52:『彼と彼女の心の距離は』
教室で騒いでいたクラスメイト達に混じる気にもなれなくて、飛鳥は一人帰路についた。
いつもより足取りが重かったのは、単なる疲れだけではなかっただろう。
そうして自宅であるアパートにつくなり、飛鳥は自室の床に上着を脱ぎ捨てて、身体をベッドに横たえた。
すると自然に、視線は天井を向いてしまう。
その向こう、真上の部屋が、泉美の住んでいる部屋だ。明かりが付いていたのは帰る前に見えていた。泉美はそこに居るのだろう。
どうしても、それを意識してしまう。
「…………っ」
胸の奥がじくじくと痛む。
何故そんな痛みを感じるのか、飛鳥は帰る途中でずっと考え続けて、ついぞ答えは出なかった。
瞼を閉じれば、あの日の事が思い出される。泉美が近くにいるということが、そうさせるのだと感じた。
あの日もそうだった。
彼女は笑っていたが、笑って去っていったが、悲しい気持ちを抱えていたのだと飛鳥は気付いていた。
走り去るバスに乗った彼女を見送った飛鳥は、だから張り裂けそうな胸の痛みを感じていたのだ。
「ああ、そうか……」
そうして気付く。
いま飛鳥を突き刺すこの疼くような胸の痛みは、あの日の無力だった自分が感じていたものと同じなのだと。
「……これが人を傷つけるってことか」
幼い頃から、飛鳥がずっと避け続けてきたものだった。
相手との距離を測って、不快ではない場所を探って、そうやって自分の居場所を作ってきた飛鳥にとって、その痛みは数えるほども経験したことの無いものだったのだ。
どうすれば癒えるのか、いつになったら消えるのか。そんなことさえ彼には分からない。
「はぁ……、キッツイな……これ…………」
胸をきつく押さえつけて、飛鳥は苦悶の表情を浮かべる。
やっとそこで、彼は自分の声が微かに震えていることに気付いた。
どうしてこれほどに苦しいのかも今の飛鳥には分からなかったが、それが数時間程度で収まってくれるものではない事は、なんとなくだが認識できる。
身体は疲れているはずなのに、瞼を閉じても眠気はやって来ない。まるで胸の痛みから目を背けることを許さないかのように。
明かりもつけていない暗い部屋で、飛鳥は目の上に腕を乗せてぼんやりとする。
そうしながら、飛鳥は学校での事を思い出していた。
もっとマシな言い方があったんじゃないかとか、無理にあの場で答えを出す必要なんて無かったんじゃないかとか、そんな不毛なことを考え続けて――
けれどあの場での飛鳥の答えは、まぎれもない彼自身の本心だったのだ。
「どうしようも、ないだろ……」
嘘なんてつけるわけがない。先延ばしにしたって何も変わらない。言い方を変えたって結局同じだ。ならばあの場の飛鳥に、自分の本心を取りつくろうことなく伝えるより他に出来ることなどあっただろうか。
もしかしたらこれは避けようのない痛みだったのかもしれない。受け入れて、乗り越えなければならないものなのかもしれない。
そうだとするなら、これほどまでに苦しい必要があるのだろうか。
飛鳥には目を逸らさないようにすることで精一杯だった。乗り越えられるのがいつになるのか、それさえ彼には分らなかったのだ。
たった一人で、眠ってしまうことも、起き上がることもできずにいた。
それから30分ほど経った頃だろうか。
マナーモードに設定していたケータイが、持ち主に着信を振動で知らせた。
「ん……?」
スラックスのポケットからケータイを引っ張り出そうとした飛鳥は、着信が電話だった事に気づいて怪訝な表情をする。映像通信ではなく、音声でしか連絡の取れない電話機能だ。
とはいえ無視する事も出来ず、5コール目に飛鳥は電話を取った。
相手を確認する余裕も無かったのは、この際だから仕方ない。
「もしもし」
慣用句的な言葉をマイクに投げ掛けて、飛鳥はベッドに仰向けになったまま天井を見上げていた。
どうしてか電話の相手は何も言ってこない。
不思議に思った飛鳥が声をかけようとしたタイミングで、スピーカー越しに短い呼気が聞こえた。
『よっ、アスカ』
「っ、……泉美か」
殊更明るい調子で名を呼ばれたが、電話越しでもそれが泉美の声だとすぐにわかった。
反射的にベッドの上に座る形になった飛鳥に、泉美はこう語りかける。
『ごめんね、いきなり帰っちゃって』
去り際の姿をまるで感じさせないほどに、泉美の声はいつも通りか、あるいはいつもより明るく聞こえた。
「いや、いいよ。俺はまぁ…………別に」
『そっか、よかった』
上手く言葉を選ぶことのできない飛鳥の口調よりも、元気が有るようにも思える。
「……俺ももうちょっと、気が利けばな」
自嘲気味な呟き。一人ごちたつもりの飛鳥だったが、当然ながら泉美にも聞こえていた。
『大丈夫だよ。期待してなかったし』
「……ったく、お前は」
さらっと嫌味を言ってくれる泉美だったが、これという反論もない。
呆れたように飛鳥が言ったところで、二人の間に沈黙が下りた。
ベッドの上に胡坐を掻いた飛鳥が、ケータイを持つのとは逆の手を手持無沙汰に眺めていると、やや唐突に泉美が尋ねた。
『……今、何してる?』
「今? あー……」
なんとなく「何もしてない」と答えるのがはばかられて、飛鳥はおもむろにベッドの上を移動してベランダに繋がる窓を開けた。
「星見てる、かな」
『……いま外出たでしょ?』
「ま、窓越しに見てたんだよ」
『下手な嘘ねー。あと音でバレバレよ』
どうやら窓を空ける音が電話越しにも丸聞こえだったようだ。ジト目が透けて見えるような泉美の声に追及されて、飛鳥は露骨にたじろいだ。
ベランダに出たところで、ゆっくりと腰を下ろした飛鳥。
頭上から窓を開けるガラガラという音が聞こえてくる。どうやら泉美も、同じようにベランダに出てきたらしい。
ベランダの縁に腰掛けたまま、飛鳥はぼんやりと空を見上げた。同じ空を泉美も見ているのだなと、何故かそんなことを思ってしまう。
『ごめんね、アスカ』
「……何がだ?」
突然の謝罪に、首を傾げた飛鳥。そんな彼に、泉美の少しだけ張り詰めた声が聞こえた。
『あたし、知ってたんだよ。……アスカが誰を好きなのかってこと』
「……っ。そう、か……」
『わかってたんだ、断られるってこと。……それでも、あれがあたしの気持ちだったから。黙って諦めることが、どうしても出来なかったの』
言葉を失う飛鳥に向けて、泉美は微かな緊張を覗かせながらも、変わらず明るい口調で語りかける。
『だから、ごめんね』
「……なんで、お前が謝るんだよ」
『あんたのことだから、どうせ自分が傷つけたとか言って勝手に悩んでそうだったからよ』
「そ、それは……」
ついさっきの自分の思考をピンポイントでいい当てられたものだから、飛鳥は何も言えなくなってしまう。
言い淀んだのは、もはや肯定したも同然だろう。泉美の小さく笑う声が聞こえた。
『あんたはそういう奴だもんね。……だから、好きになれたんだよ』
最後に付け加えられた言葉にわずかな切なさが混じる。
泉美も彼女なりの苦しさを堪えて、こうして飛鳥に電話をかけているのだ。
泣き腫らした跡は頬に残っていて、鼻と目を赤くして、そんな顔を飛鳥に見せたくなくて。だけどそれでも彼を励まそうと、泉美はこうして声を届けてくれている。
「泉美……」
それが彼女の強がりであり優しさであると理解したとき、飛鳥を押しつぶそうとしていた自責の念が、ぐらりと崩れた。同時に、何かこみあげてくる感覚が、眼球の奥を突く。
ジワリ、と視界が滲んだ。
『あんたの好きな人って、月見先輩……生徒会長さんなんでしょ?』
「……ああ」
『だと思った。……はぁ、敵わないなぁ、あんなの引き合いに出されちゃったらさ』
飛鳥は泉美が転入してからしつこく構い続けたのだ。特にオーストラリア遠征以後は、一緒にいる時間はかなり長かった。飛鳥の気持ちが誰に向いているのかは、彼を見ていた泉美には容易に想像できたのだ。
遥がどういう人間かは、少しでも関わればすぐにわかる。
泉美にとっても、遥の姿は高くに見えたことだろう。
『じゃあ仕方ないよね。あんたがそんなに手を伸ばしてるっていうのに、邪魔するわけにはいかないもん』
心にのしかかっていた重みが、彼女の一言一言によって取り除かれていく。
『だから忘れてくれていいよ、あたしが告白した事はさ。自分の気持ち、大事にしなよ』
目の端から一滴の滴が零れて、それが頬を伝う。
『でも、もし……。もし、あんたの想いが叶わなかったとしら……そのときはもう一度だけ、あたしの事を見てほしい』
雲ひとつない夜空を望むベランダに、二つ、三つと、澄んだ色の雨が降る。
『だからアスカ。一つだけ……いいかな?』
「……なん、だ?」
震えた声で飛鳥は返す。
喉は張り詰めていて、声を出そうとすると少し痛んだ。
空を見上げた泉美の声が、電話越しに聞こえる。
『あんたの恋に決着が付くまで……。あたし、アスカのこと…………好きでいても……いい?』
「――――っ」
堪えていた涙が、堰を切ったように溢れた。
耐えようと歯を食いしばっても、涙は枯れることなく次から次へと溢れ出る。
それでも苦しいのは泉美の方なのだから、傷ついているのは泉美の方なのだから。
せめて泣いていることを気取られまいと、飛鳥は必死に言葉を返した。
「ああ……いい、さ……。…………お前の、気持ちなんだから」
『……うん、そうだね』
泉美の声も、微かに震えていた。
これ以上涙をこぼしたくなくて、飛鳥はキツく目を閉じて天を仰ぐ。
瞼越しの夜空は真っ暗で、星の一つも見えやしない。
けれど電話越しに聞こえる吐息が、自分はひとりじゃないのだと教えてくれていた。
空を見上げた泉美が、こう呟いた。
『……月、綺麗だね』
飛鳥は閉じていた瞼を押し上げて、空を見上げる。
きっと泉美と、同じ空を見ているのに。
涙で滲んだ視界は、空に浮かぶ大きな月でさえ、その輪郭をも曖昧に映した。
「わかんねぇ……わかんねぇよ……っ」
耐えきれなくなって、ケータイのマイクを掌で覆い隠す。
喉が引きつって、声にならない声が溢れる。
それでも、せめて自分の弱さが彼女を傷つけてしまわないようにと。
飛鳥は嗚咽を押し殺してでも、ただ静かに涙を流し続けたのだった。
月明かりが照らす二つのベランダ。
二人を分かつ3メートルが、彼と彼女の心の距離だったのかもしれない。
そうして――
彼らの長過ぎた2週間が終わりを迎えた。