った。
こんなときにそんなことを言いだすだなんて馬鹿げていて、反発で怒りだしたい気持ちを堪えなければならなかった。
「あんなのは、なしですよ」
「責任回避する男って……最低だよな」
「いや、リリードさん。俺、助けたんですけど。少しくらい感謝してくださいよ」
「わかったよ。そこまで言うなら今度、ベットで『ピーッ!』させてやるよ」
「そこまで感謝しなくてもいいっすよ!? あんた貞操軽すぎ! 冗談でも口に出しちゃいけないっすよ!」
うるさそうにリリードは嫌な顔を作ると壁に頭をつけて目を閉じた。あえぐように口を動かし、肺の中の空気を確かめているようでもあった。
疲労がピークに達したのかそれっきり黙りこくった。トーヤは組んだ両手が震えていることにはたと気付いた。
リリードを助けに行くとき、鮫のいるところに戻るのが迷ってしまったことを後ろめたく思えてしまった。
彼女も人間である以上は傷つきもするし、窒息もする。そして死ぬことだってありえる。
勇気がないせいで、意気地がないせいで――リリードは命を落としてもおかしくなかった。
今日はたまたま助けることができたが、次はこの弱い心のせいで助けることができないのでないかと疑念が膨らんだ。
もしかすると船で生活するには自分は相応しくなく、場違いな恩恵を得ているのではないか。
「トーヤ……助かったよ。お前がいてよかった」
「いいえ、いいえ……いつでも助けますよ。俺の方が助けられることが多いんですから」
しみじみとした言葉は嘘偽りなく温かい気持ちになった。救われたような気分になったトーヤはくしゃりと髪を後ろに撫でつけた。
手首の隠剣の姿はもうない。消え去ってしまって惜しい気がした。あの力が自分に潜む力だとするのならば手に入れておきたい。
そうすれば次は鮫を恐れることなくなるだろう。
力があればこの先も役立てるだろう。
あの巨大な鮫を無力化できる、即座に死に至らしめる力があれば――どんな屈強な人間でもやすやすと倒せるのではないか。
それこそ、自由に我が物顔で世界を歩けるのではないか。
愚かで残酷な考えをトーヤはすぐさま打ち切った。
他人を傷つけてまで得る自由な虚栄など馬鹿げている。やはり、エティールが比喩したように呪われた宝箱なのだ。必要なとき以外で開けてはいけない。
今は鍵をしておこう。命を奪う能力など誰にとっても薄気味悪い。