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幽霊船、異世界を航海する  作者: 七色春日
第一章 遺骸あさりの幽霊船
3/17

夕暮れの曲芸決闘

 三百六十度が水平線に染まりきり、海が穏やかで空が澄み渡ればほぼ風景は同一になる。


 航海責任者は現在の座標の把握はもちろんのこと、風の変動や気圧と温度の上下、気候の移り変わりや雲の流れなどを気にせねばならないが見習い水夫であるトーヤにはそれらのことは縁がない。


 そもそも、目的地すら知らない。命じられる方位や角度に船首を向ける作業に参加するだけだ。


 トーヤが乗船してから三日が経過した。洋上暮らしは不安があったが、船酔いには耐性があったようでまだ体調は崩れていない。


 鐘が七回叩かれる七点鐘で目覚めたトーヤは当直時間より三十分だけ早く甲板に立った。肩や関節が鈍痛を訴えているが、知識や技術を増やしていくというのは悪くなかった。


 前方からフォア・メイン・ミズンの順で帆柱が連なっていることを知り、帆の形もまちまちで単純に横帆と縦帆だけではなく、効能もまるで違うと教えられた。


 ミズンマストは飛行機の尾翼に似た役割をする台形帆(スパンカー)が張られているし、船首の先に斜めに伸びた棒――船首の舳先から斜めに突き出した船首斜檣(バウスプリット)には調節用四角帆(スプリットスル)が張られている。


 最初はおっかなびっくりロープに触ったり、引いたり、見よう見まねで巻きつけたりしたが何時間、何日も触っていればどういう効果を発揮するかわかってきた。


 多様な帆の性能を充分に発揮させるための動索(ランニングリギン)は名称や役割こそ多いが、ひとまずは号笛や指示に従って動かせばいい。そう考えれば楽ではあった。


 上空で交錯するロープを曲げる動滑車(ランニングブロック)もまた実地訓練で少々のことながら把握することができた。


 帆柱と連結している滑車が作用し、帆や円材の角度を曲げたりする構造となっている。これはまだそれほど触っていないが要はロープの道を作るためのものだ。


 学ぶことはどれも興味深かった。帆耳索(クリューライン)を操作すれば帆面積が広がるし、揚げ索(ハリアード)を引き込み帆桁の突端を高く上げれば帆にしわがなくなり速度は増す。


 転桁索(プレース)を操って円材(スパー)の向きを変えれば逆風でもじぐさぐに間切って進めた。


 最初は状況に応じた索具の動かし方がわからずに苦労したが、すぐにコツを呑み込めた。頭で覚えるというよりも不思議と身体が覚えているような感覚だった。


「俺、才能あるのかな……」


 どういうわけか――どこをどう操ればどのように作用するか、ということは深く悩まなくても済んでいる。


 現代社会ではまず発見できない驚きあったが、無意識でもまるで知っているかのように扱えたので自分の才覚がどこか奇妙でもあった。


 手を開いて丸める。体調は絶好調だ。余分な脂肪がどこかへ消え失せ、足を動かすと羽がついたように軽かった。


 過去の古びた肉体から今の素晴らしい肉体へ脱皮したような錯覚すらある。


 衣服も水夫服に着替えた。麻地の白シャツと裾広のだぶだぶ半ズボンは動きやすく機能性が重視されている。見かけは野暮ったいが着心地はそう悪くない。


 何気なく甲板を見回すと船尾楼の扉の前に設置された操舵輪の脇に佇むヘルビアが腕組みしながら骸骨水夫の舵手に命令を告げている姿が視界に入った。順風になったのを察したように現れた。


 羅針盤をポケットから取り出す最中、トーヤの視線に気づいたのかちらりと一瞥されたが、ふいと不自然にずらされる。


 右舷の吊り索の下で待機していたトーヤはやや傷ついた気持ちになった。


「おい。トーヤ」

「はい。リリードさん。なんですか?」


 主甲板の中央で掌帆手の動きをつぶさに観察していたリリードが落ち込んでいるトーヤに近づいてきて、両手を曲げて腰につけた。


「お前が船長と『ピーッ!』したい気持ちはわかるが、多分無理だぞそれ」

「俺もっと純情な男っすからね!?」


 リリードは男女交際の階段をエレベーターで昇っていくタイプの恐ろしいスピード感を持っていたためか、つい最近まで健全な男子高校生だったトーヤはおののいた。


 自分とリリード間だけなら冗談として通じそうではあったが第三者のヘルビアに聞こえたかと思うと心臓に悪かった。幸いにして操舵手と談笑している。危ないところだ。


 それというのも三日前に乗船の理由を問われたときにふざけた返答をしたため、絶対零度を思わせる両眼で睨まれ、無言で向かい合っていたので軽めのトラウマになっていた。


 迫力に押されてこそこそと退室して事なきを得たが――単に逃げ出したともいうが――あんな想いはたくさんだった。


「とはいえ、お前も水夫なら多少は好かれた方がいい。船長に好かれるコツを教えてやる」

「え、マジすか。どうすればいいんですか」

「真面目にきびきび働けや」


 それからトーヤは真面目にきびきびと働くはめになった。


 マストの支索に飛び移って曲芸じみた態勢で索具や金物にテレピン油や防錆油を塗布することになり、鉄塔の鋼線検査員の心境を味わった。次に海底から拾ってきた腐乱物で悪臭を放つ船尾錨(いかり)をブラシでピカピカに磨き、錆び止め油の具合を確かめた。同じく用具室に置かれた予備の錨索がこんがらがっていたのでそれの重い鉄の塊を紐解いて丁寧にとぐろを巻かせた。


 最後に甲板洗い用のポンプと取っ組み合い、Tの字の取っ手に体重を込めてシーソーのように動かした。


 汗だくでへとへとになりながら八点鐘を聞いたときはこんなにも幸せな鐘の音はこの世にないとウェディングベルを聞いている新婦のような気持ちになった。


 腹も減ってきている。船内のわびしい食事で唯一素晴らしい点として新鮮な魚が食べ放題ではあるのだが、醤油などはないので酢や塩で食べるしかないのが痛いところだ。


 交代勤務のありがたみを噛み締めながら中央部船倉口(メインハッチ)の梯子に降りると隔壁で区切られた砲列甲板が広がっている。


 砲口が天井や寝台の上部から吊り下げられている大砲がやはり目立つ。黒光りした巨体は物質的な重量感を見る者に与える。


 戦闘の際に砲身を舷外に押し出すための駐退索が縁材に結ばれ、固縛索が砲身を吊り上げている。大砲は物言わぬただの鉄の塊と化している。


 砲架の隙間には衣類箱が置かれ、上の空間にはハンモックが伸びている。空間に余裕がないためにどの器材もぎゅうぎゅう詰めになっているのだ。


 壁際には船員の名前の刺繍が刻まれた物入れ袋が並び下げられている。私物ではなく仕事用の上履きと荒天用の雨着などの端が物入れ袋の口から出ていた。


 通路を占領した円卓で骸骨水夫がカードゲームに興じていた。煙草を咥え、ぷかりぷかりと紫煙をまき散らしている。


 吸い込むための肺がないこともあって、燃え尽きる任せるままだった。


 頭骨に斜めにヒビが入った骸骨水夫が一人がトーヤに気づくと手札を伏せた。


「おい。新入り、ちゃんとシャワー浴びてこいや」

「えっと、どこにあるんですか」

「知らないのか、これだよ」


 親しげに歩み寄ってきたかと思えば、水のなみなみとはいった木桶を頭上に掲げた。そしてためらいなくトーヤの頭から被せてきた。


 不意打ちで水がばしゃりと降りかかり、あまりにも無作法ぶりに困惑したがこれが彼らの習わしなのかと信じかけた。しかし、そうではなかった。


 眉、目玉、唇、皮膚、表情筋といったパーツが欠けていたとしても(あなど)りの雰囲気というものは察せるし、多くの人間には自分が他者から愛されてないと知る能力が備わっているものだ。


「実のところ、誰もてめえなんか認めてねえ。お前はただのちょっと器用な陸者(おかもの)ってだけだ。調子に乗ってんじゃねえよ」

「スコット」

「黙ってろよケニー。俺の頭はこいつにヒビを入れられちまったんだ。新参者が先輩に手をあげといてタダで済ますわけにはいかねえ」


 黄色のスカルキャップのケニーが低い声でたしなめたが、スコットは指でこんこんと頭部にできた真新しい傷、斜めのヒビを指し示した。


 いきなり捕獲されそうになったトーヤは暴れたことを後悔していなかったが、相手の身体に傷をつけたことは確かなことであった。


 謝罪の言葉をきまりが悪そうにぼそぼそと告げたがスコットは最初から許す気などなかったし、痛めつけてやりたいという感情が渦巻いているのがはっきりとわかった。


 張りつめた空気の中での二人の沈黙の対峙は続いた。


 両目を合わせながら目で会話をしていた。


 トーヤは最初は許しを請うような困った目つきをしていたが、相手の態度が柔らかくなることもなければ、優しさや慈悲の色を見せないことが腹立たしくなってきた。


 ここで弱腰を見せればずっと船で肩身の狭いを思いをしなければならないと奮い立ち、抗う決心が固まりつつあった。そうして、どちらも引く気配がなくなってしまった。お互いに妥協点を探る気配もなかったし、片方は暴力による流血を望んでいる。


「紳士的に決着をつけよう」


 場の空気を読み取ったケニーが発案した。芝居かかっての台詞だったが、もっともなことに聞こえたので当人二人はもちろん、その場の船員は誰も異存は唱えなかった。


 カードゲームの続きを待っている骸骨水夫はカードを手放してゲームに興味を失くしていた。


 ハンモックや寝台で寝っ転がっている骸骨水夫たちも聞き耳を立てており、どうなるか興味津々なのか身じろぎしたり、わざとらしく寝返りを打って様子を窺おうとしていた。


「メインマストの長旗(ペナント)取りで競争でいいな」

「待てよ。それは俺に有利すぎる」


 意外にもスコットは難色を示した。


 メインマストは彼の配置であったし、先輩の檣楼員(トップ・マン)として船の誰よりも同じところを行き来している自負がある。それでは公正な決闘にはならないと考えたせいだった。


長旗(ペナント)を甲板に持って来るまでが勝負だ」

「それならいいか……新入りはどうだ?」


 それは長旗(ペナント)取った後に邪魔ができるということだ。空中での攻防戦を意味しており、単純に昇降の速さで決着がつくというわけではなくなった。トーヤは意味を思い至るまでの間こそあったものの、不利な条件でも構いやするものかと反発心をむき出しにした。


「やり方には文句は言わない」

「よし。なら、トーヤもスコットもこの勝負をしたら後からあれこれ文句を言ったり、いちいちこのときのことで難癖をつけたりする女々しい真似は一切なしすると誓うか?」

「誓うよ」

「誓う」

「船長が部屋に戻る夕暮れに勝負を執り行う」


 船内での私闘をヘルビアは禁じている。だが、名誉回復のための決闘は見えないところであれば黙認する傾向にあった。










 灰緑色だった海が徐々に明るさを失っていき、水平線の落ちゆく金色の太陽は支配権を月に譲り渡そうとしていた。


 夕暮れの静かな茜色の光は<レイス・ザ・フォール号>の影を長細くしていく。海上を跳ねていたトビウオの群れが船首をかすめるように移動し、集団で軽やかな飛跡を描いた。それを追うように大型の肉食魚が海面から真っ黒な魚影を覗かせ、尾ひれを激しく震わせて獲物の追跡を試みている。


 火海は熱帯圏に属している。従って日中は息苦しいほどむし暑い。


 夜が近づく今では暖気はどこかへ旅立った。涼しげな微風が船首突起部で破砕された分け波と入り交じって船を洗い流すように吹いてきている。


 船員のほとんどが操船作業を止めてべた足になっていたので索具の風鳴りが静寂の船上によく響いていた。


 甲板では右舷側と左舷側に船員たちは綺麗に分かれている。骸骨水夫の大部分は――というよりも、リリードを除いてトーヤの味方をするものは絶無であった。


 期待していたケニーすらスコットの傍らに控えて舷側通路(ギャングウェイ)に腰かけている。


 左舷側の横静索(シェラウド)を陣取るトーヤは裏切られた気持ちになったが、見知らぬ新参者に優しくしてくれた彼の優しさがすべて台無しになったわけではないと思い直した。


 甘ったれてはいけないとも言い聞かせる。立場を確保するための戦いなら孤独であってもおかしくない。


 唯一味方してくれたリリードだったが彼女は半眼になっていた。両手に腰にやり、上半身を曲げてトーヤにぐっと顔を近づけ、嘆くように唸る。


「お前さぁ……人に嫌われる才能でもあんの?」

「ないと信じたいですね」


 張り具合を確かめるように段索(ラットライン)を握った。


 登るときはあくまで弛みのない縄の太いの横静索を掴むことであり、駆け上がるなら足場になる横縄の段索は無視してもいいくらいだ。この短いロープはあくまで足を乗せる場所であって、体重を乗せる場所ではない。


「そうか、わかったぞ……悪いな、あたしを手に入れようとするとこの船の男たち全員を敵に回すことなんだ。許してくれ」


 何やらリリードは照れ臭そうに頬を赤らめ、つま先を甲板につけて身体くねらせながら信じがたい勘違いをしているようだったが、トーヤはおちゃらけに乗るつもりはなかったので無視した。


 屈伸運動をして身体をほぐす。筋骨は上々であり、日払いのバイトで無駄に鍛えられたときよりもはるかに充実していることを確認した。


 船の頂点に位置する長旗は風でひらひらとはためいていた。正確な距離は二十八メートル。中央甲板(ウェスト)から見ればほとんど点であった。


 西風が吹いており、順風の向きではあったが船長や副長の目を盗んでの決闘であるため、手を休めている骸骨水夫たちによる適帆は行われず船は従来の半分ほどしか速度を出していない。


 横静索(シェラウド)は斜めになっているので距離はもう少し伸びる。慌てず無理をせず、なるべく急いで登ることが水夫には義務付けられていたが、今は慌てて無理をして死ぬ気で急いで登らなければならない。


 ――やってやる。骨野郎に負けてたまるかよ。俺の方が中身がある。


 勇んでおいて、はたとなんのために戦うのかということについて少しばかり思い返してしまった。水夫として認めてもらうためだろうか。


 水をかけられたくらいでここまで怒ることはなかったのではないか。


 相手の許しが得られるまで誠心誠意、謝るべきではなかったのか――ケニーが木槌を持って鐘楼に近づいている。間もなく始まってしまう。


「おいトーヤ。スコットは後支索(バックステー)を使うつもりはねえ。十中八九、長旗を獲ったらまず、ぶん殴りにくる。ていうか、それがこの勝負の肝だ。旗なんてお題目だ」


 後支索を使えばなんの障害もなく一直線で甲板まで降りることも可能だ。それが勝利への近道であって、ただの競争で終わる場合のみだ。


 リリードはひそひそと耳打ちを続けた。癖のある跳ねた金髪の髪房が首筋にわずかにあたり、吐き出される呼気が温かい体温を伝えてくる。


 無自覚だろうが甘い香りを含んだ吐息だとわかってさらに身もだえるのを押さえなければならなかった。


「最初の見張台で待ってろ。そういう風に挑めば必ず来るはずだ。しっかり足がつくところなら絶対にお前に負けはねえ。あいつは声高で短気でプライドはあるが、喧嘩はからっきしだからな。速さで競ってもメインマストの班長の奴に勝てないのはわかってるよな?」

「……わかりました」


 そうなると今度はこっちに有利になっちまうな。


 それはそれでまったく面白味のない話だったがリリードの言うとおりにしておけば勝てるはずだ。


 だが、片方が手軽に手に入る勝利を投げ捨てているとすれば自分がそうしていいものだろうか。

 それは公平さに欠けるのではないか? 

 意地汚い卑怯者のやることではないか?

 それが自分に相応しい決闘のやり方なのか?


 波で傾き、横揺れや縦揺れにさいなまれる船体がお互いにとって平等になるように平衡を保ったところでカーンと鐘楼が叩かれた。


 揺れる心のまま、始まりの合図が鳴ってしまった。


 地を蹴って跳躍したトーヤは豆の木に挑むジャックのように大空を目指してよじ登った。


 リズムとバランスを十分に気をつけておけば落下の危険はなく、多くの場合は恐怖が心を麻痺させ、足元を狂わせるものだと心に言い聞かせた。荒い呼吸を繰り返しながら手足を前後させる。


 とにかく勝負のことに集中しなければならない。


 勝敗のいかんというよりも、尻ごみして臆病者の烙印を押されればこの船での自分の立ち位置はゴミのようになってしまうだろう。


 縄を駆け登る。血が熱かった。頬が紅潮して歯をぎりぎりと噛み合わせる。傾度がどんどん厳しくなっていく。あがればあがるほど急角度になっている。


 まもなく第一の関門に到達する。


 ねずみ返しのような姿の主檣楼だ。帆柱に設置された板材だけの見張り台であり、数多くの索具(シート)がとぐろを巻いて係留している場所でもある。


 交互に動いていた手が空を切った。舷側から中央へと向かって伸びていた横静索(シェラウド)が途切れたのだ。


 眼前には段索が結び付けられていない直線の縄だけが五本ほど連なっている。


 見張り台の外縁に向かって張り出した檣楼下(ファトック)横静索(シェラウド)だ。


 ここからはやや身体能力が試される。両手の力でよじ登らなければならない。対面で同じく上部へ向かおうとしていたスコットが驚異的な動きを見せた。


 スコットは両手を縁につけ、くるんと身体を後ろに放り投げて空中で反転させ、檣楼の上に飛び乗ったのだ。


 檣楼下(ファトック)横静索(シェラウド)はそのまま両手の力でよじ登るのが一般のやり方だ。高度のある場所での曲芸は時間の短縮という意味では理に適ってはいるが無茶だった。


 そのままスコットはトーヤのことなどいないかのように再び行動を開始している。勝ち誇ることもなければ得意満面になることもない。それが余計に怒りを誘った。


 野郎、俺だって。


 トーヤは真似をしようとしたが意気込んだが短慮を起こして同じことをしたりはしなかった。相手はメインマストを管轄する長だ。いわばこの船ではトップクラスの腕利きなのだ。同じことをしたところで時間を取られるだけで勝ち目はない。


 長旗が取られてからが勝負であると思い直した。リリードの忠告に従うならここで待っていた方がいい。


 足場は広いし、均衡は保つにはうってつけだ。ばたついた帆にあおられて落下したとしても助かるように命綱をつける時間もできる。


 骸骨水夫と違って自分は生者なのだ。仮にでもここから落ちたら命は失われるかもしれない。


 大人しく待っていればいい。それにこれ以上の高いところに向かうのは危険じゃないか。安全な場所で勝利の確立の高いことをすべきなのだ。


 だが――だが。


 陸者の穴(ラバーズホール)と暗喩されている檣楼昇降口が目の前にある。新米の水夫や事務方の役職者がくぐり抜ける小さな通用口だ。


 ここに入る者は死の危険を背負って帆桁を歩く水夫とはいえない。


 大風の中に隠れ潜んだ敵意のある疾風にもてあそばれながらも縄を編み、索具を操作する者こそ水夫といえる。


 これは一つの試練ではないか。器が推し量れているのではないか。度胸試しにはときとして危険を冒す価値があるのではないか。


 そうだ。安易に勝利をもぎ取るために戦ってなるものか。勝敗ではない。そもそも、賭けられたのはプライドだけだ。ここで、断じて引くわけにはいかない。


 断を下すとトーヤは雄叫びを上げながら猛然と追走した。気炎を肺腑から吐き出しながら弾丸のように第二関門である檣冠横材(クロスツリー)を目指した。


 トップ台よりも更に狭い見張台だ。二本の横木がくっついているだけの足場とも言えない場所。極太だった帆柱は細く頼りなくなっていく。


 角度は垂直に近くなりつつある。上へ向かえば向かうほど船体の揺れが激しくなる場所へと近づいている。波風に揺れ動く船の脈動がすべて集まる天空の世界へ入門しようとしている。


 トーヤが追いかけてこないと思っていたスコットは真下に顔を向けて首をわずかに後ろに向けた。驚いたことを示す仕草だ。


「こんなところまでぼうやがきやがったか。まだまだ、ひょっこが来る世界じゃないってのよ。だが、来れたことはだけは褒めてやる」


 スコットは口を開いて笑った。待ち構えていたのかもしれないし、対戦相手の様子を見ていただけかもしれない。それでも、追いつくことができた。


 骸骨水夫は年齢がわからない――もしかしたら一回りも二回りも年上の可能性があったがトーヤは叫んだ。手の震えを隠すために。


「死んだ後の骨の具合なんて気にするなよ馬鹿野郎!」

「葬式のときは遺体だって小奇麗にするだろうが!」

「綺麗にしてどうするんだ? いいぜ白骨のお姫様、パーティーまで手を引いてやるよ!」

「嬉しいよクソッタレ野郎! 久々にぶっ殺しがいのある奴に出会った! 今日ほど神様に感謝したいと思った日はねえ!」


 生者と死者の物珍しい口論を続けながらもスコットがクロスツリーが蹴飛ばして最上帆上桁(トガンスルヤード)までさしかかろうとしている。


 ここら先はトゲルン・横静索(シェラウド)となり、真上から斜めに下げられた数本の吊り縄だ。


 懸垂の要領で両手を交差させながらのぼっていかなければならない。トーヤとの差は二メートルほどだが絶望的な間合いだった。先に長旗に手をかけるのは間違いなくスコットだ。


 ちくしょう、だめか――いや。待てよ。


 頬になでる風に一瞬だけ意識を奪われた。大気が揺らいでいる。地震の余震のように触覚が捉えた事実は考えとしてまとまった。


 少し、風がくるか。


 骸骨水夫たちは下ではやし立たり、争いを楽しんでいる。スコットが長旗に向かって手を伸ばした。急いでいたので身体の態勢を崩して無理をして。


 適帆(トリム)はされていない。適切に風を対処していない<レイス・ザ・フォール号>は突風にあおられて縦揺れして横に流された。船体がぐーっと傾斜してスコットの伸ばした手はそのまま遠ざかってしまった。


 その好機をトーヤが見逃すはずがなかった。足首を引っぱった。スコットを押しのけて先に長旗を奪取することができた。紐帯を解いて手中に収める。


 足を丸めて帆柱の突端に絡ませ、得意げに笑ってやった。


「どうだよ」

「いいや、こっからだぜ」


 お返しとばかりにスコットから強烈なパンチがトーヤの脇腹に贈られた。


 トーヤが苦悶しているとスコットはさっと長旗は奪い、フォアマストの最頂部に続く支索に掴み取り、そのまま手を交差させてぶら下がりながら逃げだし始めた。


 こうなると屈辱感の顔を真っ赤にさせ、追わずにはいられない。トーヤはスコットの重さでたわんだロープに同じように取り掛かった。


 二人がぶら下がった最頂部のメインマストから前段最頂部のフォアマストにやや斜めに垂れて繋がる支持静索(スタンディング・リギン)はロープの内部に鉄芯の張り巡らされた強固な静索であるが、ぶら下がり移動は海軍や商船でもほぼ訓練されることはない。


 危険すぎるし、そもそも割り当てられたマストごとに人員がいる。曲芸師じみた動きをするのが船乗りの仕事ではあるが、必要にかられるから行うのであって無意味な曲芸をする必要などまったくない。


 スコットも追いすがるトーヤを振り切ろうと無理をしていたし、トーヤも奴にできて俺にできないはずがないと無理をしていた。つまり、無謀に挑戦することで意地の張り合うことにしたのだ。


 二十メートル以上下にある甲板が鮮明になり、足元に一切の障害物がなくなって真っ逆さまに落ちる恐怖心が煽られたがぐっと我慢した。


「旗を返しやがれっ!」


 両手を塞がれてやれること一つである。蹴りだ。トーヤは体力の尽きかけていたスコットの背中に前蹴りをぶち当てた。そうなると彼もすぐさま態勢を変え、身体を揺すって蹴りまくる。


 互いに怒りの炎を立ちのぼらせ、身の危険を省みない攻撃にふけることになった。


 主に腹部、腰、太ももをげしげしと蹴り合った。腰を回しているわけでもないので浅い蹴りだが冷や汗を流させ、体力を消耗させるほどには効果はある。


 その内、片方が蹴られれば後ろに向かって流れていき、その勢いでもう片方を蹴るという出来損ないのクラッカーボールのような動作が連続した。


 これが結構な見物(みもの)であったのか、下の骸骨水夫たちも派手に一撃が加わるたびに「おーっ」とか「わーっ」とか歓声を上げた。


 船という閉鎖空間に暮らしていると他人が馬鹿をやっている姿は娯楽になる。


 それが命知らずで、愚かめいていて、正気な人間が誰もやらないことならよりいい。


「さっさと降参しやがれ!」

「死にてぇのか!」

「死んでる奴に言われたくねえ!」

「死んでるから言ってやってんだよ!」


 体力の限界は近く、はぁはぁと息を荒げるトーヤは目の前の骸骨水夫をどうやって倒すかしか考えてなかった。


 なぜ憎しみ合っているのか。殺し合っているのか。体力が切れてきて、熱くなった思考が冷めてきた。


 握り締める綱が重い。鋼鉄の綱のように張力が働いている荒縄は固く指の肉を痛めつける。腕がつってしまいそうなほど負担がかかっている。もうどれだけ持つかわからない。


 本当は身体をロープに絡ませ、足先からみっともなくしがみついてしまいたい。しかし、ちっぽけな男の矜持がそれを許さない。


「俺の何が気に入らねえんだよ」

掌帆長(ボースン)がてめえに味方してるのが許さねえ」


 まるで目玉の置き所を失ったようにスコットは顔をぐるりと回した後、ぽつりとつぶいた。現実には彼の目玉はなかったが、彼が瞳を持っていたらそれはきっと頼りなく揺れ動いていただろう。


 口ぶりだけは紛れもない心情を吐露したものだったから。


 スコットはリリードが好きなのだ。少なくとも敬意を払っている。だから気安く接しているトーヤが気に食わない。簡単な構図だった。


 トーヤにしても、この返事に乗っかるのが一番悪くない選択だった。理由が定まらないまま戦うには疲れてしまった。かけらになった勇気をかき集める言い訳が欲しかった。


「いいな。わかりやすい。俺はぶっ殺される理由ができたし、俺もお前をぶっ殺す理由ができた。楽しくなってきたよ」

「いい気になるなよ。お前は代用品だ。掌帆長(ボースン)がお前に甘いのはお前を友達だと思ってるからだ」

「……あ?」


 代用品。何かの替え。別の品物。


 奇妙な言い分ではあったが、ただの言葉の弾みであるかもしれない。相手を傷つけようとしているだけの無意味なものか。


 やはり、スコットも疲れてきているから諦めさせたいのだ。呼吸を荒げているわけではないが目に見えて蹴りも弱くなってるし、緩慢なロープ渡りになっている。今だって、ロープに引っかけている指の関節がずれ落ちそうなほど弱々しい。


 幸か不幸か骸骨水夫にも体力の限界がある。生前の能力が反映されているのかもしれない。


「降参しろ。生身の人間がこの高さから落ちれば俺たちの仲間入りすることになる。そこまでは俺も望んでねえ。お前は新入りにしちゃあよくやったよ」


「今更俺の心配なんてするなら、そっちが降参しろよ」


 空気の微弱の揺れを肌身に受け、今度も本能的に風を予期したが意に介すことはなかった。蹴りを繰り出そうと反動をつけたところだったせいだ。これがまずかった。


 疲弊したスコットの指先から長旗がするりと抜けて木の葉のように舞ったとき、無理な態勢にもかかわらずトーヤは反射的に手を伸ばしてしまった。


 スコットもうっかりのミスに動揺して負けじと同じような格好になり、片手のみで自重を支えようとした。


「あ」

「あ」


 お互いに消耗していたときに身体を開いたせいか、手は縄から解けて真っ逆さまに転落した。


 やべえ死んだ――トーヤは浮遊した肉体が反射的に掴む場所を探そうとしたが手も足も空を切る。背筋が凍りつき、喉奥からひゅっと声が出る。


 落下状態にあるスコットももまた悲壮な無力感を漂わせて儚く群青色になりゆく空を見上げている。骸骨水夫とて粉々になれば役目を果たせなくなり、水夫としての死を迎えることになる。


 間もなく背中に強い衝撃がきて、意識は刈り取られ、永遠に覚めない眠りにつく。


 トーヤは怖いもの見たさで真下をちらりと見たが、何か白いものだけが最後に視界に入った。身体が何か弾力のある、柔らかいものにぶつかった。全身を壁に押し潰されたような感覚になり、一瞬だけ胸が圧迫されて息苦しくなったが――なぜだか、跳ねまわる肉体を制御する方が先だった。


 落ちたと思えば上昇し、世界がぐるぐると回り、身体は重力に従って降下する。


 一転して反発してどこかへも飛んだ。天で地かわからなくなったが、徐々に勢いが弱まっていき動きが止まる。


 目を回しながら地べたをぺたぺたと触った。ざらざらの白いものの正体は広げた帆布だった。


「てめえら無茶するな」


 安全のためにクッション材として骸骨水夫たちに帆を広げさせて待機させていたリリードが呆れたようにため息を吐いた。


 骸骨水夫たちにしてみても苦笑している。スコットもトーヤと同じように顔面から帆布に倒れてうつ伏せになっている。


「おっ……この勝負は……トーヤの勝ちか」


 リリードに宣言されて――初めてトーヤは長旗を手に持っていることに気付いた。


 とっさのことだったが、人差し指と中指で摘まむことができたのだ。勝った感触がじわじわと込み上げてくる。


 スコットに視線をやると彼はみじめにも顔をそむけて俯いた。


「やった! 俺はかっ」


 喜びの声をあげようとして口に手を当てられて塞がれた。黄色いスカルキャップの骸骨水夫、ケニーが塞いだのだ。


 トーヤが目を白黒しているとケニーは促した。


「ぼうやも尊敬される男になりたいなら誤った行動はしないでおこうや」


 敗者の前ではしゃいだりして喜びを表すのは間違いだとケニーは暗に告げていた。


 トーヤは実際、その通りだと感じて恥じた。死に物狂いの勝負が終わった今はもう意地を張ったり、お互いの精神を傷つけ合ったりすることはできない。そうすることは幼稚であるし、一人前の男のすることではない。


「傷つけて……すいませんでした」


 今度はすんなりと誠実な謝罪の言葉が口に出た。胸の中のしこりが溶けてしまったかのようだった。


「いいさ。だが、俺の方が速かったことは認めるな」

「今回は、ですね」

「これからもだ」


 にやりとした。今回は長旗まで辿りついたのはスコットが先だった。トーヤはそれを認めたことで彼は少しだけ気をよくしたのか鼻骨を指骨の腹でこすった。


「まあ、仲良くやろうや」


 ケニーが締めくくるようにいった。


 こうしてトーヤは本当の意味で<レイス・ザ・フォール号>の一員になったのだ。


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