プロローグ childish heart
――あの日は、そう。
――とても暑い、夏の終わりの日だった。
車の通りのない静かな場所。
そこにあるバス停に、俺達はいた。
夏の終わりを惜しむセミ達が、最後の力で精一杯の声を上げている。
それはまるで無情な終わりを突きつけてくる世界に対する慟哭のようで。
今の俺の心情も、それと同じだった。
「やっぱり、行っちゃうのか?」
「うん、あたしの都合じゃないから」
それは寂しげな声だったように思う。
座り込んだ俺の隣にたたずむ黒髪の少女は、俺と同じように、視線を前に向けたままそう答えた。
ずっと前からわかっていたから、驚くようなことはない。それでもずっと前から分かっていたからこそ、この結果を変えられなかったことに、俺は幼いながらも後悔の念に駆られていた。
「どうしても?」
どうにもできないことが分かっていてそんな言葉が口をついたのは、結局のところ、彼女の言葉を受け入れられなかったからだと思う。
寂しげに笑うそんな表情を、俺は認めたくなかった。そんな俺の考えなんてまるで分からない様子で、傍らの彼女は笑みを浮かべたまま問いかけてくる。
「君はいやなの?」
「お前はどうなんだよ」
そんなのだから、俺はふてくされたように言い返すしかなかった。こんなことをしたって今更だろうけど、他にできることもなかったから。
視線を外した彼女は、浮かぶ雲を見上げる。その横顔はいつも通り、いやいつも以上に大人びて見えた。
「あたしは、いやかな」
分かっていた答えだった。
「でもそれはあたし自身のことだから。なのに、君は……星野は、どうして?」
「俺は……」
俺は、何が理由だっただろうか。何故こんなにも、他人の事情にまで踏み込んでいるのだろうか。
答えを求めるように、傍らに視線を投げかけた。目があった彼女は、意図を測りかねたように小首をかしげる。それでも浮かべていた表情は、戸惑いの混じった大人びた笑みで――
ジワリ、視界が滲んだ。
「そういうの、見たくなかったからだよ……」
だから俺は、きつく目を閉じた。
そうしていないと、見せたくないものまで彼女の瞳に映してしまいそうだったから。
「ありがと、星野」
顔をそむけた俺に、あまつさえ彼女はそんな言葉を投げかけてくる。人の事情に首を突っ込むだけ突っ込んで、半端な希望を持たせた上に何もできなかった、この俺に。
ありがとうなんて言われたくなかった。そんなの、最初からできないと思われていたみたいじゃないか。
彼女はこれから遠くへ行ってしまう。いつかの俺と同じような、海の向こうの国へ。いつかの俺と同じように、家族の勝手な都合で。
もし彼女がそのことを受け入れていたなら、俺だってきっと余計なことはしなかったと思う。でもそうじゃなかったのは最近の彼女を見れば分かることだった。
夏風が彼女の長い黒髪を撫でる。その合間から覗く寂しげな横顔を、俺は幾度となくこの目に焼き付けていた。
――――だから何かをしようと思ったんだ。
何故そう思ったのか、少なくともこの時の俺には分からなかった。分からなくても、足掻くことはできた。
立ち入ったことだと知りつつも、気付かないふりをして彼女の事情に踏み込んだ。望まない結末を避けるために、自分にも何かができるのだと妄信して。
彼女は最初、俺の言動を嫌がっていたように思う。それは家の事情よりも、自分の内心に踏み込まれることを嫌がっていたのだと感じた。
それでも見ているだけで分かったんだ、彼女が友達やこの国から離れたくないと思っていることぐらい。そしてそれを見て見ぬふりすることは、俺のすべきことじゃないと思ったから。
結果は……語るべくもない。
どこまでが許されるのかさえ知ろうともせずに、他人の事情に首を突っ込んで、ひっかきまわして、なんとかしてやるだなんて言うだけ言ってこのザマで。
俺に出来たことは夏休みの始まりに行くはずだった予定を、その終わりにまで引き延ばしたことだけ。
「ほら、もともと急だったから無理だと思ってたけど、夏休みの間に友達と旅行に行ったりできたし。君がいなかったら、あたしはそれも諦めてた」
「だけど俺は……、外国に行かなくてもいいようにするって、絶対そうするって言ったのに……」
「……いいよ」
そうして1ヶ月の猶予の後、この望まない結末の日がやってきた。
「もう、いいのよ……」
今はもう、誰がそれを望まなかったのかさえ分からなくなっていた。意地になって足掻いていた俺と、どこか諦観を抱いていた彼女と。
俺は何を思ってこんなことをしているんだろう。誰のためにこんなことをしているんだろう。
「わかんないよ……、そんな気持ち、俺にはわかんないよ……」
その言葉に彼女は何も言わなかったのだから、きっとこれは俺の自問への答えだったのだと思う。
幾ばくかの時が経った。
言葉を交わすこともなく、俺達は同じ方向を見つめている。彼女はきっと、地平の先にあるユーラシアの一国を。俺はただ目の前のアスファルトに引かれた白い線を。
そのとき凪いでいた風がふわりと舞った。蒸し焼きにされた夏の空気と、鼻につく草の香りと、突き刺すような排ガスの臭いと――――
「あっ……」
顔を上げた俺は、目の前にバスがやってきたことを知った。
「あたし、行くね」
振り返らずに、彼女はそこから一歩前へと踏み出していく。
離別への一歩。
「待ってよ、笹原!」
その瞬間、俺は無意識に手を伸ばしていた。去ろうとする彼女の手を強く握りしめる。
「……本郷」
「…………え?」
彼女がその手を振り払おうともせずに急にそんなことを言うものだから、俺は呆けたような声を上げることしかできなかった。
間の抜けた顔になった俺の手を優しく外して、彼女はこちらを振り返った。
「名字変わったの。お母さんのもともとの名字、本郷。だから、間違えないでね」
「……無理だよ」
――――首を横に振れば、まだ答えは変わるとでも思ったか?
――――そんなことはないって分かってるんだろ?
――――だから受け入れろ。
――――せめて最後は、悲しい思い出なんかにするな。
――――強がって、意地張って、それでも笑って見送ってやれ。
「そんなの急に言われたって、覚えらんないよ」
「星野……」
「だから……」
歯を食いしばって、涙をこらえた。
これは彼女のための涙じゃないから。力になれなかった自分の弱さを悔いる涙だから。
絶対に、彼女にそれは見せちゃいけないから。
笑う。
「だから『泉美』! ぜったい、ぜったい忘れないから! 向こうでも元気にやれよ、約束だからな!!」
ぎこちないどころの話じゃなかっただろうな。きっと関係のない人がその場に居合わせたら、思わず噴き出してしまいそうなぐらい。
でも、それでよかったんだ。
泉美が、笑ってくれたから。
「うん……うん! 頑張る、約束する! 絶対に、あたしも忘れないよ、『アスカ』!」
そう言って、彼女は駆け足でバスに乗り込んでいく。
最後の声が震えていたのは、俺も、泉美も、嘘だったことにして。目一杯の強がりを振り絞って、俺はその場で大きく手を振った。
走り去るバスが残した空気の振動が、いつまでも、俺の身体を震わせていて――――
「うぁあああ、ああああああああああああ!!!!」
――――気づいた時には、俺はその場から駆け出していた。
追いつけるはずもないバスの背中を雄叫びを上げながら追いかける。
こんな情けない姿、彼女には見せたくなかったから。強がりのさよならまでを、嘘にしたくはなかったから。
だから、追いつかないでくれ。
そんな矛盾した思いを抱えて、ただひたすらに走り続けた。
1秒でも長く、この目に彼女の姿を映していたくて。そうすれば、1秒でも長く約束を守れたことになると思っていたのかもしれない。
やがて走ることができなくなって、俺は熱された地面の上に倒れこんだ。
陽炎が揺らめき、気づいた時にはもう、バスの背は見えなくなっていた。
「くそ、なんで…………」
がつんと、拳を地面に打ち付ける。
痛みと熱が手の側面を焼く。滲むような痛みが手の全体に広がって行く。
何度も、何度も、俺はアスファルトを殴りつけた。そのたびに痛みは増していく。20を超えたころには、もう痛みと熱さの区別はつかなくなっていた。
だというのに、胸に疼く痛みを誤魔化すことはできない。
「ちくしょう……!」
悔しいのだろうか? 寂しいのだろうか? 哀しいのだろうか?
ぐちゃぐちゃに混じったいくつもの感情が、俺の中で暴れている。何故こんな風に思うのか、この時の俺にはまるで分からなかった。
ただ静かに、拳を握り締める。
――――それを恋と名付けられるほど、少なくともこの時の俺は、自分を知ってはいなかった。




