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幽霊船、異世界を航海する  作者: 七色春日
第一章 遺骸あさりの幽霊船
2/17

甲板長と愉快な仲間たち

<レイス・ザ・フォール号>は幽霊船としての規範からはやや外れている。


 視界を塞ぐ霧をまといながら現れるわけでもなく、月のない夜に信心深い船乗りにひっそりと姿を見せに行くわけでもない。


 風雨で色褪せた帆の布きれがだらりと垂れているわけでもなく、濃緑色のどろどろとした藻類や真珠色の巻き貝が甲板にのさばっているわけでもない。


 亡魂の見えざる動力になど頼らず、帆船は真っ当に人力で――それが人の力と呼んでいいのか不明ではあるが――日中は燦々と輝く太陽を浴びた骸骨水夫たちの操船作業によって航行を可能にしている。


 彼らはマストの中間地点にある狭い檣楼(しょうろう)に立つ。


 帆柱により掛かりながら安全な航海のために海を見渡したり、風向きの変化に対応するために帆脚索(シート)を引いて帆の向きを変えたりもする。


もちろん、研ぎ石やブラシで甲板をぴかぴかに磨いたりするのも彼らの仕事だ。


 帆船とは風力を帆面に受け、推力を維持しながら張り巡らされた索具(シート)を効率よく操作することで航行を可能にする。


 ここでの索具とは大雑把に分類すれば綱具(あみぐ)であるが、用途は多種多様に及ぶため一朝一夕には理解することは難しい。


 マストを登るための縄梯子(なわばしご)――横静索(シェラウド)の網目に手足を通され、蜘蛛の巣にかかった蝶のように磔刑にされた時水トーヤは喉の渇きを覚えていた。


 憎らしいほど陽光が眩しい。体温があがっている。嗅ぎ慣れない鼻につく潮風が気を滅入らせていく。


 両手両足は固く縛りつけられており、力を入れても手首から先がほんのわずかに動くだけで身動きは取れない。


 目の前には思索の材料が十分すぎるほどあった。


 まず自分がどうして船上にいるのか考えたが、考えれば考えるほど袋小路にはまっていった。


 ただの高校生を幽霊船(ゴーストシップ)に運び込んで意味があるはずがない。


 結局どうして、ということを悩むよりも現状を打開する方のが先決だ。


 目下、露天甲板で日常業務をこなす約二十名ほどの骸骨水夫たちはそれぞれ個性があって、与えられた役割も違うようだ。


 身長差や体格差はもちろんのこと左舷だけで働く者、右舷だけで働く者、機敏な勤労者もいれば怠惰な勤怠者もいる。スカルキャップを被って洒落者を気取る者もいれば何もつけずに力仕事を黙々とこなす者もいた。寓話にあるように単にうろうろとこの世をさまよっているわけではない。


 索止め栓(ピレイピン)の並べられた座台から一本を抜き取り、緊張から緩んでいる下隅索(タック)のねじれを直す骸骨水夫の一人と目が合った。


 手に持ったピレイピンは一見して棍棒であるのでまともに殴られれば昏倒は免れない。


 顔を向けたまま骨だけの手の平にぽんぽんとぶつけている。一瞬、棒端を向けられるかと思ったが彼は仕事を優先して縄の輪束をピレイピンに通して巻き付け、舷縁に差し込んだ。


 再び振り返ると、骨だけになった足でぺたりぺたりで接近してきた。世間話をするような口調で尋ねてきた。


「ぼうや。干物になった気分はどうだい?」

「助けてくれ。死んじまいそうだ」


 しわがれた声はかすれていた。ひび割れた唇が震え、喉の渇きはひりつく痛みになっている。垂れていた汗はもう空っぽで流れなくなっている。骸骨の働きを見ることで気を紛らわしていたが限界は近い。


「悪いが下っ端の俺にはどうにもできねえ。処遇が決まるまで弱らせておけ、とのことなんだ。上の命令には逆らえねえ」


 黄色のスカルキャップを被った骸骨水夫が近寄ってきてからかうように両手を広げた。がくんと膝を曲げておどけ、挑発するような仕草だった。


 頭にきた――が、骸骨水夫は不自然な動きを見せた。がらんどうになった胴体の中、胸骨の裏に隠した小瓶を指で摘まんで取り出したのだ。


 周囲を気にしながらスカルキャップを脱ぎ、腕を伸ばしてのびをする素振りをしながら素早くトーヤの口許に瓶口を差し込んだ。水は甘くもないのにとろけるような味わいだった。五秒ほど傾けただけだったが、意識がはっきりして目が冴えた。


 小瓶は再び胃袋の位置に戻ったが、半分ほど残っていた。名残惜しげに見つめてしまったが骸骨水夫の方は未練などないように背を向けた。


「ぼうや。大人しくしとけ。悪いようにはならねえよ」

「ああ……ありがとう」

「ケニー、てめえ何してんだ?」 

「ああ……掌帆長(ボースン)。いや、ちょいと密航者をからかってやっただけですよ」


 鋭く剣呑な声をかけられたケニーはびくりと肩を一瞬だけ震わせたがすぐに平静さを取り戻して釈明した。ケニーを怯えさせた相手の目線は真横に走り、トーヤを射抜いた。


 ツーサイドアップの金髪が両側に散って炎のようにちりちりに広がっている若い少女だった。なめし革のジャケットを羽織り、膝丈のズボンを穿き、両手はフィンガーレスの革手袋をはめている。


 ざっくりばらんとした野性的な風貌をしているが小柄で頬のラインは程よく丸みのあり、あどけなさを残した童顔な顔立ちだった。そのせいか凄んでいてもどこか可愛らしく人目には映る。


 シャツを押しあげる乳房や細腰は女性美の片鱗を窺わせているが未だ成長途中である。


 トーヤに歩み寄ってきて、腰に片手を当ててジロジロとぬめつくように見回してくる。


 リーダー各なのか金髪の少女の取り巻きのように骸骨水夫が集まってくる。騒動の落着を見物に来たようだった。


「くくくっ……それにしても、生身の男があたしの船に乗ったのは久しぶりだ。そうだ、前の奴は……アルバートだったか、あいつはどうなったけっか。確かサメの……」

船匠(だいく)の娘と結婚して下船しました。熟年結婚を祝って式場でスピーチしたじゃないですか」

「そうだな。無残にもサメのエサになった……っておい、止めろぉう! 違うからな。今は新入りに脅しをかけるところだからな! あたしの威厳を見せつけて恐れを抱かせるところだからな! 流れでわかるだろそれくらい!」

「どうせひょうきん者だってすぐバレるっすよ」

「そうっすよ」

「暴力と下品さしか取り柄もないってことも」


 金髪の少女は合いの手を入れてくる骸骨水夫に一人一人丁寧にガンを飛ばした。獣のような唸り声をあげて威嚇するがたいした効果は見られなかった。


 やいのやいの、とはやし立てる声が続く。少女が慕われていることは間違いないようだ。


 トーヤは骸骨水夫と混戦中に目の前の少女に腹部をぶん殴られて舷下に吹っ飛ばされたことをまざまざと思い出した。全身の骨がバラバラになったような痛みの後に海に墜落し、気絶した。それでこうして吊るされている。


 圧倒的な暴力を身体に秘めていることは間違いなく、逆らおうという気持ちは微塵もなくなっていた。


 咳払いが一つされ、少女は腕組みした。


「あたしはリリード・レイク。<レイス・ザ・フォール号>の掌帆長(ボースン)だ。てめえはなんで密航なんかした?」

「してない……気が付いたらここにいたんだ」

「あれか。たまたま町であたしを見かけて一目惚れしちゃってふらふら来ちゃった感じか? 残念だがあたしは友達から始めるタイプなんだ。いきなり『ピーッ』はできねえ。悪いな」

掌帆長(ボースン)。それは別に悪くないです」

「ていうか、友達からも始まらないです」

「飛躍しすぎです」


 はべる骸骨水夫たちが速やかに訂正した。リリードは顔を真っ赤にして「わかんねえだろうが!」と突っ返した。


 トーヤはどうしたものかと悩んだが、とりあえず曖昧に頷いておいた。リリードはぱぁっと露骨に顔を輝かせてグッと両拳を固めた。そしてくるっと不揃いに並んでいる骸骨水夫たちに勝ち誇った笑みを浮かべ、両手を広げて回る。


「ひゅーっ、どうだ見たか! 見ただろ! あたしの勝ちだ! 勝ったんだ! もう船長だけがこの船の花じゃねえ! あたしを腐葉土扱いしたてめえらの負けだからな! おかしいと思ってたよ、前々から見てくれと身体だけは自信があったんだ!」 


掌帆長(ボースン)。ごく平均的な女は身体目当てだと普通は喜ばないです」

「まだパーティーで船長や副長が次々に貴族に求愛されて自分だけ一度たりともされなかったの気にしてるんですか?」

「大丈夫っすよ。喧嘩が異様に強いってすげえ特技があるじゃないですか」


 骸骨水夫たちは怯むこともなくオーバー気味に肩をすくめ、目を見合わせ合ったり、思い思いに呆れた感想を口にした。


「黙れ! あんなの気にしてないからな! ああくそっ……で、まあ話を戻すぞ。一応、密航は重罪だ。どんな事情があろうがこっちは知ったことじゃねえし、即座に海に捨てられてもおかしくねえ」


 真剣な顔での通告にトーヤは目を閉じた。打開策はないものか――口八丁で誤魔化すのも難しい。


「密航なんてするつもりはなかったんだ」

「裁定が船長がする。が、その前に……おい、てめえら、こいつを裸にしろ」

掌帆長(ボースン)。それはちょっと引きます」

「どんだけ生身の男に飢えてるんですか?」

「ていうか人間としてどうなんですか」

「ちっ、ちちちちちげーよっ! 身体検査しろってことだよ! 何を深読みしてんだよ! ちょっと興味あるけど絶対見ねーよっ!」


 冷かしても命令には従うようで骸骨水夫はわらわらとトーヤを取り囲んで横静索(シェラウド)から引きずり下ろした。寄ってたかっていっぺんに衣服をむしり取られそうになったものの、骸骨水夫の温情もあったせいかトランクスだけは残された。


 リリードは律儀にもしゃがみこみ、両目を手の平で覆って背を向けていた。


「どーだ」

「結構でかいですね」

「マジか! って違う!『ピーッ!』のことなんて聞いてねえ!」

「いや、体格の話なんですが……なんでそれが真っ先に出てくるんですか?」

「違うからな! お前らあたしをハメようとしてのはわかっててあえてハマっただけだからな! 本当は余裕だからな!」

「全然余裕なさそうなんですが……まあ、短銃や刃物はないっすね」

「そ、そ、そうか。じゃあ――」

「船長が連れて来いとの命令ですぅー」

「あ?」


 小柄なリリードよりも更に背が低い――ぴこぴこと動く狐耳を生やし、灰色をした綿のエプロンドレスに身を包んだ従者服の少女がリリードに伝令した。


 困った顔で小さく両手を丸めて突き出し、ぽかんとしたリリードに許可を求める。


「いいですかー?」

「わかったよ。持ってけや。服も着せてやれ」


 トーヤは下着姿から再び元の姿に戻った。待ちかねたポシェットがくぃっと指示した方向についていきながら、改めて甲板をきょろきょろと盗み見る。


 舷側や頭上に張り巡らされた索具(シート)――網目状にマストに伸びる横静索(シェラウド)。舷側から大きく突き出た横桁(ヤード)に取り付けられて風を受けている大横帆(メンコース)。天を衝くように伸びた三本の帆柱と船首から斜めに伸びた第一斜檣(バウスプリット)


 どれも物珍しくあり、それらが機能的に動いていることが未だに信じられなかった。


 動力が風力だけだが、されど船は波を砕き、波に乗り、波を行く。現代ではそうお目にかかることのない純帆船だ。


 動く博物館に来てしまったかのような気持ちになりながらも船尾楼に突き当たった。


 少し上を窺えば、中部甲板から目鼻の高さほど上部に位置する船尾甲板が覗き見える。面積はそれほどなさそうではあったが、最後尾に手すりにくっついた飾り燈籠はハロウィンで見かけるようなカボチャのランタンの形をしていた。


 両脇が昇降梯子がかかった船尾楼の中央部に扉がある。開かれると薄暗い廊下に出くわす。燭台が壁にかかっていたが、火は点いていなかった。


 左右にも扉とは違い、突きあたりにある扉だけは緋色に塗られていて、帆船をかたどった木彫り細工(リーフレット)がドアにぶら下がっていたからだ。


 船長室は最後尾に位置しているようだ。先導するポシェットが控えめにノックした。


「船長、連れてきましたぁー」

「よろしい、ではポシェットは下がっていろ」

「はいですぅー」


 入室して間もなく、一人残されたトーヤは何やらやたらと落ち着かなく、つい頭を前に倒して腰を低くしてしまった。


 透き通った声音が厳粛でいて威圧的な響きがあったこともあるし、壁沿いの海図机の椅子に腰かけたヘルビアの丁寧にアイロンのかけられた服装を見て、無性に自分のくたくたのカッターシャツと藍色のスラックスがみずぼらしいものに思えてきた。


 ヘルビアの現実離れした容貌もまた場に漂う雰囲気に一味つけていた。まつ毛は長く顎は細く、一つ一つの部位は均衡を保っていて比喩ではなく細工人形のように思えた。


 美しいが――手を伸ばしにくい、どこか触れがたい妖しい美しさだった。

 凛々しい赤目でじぃと見られると、つい下を向いておかしなところを探してしまう。


「貴兄が異民族だということは見かけでわかるが、素性の証明ものはあるか?」


「ええっと……学生証くらいなら」


 問われたのが拍子抜けするほど現実的なものであったので、ほぼ空の財布から学生証を抜き取って差し出すとヘルビアは受け取ってそれに目を落とした。


 顎を指先でなでながら幾分か考えた後、眉間にしわを寄せて衣服箱の上に置いた。


「不明を恥じるが、これらの言語は読んだことがない」

「あー……そうですね。大分と俺の国は辺境なものでして……ぶしつけですけど、ここはどこでしょうか」

「南緯二十七度二十六分、西経百四十八度二十六分。火海の西域アラボレン海に位置する」


 どこだよ――冗談の気配を探ったがヘルビアは嘘をついている様子はなく、やがて訝しげに頭を傾けた。


 トーヤはよろけて一歩踏み出し、崩れかけた心と身体を持ち直した。その代わりに顔面に手をやった。なぜこんなところに来てしまったのか。思い当たる節はどこにもない。途方に暮れるように瞑目した。落とし穴に落ちて蓋を閉められ、窮屈な暗闇の中で立ち行かなくなってしまったような感覚だった。


 だが、初めてこんな思いをしたわけでもない。

 中学のときに両親が先立ってしまって以来、高校生活は暗雲の中にあった。

 父親が生命保険は入っていたが、住宅ローンは解決されていなかった。残された遺産は目減りしていき、暗い部屋と廊下を行き来する生活が続いた。


 長期の休みはバイトをして、蓄えを作ろうとした――無駄だった。十八にも満たない小僧っ子が稼げる金などたかが知れている。


 バイトの帰り道に小腹が空いて外食しようとした。それだけのことだったのに奇怪な骸骨集団に襲われ、次に自分よりも頭一つ以上も小さな少女にボコにされ、挙句に一晩中吊るされて泣きを入れさせられた。


 申し訳程度に水を恵んでもらえたかと思えば現在は親玉と対面している。急展開にもほどがある。


 交渉次第で自分の立場はどう変わるかトーヤは思い描いたが、そう幸運な方向にはいかないだろうな、と自虐的に考えると胸が重くなった。


「遅ればせながら……自己紹介しよう。私はヘルビア・ラース。<レイス・ザ・フォール号>の船長だ。我が船は主として難船引き揚げ業を営んでいる探査船だ」

「なんせん……?」

「卑俗的な言い方をすれば宝探しの冒険船(トレジャ・ハンター)であるが、業務的に言い方ではサルページ屋とも表現できる」

「へえ……」

「漂う海の墓場、死者が綱を取る幽霊船、亡霊と人骨のるつぼに貴兄は足を踏み入れてしまったわけだが、そうと知って勇敢な密航を試みたわけではあるまいな」

「いえ」

「よろしい。私も貴兄がどこから来たかなどということは問うつもりはない。特別にだが……本来ならばここまでせんが、客分として扱ってもよい。但し、次の寄港地までの間だが」


 ヘルビアは座った位置から尻をずらし、足を組んで片頬に拳を当てて頬杖を突いた。


「あー……はい。なんていうか、路頭に迷うのも困るんでこのまま船員にしてもらえませんか?」


 なんだか――ここ地球(ガイア)じゃなさそうだし。


 驚いたのかヘルビアは目を丸くしていた。頬杖が崩れてがくりとし、うろたえながら猜疑心をあらわにした。


「……なぜだ。私の船の亡者が恐ろしくないか? 言っておくが同種の船乗りはおろか港の人々にも忌み嫌われているし、野卑な連中との海戦も多い。無事で済まんぞ。わかった。金が欲しいのだな。しかしそれほど多くの金銀財宝が手に入ることなど稀であり、見習い水夫の配分は少ないぞ。なんなら他に働くところなら探してやってもいいぞ」


 トーヤは矢継ぎ早に否定の材料を述べられた後、とりあえず現段階でもっとも重要な利点を告げることにした。


 それは彼の油断のない目がしかと捉えた事実であった。 


「この船、女の子たくさんいるから」




 ◇◆◇




「船長、リリードです」

「入りたまえ」


 リリードにとって船長室は敷居が高い場所だった。自然と肩は張り、足運びは慎重になり、背筋は伸びる。


 濃青色の染色された絨毯は職人が編んだ縁取りは星屑のように美しかったし、広い寝台は寝心地がよさそうだ。窓下に並んだプランターや果実をつけない観葉植物は狭苦しくきゅうきゅうした船にはないゆとりを感じさせた。


 半円状の広がった船尾側の舷窓からは白く泡立つ航跡が見え、何よりも天井に高さがあるのおかげで頭をぶつける|甲板梁材(デッキ―ブーム)がないのが羨ましかった。もっとも、リリードは低身長なので他の者はもっと困っているだろうが。


 羨むはするものの、ねたみはしなかった。怠慢でもなければ愚鈍な船長でもない。


 額縁に入って壁に掲げられた海図、灯台表、海路図、潮汐表、海流図、帆面図は呆れるほど数多く、それぞれの海域の難所に赤い線が振られている。見る度に

ゾッとした。航行図の定め方や角度計測、座標を見極める天測航法による推量計算などはリリードとって腫物のようなものだった。


 作業机の上に置かれた穴だらけの円盤に四角形のプレートがくっついた平べったいけん玉みたいな形の船位測定盤(トラバースボード)だって触るのは苦手だ。甲板長としてやらなければいけない義務ではあるのだが、計算の得意な部下にやらせるときもあった。


 航海士のいないこの船ではヘルビアが航行の責任者であり、骸骨水夫の力の源泉であり、欠かせない司令塔だった。


 しかし、どうしたことか表情は思わしくなく疲労の色が濃かった。


 一昨日空いた貯水タンクの漏水による排水作業にまた掌帆手を渡さなければならないはめになったか、とリリードは予想した。ヘルビアは配置表に空欄ができることを嫌っている。いいや、どんな船長だって人員不足は憎らしい敵だ。


「あの者は次の錨泊地で降ろす。或いは当人が望む港でだ。その際、いくらかの金を持たせよう」

「はい」


 あの者がどの者かなどと問うような愚劣な真似はしなかった。

 船長の人事の裁定には文句はつけられない。

 いずれにしても通常ならば求められない限り、意見はおろか反論をすることはしない。


 だがリリードはやや思い当たることがったので言葉を添えるくらいはしておこうと決めた。


「よって客分として扱う、客室の一つを開放する。簡易寝台を用意させろ」

「一つ、問題が」

「なんだ」

「あれは首なし騎士(ディラハン)です」

「なっ、本当か……いや、そうだな。うむ。その通りだ。先ほどの命令は撤回する」


 目を見張ったがすぐに手を振り、船尾舷窓に視線を飛ばして取り繕う。


 ヘルビアはテーブルに座りながらも何気なしに机に隅に刺された羽ペンを手に取った。白い羽毛の緩やかな揺れ具合が心の平衡の乱れを表しているかのようだった。


 リリードはその重要な事実を船長が忘れるくらいの無礼をトーヤが働いたと苦々しく考えた。


 死霊術師(ネクロマンサー)であるヘルビアが自らが行使した高位魔術の効果を知らないとはまったくの理外である。


 通常よりもしごきをより一層厳しくしてやろうとリリードは固く決意した。新参者が生意気なのはよくあることだ。教育することでなんとかなる。


 差し当たって、足腰が立たなくなるくらい横静索(シェラウド)の昇降訓練をしてやろう。そう、口から物が言えないくらい徹底的に。


「あたしはもう船長は首なし騎士(ディラハン)をお創りにならないと思っていました。過去の些細な失敗をいつまでも気にしておられるのは辛いことでした。今回のことは嬉しく思います」

「あ、ああ、前々から予定にはあったのだが……急なことにしてしまったな」

「いいえ、あの男はあたしが一人前の檣楼員(トップ・マン)にしてみせましょう」

「うむ……」

「お任せください。犬よりも忠実な船員にしてみせます」

「いや……そこまでは望んでいない。首なし騎士(ディラハン)か……ちょっとしたその、座興なのだが……リリード。何が憑いているかわかるかな?」

「人間霊であることぐらいしか。神霊や古霊ではありませんね。あたしも窺いたいのですが、どんな英霊を憑依させたので?」


 言ってしまってから職責を越えた興味本位の質問であるとリリードは自覚したが、抑えきれない好奇心があった。捕縛したときは手加減してやったとはいえ、それなりに手こずった。骸骨水夫の中には元海兵もいる。ただ一人で死を恐れぬ集団を相手するなど容易なことではない。


「まあ、その、適当な……うん。それなりの手練れだ。しかし、ことに人間霊に限っては生前の評判など当てにならぬものだ」

「はい」

「ゆえにまず、船乗りとしての技能を習得させることに重きをおく」

「はい」

「生身の男を乗せることに抵抗を覚える者もいよう。或いは我が船員たちには考えられぬことだろうが、男女の欲を出す馬鹿者もいるかもしれない」

「はい」

「船内では規則を守らぬ者はすべからく平等に裁定する」

「アイアイサー」


 しゃべっていく最中、ヘルビアは徐々に自分を取り戻していくように顔を引き締めていったが背を向けたので会話が終了したと察知し、敬礼をしてリリードは船長室から廊下に出た。


 ――あの野郎、もう船長に粉かけてんのか。


 リリードは性格的に早合点する傾向があったので、ヘルビアに働いた無礼が男女の機微によるものだと考えていた。なるほど、確かにヘルビアは同性からしてもハッとするような美人だ。少しでも優しくされたら鞍替えしてもおかしくない。ただそういった態度を欠片でも見せれば潔癖な精神に焼き尽くされるだろう。


 廊下を歩きながら両側に結った髪房の付け根をそろそろとなでる。自分も危なく食われるところだった、男は骨以外は全員狼だ、気を付けなければ、と自戒する。


 浮ついた気分を消し飛ばすために両頬を張った。偏った思考に陥りそうだったので、冷静さを取り戻す。


 いいや――いいや。根本から思い直せ。


 やはり男女の区別など船上では意味はない。何も気にすることなどない。常に公平に厳しく扱うのだ。自分も相手が生身の男ということで特別にしたり、侮ったりしてはならない。


 すべからく、同じ船の乗り手なのだから。

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