虚ろの悪食の首なし騎士
トーヤの斜向かいに座るスコット・モーガンは<レイス・ザ・フォール号>において掌帆長であるリリード・レイクを除けば一番の檣楼員あり、名誉あるメインマストのトップ台長だったが元々は婦人向けの高級ドレスを仕立てる織物職人だった。
酒が入ってくると身の上話を始めた。
たまにつっかえながら生前のこと懐かしみ、薄れゆく過去の記憶を思い出そうとしているようだった。
容貌が美しく生まれたため、十代の頃に三人の貴族令嬢をかどわかして重婚した。流行に沿ったきらびやかな高級ドレスを手際よく仕立てることができたため、女たちは誰でも黄色い声ですり寄ってきた。
丁寧な物腰と上流階級の礼儀作法について、窓ガラスの向こうから覗き見をしながら修練したおかげであり、現在では見る影もないが社交術の才能があった。
金目的の重婚は流民から小国の戸籍を買ったことでできた芸当であって、詐欺師に身を落としたのは自らのセンスを活かすための資金を得るためでもあった。
上等な衣服を作って売るだけでは稼ぎに限りがある。
材料の布地だって金がかかりすぎる。いつかは流行に沿うのではなく作り出してやると野望を燃やしていた。
夢の終わりはあっさりしており、選ばなかった女の密告によるものだった。ベッドで女と一緒のところを警邏隊に引っ立てられて裁判にかけられた。貴族が重婚できることもあり、市井の重婚の罪は比較的軽く罰金刑で済むはずだったが袖の下を得た裁判官が可能な限り刑を重くし、投獄されることになった。
牢屋に入るか、炭鉱に入るか、軍隊に入るか――三つの選択を検察に促された。
当時としては罪人を牢屋に入れておくだけでは国家の損失であると考える気運が世間にはあった。
そうしてスコットはアドレアという海洋小国の水兵になることを選択した。スコットは元々ヒュプノス共和国の出身ではあったが、徴兵局が貴族を騙した罪人を自国の栄光ある軍隊に入れるのを嫌がった結果、人集めに苦戦している同盟国に身売りさせたのだ。スコットが金で買ったとはいえアドレアの戸籍を持っていたことも後押しされた。
一度も足を踏み入れたことのない土地に来てもめげなかったスコットは帆縫手として配属されてからというもの、精勤した。
財産である土地や現金、お気に入りの絹の靴下さえも祖国に取り上げられたせいで半ばヤケになっていた。
それでも縫い針の巧みさは誰にも負けることなく、一日目から生粋の帆縫長にも認められるところだった。船員技術はめきめき向上し、四年目で昇進して一等水兵になった。
下士官まであと一歩のところで運が悪く、火海特有のマラリアに罹って死んだ。船と疫病は切り離せない関係でもあり、不運を嘆くしかなかった。
それゆえにエティールの治癒魔術を当てにしてキニーネ(マラリアの薬)を仕入れに行かないヘルビアの方針に不満を持っていた。
船医は魔術師にすべきでないという持論もあった。高位の魔術師は魔力が尽きれば長く動けなくなる。
何より恐ろしいのは病気に関する見識がないことだった。怪我だけならまだいい。しかし、生命力を与えるはずが、病気を活性化させてしまうこともある。
スコットのみならず、酒が入ると骸骨水夫の誰もが些細な不満や過去への哀愁を口にした。それはふとしたときに感じる過去の残影であったり、アンデットになった時の驚きであったり、離れらぬ海上暮らしの疲れであったりした。
完璧な船長は船乗りの理想ではある。
だが、人間である以上は完璧は目指すことはできても常に完璧でいることは難しい。
酒がさらけ出した不満はあれど、誰も決して船から降りるなどと言い出せなかった。
生ある死者として与えられたこの延長線の時間はヘルビアの与えてくれた最大の恩恵であり、裏切れば二度と太陽の下に出ることは適わないのだ。
冷たい土の中で眠ることになる。魂のゆく先はアンデットである彼らにもわからない。
「腹も減らねえ。女も抱けねえ。それほど疲れもしねえ」
「だけど金が入る。家族に手紙も送れる。海に出れる」
「二度目の死がこええよ。ある日、ぱっと目の前が真っ暗闇になっちまうんだ。それで終わりだ。終わりなんだ」
「それでもまた死にたいと願う仲間もいるんだ。俺もたまに考える。考えて、恐ろしくなる」
ぐぃっとグラスを傾ける骸骨水夫たちの話は明るくもあり、暗くもあった。
胃袋の部分に革袋を設置してあるため、こぼれは最小限に留めてあるが身振り手振りが激しくなると水滴が飛んでじゃばじゃばと床が濡れる。
酒に酔っているわけではなく、酒場の雰囲気に酔っているのだ。
赤熱するランプの薄い明かりと暗闇が調和して視界はぼんやりとしている。
並べられた丸テーブルの内、角の席の照明のあたりにくい陣取っての宴会はそれほど人目につかずに済んでいた。
ぎょっと二度見する酔客もいないわけではなかったが、事を荒立てようと考えるものはお目にかかっていない。
不意に三人の骸骨水夫の生前の顔がふわっと浮かんだ。
トーヤはびっくりしてまぶたをこすったが元に戻っていた。
ロウソクの灯火しかない薄暗い店内のせいか――垣間見れたオレンジ色の幻覚は男たちの姿をおぼろげにだが、しかしはっきりと映し出していた。
トーヤは熱くなった喉元に手をやった。飲みすぎないようにしようと心に決める。
「そういや<サンシャイン・ロータス号>だけどよ。どうもきな臭いぜ」
骸骨水夫のサッチがフードを被り直しながら話題を提供した。皆の興味を引くようにわざともったいつけた口ぶりだった。
頭髪が頭骨に残っていて、女のようにストレートに伸ばしていた。
髪で顔を隠し、ウェイトレスに注文するのが彼の役目であったが、トーヤが来てからはお役御免になっていた。
フードが邪魔っ気なのか、単なる癖なのか何度も位置を直していた。
「どういうことだ」
斜めに座った寡黙なジョーンズが杯を上から摘まんでゆっくり振った。ジョーンズには片腕がない。だが、身長は高いし、もう一本の長細い腕がある。砲術訓練でもっともよい成績を収めている。
ひょうきん者のサッチは密談を装うためにやや前屈みになった。
顔を左右に動かし、仲間の顔色を一つ一つ窺いながら声を潜める真似をする。
「あの砲艦は自殺してるんだ。自分のところの砲弾で船材をぶっ飛ばしちまってるのさ」
自殺――大多数の船員が一斉に死を選ぶなどということがありえるはずがない。それがたとえ伝染病が蔓延していたとしてもだ。
サッチの話では砲弾には自船のマークが刻んであり、それによって『磨き済み』を証明する慣習があったようで敵艦の砲弾は<サンシャイン・ロータス号>に一つもなかったという話だった。
軍隊に支給される砲弾は荒削りな球面であることが多く、真っ直ぐに飛ばすためには削って磨かなければならない。
「事故か。それか旋回索を目いっぱい回して憎んでた怒鳴り屋の上官をぶち殺したかったかだ」
ジョーンズがグラスを意味もなく揺すった。波紋をジッと見つめながら何かを思い返しているようだった。
「俺なら、気に入られねえ奴がいるなら夜直のときにそいつの後頭部を棒切れでぶん殴って船舷から突き落とす」スコットは続けた。「それに大砲を真横に向けるのは自殺行為だ。俺が砲手長ならそんなことをしようとした奴を砲弾代わりに砲身に詰め込む。勿論、パッキングできちんと蓋をしてな」
サッチは賛意するように頷いた。
実際、様々なことが考えられる、などと遠回しな表現をした後で情報を付け加えた。
「真正面から砲弾は飛んできている跡があった。真正面からだ。そんなことがあり得ると思うか」
「砲弾を拾って打ち返してきた敵艦がいるか、撃った砲弾が世界を一周した可能性があるな」
「新米が砲身を押し出さずにぶっ放したんじゃないか。真上の壁に当たってそれらしく見えただけだろう」
「なんにせよ、大砲を使うってことは敵がいたってことですよね」
サッチ、ジョーンズ、スコットがくちばしを挟んだトーヤに顔を向けた。
それぞれ同意するようにうなずいた後で沈没させる手段は特段、砲弾の専売特許というわけでもないという結論に達した。工作員が船底に大きな穴を開ければそれだけで事足りる。
ポンプで排水しきれなかった場合は泣く泣く放棄することだってありえる。
熱に浮かされたような空気は急速に冷めていった。
話題の種をまいたサッチは締めくくるようにつぶやいた。
「奇妙ではあるが……きっと魔術師の仕業だな」
「チェーンショットを跳ね返す魔術師か」
「魔術師はいつも汚ねえ。誕生日のクラッカーを鳴らす気分で魔術を使いやがる。全員くたばればいいんだ」
何かしら不可解なことがあると魔術師の仕業になるのがこの世界の共通した話題の収め方だった。
それにしても動く死体たちが魔術に不平を漏らすとは皮肉が利いていた。自分の存在を否定することでもあるが、誰もそのことを考えてなかった。
「船長やエティールさんに聞かれたら怒られそうですね」
「同じ魔術師でも船長は規格外の化け物だからいいんだよ」
「ぼうやは知らねえだろうが、前に戦艦に拿捕されそうになった時にだな……あんな恐ろしいものはこの世にはねえぞ」
「止めとけ、船長のアレは考えたくねえ。話題に出すな」
「え、アレってなんです?」
言裏に潜む畏敬には船乗りが難局に立ち向かう前の悲壮さがあった。両岸が断崖でかろうじて航行水路があるだけで、途中まで順風だったのにも関わらず、神の悪戯によってそれまであた陸軟風が消え失せ、立ち往生の憂き目に遭ったときの苦労話がされたときのトーンと同質のものだった。
「船長が完全なヒステリーを起こしたときにぼうやも見れるから心配するな。年に一、二発は飛ぶ」
スコットが謎を謎のままで留めた。誰にとっても触れたくない話題なのか各人、苦々しい顔をしていた。
飛ぶ、という表現からしてなんらかの物体が宙を移動するようではある。
その内、見れるのだとわかるとトーヤはひとまず納得した。話題が区切られると、スコットがくるりと店内を見回した。壁時計で顔を止めて黒針を見つめる。
「そういえば、ケニーはまだか?」
「女房がこの島にいるらしい。直接我が家に行って……本人の弁によれば手紙を置いてくるだけのつもりだ」
「丸わかりの嘘だな。馬鹿な奴だ。まったく、馬鹿なやつだ。会っちゃいけねえルールなのに会う気か」
「ぼうや、船長には言わねえでやってくれ」
もちろん、告げ口などする気はなかったがトーヤは潮時を悟り始めていた。
骸骨水夫とは仲間意識はあるが、どこかやはり生者と死者の違いを覚えさせる。生きている自分では彼らの哀愁を同情することができるが、ともに苦しむことはできない。
くらりとした酩酊感を覚えてそのことを告げるとスコットがしきりに体調を整える大切さを説いてきて、夜風に浴びに外に出ることができた。
夜道は静かだった。立ち並んだ明かりのない人家には物寂しささえ覚える。ろくに整備されていない田舎道だ。故郷から遠く離れた異国の地だ。星空だって違ってしまっている。
人気は消え、虫の鳴き声がどこからか聞こえてきて寂寥感を生んだ。
鈴虫だった。故郷に残してきた友達の顔を思い浮かべた。クラスメイトの顔を思い浮かべた。大学に行ったり、就職したりすれば疎遠になる。これはきっと似たようなものさ、とトーヤは自分を慰めた。
指先でぐいと襟口を緩め、手の平をウチワ代わりにして風を送り込んだ。
軒先に座りこもうかと見やると、先客の姿があった。僧衣をまとった骸骨水夫が腰を落ち着けて、膝頭の上で両手を組んでいた。
ケニーかと思ったが様子が違う。新たに上陸してきた新しい骸骨水夫かもしれない。
それぞれ服装を始めとして身長や骨の造形、ヒビやシミなどで見分けていたが――顔の左半分がひび割れた骸骨は初めて見る。
暗闇に沈んだ人骨は心の隅に隠れていた不気味さを呼び起こした。
身震いしてしまい、呼吸が速くなった。鼓動を抑えるように左胸に手をやった。仲間に対してこんな感情を抱いたことはなかったのに。
新顔の骸骨水夫は顔を向けた。到来を予期していたかのように口蓋が開いた。
「何か……知りたいことがあるなら、教えてやってもいいぞ。但し、一つだけだ。レティア・イースリィのことでもいいし、ヘルビア・ラースでもいい。なんならリリード・レイクでもいい。或いは自分も知らない自分のことでもいい。おすすめしないが、帰り道の方角も教えてやれないこともない。これは俺からのサービスだ」
「なんでサービスするんだ?」
あんた誰だよ――先に言うべきことをなぜか飛ばしてしまった。
いいや、こいつを俺は知っている。いつも顔を合わせていた。馬鹿な、そんなことはあるはずがない。変な勘違いをしちまってるぞ。こいつは新顔だ。船長が新たに作り出したのかもしれない。
胸に中央線の汗がつぅっと流れた。うなじからどっと汗が流れ始めている。そこにいるだけの骸骨には存在感があった。
放散しているオーラは喉元を絞めつけてくるような感覚がするほどまがまがしい。
砕け顔の骸骨水夫は頭を微かに横に倒した。
「お前のおかげで俺は復活できた。感謝してる。だが、鮫一匹食っただけじゃ足りねえ。エサがゴロゴロ転がってんのにお前は食おうとしねえ。それがよくない。もっと貪欲になれよ。ガンガン行け。そうすりゃあ、その分だけ強くなれる。そうなれば自由になれる。生きてれば誰だって自由になりたくなる。不満や苦しみ、悲しみや怒りを遠ざける自由が得られる。それこそが幸福だと俺は思うね」
しゅぼっとマッチが擦れる音がした。
葉巻の先端が歯で噛み切られて火が点く。ぽうっと炎が灯った。うまそうに紫煙を吸い取る。
勇をふるったトーヤは隣に腰かけて身体を向けた。怪物のように感じたがただの骸骨水夫にすぎない。
物腰はふざけていたし、正体は不明ではあるが鮫一匹食った、という表現が気にかかった。
食った――あのときは驚きもあったが、ある種の恍惚もまた感じた。癖になりそうな気分のいい感覚であって、目の前に光が射しこんだようにも思えた。
だからこそ恐怖を感じて誰にも言わないように気を付けていた。
「で、何が聞きたい。早くしてくれよ。あまり時間がないんだ。質問は一つだ。俺はお前がどういう人間かも知りたいんだ。誰に興味があって、何が一番重要なのか知りたい」
「あんたの名前を教えてくれ」
「そんなつまらないものいいのか。女のことじゃなくていいのか? うまく心の隙間に入れる心の傷だって教えてやれるぞ」
「そっち方がつまんないことじゃねえか」
「そうか……お前はそんな奴か。俺は……ルジェロ・ラースだ。どこかの誰かは悪食の首なし騎士とか呼んだな。つまり」
「つまり?」
「お前の中に居る亡霊となる。初めましてだな兄弟」
顔のすぐ前に人差し指を突き付けられた。骸骨はにやりとしている。けたけたと哄笑をあげている。相手をびっくりさせて喜ぶような笑いだ。
トーヤは呆気を取られてぽかんとしてしまったが、中に居るのに外に出ている、という矛盾を指摘しようとしたが視界が急速に霞みかかったのでぎょっとした。
空間に蜘蛛の巣のような割れができていた。ぴきぴきと音を立てて剥がれ、その向こうにあるのは真っ暗闇だけだ。
不意に気付くことがあった。
――ああ、それでさっきから物音が消えていたのか。
――これはどうやら、夢か。だからこんなにも不安になるんだ。
「早くそのろくでもない魂を捨てるんだな。そして俺の魂を受け入れろ。そうすりゃ、何もかもがうまくいく上等な人生になる」
色あせゆく視界が消え失せた。何もかもが暗闇に呑み込まれて消えた。
◇◆◇
閉じていたまぶたが開いた。砕顔の骸骨水夫の姿はなかった。軒先に座っているのは自分一人だ。風に当たろうとして、うとうとしているうちに眠ってしまったらしい。
左胸を衣服越しにさすった。鼓動が激しく、騒がしいとすら思えた。耳の奥から響いてくる。
深呼吸する。頭が重い。額をぬぐうとべっとりと手の平に汗がついた。足下がふらつき、平衡が保てなくなっている。
深酒のせいか、耐性がないのか吐き気がした。初めての経験に不思議とひきつけのような笑いがこみあげてきた。酒に酔ったせいでみた白昼夢かもしれない。酒にはこんな魔性の力があるのかと疑った。いいや、幻覚を見る力などないはずだ。
「今日はどうして「さようなら」を言わずに消える奴らばかりに会うんだ」
額にぺたんと手をやった。千鳥足で再び酒場に戻ろうとすると、骸骨水夫の集団がちょうど観音開きのドアに手をかけていたところだった。
楽しい宴会は終わってしまったようだ。酒場で賑わっていた声もやや収まってきている。
飲みたかった。不安でささくれた心を癒してくれるだろう酒に頼りたかった。まだ時期ではないのかもしれない。
「トーヤ。ケニー見たか?」
「いえ。見てないです。どうしたんですか」
「結構……約束の時間過ぎちまってるんだ」
「まずいことになっちまってるかもしれない」
「……奥さんと仲良くしてるんじゃないんですか?」
骸骨水夫たちは一斉に押し黙った。下向き加減の嫌な沈黙が場に流れた。
トーヤは忙しなく眼球を左右に送った。おいおい誰を探してるんだ、とケニーがどこからか声をかけてきてくれることを微かに期待したのかもしれない。
現実には風が吹いているだけだった。
暗闇に染まった空をびぅうと不吉な風鳴りの音が席巻している。街路には灯火が消えていった。街角の火付け係たちもとっくに眠りについている時間帯だ。
骸骨水夫たちは指摘されたくないことを突かれたような態度で、よどんだ空気が漂っている。
まるで何か過ちが起こっているような予感がおぼろげにしている。誰もそれを口に出せなかったが、トーヤは迷いながらもコトを先に進めることにした。
「何がまずいんですか?」
「あいつが死んだのは五年前だ」
「そしてよみがえったのが二年前」
「手紙と金を送り続けるだけで返事は戻ってきたことがない」
「一目、見るだけだと決めていた」
しょせん、死者なのだから。
お前ならどう思う?
かつての恋人が白骨死体で戻ってきたとしたら、それでも愛してると言えるか?




