馬車の外へ
朝日が登り、暗黒の馬車にも光がさす。馬車の啜り泣く声は止まない。一晩中泣いていた者もいれば、泣き疲れて眠った者もいる、絶望して自決を謀った者もいる。皆が皆三者三様に夜を過ごした。
男は馬車に射し込まれた一際強い光を浴びて目を覚ました。光の指す方に目を向けると、太陽の光を背後にした、腹の出た大男が立っていた。無精髭で、禿かけた頭。腰のベルトに挟まれた、手錠の鍵と軍刀。風船のように膨らんだ腹に似つかわしくない、異様なまでに発達した二の腕。
男は、そいつが奴隷商人だと確信した。
大男はずかずかと馬車の中に入ると、入口の近くにいた奴隷を、二三人蹴り飛ばした。悲鳴が上がる。痛みと理不尽を訴える、切実な声。
「騒ぐな! 大人しくしてろ!」
大男の野太い怒鳴り声が響き渡る。同僚達の恐怖が波のように伝わる。先の悲鳴と怒声で、ほぼ全員が目を覚ました。
目を覚まさず、糞に埋もれたまま動かない様子の者が四人いた。その中に、昨夜男が話したと思われる、膝から下の無い老人がいた。
大男はグチグチと文句を垂れながら動かなくなった奴隷のところへ向かい、腰にぶら下げた鍵を用いて、床と繋がった鎖を外した。鎖は二メートル程あった。床と繋がっていて見えなかった部分には取っ手らしきものがついていた。大男は取っ手を掴み、奴隷を引き摺った。
一人、二人、三人と、引き摺られていく奴隷だったものが増えた。さながら、道の糞を拭きとる雑巾がけのよう。最後に、男の前の老人が回収された。
老人を回収した後で、大男は正面の男を見た。
二メートル程の長身に、短く刈り込まれた黒髪。全身を隈無く鍛え上げられた屈強な肉体。奴隷商人の大男のようなアンバランスさを感じない肉体美。冷徹な光を宿した黒い瞳。幾つもの修羅場を潜ってきた者にしか出せない、独特の覇気のようなものが滲み出ている。
男との視線が重なる。大男は口笛を吹いた。
「起きたかタフガイ。ここの寝心地はどうだ?」
男は大男を無視した。それは大男の気に障ったらしく、大男は糞まみれの靴で男の頬を蹴った。
周囲が恐れおののく。恐怖が波紋のように広がる。男の頬は糞で塗られ、口端から血が流れた。だが、男は倒れなかった。汚れた靴越しに大男を睨み返す。
冷徹な瞳。強かな者の目。大男は背筋がゾクゾクした。強者から命を狙われているという恐怖。高値がつく優良商品だという確信。真の強者であることへの羨望。その全てが大男を高揚させた。
「見た目と中身が同じ、本当のタフガイか。いいねぇ、売り物とは言え惚れ惚れするぜ。お前は高く売ってやるよ」
男は鎖が外され、大男に連れられた。
大男は出ていく際に、舐めるように奴隷たちを眺めた。粘着質な視線に女子供が特に震えていた。特に怯えていた十代半ばも満たないであろう少女が、大男の目に止まる。少女が小さく悲鳴を上げると、大男は酷く嬉しそうに小さく笑い、少女の鎖を外した。
「後でたっぷり可愛がってやるからな」
小男は下品に笑った。この少女がどのような目に遭うのか、誰もが想像出来たのは言うまでもない。
大男に連れられた六人の奴隷は、馬車の外へ出た。川の畔に馬車が止まっていた。
馬車の側には、奴隷商人の大男とそう違いはない屈強な男が二人、待ち構えていた。一人は全身に入れ墨を施した細いタトゥーマン。もう一人は豚のような出で立ちをした、人間ではない人型の何か。
「ペドロぉ、おまえ、男色に目覚めたのかぁ?」
待ち構えていた豚もどきがくぐもった声で奴隷商人の大男に言った。《ペドロ》というのが、大男の名前ないし、愛称であるらしい。
「幼児趣味のおまえがガキ以外を連れてくるだけでも珍しいのに、タフガイを引っ張り出すとはな。明日は荒れるな」
入れ墨男が豚もどきに続いた。
「どいつもこいつも・・・。このタフガイは高く売れると思ったから、引き抜いてきたんだよ」
「ほう」
入れ墨男が品定めをすように少女と男を眺めた。その間、男は微動だにしなかったのとは対照的に、少女はいつまでもビクビク怯えていた。
蛇のような目が印象的な男。やがて、入れ墨男は舌舐めずりをして、爬虫類じみた瞳孔を開く。
「良いな、この娘は・・・! 興奮する。今すぐにでも遊びたい」
「馬鹿、こっちを見ろモーフィ」
《モーフィ》というのが、入れ墨男の名前ないし、愛称であるらしい。
「冗談だ。こっちのタフガイも悪くないな、惚れ惚れするような良い男だ。身体といい、この無愛想なハンサム顔といい、ゲイにモテそうだ」
「ああ、違いない」
勝手なことを言い合う二人の奴隷商人の後ろで、血と糞で汚れた斧を肩に乗せた豚もどきが、四人の死体を縛っていたいた手錠を引き摺っていた。豚もどきのいたであろう場所に、手の無い死体が転がっていた。
「おまえらぁ、そいつらを【上】に出すなら早く洗えよぉ」
「それもそうだな。ハンディ! このタフガイを見てくれ!」
《ハンディ》というのが、豚もどきの名前ないし、愛称であるらしい。サスペンダーのゴムに当たる部分が、握手をし合う人間の手で作られていた。
「おまえらぁ・・・、実は洗う気ねぇだろぉ」
《ペドロ》と《モーフィ》は下劣な笑みを浮かべる。
「当たり前さ、お楽しみってね」
「ペドロ、おまえ壊すなよ」
「そりゃ俺の台詞だよ」
何をされるのかわからない恐怖が、怯えきった少女を更なる絶望に叩き込んだ。《ハンディ》が合流すると、男の鎖が《ハンディ》に手渡された。少女は《ペドロ》と《モーフィ》に連れられて、男と《ハンディ》には見えない場所に連れられた。
「さぁて、行こうかぁタフガイぃ」
《ハンディ》もまた、彼らとは違う方向へ男を連れていった。男は《ハンディ》の後ろについていった。
ハンディはお喋りな男だった。興味の無いことを一方的にベラベラと喋り続ける、迷惑な男だった。
「あんた、喋ってもいいぜぇ。俺、誰かと話さねぇと落ち着かねぇからよぉ」
「おまえたちは何人いる?」
「ここの商行は全部で五人いるよぉ、少数精鋭って奴でねぇ。それだけで儲かっているのさぁ」
「身体を洗うとは、どういうことだ?」
「あんたみたいな優良物件は綺麗にしといた方がよく売れるからさぁ、清潔にしておくのさぁ」
「仮に俺がおまえから逃げ出したら、どうする?」
《ハンディ》は斧を動かした。それだけで、充分驚異が伝わった。
「まぁ、あんたに切りかかったとしても、殺しきれないかもねぇ。あんたは殺しても死にそうにない。そういう感じの目をしてるからぁ」
「そうか」
「クールな男だね・・・」
《ハンディ》が言葉を言い切る前に、男は豚の後頭部を思いっきり殴った。鋼鉄の手錠が頭蓋骨を破壊し、脳に大きなダメージが入ることを確信する。しかし、その程度では《ハンディ》の意識を刈り取るには至らない。更に男は、倒れていく《ハンディ》に目掛けて、大きく振りかぶった手錠を叩き込んだ。男の身体能力に、鋼鉄の手錠。最早殺人のためのハンマー。《ハンディ》は呻き声を上げずに意識を失った。
男は《ハンディ》の持っていた斧を手に取り、その重量を確かめた。鋼鉄の手錠の質量と人間を断ち切る斧、加わる男のパワー。当に必殺足り得る一撃。動かぬ得物の首目掛けて、斧を降り下ろす。
鮮血が飛ぶ。豚の頭が飛ぶ。頭を無くした周辺に血の池が出来る。口煩い豚はもういない。
ーーー あと、四人
男は馬車まで戻った。道程は覚えていたため、戻るのは容易だった。馬の近くで、壮年の男が煙草をふかしていた。リラックスしていて、男に気付いていない。男は斧を投擲した。凄まじいスピードで回転した斧は、馬に遮られることなく、壮年の男に命中した。胸から腹にかけて刻まれた致命傷。臓物に侵入した刃。壮年の男の悲鳴。消えていく生を惜しむ声。
ーーー 三人
馬車の中にいた最後の一人が飛び出した。ワンピースを着て、鱗の生やした、蜥蜴のような女。奇想天外な異形。男の知る世界では、そのような姿の生命体は存在しない。男は一瞬だけ純粋な興味を抱いたが、すぐに消えた。
ヒステリーな悲鳴。恐怖。仲間の死の恐怖。生命が脅かされることの恐怖。複数の意味の恐怖を孕んだ悲鳴。
血塗れの男を目にした蜥蜴女は、助けを求めながら逃げた。
「助けて、殺される」
声の限り、そう繰り返した。
女は逃げた。体力の限り逃げた。
逃げても、逃げても、男は追いかけてきた。距離が離れない。縮まる一方。
遂に追い付かれる。鎖が女の首に絡み付く。呼吸が止まる。全身が酸素を求めた。苦しみゆえ、顔が赤くなる。
やがて蜥蜴女は泡を吹き、小便を漏らして絶命した。
ーーー 二人
二人分の悲鳴を聞きつけて、《ペドロ》と《モーフィ》がやってきた。少女はいない。既に殺されたか、犯されたまま放置されたか、男には判断できない。
「サーディがタフガイに殺されてやがる!」
「見ろ! ブールもだ!」
蜥蜴女の名称が《サーディ》、壮年の男が《ブール》というらしい。
《ペドロ》が軍刀を抜く。《モーフィ》が《ブール》に刺さった斧を抜く。敵は臨戦態勢。徐々に距離を詰める。男は《サーディ》の足を掴んだ。触感は蜥蜴や蛇に近い。軍刀を振りかざした《ペドロ》が迫る。《ペドロ》の軍刀に合わせて振るう、《サーディ》。《サーディ》は一刀両断され、上半身が宙を舞う。大量の血が、男と《ペドロ》に降り注ぐ。
「サーディを、斬っちまった!」
飛んでいく仲間を、一瞬でも目で追ってしまった《ペドロ》。男は僅かなタイミングを逃さなかった。男は降り下ろした両腕を、そのまま《ペドロ》の顎を目掛けて振り上げた。骨を破壊する音がした。顎を砕く一撃。《ペドロ》が意識を失い、地面に崩れ落ちる。
「取ったァ!」
《モーフィ》による背後からの不意討ち。降り下ろす瞬間、自身の太もも並みに肥大化した腕。仲間の血を吸った斧が男を襲う。想定の範囲内。見切っていた攻撃。男は素早く屈み、《ペドロ》を盾にする。同時に《サーディ》の下半身を捨てる。《ペドロ》の頭蓋骨が割れる。脳症が覗く。
「ペドロォ!」
仲間を殺したことによる絶叫。男への怒り。憎しみ。
「殺してやるぜホモ野郎・・・! なぶり殺しだ!」
仲間の死体が倒れる。男の脱出を確認する《モーフィ》。馬車に逃げ込む男の姿を目撃する。
「イカれた腰抜けめ、すぐに殺してやる・・・!」
男を追う。仲間を皆殺しにした男を始末しなくてはならない。
馬車に入り込む。《モーフィ》に恐れる入り口近くの奴隷達。奥も騒がしい。入り口とは対照的な騒ぎよう。《モーフィ》に目もくれず、歓喜の声すら上げている。
「てめぇら、何をしている!」
奥の奴隷達が振り向く。《モーフィ》の眼が捉えた、数人の手に握られた錠の鍵。
動揺する《モーフィ》。奴隷商行最後の一人。《ペドロ》が倒れたとき、男が盗んでいったのだと判断した。
既に数人が自由の身になっている。そこまで気付いたときに、握っていた斧が飛んだ。自由になった男が蹴り飛ばした。
《モーフィ》は男に罵詈雑言を浴びせようとしたが、何かを口に出すより早く、男の鉄拳が容赦なく襲った。
馬車の外へ押し出される《モーフィ》。馬車から現れる、斧を担ぐ男。鋼の肉体が、他の仲間の血に染まっている。
まるで悪魔。地獄より顕れた閻魔の遣い。
《モーフィ》は恐怖で気が狂いそうだった。《モーフィ》は辛うじて上半身を持ち上げ、へたりこんだような格好で笑った。現実逃避のための笑い。
じりじりと迫る男。圧倒的な恐怖。生きる希望を奪い尽くすだけの恐怖。
笑い続ける《モーフィ》に、無慈悲な一撃が降り下ろされた。
ーーー ゼロ
こうして男は奴隷商行の殲滅に成功した。メンバーに生き残りはいない。男は奴隷達から感謝の言葉を浴びた。そこに達成感が無いわけではなかった。しかし、同時に沸き上がる疑問。
ーーー 俺はどの様な人間だったのだろう?
男は五人もの人間を殺した。それにも関わらず、心に重荷のようなものを感じていない。寧ろ、こうして人殺しをしているときこそ、今の自分と過去の自分とが地続きで繋がっているのだという感覚さえあった。
男の胸に渦巻く不安。積み重なるストレス。謎への苛立ち。
ーーー 俺は誰だ?
思えば、多少は言葉を交わした間柄であった筈の老人の姿を見ても、心が動じていなかった。ただ、冷静に情報を分析していた。
ーーー 俺は人が当たり前のように死ぬようなことをしていたのだろうか?
男は自由の身になった。しかし、男の魂は未だに何処かに囚われ続けていた。
全然考えてなかった殺戮回になってしまった。実に【ほのぼの】している。