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幽霊船、異世界を航海する  作者: 七色春日
第一章 遺骸あさりの幽霊船
5/17

死を呼ぶ戦列艦

 燃えるランプは五角形の厚みのあるガラスの中に入っていて、帆桁の中央部に吊り下げられていた。


 打ちつける波に翻弄された船体の揺れに従い不規則に空中を踊り、火種はかすんでは持ち直す。繰り返し。繰り返し。風に吹かれながらも。


 燈火が照らすのは精々十メートルほどの微々たるもので、そこからは黄泉にでも繋がっても不思議でもない薄闇に呑みこまれ、甲板は輪郭線だけを残して途中で消えている。


 樽の集積した場所やボート用の吊柱の近くにも当直員の人影はあるが、色を失った影絵となっている。


 羅針盤(コンパス)箱だけは常夜灯に護られ、ついでとばかりに甲板長の航行伝達用掲示板の文字を浮かび上がらせている。測程儀(ログ)のチェーン破断とそっけなく書かれていた。


 墨色の海から響いてくる潮騒は緩慢だった。


 船体は潮流に沿ってはいたが東風が吹いていたため、船尾から押し寄せてきた風を正面やや左で受けた<レイス・ザ・フォール号>は横風航行(アビーム)で進んでいた。船体は傾き、傾斜しながら航行している。


 甲板から骸骨水夫の大部分は姿を消した。代わりに中空を舞う青白い人魂がゆらゆらと移動したかと思えば亡霊たちが薄っすらと現れ、人の形に作った。


 その身体の線は頼りなくぼやけていて、霧状になったりもする。衣服を着た半透明の人間が夜間航行に対応していた。


「幽霊だ」


 がく然としたトーヤは中央甲板に立ち尽くしながら青みかかった燐光を見つめていた。たまに白熱しては不安定に姿を消している。


 生前の姿そのままで特に身体が欠損していたり、頭から流血していたり、末期の表情というわけでもない。


 生真面目な顔をした幽霊たちは黙々と手を動かすだけでしゃべることができず、ロープを多少引けるくらいで簡単な操船はできたが細やかな作業はできなかった。


「ふぁああ……」


 下層甲板の縄梯子をのぼってきたリリードが目に涙を溜めてあくびをした。


 後甲板に降り立つと指先で涙の粒を弾き、むにゃむにゃと頬を動かした。


 飛散している金色の髪の毛を縛った荒縄飾りのリボンがほどけかけていた。


「リリードさん。幽霊ですよ」

q「そうだな。夜の補助船員だよ。昼は……てか太陽の光を浴びると消えちまうらしいから夜直専用の奴らだな」


 なんてことないようにリリードは述べたが、トーヤの足はすくんだままだった。リリードは小首をかしげる。


「なんだ? 怖いのか?」

「正直なところ少し怖いですね」


 からかうような響きではあったが、トーヤは率直に答えた。強がったりしてもよかったが、どの道バレる気がしたからだ。


 リリードは腰に両手を当ててこくんと頷いた。


「気持ちはわかるが怖がるのは意味がないことだぞ。危害はないし、自分たちの同僚だ。仲良くやった方が仕事がはかどるぞ。仮に何かあったとしてもあたしはぶん殴ることだってできるから心配するな。あたしに泣きつけや」


 勇ましく握り拳を掲げて見せてくる。小さな鉄拳は亡霊にも届くらしかったが、すぐに目をぱちぱちとやり始めた。


 眠気でふらりと頭が傾いている。頼りない。泣きつくという選択肢ははなっからないが情けないことを言い過ぎたとトーヤは後悔した。


 骸骨の水夫にだって慣れた。幽霊に慣れないはずがないさ。


「リリードさん眠そうっすね」

「ねみーよ……てめえだってこの時間は床と『ピーッ!』して寝てることだろーが」

「最近は天井としてますよ。伸ばそうと思えば『ピーッ!』はどこまでも伸びる性質があるんです。女性のリリードさんにはわからないでしょうが」

「マジでか。ちょ、ま……マジでか?」

「マジですよ」


 疑わしそうではあったが信じかけているリリードは完全に目を覚ましていた。そして耳年増な純潔であることが発覚してしまった。「な、なぁ、どうなってんだ。どんな風になるんだ?」と両手を重ねながら性的好奇心にかられ、おずおずと尋ねてくるリリードをトーヤは適当に受け流し、夜間の仕事を尋ねた。


 仕事となればリリードもしっかりしたもので、船尾楼の右横にある倉庫へと歩いていった。


 配置表によるところでは左舷側の吊り索の操作並びに測深が割り振られた仕事だった。


 夜間での測深は座礁の危険を避けるためでもあり、うっかり暗礁で船底をこすらせないためでもある。


 トーヤは分銅のついた鎖を戻ってきたリリードに渡された。巻き代があり、重量はそれなりにあったが膝がぐらつくほどでもない。


 メートルごとに金属環がはめ込まれていて、測定器の一種だとわかった。


「今日は測深のやり方を教えてやる。覚えろ」

「測深?」


「海底までの距離がわからなきゃ、船底をこすっちまうだろうが。重要な仕事だぞ。まず、<レイス・ザ・フォール号>の最低喫水が三メートル半だ。その船縁を乗り越えた先にある投鉛台(チェーン)の上に立て」


 舷側に踏み出そうとすると、待ったがかかった。リリードがトーヤの腰にするすると安全索を巻いた。命綱は上空へ向かう横静索(シェラウド)に結び付けている。


 ふわふわとした癖のある髪の毛があたる。くすぐったいが我慢した。小柄な体がいちいち身を寄せてくるので抱きしめたらどんなことになるかな、と妄想をもてあそんだ。恐らく、仕事中にふざければ投げ飛ばされる。


 甲板の向かい側に設置されている横板は人一人がやっと立てるくらいの足場で足下には深い闇があった。


 横静索を固定するチェーンで補強されているので板が外れたり、崩れたりすることはないだろうが暗海への恐怖はある。


 指示通りにぽちゃりと鉛を海中に沈みこませる。大きな金属環には赤色に塗られた小さな金属環が引っかけられていた。小環の個数でメートルを読むようだった。


 横静索の留め具の下にある投鉛台(チェーン)から船底までの距離を引き算して、水深を読み取る。


「水深約十メートル半です」

「地質はどうだ?」

「え?」

「手の感覚でわかるか? 泥質か、硬質か、ポイントごとに高低はあるか、妙な異物感はあるか、潮の流れはどちらからくるか」

「わかりません」

「船脚によっても距離は変わる。鎖が流れるからな。そこも引き算できるようになれば測深手だ。できるようになっとけ」

「はい」


 手すりに顎を乗せて垂れた猫のようにぼんやりしているリリードは見るからに気だるそうだった。


 トーヤは止めがかからなかったので、それっきり測深ばかりやっていた。熱い風が吹き荒れる日中とは違って夜間での作業は肌寒さすら覚えた。


 ずぶ濡れの手の感覚で海底に鉛がぶつかる感触はかろうじて読み取れるようになったが、五分もしない内に鎖がへたれて距離が短くなったり、腕が張って距離が遠のいたりすることに驚いた。


 時折引き揚げて鉛の調子を見る。水しぶきが飛び、手先から腕まで海水でしめる。


 手袋をつけるのを忘れ、つい包帯を濡らしてしまったのでしくじったと思ったが、指関節を動かしても痛みを感じなかった。指を順番に波打たせても痛みはない。試しに包帯を外してみると赤ぎれた皮膚はすっかり治っていた。


「すごい」

「あん? どーした。サメの『ピーッ!』でも見つけたか」

「いい加減『ピーッ!』から離れてください。いえ、エティールさんに包帯を巻いてもらったんですけど、一日で傷が治ってまして」

「あいつは船長より格下だけど優秀な魔術師だからな。火の玉とか出すんだぜ。普段明るいけど、ブチ切れると活火山みたいなヒステリー女に変身するから気を付けろよ」

「魔術って……俺も使えますかね」

「普通は無理だな。使えるかは血統で、系統は適正と努力だ。ちなみにエティールは万能型だ。器用貧乏ともいう」 


 淡い期待感はあっさりと打ち砕かれた。


 空を飛んだり――手の平から光線を出したりするのは憧れではあるが、ないものねだりをしても仕方がない。それよりも、自分の身に存在しているらしいモノについて尋ねることにした。


 エティールとの会話を持ち出すことにし、その後を展望を聞くことにした。


「リリードさん。俺って……期待されるような男とかになれますかね。なんかエティールさんが俺には呪われた宝箱があるとか言ってたんです」

「え、なんだよいきなり。そうか。狼に変身する的なあれか。夜だしむらむらしてんのか。よかったぜ。今日は勝負パンツだからトゲ付けてんだ」

「すいません。ちょっと真剣に取り合ってください。一応補足ですけど勝負パンツの意味間違ってますよ。相手にダメージを与える方向じゃないですからね。そっちを強化しちゃだめですからね」


 舌を出しておちゃらけたかと思えば、腕組みをしたリリードは首をひねった。


「あー……多分、首なし騎士(ディラハン)のことだろ。心配するな。念のため見張ってたけどお前の中に封じ込められた素霊は大人しいし、全然才能ない感じだから雑魚だよ雑魚。宝箱に何も入ってなかったなんて話はどこにでもある。残念だったな」


 素霊が封じ込められた――他者の霊魂が自身に潜んでいるという話は荒唐無稽で実感できないし、変調らしい変調もなく現状は健康体だ。


 なんの力も持てない落胆が波紋のように広がったが、波が収まると平らな安心だけが心にあった。


 夢見が悪くなったわけでもなく、単に身体能力が底上げされただけのような気もする。もしかすると、食物のように消化されて跡形もなくなったと考えた方が自然かもしれない。


「あー、酒が飲みてえ……ぐぃっと飲んで、こてんと寝てえ」

「アンタほんとおっさんみたいだな」


 振り返ってトーヤは突っ込んだ。麗しの十代の娘とは思えない言動だった。


 わずらわしいものを振り払うようにリリードは手をひらひら振った。


「あたし、夜はダメなんだよなぁ。敵艦がいれば別なんだけどよ。船長もいねえし、気合入らねえ」

「縫い物でもしたらどうですか?」

「皮肉のつもりだろうが、言っとくがあたしは縫い物は達者だからな。町の女より三段階はうめーよ。網や分厚い帆を縫いまくってからな。嫁に欲しいだろ」


 ふふん、と得意げな笑いを見る限り真実なのだろう。気が短そうであるので細かい物は苦手そうだが。


「俺は嫁は選びたいもので」

「黙れ」

「あ」


 低い声だったので失言を悟り、しまったと思ったがリリードはトーヤを顧みることなく中空に浮かんだ青白い人魂を厳しい顔で凝視している。


 だらけた様子から背筋を伸ばしてしゃきっとしている。


 真上には並列して七つの人魂が浮かんでいた。信号光のように一つが点滅している。


「まずいな、トーヤ。船長呼んで来い。報告内容は帆影確認、左舷四点、規模戦列艦、距離約三キロメートル」


「え、はい」


 切迫した声にトーヤは駆け出した。背後から追加の指示が飛んでいた。


「亡霊どもはひとまず消光して明かりを吹き消せ、骸骨どもは相手の船が近づいてきたら身を隠せ」


 甲板の段差を飛び越え、船尾楼の扉を押し開き、息を切らして船長室の前に辿りついたトーヤは乱暴にノックした。


「船長、起きてください! 緊急事態です!」

「ああ……わかった」


 ヘルビアは衣服を整えもせずに扉から出てきた。一応は顔にかかってくるぼさぼさの髪の毛を口に咥えたリボンで後ろにまとめようとしている。


 夏の寝間着であって、膝まで伸びた薄手のガウンと綿のズボンだけしか身に着けてなかった。襟元からへその下まではあわれもなく開帳している。


「えっと、帆影を確認しまして、左舷側四点に戦列艦……距離約三キロです」

「どこの艦だ? 船名は確認できたか? 帆の形は?」

「そこまでは」

「ろくに視認できない距離か。夜間用望遠鏡(ナイトスコープ)を持ってこい。操舵輪の横にある輪縄に差してある」

「はい」


 駆け足で甲板に向かうヘルビアに追従しながらトーヤは応えた。


 操舵輪の取っ手索から望遠鏡を持っていくと、ヘルビアは闇の先を見通そうと舷縁を乗り出していた。


 傍らにはリリードが直立して控える。言葉通り、先ほどまでの脱力が嘘のようだった。


「あの横長の品のないロイヤルスルはエレボスの戦艦だ。あのサイズで砲門は二層か……恐らく八十八門はあるな」

「一度でも片舷斉射されれば木端微塵にされますね」

「近づけもせず、遠距離からの軽砲だけでも撃沈されかねん。お近づきになりたくないタイプの女性だ」

「当り散らされるだけで墓場行きです。回頭しますか?」

「そうだな。変針用意。百四十度。回頭する。取舵いっぱい――いや。命令を取り消す。まず、ミズントプスルを二節ほど縮帆し、スパンカーを張れ。次にトップスルを畳帆した後、フォア支索帆(ステイスル)を張れ。更にメントプスルを二節まで縮帆。大急ぎでやれ」

「はっ……いえ、アイアイサー」


 縮帆すれば逃げ足が遅くなる。トップスルを畳むのは敵意がないか、あるいは戦闘放棄を意味する。降伏でもするつもりか。そうした疑問がリリードの足を止めかけたがすぐに行動を開始した。考えるのは自分の仕事ではない。


 速やかに骸骨水夫たちを呼びつけ、安息を取っている者を駆り出させ、指示を下す。


 どの道、<レイス・ザ・フォール号>のような乗組員百人程度の小型船ではエレボスの三百名近い戦艦とは火力が違う。ヘルビアが正気を失っていない限りは真っ向から絶対に対峙してはいけない相手だった。


 船尾楼を備えた<レイス・ザ・フォール号>は形状としてはシップ型スループ。目的は探査であるため厳密には武装艤装の商船に分類され、戦闘を目的とした歪な形をした戦艦ではなく十八門の大砲しかない。


 それも重量五キロの満たない短口径の豆鉄砲を含めた数だ。あちらは数倍の重量の強力なブドウ弾を撃ちこんでくる。船腹を見せ合って接舷応酬することなどできはしない。


 逃げるべきか――だが、こちらがあちらを確認した以上はあちらもこちらを確認していると考えた方が賢明だ。


 ヘルビアは煩悶しながら船影を睨んだ。眉を吊り上げるだけ吊り上げようと試みているようだった。


 もう数海里だけ西側に移動した海域が仕事場になる。最低でも数日か一週間はうろうろとさまよわなければならない。長ければもっとだ。ひとまず逃げながらぐるっと迂回してしまおうか。


 だが水樽は目減りしているぞ。先に補給しに行ってしまうか。びくびくとしながら待ち時間を作るべきか。臆病者は時として賢いはずだ。性質にはまったく合わないが。


 なんにせよ困ったことになった。しかし、あれほどの巨艦が自国から遠く離れた接戦地の遠洋航路を単独で遊覧の旅などするものか。王侯貴族の新婚旅行が当人たちは二人きりだとささやき合うがいつだって多数のお供がついているものだ。


 そう、血に飢えた王様の艦長と図体のでかい彼女に相応しい冷酷な全通平甲板(フラッシュデッキ)の処刑人たちが御用聞きをしたがるだろう。


 ここはひとつ、なんとか誤魔化してしまうか。私は従順無害な羊でございますと訴えてみるか。そうだ。いざとなれば。いざとなれば直々にどうにかしてやる。いいだろう。幽霊船に挑む勇気があればの話だが。


「リリード! この長旗(ペナント)に変えてきてくれ。化粧直しに間に合うかもしれん」

「……アイアイサー」


 戸惑ったもののリリードはヘルビアから手渡されたペナントを口に咥えながら横静索に飛びついて駆けのぼっていく。


 段索を何段も飛ばしながらの驚異的な俊足を見せた。メイン横静索の最頂部を目指している。もっとも目立つ場所の旗をすり替えて据えるようだった。


 ほんの数分ほどでリリードは斜めに甲板から伸びる後索に絡まって降りてきた。足裏を重ねて、手にあまり力をこめていなかった。


「疫病旗にしてもよかったと思うか」

「あたしはいつも船長の判断に身を託します」

「四点鐘もすれば接舷距離になるな」

「年頃の乙女として胸がどきどきします」

「私もだ。できるならば八つ裂きにしてやりたい」


 それからは慌ただしく、苦労を要する仕事が始まった。骸骨水夫たちは人員の不足を解消すべく下の砲列甲板で休んでいる仲間を呼び起こしに行かねばならなかったし、亡霊たちはのろのろとした動きで浮遊し、人の形になると帆桁に座り込んで足場綱(フットロープ)の丸輪に足をかけた。


 組み繋いだ(プレイス)縄が闇の中で飛び交った。真夜中の帆の張り替えは足を踏み外す危険が大きく、連結にはミスが生じやすい。


 足場にして生命を預けるブームはがたがたと揺れるし、白い帆がばたついて身体を弾き飛ばそうとする。両手でしがみついているだけならまだしも、両手を放して作業をしなければならないこともしょっちゅうだ。死者たちでなければ顔を強張らせる作業である。


 作業の最中、悲運に見舞われた骸骨水夫の内の一人が縄をつかみ損ねて墜落した。暗闇で頼みとするロープを見誤ったのだ。


 重力に従って派手な音がして甲板にぶつかり、骨が砕けて四方に散らばった。仲間が担架に白骨を集めて運び、船内へ消える。


 光源は星明りしかなく、夜目は利きにくい。五メートル先にいるのは人の形を作った影だけであり、誰何(すいか)の声が時折どこからか聞こえた。


 新米ゆえに指示を受けていなかったトーヤは骸骨水夫に混じって帆脚索をゆるめた。汗水垂らして下隅索タックの張りを失くした後、ミズンマストに飛びついた。がしがしと檣楼(しょうろう)をのぼりつめて帆柱に掴まりながら亡霊の仕事に欠けはないかコアラのような体勢でぐるりと顔を回した。


 丁度、手近な場所が開いていたので金具が外されて帆がたるんだところで中腰の姿勢で横に並んだ。


 頬に受ける風が強くなっている。強風というほどの圧でもない。頬を痛めつけるには物足りない半強風(ハーフゲール)といったくらいだ。それでも脅威には違いなく、固定されていないロープは拳からふわふわと流される。


 目の前に現れた帆面の上縁にある縮帆索(リーフポイント)の小さい輪状のロープ、索目穴(クリングル)に短いロープの耳索(イヤリング)を差し込んだ。素早く結び付けて縄の先端を渡した。


 亡霊たちも心得たもので意図を理解してヤードの先端まで縄を手渡しで繋ぎ、帆桁の突端に決して外れないようにぎゅっと固縛した。ばたついていた帆が丸まって上桁の内部へ丸め込まれる。


 ミズン・トプスルの帆が縮帆されたことにより船首は少しだけ前のめりになり、追風に吹かれて船尾が微弱にだが左右に振れた。蛇行により甲板は傾き、不均衡になった。すぐに後部の縦の台形帆(スパンカー)が張り出すと重心が保たれて揺れがましになった。


 習慣となっているせいかトーヤが転桁索の下に向かった。回頭をする可能性を考えてのことだったが命令は飛んでこなかった。


 汗を衣服で拭きながらじっとしていると急に自分のやったことが命令違反ではないかと心配になった。


 乗組員には割り当ての配置、つまりは縄張りがある。緊急事態であったので配置から離れて協力はしたが、本来なら矜持を刺激して大きなお世話になる可能性もある。今日は初めての夜直であり、無知な新人ということで通っているので親切は許されるという算段もあった。


 こめかみにしわを寄せたヘルビアは何度も目を閉じたり開いたり、深呼吸を繰り返していた。甲板を行ったり来たりして落ち着こうとしている。


 起きてきたらしいエティールがなんらかの指示を受けて砲列甲板に走っていった。寝台の足が木板をこすると音が聞こえ始めた。衣服箱はひっくり返され、円卓は天井に吊り上げられている。砲列甲板という名にふさわしい姿に変身させるためであるし、砲門を開けず、砲弾の準備を整えてようとしている。


「船長、あの船はやばいんですか?」

「エレボスは帝政国家を築いていて、敵対国家に属する船の略奪を官民に許している。我が幽霊船の船舶証明書はヒュプノス共和国に属し、鹵獲(ろかく)対象内だ」


 敵船だと告げられてもトーヤはぴんとこなかったが、ヘルビアは青ざめて額に汗の粒を浮かべていた。緊張のためか震える手先に気付き、いら立ったのか、それらの動揺を隠すためか腕組みした。


 海にぼうっと立つ横長の影は同じ方向に進んでいて距離は徐々に詰まってきている。


 遠くからでも巨艦であることがわかる。接近すればするほど船影は存在感を増していき、横腹の砲門は上下二段になっていて見るからに戦闘向けで、帆の数も五段になっていた。


 死神の黒衣と同じ色をしていて、どちらも地獄へと導くことができる存在に変わりない。


「帆装を変えて彼らの国の武装商船に近づけた。真夜中だ。向こうの檣楼員が注視しなければ通じるかもしれん。急いで回頭すればやはり不審に思っただろう。それに、発見されていたとしても縮帆した船が敵船とは思わないはずだ。追いかけっこになれば船脚ではまず勝てんので真っ向勝負することになる。海戦になれば勝敗は別としてあちらはともかく、こちらはただでは済まない」


 ヘルビアは空腹の虎でも見るかのように船影を恐れながらも睨んでいた。


 船長にとって自船はかけがえのない半身だ。住居であり、職場であり、商売道具でもある。


 すなわち船を失うということは家と仕事を一気に失うということだ。


「船長、信号旗です。<新鮮な売り物はあるか>です!」


 見張り台で双眼鏡を構えていたリリードが怒鳴った。ヘルビアは船から視線は固定したままだった。まだ罠にかかったと信じることはできない。


 問いは食糧を求めていることは明白だった。航海中は生野菜や果物を重宝する。しかし、その信号旗がぶしつけで無礼であることはヘルビアの怒りの地団駄からトーヤは悟った。


 イエスと返せば取引のために接近されるし、ノーと返せば軍に非協力的だと思われ、やはり徴収しようと接近される恐れがある。角の立たないように返す必要があった。


「よろしい。信号手! <新鮮な木綿糸を大量に乗せている>と返せ!」


 斜桁へと伸びた信号揚掲索(シグナルハリヤード)に乗った複数の信号旗がひらめいた。じりじりとした長いようで短い時間が経った。


 はらはらしているヘルビアはしきりに距離を気にして望遠鏡を上げ下げしていた。あの船首がこちらを向いて近づいて来れば戦闘開始を命令しなければならない。それが遅すぎれば砲弾は避けられず、早すぎればしなくていい戦いをするはめになる。


 船体が傾く動きがあった。船首が隠れ、左舷の横腹に波がかかる。


「敵船、回頭します」

「よし……よし、まったく、人騒がせで蒸し暑い夜だ」


 当面のところは危機は去った。


 ヘルビアはガウンの裾布をつかんで脱ぎ捨て、背中に乗せた。


 当然のことながら上半身は裸身になり、ヘルビアはそのまま甲板洗い用のポンプに手を伸ばした。薄らとした闇に白肌が浮かぶ。艶めかしく均整の取れた肢体は闇に混ざりながらも扇情的だ。首筋から鎖骨は驚くほどなだらかで、たわわな果実とは対照的にウェストもきゅっとしまっている。


 トーヤは瞠目して固まった。リリードがちらりとその姿を確認して咳払いした。


「船長、時折、あたしよりもあなたが男前に見えるときがあります」

「嬉しい褒め言葉だ。他ならぬリリード・レイクに言われれば特にだ」


 含むところを理解せずにヘルビアはT字型のポンプを動かし、頭から海水を被ってばしゃばしゃと浸していた。


 火照った身体を冷まし、汗を流すのは手っ取り早い手段ではある。ずぶ濡れながらもすっきりした顔でリリードに向き直って腰に片手を当てる。上向きながらぷるぷると揺れる二つの見事な丘稜を気にすることはない。


「私は航路を見直そう。平時ならエレボスの艦が立ち寄る海域ではないはずだ」

「船長、失礼ですが……男に思いっきり見られているとご理解ください」

「はは、我が従者たる死者の目などさしたる……ああ……失敬、いや、うん。おやすみ諸君」


 最初はヘルビアは朗らかな笑ったが、気まずくしているトーヤの存在を認識し、かぁと羞恥して素早く胸元を隠したが遅すぎた。


 いそいそとガウンと手に取り、全身からポタポタと水滴を落として甲板に黒いシミを作りながら早足で自室へと戻っていく。


 船尾楼の扉が閉まると何やら悲痛な――言葉にならず、意味をなさない「きゃー!」という叫び声が轟いた。


「船長は案外、可愛い人なんですね」

「尊敬しろよ。世界でも指折りの死霊術師(ネクロマンサー)にして航海術にも精通してる激レアな人だからな。ラースが船長じゃなかったら今頃、この船は海の藻屑になってたぞ。お前はざっくり砲弾で肉片にされるか、剣でなます斬りにされてサメのエサだ。あたしは捕まってかなりエロい目に遭わされてたかもしれねえ。いや、下手すると……とんでもねえ美しさを持つあたしを取り合って帝国で内乱がおきるかもしれねえ」

「多分それ杞憂っすよ」

「いや、ありえるな。最初は立場が虜囚だけど、艦長が奴隷自慢しようとあたしにドレスとか着せられて社交界デビューさせちゃって、偶然王様があまりの美しさに一目惚れしちゃう展開だわ。あたしは解放されても愛を信じず権力には屈しないとか言うんだけど、それでも強引に王様が迫ってくるっていう感じで、そしたら正義と恋心に燃えた第一とか第二王子があたしを助けようとしてついには国家を揺るがす展開になっちゃうわ」

「リリードさん。ないっすよ。あんた十三、四くらいにしか見えないし、下品で色気とかないんで絶対大丈夫です」

「おいケニー! 精神棒持って来い! 職場では上司を立てるっていう社交マナーを知らねえ馬鹿を今すぐぶっ叩かないといけなくなった!」


 息を巻くリリードが棒きれを振り回してトーヤに迫った。


 トーヤは理不尽すぎる罰から逃れようと舷側通路に逃走した。甲板の上で二人は追いかけっこを始めた。


 真剣に追い合っているわけでもなく、両方とも半分笑いながら走っていた。次第に笑いが増し、爆笑へと変わった。何もおかしくないのに笑えていた。


 幽玄な光を放つ幽霊たちは呆れながらその様子を見守り、骸骨たちは大げさにため息をついたり、肩をすくめたり、雑談を交わして気楽な夜直へ戻った。



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