プロローグ
幽霊船、<レイス・ザ・フォール号>の船長ヘルビア・ラースは閉じていた目を開いた。
まぶたに伸し掛かる睡魔と闘いながらもハンモックからすらりとした足を滑り落とす。足裏を木板につけ徐々に体重をかけて立ち、口元に手をあててあくびを隠した。
跳ねて眼前を横切っている白色の髪房を何気なく摘まみ、つい枝毛を探してしまった。
のろのろと水桶に手を伸ばして縁にかけられた清潔な布で顔の汚れをふき取る。
唇の隙間から入ってきた水は塩辛く、海水だった。
これは一体どうしたことだろうと寝ぼけ頭で考えると、いまいましい人狼(ヘルビアは二本足で立つケダモノどもと呼んでいたが)が操る海賊船によって砲弾を受け、貯水タンクに穴を開けられたことを苦々しく回想した。
敵船を撃沈してやったときは胸がすく思いだったが、海戦の勝利によって船体の損傷がなかったことになるわけでもなければ、壊れた器材が復元するわけでもない。
苦肉の策として海水の詰まっていた底荷樽を水密樽の代わりにすることを決意した。
ひとまず海水を排水槽にぶちまけ、こぼれていく真水を注ぐことで一時的に処置したがうまくいったとは言い難い。
たっぷり余裕を持っての潤沢な航海は渇きにあえぐ辛い航海に激変してしまった。
節水のために船員の支給水を三リットルから二リットルへ減らしたが、漏損量を含めて残量からして一ヵ月も持たないだろう。
仕事を早めに切り上げてどこかで真水を補給しなければなるまい。
頭の中で海図を広げながらも化粧台の前に立ち、ヘルビアは鏡に己の容姿を映し出した。
若く女の身体が目の前の磨かれた鏡面に映っている。
白髪では艶のある頭髪の大部分は後ろに束ねられ、残った髪が顔の両脇に一房ずつ伸びている。瞳の色は深紅でそのせいか常に不健康そうに見られる。
肌に張りはあるが数日前の海戦の疲労のせいで光沢が失われてしまい、目下にはクマができてしまっていた。
しかし、決して体つきは悪くない。
肩から腰元までのくびれはちょっとした自慢だったし、触れると指を跳ね返す乳房も充分な弾力がある。尻も垂れておらず、下品にならない程度に上向いている。
自分が実に上等品だと確認して、ヘルビアはダンスでも踊るかのように次々とポーズを決めて小躍りしたがノックの音でぎくりとした。背を伸ばして動きを止める。
「船長、朝ですぅー」
「ああ……もうそんな時間か。朝礼を執り行う。当直員を呼集せよ」
「はいですぅー」
今しがた起きたという風に応え、ヘルビアは命令を下した。
遠ざかっていくポシェットの足音を聞きながらヘルビアは戸口に指先で触れた。
もしやこの木目にはのぞき穴などないだろうか、目を皿にして検分したが幸い杞憂に終わった。
寝間着を脱ぎ捨て純白のシャツに袖を通す。アイロンをかけたばかりなのかいい匂いした。素足を荒地のズボンに突っ込み、腰ひもをきつく締めた。なるべく綺麗なままの靴下を選別して履いた。
飾り布を首に巻き、袖のない糊の利いたウェストコートの裾布をはためかせる。
ハンガー台に置かれたマントとつば広の三角帽子を見やったがそこまでする必要はないと自分に言い聞かせた。新参者に威厳を見せなければならないが、わざわざ炎天下の中でこれ以上の厚着などごめんだ。できるなら下着姿で過ごしていたいが、そこまで思慮分別を失ってもいない。
「さて、行くか」
船尾楼に位置し、上甲板とほぼ同じ高さにある船長室のドアノブをひねり、短い廊下に出た。
ドアの入り口傍にある後部船倉口の蓋を避けて薄暗い廊下を通り抜け、外界に続く扉を開けると爽快な晴天があった。雲一つない良好な天候だ。
ヘルビアが陽光に照らされた露天甲板を踏みしめて周囲を見回すと動く白骨死体――骸骨水夫たちが舷側で作業している姿があった。帆耳を引っ張って帆を広げようとしている。
頬撫でる具合からしてべた凪だが帆の面積を増やして少しでも風を受けようとしているのだろう。
恐らく無駄な努力に終わるとヘルビアは経験からわかっていたが、指示をした者が推力を得る可能性があると考えたのなら止めるつもりはない。
自分ならブームの継ぎ足しを立案するが。
「船長」
操船を任せている副長のエティールが腰まで伸びた長い赤髪をなびかせながら息を切らせ、駆けつけてきた。
目を疑うほど美的センスに欠けるドクロマークの三角帽子を被っているし、婦女子にしてはあわれもないへそ丸出しの上着を恥じらいなく着こなしている。厚側のハーフパンツも良識者が咳払いするほどきわどい。
それでも垂れ目の澄んだ碧眼や丸まった頬には愛嬌がたっぷり含まれていて、瑞々しい褐色の肌の肉体は自己抑制が取れてすらっとしている。
明るく親しみやすい顔の副長は怜悧なヘルビアにはない穏やかさがあり、内心で羨んでいたがその表情には今や影が差して困惑していた。
「その、困ったことになりまして。男が、その、暴れていまして。しかし、船長の召喚術によるものかと思いまして」
「報告は明瞭にせよ」
「は、はい! 正体不明の生身の男が一人、船尾にて交戦中です」
「よろしい。なるほど、アレか」
約二十メートル先にある船首前甲板――鎮座するフェアマストの根元で一人の男がカットラスを持った複数の骸骨水夫に囲まれていた。
黒髪は日焼けした痕跡はなく夜闇のように漆黒だった。身長はやや高め、熊のように筋骨隆々ではないが荒鹿のように俊敏に動いている。
茶色の瞳は獰猛に染まり、ぜえぜえと荒い息を吐いて血走った目で集団を睨んでいる。手にしたカットラスが重いのだろう、少しでも楽をしようと手がだらりと下がっている。奪い取ったものの使いこなせているとは言い難い。
左右から迫ってくる銀線をかいくぐって剣戟を響かせ、なんとか何人か撃退したようで甲板下には砕かれた骨が散らばっていた。
「来いよこのホーンデッドマンションどもが! なんで牛丼屋にお前らみたいな胃袋のない野郎どもがいるのか知らねえけど、もう俺は三十分も待ってるんだぞ! いつになったら店員さんが来るんだよ! ああ!? お前らは俺の部屋に残ったパソコンまで売らせる気か!? そうなのか!? 俺のお宝奪う気なんだな! とにかく絶対に牛丼を食うまで引き下がらねえからな!」
叫びが轟くと、男は前蹴りを放って骸骨の一体を弾き飛ばした。
意味不明で粗野な物腰ではあったが、的確に襲い来る刃を受け止めてはかわしていた。体術にはそれなりだったが、洗練されているというわけでもないのでふとした場面では危うく、酔っ払いのような滑稽な動きをする。
ちぐはぐな格闘術は見世物のようで少し愉快な気持ちになりながらも、ヘルビアはふと昨日行った死霊魔術『骨集め』の際に起こった幾つかの不安要素を心の中だけで並べた。
海戦のおかげで疲れていたので儀式も呪文もやや気怠く、魔力と霊気を混ぜ合わせる作業も結構適当にやってしまった。
あの時はやたらと眠かったし、月の消えた真夜中にやらなければならないという制約も遵守しなかった。血まみれていたような月の下で呪文を唱えた。
偉大なる冥府の女王へ捧げるはずの生贄もニワトリがいなかったので、これでいいかな、と思ってこくぞう虫で代用した。
本来ならば近くにある死体――海中に転がったさまよう人間の魂とその遺骸を呼びつける術であったし、海戦で失った骸骨水夫の補充のためであり、朝礼で新たに入る新参者を向かい入れるためにそれなりの恰好で甲板に出たのだ。
やはり、術というものはきちんとした手順を踏んで行使しなければならない。
非凡にして希代の死霊術師であるという自負心に目がくらんでいた。これからは二度とあんな愚かなことはすまい。招いた結果は想定外であるが、対処の範囲内でもある。
ヘルビアは以上の思惑を一切顔に出さず、内心の動揺を押し殺して厳しく硬い顔つきで懸念を示した。
「私の術によるものとはまったく思えん。あの男がどこから来て、何が目的かは捕まえてみればわかることじゃないかエティール?」
「はい。その通りです船長」
「たかが一人の無法者とはいえ、これ以上の損失は困る。リリード・レイク掌帆長を起こしてきたまえ。なるべく……怪我をさせないように男を捕えるように」
「はえっ」
「命令したが」
「了解サー」
やぶ睨みを食らったエティールはおろおろしたが、手近な骸骨水夫を呼びつけてお供をさせた。
リリードを朝に弱いし、気性が荒いので自分はやりたくなく、別の者に起こさせる腹積もりなのだ。副長なのに情けない、とヘルビアは思いはしたがが自分が同じことをするのはごめんだった。
船倉口にエティールの姿が消えると男は案の定、数の力に押し負けて船縁を背にしていた。カカトがこつんと手すりにぶつかって後ろを一瞬振り返り、歯をかちかちと噛みあわせた。
「さぁっ、クソッタレども! もっと気合入れて来いよ! あっ、ごめんなさい! そんなにいっぺんに来ないでくださいっ! うっ、うぉおおおお!」
手すりに足をかけ、海へ飛び込もうとでも思ったか男は水平線をさっと見回したが船はおろか陸地もない。
かといって、わらわらと骸骨たちに囲まれては体力は続かないだろう。前には命を奪わんとする敵兵、後ろには休むところのない海。行く先はどっちも地獄だ。
男の焦眉には一種の諦めの色があったが、やがて唇を舌で舐めて自らの窮地に笑みをこぼし始めていた。
自棄になりかけている。降参という選択肢がもっとも楽なことに気付こうとしていない。
ヘルビアは腕自慢のリリードを呼びつけず、自らが骸骨に偽りの生命を吹きこんでいる『死者の挽歌』の術式を解けばよいと気付いたが、それでは先ほどの命令はミスとなってしまうのでしないでおいた。
どうにも威厳を失ってしまうのを恐れたからだ。船長が矜持を保たなければ船は安定しない。絶対者の必要がある。
そうは思うが、少しだけきまりが悪くなってヘルビアは咳払いした。
「ごほんっ……ごめん」
誰にも聞こえないようにかすれた呟きをして、ついぞ顔を逸らした。