沈む潜水鐘
「上手回しを開始する」
下手舵が切られ、帆脚索とはらみ索が数珠繋がりになった骸骨水夫たちの手で引っ張られる。五人がかりで死にもの狂いで引く。
右方向への針路変更でトップスルが風であおられ、ばたつき始めた。
数秒間は逆風を受けるため、行き脚は段々と鈍っていく。
パウスプリットを越えて更に突端にある船首最前部、ジブ・ブームが風を両断するように重力に従って落下した。波飛沫が舞い上がり、一部が濁流となって船首甲板を洗い流した。
船首から伸びたジャンピング・ジブのぴんと張られたロープに飛び散った海水が糸のように垂れ下がる。
左舷側のチームが下隅索と帆脚索が引っ張った。滑車の力を頼って引き込む。合図の号笛が飛ぶ。
エティールが身振り手振りで操帆の指示を飛ばしている。
操舵手を勤めるリリードは自分の身長を僅かに越える巨大な舵輪を反対に回転させた。船底に繋がっている舵板は油圧など気に利いたものはないので時と場合によっては容易には回らない。
状況によっては数人係りで回すこともあるが、彼女はびくともせずに舵輪を微調整した。
揺れて不安定な帆を裏帆を打たせないために完璧なタイミングで船首を持ち上げる。次に転桁索が回され、舵輪を持ち直すために当て舵が取られる。
舵取りに合わせて号笛が容赦なく骸骨水夫を急き立てた。かといって命令する側も実行する側もヘマをやれば船はその通りに動いてしまうので誤魔化しは通じない。
急旋回じみていて、やや強引ながらも方向転換完了――真上から見ればくいっと船が右斜めに向けて進み始めただけに過ぎないが、左に重心を寄せながら航行していた船は今では右側に重心を寄せている。
穏やかな海上で、なおかつ順風でもない限りは帆船というものは平坦になることは諦めなければならない。やや斜面になることは免れず、誰かが片付け忘れた磨き石がごろごろと甲板を移動した。
索具のどれかが弾き飛んだ可能性があるかと考えたのか、ヘルビアは上空を睨みながら両手を腰に当てて舷側を歩き出した。
横目でそんな姿を見つつ、測鉛台に立ったトーヤは規定通り大声をあげた。
「測鉛標十二!」
海底から手の平にくる手応えでは硬い土の感触があった。微細な手の感触による読みは既に我が物としている。
測鉛には種類があり、鎖の先端についた鉛は軽いものもあれば重いものもあり、海底を採取するためにトラバサミの形をした仕掛けの施されているものもあった。
熟練すれば土質で所在地を知ることができる。そうした領域になるには航海技術よりも経験が必要不可欠だった。
トーヤにはまだ経験はない。それなりにこなせてもベテランへの道は地道なものだ。
現在のところ数百メートルの間、水位は変動していなかったのでほぼ段差がないことを示している。
「透明度もそれなりか……エティール、『死角の目』を掃海索に刻め。これより探査航行を始める」
「アイアイサー」
「爪錨と浮標、並びに潜水鐘を点検せよ。術式が終わり次第、櫂口から太索を押し出せ。リリード、一時停船しなくても結べるか?」
「あたしにとっては化粧よりも簡単です」
「頼もしいが化粧の腕も磨け。では、かかれ」
ばたばたと船員たちが右へ左へと仕事始め、船上が慌ただしくなったがこの日のトーヤの仕事は測深であったので持ち場から離れることはできない。
見習いの時分では多くの作業を経験させることとなっている。
今日はただひたすらに同じ作業を黙々とこなすだけで、分銅からの返り水で足先やズボンの裾を海水でびしゃびしゃにしながら喫水下に注意を払う。
難破船を探す際に取られる手段として、一つのポイントを絞ってからジグザグに周辺を探す。
それと同じように船は動いていた。通常の上手回しと違ってやたらと間隔が狭く、骸骨水夫の配置人数も増えている。
<レイス・ザ・フォール号>は船尾に底引き網をくり出し、海底をさらうようだった。
砲門の後段から伸びた太索に被せられた網縄は海中へと沈み込んで伸び、先は見えなくなっている。
海水をたっぷりと吸った麻製の太索は非常に重量が増すがリリードは片手で前後させ、軽々と位置を微調整している。
通常なら三、四人で動かす代物を一人で扱っている。
あの細腕のどこから異形の怪力は生まれるものか――ぶん殴られた経験のあるトーヤは生唾をごくりと飲み込んだ。
外見上は儚げな印象さえある少女だが膂力は人類を超越している。
恐らく網は沈没船の位置に探りあてるもののようで、トーヤは砂袋の詰まった装具を準備する骸骨水夫を横目でちらりとうかがった。
なるほど――なるほど、彼らに酸素は必要ない。これ以上の潜水夫はいないだろう。
「ルビー。マンボウがいました。赤いの」
「エティール。海に突き落とすぞ」
きゅっと片目を閉じているエティールは心外そうな顔つきで傍らのヘルビアの横顔を窺った。
感覚魔術の一つ『死角の目』によってエティールの閉じたまぶたの裏には別の情景が映っている。
掃海索の縄に刻んだ魔術文字を通して窺える視界はそれほどクリアでもなく、輪郭ははっきりせずにおぼろげであった。
「魚影確認。赤。楕円形。体長約二メートル」
「いや、堅苦しくしろと報告せよとの意図ではない。難破船の残骸はもちろん、海山や海丘などがあれば告げろと言ったんだ」
「あ」
「あ?」
「いえ、なんでもないです」
「そういうふりも止めんか!」
ヘルビアのおちょくられる姿を眺めていると、ケニーが舷側に近づいてきた。
左舷側が暇を持てあましており、足の向くままに雑談をしにきた様子だった。
「網で魚が獲れるんだけどよ。あんま好きな奴いねえんだよ。港さえ近けりゃ売るんだがな」
「俺好きっすよ。魚」
「生で酢をかけて食ってたもんな。やべえ新入りが入ってきたと思って俺も皆もびびってたぜ。正直、どう接していいかわからなくなってた」
「俺が疎外されてたのはそんな理由だったの!?」
そもそも生魚を食べる習慣というよりも――骸骨水夫が食事を摂るということは稀だった。食べても肋骨の間からこぼれ落ちてしまうし、麻袋のあてをして疑似的に楽しむことしかできない。
放談を続けているといつの間にか胸部にねじり帯を巻き、四角形の腰布だけの覆った水着のような姿になっているリリードが手をぶんぶん振って船尾から近づいてきた。
片手には黒く細長く膨らんだ物体――大ぶりの魚の尾をつかみ、ぶら下げている。
操舵手を交代したらしい。下っ端骸骨水夫の一人が舵輪を握っている。
トーヤはなんとなく羨ましかった。基礎となる操船技術はあくまで水夫にとって単なる初歩でしかないが、未だ任されたことはない。
近づいてくる健康的な肢体にトーヤは目を剥いたが、リリードが己の姿に無頓着であることもあってすぐに落ち着きを取り戻した。
意識しないように深呼吸をした。変にどぎまぎするのが格好悪いことだと考えた。
腰の曲線から伸びた足は水気を帯びていて艶めかしいし、胸当てもずれ落ちそうな古帆布を使っているせいか穴が空いて肌が見えてしまっている。
「おーい、トーヤ。もぐってみたけどハマチ獲れてたぞ。さばいてやるから生で食ってみてくれよ」
「見世物扱い!? っていうかアンタほんとすげーよっ! 海に潜って素手で魚捕まえるとか何その運動神経!」
「リリード。網に手足が絡まると危険だから二度とするな」
「いやぁ、船長、いざとなったらぶち破って……アイアイサー! 二度としません!」
ヘルビアに無言に圧力を加えられ、リリードはにやけ面を打ち消して背筋をぴんと伸ばした。
ヘルビアを前にするとリリードは職業意識を思い出すようで、力関係が如実に表れる構図にもなる。
心得たもので骸骨水夫がまな板と包丁を持ってきた。ぴちぴちと跳ねる魚体は血抜きされ、舷側にぶら下げられた。
海水で黒いシミだらけの踏み板にぽたぽたと血液が落下していく。
測深をやっているとトントンとまな板に刃を当てる音が背後で響き渡った。
リリードがさばいているようだったが、当直であるトーヤは持ち前の勤勉さを発揮しているせいか持ち場を離れて野次馬に加わることはできない。
「おいケニー。ハマチ好きか?」
「フライなら。舌がないもんで歯応えくらいしか楽しみがありませんでして」
「舌があった頃はどうだったよ」
「牛や豚や鳥を進んで生肉で食おうと思わないでしょう。乾物にした方がまだうまい」
リリードはさばいた切り身の大部分をケニーに手渡し、昼飯の一部として調理するように命令をくだした。
残った塊肉はぶつ切りに刻んで小皿につめ込み、植物油とライム汁を流し込んで和えた。
二股の木製フォークを口に咥えながらトーヤの元に近づいてきた。舷側に背を預けると切り身にフォークを突き刺して口に運んだ。
「まあ。人が何を食ったっていいじゃねえかな」
「リリードさん……」
「あたしは生なら果実汁で食うのが好きかな。ガキの頃に市場でクズみたいな小粒の果物貰ってよ。そのまま食っても味気ないから釣った魚になすって食ってたんだ。懐かしいよ」
くるっとリリードは向き直った。腕が持ち上がり、切り身が眼前に運ばれた。口を開けると悪戯っぽい目は言っている。
トーヤは戸惑い、恥ずかしさ誤魔化すためかサッとフォークからもぎ取った。太い身の舌触りと上っ面にかかった酸っぱく涼味はよく混ざっていて、噛むと驚くほどうま味があった。これなら醤油なくても刺身を楽しめる。
「うまいか」
「ええ、うまいです」
「そうか」
リリードの晴れやかな笑みには人の喜びを自分のことのように喜べる心根が表れていた。
トーヤはこの船に来てよかった身に沁みるように思えた。自分が受け入れられるということが単純に嬉しかった。とても幸せな気分になっている。
探査航行を始めてから三時間が経過すると、エティールが船体らしきもの残骸を発見した。目標である<バウンド・ロック号>かどうかは判別はつかなかったが、海溝の片側にひっかかるように垂れ下がっているとのことだった。
「船首を風上に向けよ。右舷開きで一時停船する」
黒鉄の錨索が滑り落ちるように投錨口に下降していった。<レイス・ザ・フォール号>は一時停船し、目視調査を行うことになった。
滑車装置で吊るされた釣鐘型の潜水鐘も海面下へと沈み込んでいく。
下にもぐりこんだ骸骨水夫が海中でも空気が流し込まれるか点検をし始めた。空気をポンプで送り込む仕掛けとなっており、接続部の空気漏れを入念に調べなけれならなかった。
先行する潜水夫として骸骨水夫の何人か重りを身体に巻きつけ、測鉛台の横にある階段状になっている段差から下っていき、ほどよい地点から飛び込んでいった。
数分後に木板がぷかぷかと水面に浮かび始めた。爪錨が船体に引っかけられ、目印として浮かんできたものだ。
調査していた骸骨水夫の一人が海上に頭を見せると、ヘルビアは手すりから身を乗り出して問う。
「どうだ」
「逆向きです。船名は<サンシャイン・ロータス号>」
船底が天を向く形。船体が逆になっているのだ。
そうすると内部調査は困難になる。積み重なっている梁材や砕けたマストの中に入り込むのはいかに生死から解き放たれた骸骨水夫といえどやりたくない。
何かの拍子にそのまま挟まれて埋められてしまう可能性もあるし、物品を持ち出すのも一苦労だ。
目標の船ではないことにヘルビアは落胆したが、骸骨水夫からその船の特徴、船首の形や外殻の反り、砲門の数などを聞いている内に記憶の棚から船名にまつわる情報を引きだした。
<バウンド・ロック号>の護衛艦だった船だ。共和国連盟に属し、宝石輸送船の護衛任務に就いていた。
調査する価値は十二分にある。事故や襲撃かによって保険会社の対応も変わるし、海軍の出方も変わる。それらを報告することに関しても些少ながら報酬を支払われる。
「船長、あたしが行きます」
「リリード……いや、コリーに任せようと思う。お前の次に遠泳に長け、力がある」
「おい、コリー。お前……体調悪いよな? なっ、悪いな? おい」
「にゃ!? あ、あああちきは、悪いでございやんす。はい」
艇長を勤める虎猫娘のコリーは巻き上げ機の手入れをしているところであって、急に会話に出されたので顔を向けたがリリードにガンをくれられて茶色の毛を総毛立たせる。
身をよじり、内股になってもじもじとして小さくなった。
コリーは水夫服を着た虎耳と尻尾つきの娘だが控えめな性格なのか自己主張することはあまりない。
後頭部に片手を置いて小さくなりながらリリードとヘルビアの顔色を交互に窺い、でへでへと愛想笑いを張り付けてなんとか場をしのごうとしていた。
「船長、コリーはだめみたいです。完全にぶるっちまってます」
「リリード。危険な仕事だ。あまりお前をそういうことに使いたくない」
「うへえ。あちきの扱いがやばいよぉ……」
トーヤは巻き上げ機に手を乗せて俯いてる虎猫娘を気の毒に思ったがいじめられやすいキャラクターなのか誰も彼女の慰めようとする人間がいなかった。
なのでトーヤが親しみを込めて肩を叩いた。
妙に仲間意識を感じ、これを機に友達になれるかな、と浅はかに考えたせいである。その差し伸べた手をコリーは粗雑にぱんっと払いのけた。
「ごめん。発情期じゃないんでオスが触らないでくれにゃ」
「はい」
別に下心があったわけじゃないのに冷たく追い払われてトーヤはブルーになったが、リリードがひょいひょいと指で呼び寄せられる。
「トーヤ。お前も来いよ」
「え、俺もっすか。あんまり泳ぎ得意じゃないんですけど」
「あたしの浮袋にする」
「俺の扱いもひでえっ!?」
◇◆◇
潜水鐘のスペースは二人分ほどあった。
空気を保持したまま下降していく釣鐘は青銅色。たった一つだけ丸型の舷窓が設置され、海中の様子を探ることができる。
下端には三つの重しとなる鉛球がくっついて、少しだが溝で動かすことができた。内部の浮力に抵抗するためであり、平衡を保つためでもある。
リリードが対面に腰かけ、腕組みしていた。内部には人が座るための突っ張りがある。
天井の筒から空気は送られてくるが、新鮮とは言い難い。徐々に湿度が増していくような不快感もある。
閉塞空間ゆえか、気圧の変化によるものか息苦しさすら感じた。
「潜水樽も落とすから、やばくなったらそっちにも向かえ。骸骨たちもいるから心配するな」
「リリードさん。どうして俺を連れてきたんですか」
「測深に飽きてただろ。それに楽しいぞ。潜水は」
「参考までに聞きますけど、リリードさんの潜水時間は最高何分くらいですか?」
「五、六分くらいかな」
「俺、一分持てばいいくらいなんですけど……」
「じゃあ途中でやばくなったらあたしの息を吸わせてやるよ」
「ああ、それなら……いや、でも、色々とまずいですよ」
ぷるんと桃色の唇を見た後、トーヤは気恥ずかしくなって目を伏せた。
空気を貰うということは唇を合わせる必要がある。それをわかってもらいたかった。
きょとんとしたリリードはようやく合点がいったのか腕組みしながら顎を引いた。
「ははは、そんなに心配するなトーヤ、キスくらいで赤ちゃんはできるねえよ」
「ちげーよ! ていうか、その前段階が問題なんだからねっ! それ以外はセーフみたいな扱いおかしいからね!」
「そろそろ、底だな。どうするんだ。来るか?」
潜水鐘から伸びた三つ脚が海底にぶつかり、ぐらりと揺れた。浮遊感が終わり、腰に重さのような感覚がくる。
トーヤは迷ったが頷いた。この期に及んで逃げ惑うのは男らしくない。リリードは満足そうにトーヤの肩に手を回して横面にキスした。湿った耳打ちがさえずられた。
「あたし男とキスしたこねーから、奪わないように頑張れよ」
どぼんとリリードは真下へもぐっていった。トーヤは奮い立ちながら一気に酸素を肺の中に入れ、同じように潜水鐘から海中へと踊りでた。
怖々と目を開けると広がる世界は背筋が凍りつくほど不気味だった。
巨大な霧の牢獄に閉じ込められたように先が見えず、得体も知れない。およそ二十メートル前後は透明度は高く視認範囲ではあるが、白い闇に覆われている。
足下の大地もまたおおよそ、不毛だ。
荒野の砂漠のように寂寥としているといってもいい。
僅かに隆起した海丘はあるものの平坦で真っ白な岩盤と堆積した泥砂しかない。
そもそも、外海とは陸地から栄養が流れ込むことがないので海洋生物がひしめく理由などなく、海草すらほとんど存在していなかった。
回遊魚が渦を作っているのが遠目に見えたが――そこは沈んだ廃船を軸としていた。
他にも足長のカニがとことこと歩いていて、集まった星形のヒトデが飛び跳ねていた。
住処と栄養がある場所に生物が集まっていく。物の道理ではある。何が栄養になっているかは想像したくない。
リリードが足をばたつかせて浮力を持て余しているトーヤに接近した。どうしても身体が上へと浮いてしまうのだ。
リリードはトーヤを押し留めるように腰に片手を回してきた。
抱きつきながらも微笑し、自らの唇をとんとんと突く。まだ必要ないことを告げるためにトーヤは首を横に振った。舌がちらりとだされ、肩がすくめられる。
強引に片手が繋がれた。お守りをさせているようで引っ張られるトーヤは申し訳なく思ったが小さな手は柔らかくて、手を離す気にもなれない。
<サンシャイン・ロータス号>の周辺では作業をする骸骨水夫の姿があった。
潜水樽を引っ張り込み、バールやハンマーを持って船体の穴を広げているところだった。二人の姿を見つけると、手を振ってくる。
「掌帆長。色っぺえ恰好で逢引きですかい?」
濁音での声はなんとか意味を聞き取れるものだった。
海中でも発声はできるようだ。確かにリリードの恰好はビキニそのものできわどい露出だったので無理からぬことだった。
リリードは骸骨水夫の頭を容赦なく蹴り飛ばすと、進捗を尋ねるように威厳ありげに腕組みした。
「へえ。第三階層が船倉みたいなんですけど、ちょいと時間がかかりやす」
「俺たちも力が半減しちまうんでかんぬきを壊すのは難しいです」
「厳重なんで炸薬を使うつもりです。ちょい手間になりますが」
リリードは力こぶを作って不敵な笑みを浮かべた。骸骨水夫の一人がぺたんと額に手の平を置いた。
「掌帆長。あんたが強いのは知ってるけど、俺たちと違って生きてるんだ。無理しねえでくれよ」
いったん、潜水樽の中に入ることにした。潜水鐘とは違い、重りをつけた樽が逆さになっているだけの息継ぎポイントだ。
リリードが入り込むと、トーヤも中に入った。狭い空間だったのでお互いに鼻がぶつかりあいそうなほどだ。真正面から向かい合いながら立ち泳ぎの態勢だ。
「トーヤ……てめえ、三分持ってるじゃねえか」
「ええ、なんか調子いいんですよ」
「あたしとチューしたくねえのか」
「俺たちは探査に来たんで、そういうのはまた別の機会ってことで」
「今度は五分だ」
リリードは挑むような口調だった。トーヤが呼吸を荒げていないことで矜持を刺激されているのかもしれない。二の腕に鳥肌が立ち、産毛がちりちりとするような言いようのない危機感を覚えた。
海中で、酸素のない状況で命知らずなことをやるのは馬鹿げている。
慎重にならなければいけない場所だということは誰にでもわかる。無茶をして特などないのに。
「音をあげさせてやる」
「待ってください。あっ」
背を向けて再び潜水しようとしたリリードの首筋――金色の濡れ髪の隙間からジグザグの縫い目模様が見えた。
首なし騎士の証。なんとなくそうではないかと疑っていた。常軌を逸した身体能力の裏にあるからくり。
リリードの後を追うためにトーヤも呼吸を整えた。
「ハマチの群れだな」
「そうですねぇ~。船長、保存食にしますですかー」
掃海索――底引き網のようなそれを引きあげ、網に絡まってぴちぴちと跳ねる大型魚を眺めながらヘルビアはげんなりした。
思わぬ収穫であったが魚料理が好きな水夫は少ない。飽き飽きするほど食べたし、魚というのは急場をしのぐための非常用の食事であって、自ら好んで食べるものでもない。
美味な魚がいることは否定しない――だが、骨が密集していて食べにくい魚やグロテスクで食欲を減退させる魚がいることも確かだ。
嗜好というものは幼い頃に決定する。実のところヘルビアは魚よりも果実の方が好きだった。
こっそりと生緑の繁栄石という希少な魔石をプランターに植え込み、船長室で小粒果実を栽培して常食している。
「ポシェットの好きなようにしろ」
「辛ーい魚料理を作りますですぅー」
「止めてくれ」
「甘ーい魚料理を作りますですぅー」
「うー……む」
本音ではオーダーを拒否したいし、せめて麦粉をつけてフライにするか蒸してサラダと混ぜて欲しいとヘルビアは考えていたが、好き嫌いを告げるのはどうも子供っぽくて口に出すのははばかられた。
それらの機微を察して欲しいし、それを読み取るのがポシェットの仕事なのだが彼女は船乗りとしては珍しく無類の魚好きだ。
ヘルビアが内心嫌がっているとなど露ほどにも考えなかった。
網の網目をもっと大きくして魚がすり抜けるようにしてしまえばよかったか、そんなことまで思っていると、ふとヘルビアは思い至った。
ハマチの群れ――大型魚の群れがここまで大量に引っかかることなどあるものだろうか。掃海索は漁網のようではあるが抜け目もあるし、魚を獲るようにはできていない。あくまで難破船やその残骸の一部をすくい取るための調査道具だ。
何か、通常では引っかからないようなものに引っかかるほど慌てていた。そう考えると妥当な気がしてする。
見上げれば西空から分厚い雲が迫ってきていた。雲の切れ間から紫電を走らせている妖雲だ。地上から集められた魔力を帯びた雲が空をひしめき、その暴威を示そうとしている。
土砂降りの雨の影がちらついている。遭遇は間もない。
「いかんな……」
ヘルビアは海に視線を投げかけた。撤収の合図を出すように骸骨水夫に命令する。
何を失ったとしても、貴重な部下の命を失うよりはいい。