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馬車の中

 目が覚めたとき、男は鎖に繋がれている事に気付いた。視界は暗く、何も見えない。ただ、他の人間がいっしょくたになって鮨詰めにされていることだけがわかった。

 ガタガタと小刻みに揺れる閉所。時折聞こえる、空を切る鞭の音。数頭の馬の嘶きと、蹄の音。どうやら馬車のような処に入れられているらしい。

 数日間洗われていないのか、糞尿と汗の激臭が漂っている。密室の状態のためか、臭いが外に出ていかないようだ。

 辺りで老若男女を問わず、誰かのすすり泣く声がした。まるで葬式か何かのような悲愴感を感じさせる大合唱。

 不規則に揺れる汚い密室と、悲しみに暮れる同僚達。

 男はこのような劣悪な環境に覚えはない。では、入れられるような理由があったのではないかと思い、記憶を遡ってみたが、何も思い出せない。それどころか、今まで自分がどのように暮らし、どのように育ったのか、過去の自身に関わる記憶が何一つ思い出せなかった。

ーーー 俺は何故此処にいる?

ーーー 何故記憶がない?

 いくら考えようと、答えは何処にもない。とてつもない不安が、男の胸中を暗黒へ誘った。

「なあ、兄ちゃん」

 しゃがれた声、老いた男の同意を求める声。姿は見えないが、痩せ細った姿をイメージさせる。

「俺のことか?」

「そうさ、あんたのことさ」

「俺に何の用だ?」

「なぁに、あんたが変に落ち着いているんでね、もしかしたら助けが来ることを知っているんじゃないのかと思ってね・・・」

 あまりにも検討違いな想像。男は老人に憤りを感じたが、それを表面化することはしなかった。それは無意味だと知っていたし、そうする訓練を受けてきた覚えがあったからだ。厳密に言えば、具体的なエピソードが抜け落ちているものの、そうした経験のようなものが蓄積されていたという自覚があった。

「それはあんたの思い込みだ。俺に助けは来ない。妙な期待をするな」

「ヘヘッ」

 老人の渇いた笑い声。元から希望を抱いていなかったと言いたげな投げやりなもの。

「まあ、あんたが教えようと教えまいと、どっちだって一緒か」

「随分達観しているな」

「そりゃあそうさ、もう俺は長くねぇからな」 

「そうか」

「前のご主人のところで足がやられてな、用無しになったところで此処にぶちこまれたのさ。恩情なんてもんはねえ、いや、はなっから俺達奴隷は使い潰されるためにあるのさ」

 奴隷。男の記憶する限り、まず存在しなかった身分。前時代的な身分。男は自分の耳を疑ったが、置かれた現状から、そう判断するのが妥当だと思った。

ーーー 此処は奴隷商行の馬車なのか。ならば、今は何時なのだ? 何処なのだ?

 男は目眩がした。記憶喪失の上に、よく知りもしない非文明的な場所で、奴隷などという卑しい身分にさせられるなど堪ったものではない。

 男の朧気な記憶。アスファルトで塗られた道路の上を、四輪自動車が駆けているのが日常的な社会。あらゆる人間に自由と平等が法の下に約束されていた社会。世界中がインターネットによって繋がりあった情報集約型社会。そうした世界の中で、男は生きていたはずだった。

 何という理不尽。何という悪夢。夢ならば覚めて欲しかった。

 男は両腕を胸元まで上げた。鋼鉄の手錠のようなものが、自由を奪っている。相応の質量が腕にのし掛かり、床と壁に繋がった鎖が動きを制限していた。

 手錠を破壊しようと腕に力を込めるものの、壊れる気配は一向に無い。鋼鉄に縛られた腕を傷つけるだけだった。痛みが現実なのだということを男に教えた。

 不安。恐怖。失望。絶望。ネガティブな感情が男を更に追い詰めた。それでも男は感情を表面に出さなかった。そうしなければ、正気を保てなかった。

「奴隷か」

「そう、あんたも俺も、替えのきく消耗品」

 暗黒に包まれた馬車が何処かへ向かって走る。行く先が何処なのか、知る術は男になかった。

気紛れに書く。なお、男の名前はまだ無い模様。

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