1章『持つ者、持たざる者』:1
(ああ、そうか……。またそんな夢を見てたのか、僕は……)
ほんの少しの間だろうが、意識を失っていたのだろう。顎を殴りつけられた正太郎は、胸倉を掴まれたままそんな場違いでくだらない夢を見ていた。
歪む視界の中、広がる肌の色。
それが拳だと気付いたのは、正太郎の顔に鋭い痛みが走った後だった。
鈍い音が鳴って、正太郎の小柄な体が壁に叩きつけられる。その衝撃で、彼の掛けていた縁なしの眼鏡が横に弾き飛ばされた。
「おいおい、どうしたんだよ。俺たちの言うことが聞けねぇってのか、あぁ!?」
壁に叩きつけられ、正太郎はその場にうずくまってしまう。そんな彼の髪の毛を引っ掴んで、眼前の男は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
髪を茶色に染め、耳にピアスを付けているいかにも不良といった容姿の少年の名前を、正太郎は未だに覚えていなかった。いや、そうではない。そもそも覚えようという気にすらなってはいなかった。
正太郎に分かっているのは、眼前の茶髪の男子とその取り巻きのような男子二人は皆クラスメイトだということ。けれどそのクラスメイトの彼らは、正太郎の夢のように優しくはない。
頬を腫らして茫然としている正太郎の髪を掴んだまま、茶髪の男子は正太郎を無理矢理その場に立たせた。
彼が立ちあがると同時、その腹に再び拳を埋め込む。
「うっ……」
飽和した痛みに、正太郎は声を上げることすらできない。わずかに顔をしかめた正太郎を見て、茶髪の男は心底楽しそうに下卑た笑い声を上げる。
「なになにどうしちゃったんだよショータロークン。俺の言ってること聞こえてねぇの? うん?」
「き、聞こえて……」
「う~ん? 口答えとか要求してねぇからネクラはネクラらしく黙ってようかネクラクン!」
再び鈍い音が響いたが、それは拳ではなく茶髪男の頭突きが正太郎の鼻っ柱に打ちこまれた音だった。
突き刺すような痛みと共に、正太郎の鼻に鉄くさい臭いが充満した。一瞬息が詰まって、出口を塞がれた不快感が肺の中でのたうちまわる。
痛みと、何よりもその理不尽さに、正太郎の視界が涙で滲んだ。
なのに、それなのに。
正太郎が涙を浮かべながら必死の思いで目の前の男を睨みつけたというのに、その男は意に介さぬというようにゲラゲラと汚らしく笑うばかりだった。
「ほら、分かってんならさっさと金よこせよ。いつものことだろ?」
顔を近づけてことさら馬鹿っぽい笑みを浮かべる男。取り巻きの二人も正太郎を指さしながら嘲るような笑みを浮かべている。
いつものことだ、と頭では理解していても。
いつものことだ、と心は割り切ってくれない。
仕方がないと思えるほど、正太郎の精神は成熟してはいない。
けれど、そうでありながら、彼は逆らうという行動をとれない。その発想が頭の中を駆け巡っているのに、本能的な恐怖が彼にその選択肢を選ばせない。
弱い。
どうしようもないほどの無力感はどうしようもないほどの虚脱感を生み、正太郎は無言でポケットに手を伸ばしていく。
(渡せば、終わる……)
少なくとも、今日だけは。
それでも、今日だけは楽になれるのだから。
伸ばした手の指先が財布の角に触れたとき、正太郎の心に浮かんだのは馬鹿げたことに安堵感だった。
本当に、馬鹿げたことだった。
「これ……」
「おーおー、よく分かってんじゃんエライねぇ。うーんとぉ? 1,2の3っと」
正太郎が差し出した黒い財布を受け取り、真っ先に札の部分を確認し始める茶髪の男。中に入っている紙切れをペラペラとめくり、その中から5枚ほど引っこ抜く。
ヘドロのような笑みを、正太郎に向けてくる。
「相変わらずいっぱい持ってんなぁ。だからまぁ、これくらい俺ら『オトモダチ』に恵んでくれたって困らねぇよねぇ? うんうんそーかそーかさすがショータロークン、やっぱり持つべきものはトモダチだねぇぎゃっはっはっは!!」
正太郎の答えも聞かず、満足そうにうなずく茶髪の男。彼はひとしきり肩を震わせると、中身を取り出した財布を俯いた正太郎の頭に思いきり投げつけた。
革の財布がそこまで痛いわけもなく、ぶつけられた当人である正太郎は微動だにしていなかった。
いや、あるいはコンクリートブロックを投げつけられていても、諦めきった彼は何も反応を返さなかったかもしれない。
そんな正太郎の様子を見て、茶髪の男は不満げに舌打ちをする。俯く正太郎の胸元を掴むと、一度引き寄せてから思いきり壁に叩きつけた。
「ぐっ!」
肺の空気が絞り出され、再び意識が遠のいた正太郎の頭を掴む茶髪の男。
「……んで…………」
頭を校舎の外壁に押し付けられながら、正太郎はなんとか言葉を紡ぐ。
「なんで、こんなこと…………」
か細いかすれた声を聞いて、それでも男はその顔から汚い笑みを引っ込めることはなかった。
「なんで? なんでって言った? う~ん、分かってないなぁショータロークン」
心底馬鹿にしたようにそう言うと、茶髪の男は一転、ドスの利いた声で、
「お前は俺達の言うことを聞いてるぐらいしか価値はねぇんだよ。だから俺らはお前に価値を与えてやってるわけ。だからほら、ごちゃごちゃ言ってねぇで感謝しろよ」
ふざけことをのたまうと、茶髪の男は正太郎の頭から手を離して後ろを振り返った。
そのまま取り巻きの二人を連れて、ただただ面白そうに笑いながらどこかへと立ち去ってしまう。
くずおれる正太郎になど、目もくれずに。
たいりょーたいりょー、放課後どうする? カラオケでも行くか? いいねそれ行こうぜ行こうぜー……。
そんな会話の残滓を聞きながら、正太郎は一人その場にうずくまっていた。
反吐が出る。
「ははっ……」
にもかかわらず、正太郎は乾いた笑みを浮かべることしかできなかった。
足元に転がる、中身の減った財布を手に取ると、正太郎はそれをポケットに押し込んでよろよろと立ちあがる。
そこから抜かれた金になど、大した未練はなかった。
そもそも、それさえなければ正太郎がこんな目にあうことはなかったのだから。
(言い訳だ……)
そうだ。彼がこんなにもひ弱でさえなければ、いくらだってやりようはあったのに。彼がこんなにも臆病でさえなければ、いつでもなんとかできたのに。
けれど今となっては、もはや誰も何もできない。誰も何もしてくれない。
「仕方ないんだ、これは僕のせいなんだから……」
傍らに落ちていた眼鏡を拾って、正太郎は自嘲気味に呟いた。
いじめの発端は、彼が両親に学校へ送られていたことにあるだろう。
家が特別遠いわけではなく、それはただ見せびらかしていたに過ぎない。徒歩でいける距離の学校に正太郎をわざわざ車で送りだし、つまりは他の生徒たちにその車を、ひいては自らの家の事情を見せつけたいだけ。目的はただそれだけだった。
だから正太郎は、悪い意味でばかり目立ってしまったのだ。
けれど、確かにそれは両親に対しやめてくれと一言言えば済む話だったのかもしれない。
だが、今となってはそれは後の祭りでしかないだろう。
正太郎の実家は金持ちで、悪く言えば成金だった。彼の父の起業が成功して急に大きな財を手に入れてしまった両親は、大きな家を買い、高級な外車を買い、思いつく限りの贅沢をして、それでも足らず手に入れた物を他人に見せびらかして悦に浸るようになった。
ただ、それが正太郎の両親の本性かというと、必ずしもそうというわけではないだろう。
正太郎の両親が贅沢を始めたのは、彼がもっと幼いころ。狂い始めたのは、ここ1,2年の話だった。
家に突然やってきた新興宗教の勧誘。創始円教団という名のソレ。
お金は持ち主のステータスであり、それを周囲に見せるのは本人の価値と評価に繋がる、と。そんな下劣極まりない言葉に、しかし正太郎の両親は『共感』というあり得ない答えを返した。
宗教というよりは思想団体に近いかもしれない、金持ちばかりの集団。
狂った人間しかいないのだから、そこにいたって誰もが自分の異常に気付かない。果ては周囲のごく普通の世間を狂っていると評価し始めてしまうほどに。
もはやそうなっては、元に戻る可能性など絶望的なまでに低いと言える。正直な話、そんな両親に囲まれておりながら正太郎が正常性を保てていること自体がある種異常なのだろう。
ただそれもまた、他人に対する興味を失ったから、という理由で。
しかしそれさえも、誰も彼を見なかったから、ということに過ぎない。
正太郎の両親が狂い始めるその前から、彼の両親は彼の事を見ていなかった。何をがんばろうとも、評価されることはない。どれだけ手を抜こうとも、怒られることすらない。
だから彼は努力を止めたし、だから彼は個性を捨てた。
なのにこれだ。
彼は全部捨てたのに、望んでもいない『金持ち』という個性、それも嫌味な金持ちという最悪なレッテルをはりつけられた。
その結果がこれだ。
だから彼は助けを求めたし、だから彼は彼が嫌ってやまない両親にさえ彼の現状を隠すことはしなかった。
でも変わらない。
顔は合わせるし、言葉は交わすし、共に食事を取りもするのに、正太郎の両親は彼のことを見ていない。正太郎はそれを理解していた。当然だ、正太郎が毎日新しい傷を作って家に帰っているというのに、彼の両親はそれについて何も言わないのだから。
こうして身体の傷を増やすことは、もう何の救いにもつながらないということを、正太郎は身を持って知っていた。
痛む頬をさするのは、これで何度めだろうか。理不尽な暴力を受けるのは、今日で何日めだろうか。
もはや数えることすらやめた正太郎には、そんなことさえ分からない。
―――お前は俺達の言うことを聞いてるぐらいしか価値はねぇんだよ、と。
茶髪の男の声が、正太郎の意思に反してリピートされた。ギュッと、唇をかみしめる。正太郎は俯いて、瞳に滲む涙を強引に絞りだす。
(金で価値が決まるっていうなら、今の僕は一体何なんだ……。その価値さえ認められないこの僕は一体何だっていうんだ。僕は、僕には、何の価値があるんだ。何の意味があるんだ!)
校舎の外壁を殴りつけても、痛むのは自分の拳だけ。こんなことするぐらいなら、あの男達を殴り飛ばした方がいくらかでも建設的だ。
そして、ひ弱な彼にはその行動さえ選択できない。馬鹿げたことに、失うものなどないというのに。
「行こう……」
そう呟いて、教室に向けて。
いや、その前に保健室にでも行って、絆創膏ぐらいは貰ってこよう、と。
正太郎は歩き出した。
保健室でいくつか絆創膏をもらい、出血していた部分にだけ貼りつけた正太郎はその足で教室へと向かった。授業が始まるまであと3分程度しかないので、急いで準備をしなければならない。
教室の扉を開けた時、教室で談笑していたクラスメイトの何人かが正太郎の方を振り返った。
「…………」
多くの視線にさらされて身を強張らせた正太郎だったが、クラスメイトはそんな彼からすぐに視線を逸らして談笑に戻ってしまう。
嘲りの表情さえ、浮かべずに。
それは、正太郎にとってはいつものことだった。
「はぁ……」
正太郎は嘆息して、自分の席に向かう。茶髪の男とその取り巻きだけは、彼に視線を向けてゲラゲラと笑っている。
それもまた、正太郎にとってはいつものことだった。
ロッカーから社会科の資料集を取り出して、正太郎は自分の席に戻る。
必然的に茶髪の男のすぐ近くを通らなければならないのだが、目を合わせさえしなければ何の問題もないのだ。そういう対策法も、ここ数年の中で正太郎が身につけた歪んだ処世術の一つだ。
自分の机に授業の用意を並べながら、残された数分を待つ。居心地の悪さがナメクジのように身体の表面を這いまわるが、傷口に塩を塗りこまれたかのような身体の痛みがそれを溶かしていく。
何も楽にはならないが。
開きっぱなしの入口を通って、初老の男性教師が現れた。
「…………」
初老の教師は、無言で教室中を見渡す。席を立っていた数人の生徒が自分の席に戻るのをぼんやりと眺めていて、正太郎はあることに思い至った。
(そういえば、今日の日直は僕だったっけ……)
静かになった教室で、正太郎は一人立ちあがった。眼前の教師と目が合うが、正太郎もその教師もお互いに何も反応を返さない。
そう、顔中に傷を負った正太郎を見ても、教師は何も反応を返さない。
それさえも、正太郎にとってはいつものことに過ぎない。
「起立」
正太郎の号令と椅子を引きずる音と共に、生徒たちがバラバラに立ちあがる。
全員が立ちあがったわけではないが、それもまたいつものことだった。
そして『今日』が始まる。
いや。
『今日』はとっくに、始まっていた。呆れるほど、いつもどおりに。




