1章『日常、激動の予感』:5
時間は少し戻って―――
音を立てて扉が閉まり、それに重なるようにくぐもった声が部屋の中に微かに届いた。それがなんと言っていたのかを隼斗たちは正しく聞き取ることはできなかったが、その後の遠ざかる足音から飛鳥が立ち去って行ったことだけは認識できた。
隼斗と遥、そしていたたまれない空気だけが取り残された生徒会室は、あるいは無人の時よりも静かに感じられる。
「なぜ、あんなことを言ったんですか?」
重苦しい空気に耐えかねて、隼斗は静かにそう尋ねた。透明なグラスを指先で弄んでいた遥は、小さくため息をつく。その視線は、指の動きに合わせて波立つ水面へと注がれていた。
「彼が何かを選ぶとして、それが考えて行動しているのかどうかを確かめたかっただけよ。悪く言えば、試したってことになるわ」
「それなら会長の目には彼は、アスカはどう映りましたか?」
「……見かけによらず、行き当たりばったりで行動する子じゃなかったみたいね」
視線は手元のグラスに固定したまま、遥は微かに微笑んだ。
飛鳥は、少なくとも第一印象では思慮深い人間には見えないだろう。ただ遥が細かい話の中から彼の様子を観察してみても、考えて発言をしているのだということは伺えた。差し出されたものが自分にとって有用か否かの選択はできるのだと、その程度の確信は持てたのだ。
「彼なら大丈夫かもしれない。少なくとも何も考えずに首を縦に振って、あとから後悔をするような子じゃないはず。そう信頼できるわ」
「そうですね」
彼にとっての親友が決して悪くない評価を受けたからか、隼斗も思わず顔をほころばせる。しかしすぐに表情を硬くすると、目を合わせようとしない遥に尋ねた。
「会長は、まだあの時のことを考えているんですか?」
「……ええ」
ゆっくりと頷いて、遥は手元のグラスを傾ける。ぼんやりとした視線はどこに向けられるでもなくて、それはここには無いものを映しているのだと、隼斗には感じられた。
「あの時はまだ知らないことが多かったとはいえ、あれは私のミスだったから。その結果として彼女を傷つけてしまった以上、同じことを繰り返すわけにはいかないでしょう? 私たちがそれをどう扱うとしても、アレの本質は変わらないのだから」
「だから会長は、わざわざあんな質問をしてみせたんですね」
「あれは私の意地悪になってしまうけれど……。でも、できることなら首を横に触れる人であってほしかったの。それが自分にとってどう影響をもたらすかを理解して、その上で判断できる人でないと、ね。断ってほしかったわけではないけど、少なくとも断れる子だということが分かっただけで十分だわ」
安心したように微笑む遥の瞳に、ほんの一瞬だけ暗い色が浮かぶ。それで何を思っているのかを察した隼斗は、優しい声音でこう告げた。
「……しかしあの人のときだって、無理矢理だったわけではないですよ」
「ええ、そうね。だけど彼女は人の頼みを断れるような子ではなかったし、だから辛い目にあわせてしまったのもあるから」
哀しげな声音でそう言った遥だったが、やがて目を閉じて首を軽く振った。そのときにはもう、彼女の顔は明るい表情へと変わっていた。
「ま、それはいいじゃない。いずれにしても、今後どうするかで対応も変わってくるわけだしね」
場の空気を変えようとする遥の意思を汲んで、隼斗は頷いて答えた。
「そうですね」
隼斗は足元に置いていた鞄に手を伸ばすと、その中から一冊の雑誌を取り出した。それは飛鳥と教室で時間を潰している時に見ていた薄っぺらい雑誌だった。
隼斗はその雑誌のとあるページを開くと、それを遥の方に差し出した。
「ところで、こんな記事が……」
雑誌を受け取った遥はそのページの、特に一つのコラムに注目する。それは飛鳥が読んでいたものと同じ、都市伝説とやらの記事だった。
「メディアに知られた可能性もあるのでしょうか……?」
不安そうに尋ねる隼斗。しかし記事の全文に目を通した遥は少し考え込むと、首を横に振った。
「知られた、というレベルではないわね。この雑誌のスタンスなら、根拠さえあればこんな都市伝説なんて言い方でお茶を濁したりはしないでしょう。以前UFOか何かの記事でそれっぽい写真と合わせて半ページぐらい使っていたぐらいだし、掴んだ情報がそもそも噂レベルだったんじゃないかしら」
「確たる証拠はないということですか。一応調査はしておくとして……、これは捨ておいても?」
「構わないわ」
もう一度だけ記事を読んで見落としが無いことを確かめると、遥はつまらなさそうに雑誌を閉じる。テーブルの上を滑らせるようにして隼斗のもとに雑誌を返すと、背中側にある窓へと顔を向けた。
「こちらはあまり期待できないけれど、都市伝説という形で情報が広まるならそれでもいいの。例えば現実に私たちの活動を知る人間が現れたとして、その情報は世間からは都市伝説という括りにされてしまうわけだから。誰も信じてくれないと知れば、わざわざ噂を広める人もいなくなるでしょう」
結果だけを見据えた語りではあったが「そうですね」と、隼斗は一応の納得を示す。しかし俯けたその顔は、不安の色が伺えるものであった。
「……僕らがやっていることは、本当に正しいんでしょうか」
「正しいかどうかはあとの世界が勝手に示してくれるわ。私たちはまず進まなければならないの。それにあの古代技術の本質が兵器であろうと、それをどう扱うかは人次第。いえ、そうであることを示すのもまた私たちの役目よ」
遥は立ちあがると、窓の方へと歩み寄る。朱色に染まりつつある空が照らす町並みは、どこまでも平穏なものだった。
窓に指先を触れる。そうしてみれば、ガラス越しの景色はまるで絵の中のようでさえあった。
「方舟が何を乗せてどこへ行くのか。それを決めるのはきっと、私たちではないのよ」
呟く遥の眼下を、下校していく二人の女子生徒が通りすぎていった。
夕日に照らされ朱色に染まった街並みと、その中をお喋りしながら下校する二人の女学生。ありきたりなデザインであるこの学園の制服を着たその学生を、遥は知らない。
けれど遥は、それを楽しそうだと思った。あるいはうらやましいとも。
「アスカに尋ねてみたんです。『もし君がこれに乗るとすれば、それはどういう時か』って」
前振りもなく発された言葉に、遥は疑問の表情を浮かべて振り返った。そこでは隼斗が雑誌の表紙を人差し指で叩きながら、遥の方へと視線を送っていた。
「『ヒーローに近付けるときなら迷いなく乗ってやる』って言っていました。そういうものを目指すことも、僕らにはできるんでしょう」
まるで自分に言い聞かせるように言う隼斗を見て遥は笑った。
「それは素敵ね」
ブブブブブ……。
静かになった部屋にケータイのバイブ音が響く。それに気付いた遥は机に近付くと、椅子の横に置いていた鞄の中から白色の携帯電話を取りだす。
小型のタブレットPCにも似たデザインではあるが、実はVNATと呼ばれる最新の通信機器の、これまた最新バージョンの第3世代型だ。現代で携帯電話と言えば、このVNATを指すのが基本だ。
ケータイの画面に表示された発信元を確認すると、疑問の表情を浮かべる隼斗に軽くウインクをして、机の上に腰掛ける。その機械を持った手首を小さく振って、耳元へと寄せた。
今のアクションは通話ボタンを押すのと同じようなものだが、端末を振るのが操作だったのではない。端末を振るというアクションをトリガーに、それを持つ手の神経から脳波を逆算して操作に反映しているのだ。
とはいえそこにどれだけ面倒なシステムが組み込まれていようが、結局は電話にでるという行為に違いはない。
「もしもし」
『やぁ、月見君かね』
聞こえた声に、遥は足を組みながら意識を仕事モードに切り替える。
低い、それでいて柔和な表情を連想させる声。声の主は初老の男だったと遥は記憶しているが、名前までは覚えていない。覚えていなくてもあまり関係はなかったからだ。
「ええそうよ。何か用かしら?」
事務的な遥の答えに対して、相手は朗らかな態度で応対する。
『君に任せていた案件の進展はどうなっているのか、そろそろ報告を上げてもらおうと思ってね。その連絡だけしておこうと電話をさせてもらった次第だ』
相手が誰かに思い至った時点で遥が予想した内容と大体同じだったため、彼女には特に気になる点はない。せいぜいやっぱりかという若干の呆れを感じた程度だった。
しかし、状況としては好ましい。
「というと、上からせっつかれてるのかしら? 確かに長い間音沙汰無しだと、心配する気持ちも分からないでもないわね。申し訳ないわ」
『いやいや、なにぶんデリケートな問題だから仕方ないだろう。私たちもそのぐらいは分かっているよ』
電話相手の男は気を使っているのかそんなことを言うが、遥からすれば本心は透けて見えるようだった。
「けれど実際は急いでもらわないと困る、と。研究もただではないしね。違う?」
『それはまぁ、そうだが……』
ここで否定しないのは長所か短所か。どちらにせよ遥としては、彼女の発言に対して肯定的な意志を示されたことで十分だった。
ニヤリ、と笑みを浮かべる。
「そうね、だったら少し頼みたいことがあるのだけど――――」
しぶしぶといった様子で、しかし引き受けることを約束した彼との通話を切った遥は、黙って席に着いたままだった隼斗の方を振り返った。それを発言の許可と受け取ったのか、隼斗がすぐに口を開いた。
「なかなか凄い注文でしたね……」
「いいじゃない、損はしないでしょうし」
遥が老人に頼んだのは、ちょっとした仕込みと、小道具の準備だ。
放っておけば舞台はでき上がる。あとはどういう脚本を書いて、それをどう演じていくかだ。
「もう決めるんですか?」
不安げに尋ねる隼斗に、遥は強い意志をこめた視線を向けた。
「ええ、そうよ。あなたが信頼する彼に、アレを託してみようと思う。最初が肝心だから、少し派手にやるわ」
隼斗は頷くが、やはりそれは曖昧だった。だが、だからこそ遥は力強くこう続けた。
「これから少し忙しくなるわ。手伝ってちょうだい、隼斗」
「……はい、分かりました」
一瞬逡巡したものの、しっかりうなずく隼斗。遥はそんな彼に微笑みを向けると、ゆっくりと扉に向かって歩いていく。
後ろから慌てて追いかけてくる隼斗の足音を感じながら、まずは何から始めようかと遥は思考に没頭していくのだった。